岡っ引き銀吉の受難 其の三
「あれ、昇吾さんだよ」
「いつみても男っぷりがいいわね。伊達男は一味違うわね」
昨日の装いは火事場の濃紺の刺し子半纏であったが、今朝の昇吾はそれを裏返しにして着ている。
火消しは、火事から無事に戻ってくると、焦げやすすのついた表地を裏にして裏地を見せて歩く。
凱旋という意味もあり、その裏地は凝った装飾のものが多い。
昇吾のそれは、錦鯉が滝をさかのぼっている、いわゆる登竜門の絵図である。
お花は、昇吾の後ろを歩きながらその錦鯉を上目遣いに見た。
颯爽と歩く昇吾のきれいな横顔は徹夜明けだというのに、曇り一つなく美しい。
通りすがる娘たちが振り向くのは無理もない。
それなのに、お花ときたら。
昨日の火事の煤は手足についたままだし、髪は引っ張られたり小突かれたりでくっちゃくちゃだし、遊び着を兼ねた着物は赤なのか茶色なのかわからないくらいに泥が染み付いている。
この裏地の刺し子は昇吾と火事場にいるというのに、それを感じさせないほどに美しい。
刺し子の鯉にすらかなわないのだ。お花という女は。
お花はなんだか惨めになり小さなため息をついた。
やがてひときわ大きな「きゃあ!」という歓声が上がり、昇吾の前に女が飛び出てきた。
「あっ!お穐」
思わず、お花が声を上げた。
お穐は吃驚した顔で昇吾の後ろのお花を見ていたが、すぐに笑顔を浮かべて昇吾に話しかけた。
「ご無事で何よりですわ。昇吾さん」
昇吾は、少し苦笑をしながらお穐に頭を下げた。
「昨日の火事は、本当に小さなぼやでしたからね。まあ、お花が知らせてくれなかったらどうなっていたかわからないですがね」
そういってお花の頭を撫でた。
お穐はお花をちらりと細めで見て、またすぐに昇吾に笑顔を向けた。
「でも、お疲れでしょう?どうです?うちによっていかれませんか。おいしいお菓子やお茶をよういしてありますの」
「いや・・・せっかくですが、俺はこれからお花を家まで送らないといけないんで。また、今度伺います」
そういうと、軽く会釈をして後のお花に「行くぞ」と声をかけた。
お花がちらりと振り返り、べえっ、と舌を出した。
悔しそうにお花を睨むお穐の顔が気持ちよかった。
しかし、お穐とあのように仲がいいとは思わなかったお花は気になってしょうがない。
「あのさ、お穐と仲いいの?」
とうとうお花は、昇吾の背中に声をかけた。
「ん?ああ、縁談がでてる」
縁談、という言葉になぜだかお花はちくりととげが刺さったような痛みを感じた。
「まいっちゃうぜ。俺はあんまり気乗りしてないんだけどよぉ。お穐お嬢さんの親父さんが是非に、ってよ。火消しってのは、あんまり儲かる仕事じゃないんだ。だから、町の金持ちが俺たちの援助をしてくれているんだが、お穐さん所はその筆頭でよ。無下にできねえんだよな」
からからと、昇吾は笑った。
「お穐なんかでいいのかよ」
お花はイライラしながら、聞いた。
「お穐お嬢さんはああ見えてしっかりしてるし、かわいいしな。何より、お前なんかと違って女らしい」
からかうように笑いながら昇吾は言った。
突然お花は立ち止まった。
「ん?どうした?」
「もう、ここでいい。ここからは一人で帰れる」
そういって、昇吾の脇をすり抜けて走り出した。
「おい・・・」
追いかけてこようとする昇吾を振り切って、お花は全速力で走った。
走りながら、お花は鼻の奥がツンとするのを感じ、頬が赤くなるのを感じた。
何より胸の痛みは息苦しくなるほどで、何かに心臓をわしづかみにされているかのようであった。
「何だ、これ。気持ちが悪い」
走りながら何度も頭を振り、頬をぺちぺちと叩いた。
生まれて初めて体のうちから沸き起こってくる感情に戸惑いながら、お花は全力で帰路を駆けていった。