〈2〉
校舎を離れてからファミレスに向かうまでの道中、会話はほとんど無かった。
それは勿論、布瀬が発見した〝四つの濡れ跡に関する可能性〟を考えているからなのだけど、実はそんな自分自身に驚いていた。こんな事に興味を持って思索しているのが自分のことながら意外だったのだ。
存外、直前に文庫本を開いてしまった影響な気がしてならない。
本の内容が盛り上がり始め、そして、のめり込むような展開が来そうだったにも関わらず目前で断たれてしまった。
となると、そこに残るのは激しく駆動する脳みそと読書欲である。
つまりそれらが慣性に乗った結果としてその意欲は現実と接続した。「別の依り代を求めた」と言い換えてもいいかもしれない。
――それでも僕は、この推理ゲームに大仰なオチなど期待していない。
それは裏を返せば、「現実にさほど期待していない」という事の証左と言えるかもしれないが。
なんて考えていると、いつの間にか目の前にファミレスが見えていた。
――ウィーン。
「いらっしゃいませ、何名様でしょうか?」
作られた笑顔を貼り付けた女の店員が迎えてくれる。
見るからに二人しかいないけれど――と思うほど僕の性格はねじ曲がっていない。
「二名です」
「かしこまりました。ただいまお席へご案内致します」
平日という事もあってかまばらに客がいる。そんな店内の様子を横目に見ながら、店員に付いて行く。
「こちらがお席なります。それではご注文お決まりになりましたら、お手元のボタンにてお呼びください」
そう言い残して、女の店員は我々が座っている席から立ち去っていった。
「よし、じゃあさっきの続きから考えようか――」
「おい、課題終わらせてからだろ」
「……」
「黙ってふてくされたって結論は変わらんぞ」
「そんな〝優等生思考〟だから、思考の飛躍が起きないだぞ? 今の時代はアブダクションやぞ! アブダクション!」
「……アブダクションって、赤ちゃんが備わっているから凄いって話なんじゃ?」
「いや、生きとし生ける人類皆アブダクションしているのだから、今現在進行形で推理している俺たちだって――」
「つべこべ言い訳言ってないで、早く終わらせろ!」
「ぐえぇ……や、やりゃあいいんだろ! やりゃ!」
料理を一番おいしく食べる方法で一番手っ取り早い手段が〝極度の空腹状態を作る〟であるように、布瀬には我慢をしてもらった方がいい。
スイーツから食べるフルコースが無いのと同じように。
じゃあ、僕の前菜は何かって? そりゃあ、ここはファミレスなんだし一つに決まってるでしょう――
「――ということで何を頼もうかな」
「ということで? 何がということなんだ?」
ピーンポーン! 布瀬が困惑をしている隙にボタンを押す。
「別に、大したことじゃない」
「? そうか」
「ほら、何を食べる?」
「こういうのはまず頼むメニュー決めてから店員呼ぶけどね」
うるさいな……なんか流れで押しちまったんだよ。
それからほどなくして、先ほどと同じ女の店員がやって来た。
「ご注文お伺いします!」
「フライドポテト一つ」
布瀬は迷いなくポテトを注文した。
「ポテトがお一つですね……」
「そういう割には即決じゃないか」
「ファミレスに来たらポテトを頼むのが相場なんだよ。知らないの?」
「……」
「知らないの?」か。死ぬほど刺さるな、その言葉。
「それじゃあ、僕は……唐揚げで」
「唐揚げ盛り合わせがおひとつですね……その他にご注文はございますか?」
「あ、えーっと、布瀬、ドリンクバーはどうする」
「頼もう。もしかしたら、ここから長丁場になる可能性もある。気を引き締めて」
「引き締めるのはお前だけだよ……えーっと、ドリンクバーを二つお願いします。以上で大丈夫です」
「ドリンクバーをお二つですね。ドリンクバーは店内の奥――」
一通りの説明を済ませて去っていく女の店員。その文言はお決まりのフレーズなので聞き流してて細かくは覚えていない。
「そんじゃあ、ドリンクバー行ってくる」
「え、俺も着いてい――」
「お前は課題を終わらせような、な?」
「……オレンジジュースで」
「了解」
二つのグラスに自分の分とあいつの分の飲み物を入れ、踵を返し席に戻ってくると、布瀬は集中して課題に取り組んでいた。
こいつには威圧が効くのか……。
いや別に「今後、対応に困ったら『脅し』でゴリ押す選択肢ができた!」とか言ってるんではなく客観的な事実を羅列しただけ……だ。
なんて、そんな言い訳を並べながらカバンから文庫本を取り出す。
開いて読み始めると、一行読んだらすぐ熱い展開が始まっていたことを思い出し、瞬く間に没頭した。
長編連作のこの小説だが、続きの巻を買うことはもう自分の中で確定していた。
なので今ここで読み切ってから店を出たい。
でないと、僕は僕じゃなくなる――は言い過ぎだとしても、一瞬本気でそう思ったことから、自分の心と体が完全にこの本に飲み込まれていることを自覚した。
そして、物語の終幕へと差し掛かる目前。
残り数ページなのが指の感覚で分かるような、そんなタイミングで――また邪魔が入った。
「はぁ……はぁ……お、終わらせてやったぜ! よーし、それじゃあ四つの濡れ跡について考えよう」
……有り得ない。
「有り得ない」
「有り得ないのはお前だよ」
「今良い所だから、後でいいか」
「いいわけないだろ!」
ひょいひょいポテトを口に放り込みながら、抗議の目を差し向けてくる布瀬。
真面目な心と、「分かった」と言いたくない気持ちがせめぎ合う。
「分か……分か……あぁーんんー……分かんない」
「分かれよ!」
「もう別れよう……?」
「メンヘラ彼女が別れを切り出す時の言い方すんな!」
「あぁ! もう、分かったよ! ほら、閉じればいいんだろ! 閉じれば!」
――パタリッ。
本と一体化していた切石の脳は、キッパリと接続を解除し、ファミレスのテーブル席へと戻って来た。
「ふっ、おかえり」
「うるせぇよ。はぁ……んで、どこまで話したんだったか」
「椅子持って屋上に行くとこ。そんでそれをした奴が、実は〝真面目に不真面目〟なんじゃないかってとこだな」
「狐のシルエットが見えるな。まぁ、この話し合いが解決、したら幸いだけど」
「おー、上手い!」
「はぁ……」
何とも言い難い空気がテーブル周辺を覆いつくしているのが分かる。どうすんだよこの空気。
そんな僕の考えなど全く窺い知れないのか、なにも気にしない様子で話し始める布瀬。
「いやぁ俺思ったんだけどさ……もしもだよ、そいつが昼休みよりも前に教室を抜け出していたらさ、『授業中に廊下を歩いている』ってことになるだろう? ……だからさ、憶えている気がするんだよなぁ」
「お前、記憶だけはやたら良いもんな」
問題は余計なことしか覚えないっていうところだけど。
「違うよ。俺は寝てたから何も憶えていない、憶えているのは切石……君自身だ。」
「は? どういうこと? それにそのセリフ回し……お前は僕から生まれた怪異か何かか!?」
「俺は途中で性別変わったりしねぇよ……って変な脱線させんな!」
流石に度が過ぎたようだ。自覚はあるのでおふざけはしばらく自粛します。すみません。
「切石の席、廊下側だろ? 授業中に人が通ったらそれが誰かは分からずとも、〝人が通ったという〟記憶はあるかもしれんと思ったんだ」
どうやら布瀬は今日調子が良いらしい。
その発言はかなり鋭い所をついている。
なぜそう思うかって?
そりゃあ、思い当たる記憶があるからだ。
あぁ、全く困ってしまうなぁ。そう――気持ちが高揚してくるから困る。
「ある。そんな記憶が……ある」
「お、まじか。あんなに眠くなる授業だったのに、よく起きてたな」
「お前と違って真面目だからな」
「そうだな真面目だな。眼鏡かけてるしな」
「それは見りゃ分かるだろう」
切石は眼鏡をきらりと光らせた。本日二度目だった。
布瀬は一つ咳払いをして、茶化したという自分の責任を誤魔化しながら話を進める。
「こほん……んじゃあ、その記憶とやらを聞かせてもらおう」
「聞かせてもらおうも何も、この情報が〝全ての真相〟とすら言って良いかもしれない。だから心して聞いた方がいい……モグモグ」
切石は唐揚げを頬張って、そして、ちゃんと飲み込んでから口を開く。
「んっ……布瀬の言う通り授業中はちゃんと暇だった。こっちも睡魔が襲って来ていたけれど、その時廊下側から「ギャシャン、ギャシャン」という音が聞こえて、それで目が冴えたんだ」
「……ロボ?」
そんな訳ない答えにため息をつきながら、切石はおでこを押さえた。
「先に言っておくけど、馬でもないから」
「馬でもない!? じゃあ……」
「鹿でもない」
「鹿でもない! そっかー! それじゃあ〝しか〟たが無いなぁ……」
「……お前は鳥だよ」
「だれが鳥頭だ! 記憶は良いって言ってんだろ!」
「でもトサカ付いてるじゃん」
「……ぎぃ」
よし、勝った。
「んじゃなくて! 茶番は置いといてよぉ、その音がなんだって?」
「まぁ、実際にこの目で見てないから、「絶対」とは言えないのがもどかしいが、ここまで仮定に仮定を重ねたから仕方ないとして話を進めると……」
「くどい!」
「――その生徒は松葉杖をついていた」
その言葉を聞いた途端、布瀬は一瞬だけ瞳を大きくし、次には机にだらりと身体を預けて一言、
「あ~……その跡だったのか」
と納得した様子だった。
真相なんて聞いてしまえば存外あっけないものなのだ。
布瀬は頭で整理をしながら口を開く。
「つまりあの四点の濡れ跡は、靴の裏側は拭いたけど、松葉杖の先端が濡れていることまで気付かず、その濡れ跡を残しながら屋上から去り、そして、その痕跡が渇く前に俺がたまたま見つけた……と」
「そういうことだ」
「なんつーか、それを聞いたらそれ以外思いつかない気がするのに、ただただ四つの濡れ跡を見せられるだけと案外分からないものだな」
最後の唐揚げを口に放り込む布瀬。
最後のポテトを口に放り込む切石。
「小さかったが廊下から話し声が聞こえてきていた。その松葉杖の生徒は女の子だった」
「へぇ、女の子なんだ……ん? 話し声って事は」
「そう。廊下を歩く時、誰かと一緒だったという事だろうな」
「はへぇー、繋がっちゃったなぁ……」
布瀬は感心した様子でそう呟いた。続けて、
「そんじゃあさ、その二人は屋上で何してたんだ?」
と、そう言った。
……なんと言うべきか。
「それを言うのは「野暮」ってもんじゃないか」
「……野暮」
「野暮というか「小火」というか」
「小火? 燃え上っているってこと?」
「そうだ」
「いや、なにが」
こいつ……わざとか?
「お前が分かるように言うのならば、〝イチャイチャしてた〟って話だろ」
「……性的な意味で?」
「性的な意味で」
「学校の屋上で?」
「学校の屋上で」
うーん、うーん、と目を瞑り唸っている様子を見るに、納得性が何もなかったようだ。
「でもよ、それじゃあその松葉杖の女の子、かわいそうじゃないか?」
「どうして?」
「いや、だって彼女、足を怪我しているんだろう? なのにわざわざ屋上まで連れられて行為に及ぶなんて、なんか酷い扱いされてないか?」
「いや、僕はそう思わない」
「それはまた……どうして?」
「だって松葉杖の彼女は言っていた」
僕はその言葉を聞いた時、付き添ってくれた生徒に対するねぎらいかと思っていたけれど、ここまでくると判る。それは間違いだったのだと。
全く、真実なんて知るものじゃないな。
「付き添った生徒に向かって『ごめんね、つきあわせちゃって……』、とさ」
「発案そっちだったかー!」
こんな話、人がぼちぼち残っていた教室で到底できるものではなかったな――と過去の自分達が置かれていた状況を思い返して恐怖する。
誰だって一つや二つ秘密を抱えているとは思うけれど、そこに〝興味本位で開けていいものなんて一つも無い〟。
そんな教訓が今回得られた唯一の収穫なのかもしれない。
「つまり、『眼鏡だからと言って真面目とは限らない』というのが今回の結論か……」
布瀬はドヤ顔でそう言った。
「やめろ、その絶妙に違うとは言い切れない例えで括るのは!」
「……まぁ、面白かったし、俺は満足したよ」
布瀬は充足感に溢れた顔でそう言った。
「そりゃあ、良かったな」
僕たちはグラスに残っている飲み物を飲み干し、レジで会計をして店を出た。
夜の涼しい風を浴びると、今が梅雨である事を少しだけ忘れられた。
そんな風に、いつの日か今日のことも忘れてしまうかもしれない。
そう思うと少し寂しいけれど、それが〝思わず忘れてしまうぐらいに素晴らしい日々の所為〟だったらそんな嬉しいことはないだろう。
そして、僕はそうなることを心の底から願っている。