小学生のころの読書と、読書内容の変化について
意識的に自分を変えようとしなければ、たいていズルズルと同じようなことをつづける。それが弱い人間というもの。
人は自身の内面と向き合うことを恐れる。
意識のありようを変えるには、苦しみがつきものだ。
小学生のころ、晴れの日は校庭に出て遊び、雨の日は読書をしよう。みたいなことが推奨されていた。
家から本(マンガ以外)を持ってきてもいい、ということだったと思うが、自分は図書室の本を読んでいた。
中でも『ファーブル昆虫記』や『ルパン』を題材にした推理小説のようなものを読んでいた記憶がかすかにある。
「トリフィド」という植物のモンスターが登場する作品も読んだかな……。どれもタイトルはうろ覚え。
そうしたことを思い出すが、何より小学生の読書と言えば『教科書』だろう。それも国語の教科書にある文豪などが残したような作品の抜粋だ。
中には古典などもあっただろう。
当たり前だが、小学生では大して思考力も知識もなく、先生に教わりながら読み方を学んでいくわけだ。
中学、高校と、読書の内容も変わっていった。
知識の積み重ねなく、思考や個人の考え方が成長することはない。
さまざまな物事を知り、理解するには、そうした思考の方法を学ばなければならない。
年を取れば自然と精神的成長をするわけでは決してない。
読書も同じ。
自分はあるきっかけを得て、自分から今まで読んでいたような作品から距離を取り、もっとむずかしい内容の、想像力や思考力を成長させられるような本を読むようにした。
いわゆる大衆小説だけでなく、文学作品を読んだり、心理学や哲学などの専門書を読んだりもした。
そうした変化を求めなければ読書内容は偏るし、当然思考する内容も偏ってしまう。
つねに疑うのが哲学的思考の一つであるなら、外部のことを疑うだけでなく、自分の思考や考え方、感じ方などを最初に疑うべきだ。
読書を通じて多くのことを学べるが、人は自分の知りたいこと、理解したいことだけを学んでいればいい、というものではない。
思慮を養うには、自分の苦手なことであっても取り組む必要がある。
いまある主観だけを大事にしていたら、本当の成長を実感することはできない。
悩んだり苦しんだりしても、自分勝手な結論ばかり出していたら、結果としてその人は間違った方へと自身を導いてしまう。
正しくあろうとするなら多くの物事に触れ、考え、想像できなければならないと自分は考える。
多角的な視野と思考。
一方的なものの見方では正しい判断なんてできない。
認知バイアスやフィルターバブルの状態におちいらないように。