8.
翌日、冬馬は3時きっかりに病院の駐車場にいた。男はすでに待っていて冬馬は手紙を受け取った。それは手紙というには余りに簡素で、ノートの切れ端を四つに折りたたんだメモのようなものだった。
表に宛名と病室番号が走り書きしてあった。
メモを渡す時、彼は義手で冬馬の手をかたく握った。
「きみはこの病院に入れるくらい恵まれている。どうか頼む。大人になった時、もしきみがこの国を管理する側に立ったなら、俺たちのような人間を利用しない社会を築いてくれ」
男の真剣な目と声に圧倒されて冬馬は返事ができなかった。男は冬馬の手をはなすと、すぐに車に乗り込んだ。昨日と別の車で、よく晴れた空の一滴がこぼれ落ちたような青い色をしていた。
駐車場の向こうの道に車が見えなくなると、冬馬は病院に戻り、警備員の鋭い視線を感じた。昨日に引き続き出たり入ったりするのを不審に思っているようだ。でも何も言われずに探知機の間をくぐり抜けることができた。
真っ直ぐに目的の病室に向かう。
立ち止まり、深呼吸をして、ノックする。
「はい?」
細い声が返事をする。
3018号室の扉を冬馬は開ける。
「今日は、これを持ってきたんだ」
怪訝な顔の美歩に紙片を差し出す。
美歩は表の文字をみただけで差出人が分かったようだった。震える手で四つ折りの紙を開き、はっと息をのむ。
「良かった」美歩はつぶやいた。目が涙で濡れていた。
しばらく黙り込んだ後「元気そうだった?」と聞く。
「すごく美歩にあいたがっていたよ」
「腕は……どうだった?」
「本物と区別がつかないくらい、よくできた義手をしていた」
「でも、冬馬には分かったんでしょう?」
「ぼくは、他の人が気づかないようなことにも気づいてしまうから。普通の人なら全然分からないだろうね」
こんな台詞は嫌味に聞こえる。だから、これまで三春以外の人間に言ったことはなかった。だが美歩になら言えた。
美歩は「さっすがぁ」と言った後、紙片を元の四つ折りにたたみなおした。とても丁寧な仕草だった。
「ここに入院するとき、博士と約束をしたの。腕をなくしたあの子に最高の義手をって。あと、私がいなくなったあと、あの子が不自由しないだけのお金。博士はちゃんと約束を守ってくれた」
壁の色あせた写真を見上げ美歩がほほえむ。そこには、ついさっき逢った男の幼い日の姿があった。
「彼はケンだよね」冬馬がつぶやく。
どこかで見たことがあると思ったのは、この写真のせいだった。少年の頃と大人になった現在、ずいぶん変わってはいるが面影は残っている。
「ステージ4で10年間、カプセルの中で過ごした。そして目覚めてステージ5に入って10年経ったけれど」美歩は何かを確かめるように自分で自分の腕をさする。
「体の時間は止まったまま。私は成長しない」
二人の間にしんとした空気がはりつめる。
サイドテーブルのタブレット端末の前では、相変わらずスクリーンセーバの3D熱帯魚が原色の体をひらめかせていた。背景の澄んだ水の色を眺めながら、一体、これはいつの時代の海なんだろう、と冬馬は考えるともなく考える。それから、海という単語が別な連想につながった。
「あぁ、そうか」冬馬はつぶやく。
「え?」
「ほら、空き地に入って遊んだって話。20年前なら、危機回避システムが確立前だから、立ち入り禁止区域にも入れただろうなって思ったんだ」
「夜の海の野原のこと?」
「ずっと不思議だったんだ。でも、ようやく納得できた」
「それ、今、重要なこと?」
「ぜんぜん」
二人は顔を見合わせて笑いあった。はりつめていた空気がわずかにほどけた。
「あーあ、あそこにもう一度、行きたいなぁ」
「20年前の空地なんて残っていたら奇跡だよ」
「あったとしたって、何とかシステムのせいで入れないよね、きっと」
美歩は、残念、と小さなため息をついた。
「美歩のステージ4が10年間だったって話だけど」
「うん?」
「それが普通なのかな。それとも長い方?」
美歩の表情が悲し気に曇った。少しためらった後、はっきりとした口調で言った。
「ステージ4のコールドスリープで症状をおさえられるのは一年間までが限度で、ステージ5に移行する。そうしたら3日以内にだめになってしまうんだって」
「だめになる?」
「人間じゃなくなる、って博士が言っていた」
「それって、どういう……?」
「私にもよく分からないの。この10年間で、7人、同じ病気の人にあったけれどステージ3で治るか、ステージ4で眠った後はいつの間にかいなくなってしまうから」
いつの間にかいなくなる?人間じゃなくなるから?
三春はステージ4に入って、もうすぐ一年経つ。冬馬は唇をかんだ。
「ねぇ、冬馬」
美歩が真剣な表情で言った。
「私に何度も逢いにきてくれたのは、お姉さんと同じ病気だから?」
少し間をおいて「うん」と冬馬はうなずく。
「病気のことを詳しく知りたかったんだ。両親も医者も表面的なことしか、ぼくには教えてくれない。本もネットもずいぶん調べたけど、どこにも情報がないし」
「そう」美歩は寂しそうにうつむいた。
「ごめん。でももちろん、それだけじゃない。美歩と一緒にいると……なんていうかすごく落ち着くんだ。楽しいし」
冬馬は自分の耳が熱くなるのを感じた。こんなことは初めてだった。これまでずっと美歩の上に三春の存在を重ねてみていた。だが、三春にはない感情を美歩に抱いていることを初めて自覚する。
「この病気ってね、症状の個体差が大きいんだって」
美歩は布団をどけて、ベッドの上で体育座りをした。そして左足のパジャマのすそを膝までまくりあげた。
「見て」
余りの細さに見ているほうが不安になる足だった。だがそれよりも、目を奪うものがあった。
蛇?
いや、違う。灰色の帯が、膝の下から、ふくらはぎ、すねを、螺旋状に幾重にもぐるりとめぐる。蛇がからみつくように。
皮膚が部分的に変色しているのだ。しかもその箇所は異質に硬くこわばっている
「お腹にも、同じのがあるけど見る?」
冬馬は呆然としながら首を振る。
「ステージが進むにつれて、どんどんここが硬くなっていくんだ。なんだかロボットみたいでしょう?」
冗談にまぎらわそうとしているのか、美歩の声は不自然に明るい。
「私はね、この病気の中でも特殊な症例なんだって博士が言っていた。今まで同じ病気にかかった人より、ステージ4もステージ5の期間がすごく長いこともあるけど、成長が止まっていることにも博士はすごく興味を持っているみたい。人類の見果てぬ夢の一つを叶えるきっかけになるかもしれないって」
「見果てぬ夢?」
「不老不死。不老かもしれないけど、不死かは分からないのにね」
「……タジマモリ・プロジェクト」冬馬は低くつぶやいた。
「なにそれ?」
「政府内にあるって噂されている極秘プロジェクトだよ。不老不死の研究をしているといわれている」
「タジマモリ……ってどういう意味?」
「不老不死の木の実、“トキジクノカク”を、手に入れた人の名前なんだ」
「そんな実があるの?」
「古事記の中にはね」
「コジキ?」
「この国の最も古いおとぎ話集みたいなものかな」
「ふぅん、面白いの?」
「どうだろうね。文献としての価値は高いけど。読んでみる?」
美歩は顔をしかめて「ううん、いい」と言った。
「だから、博士はケンにお金をたくさんくれたのかな」
タジマモリ・プロジェクトは、存在自体が定かじゃない。だが、これまで流れてきた情報をかき集めて、冬馬は直感的にあると信じていた。政府要人がバックにつき、裏金が動いているという噂にも真実味があった。だとしたら資金は莫大だ。
冬馬は虚ろな声で「かもね」と答えた。
「ラッキー」美歩がにこりと笑う。
冬馬は信じられない想いで彼女を見た。
「……何が?」
「だって病気になったからお金をもらえたんだもん。私やケンが一生、働いたってもらえないくらいのお金なんだよ。おかげでケンも幸せみたいだし」
美歩はさっきの紙片を大切そうに両手でつつみこむ。
「お金と、何をひきかえにしたの?」
冬馬の声が震えた。
「何も。ただ、私はこの病院にいればいいだけ」
「外にはでないで?」
「そう。もし万が一、病気が治っても私はここにいて博士の研究に協力をすることになっているの」
「……いつまで?」
「ずっと」
「生きている間中、ずっと?」
「正確に言うと死んでからも。体は研究用に保管されるんだって」
「そんな契約、人権法に触れる。破棄できるはずだよ」
美歩はきょとんとする。
「どうして破棄するの?」
「こんな病院なんかに一生閉じ込められて、いいわけないじゃないか」
ますます美歩は分からないという顔になる。
「食べることにも住む場所にも困らないんだよ。みんな優しいし、誰も私を殴ったり蹴ったりしない。たまに痛い治療もあるけど、我慢できる程度だし」
冬馬は胸の奥が苦しくなって、目をそらした。まともに美歩を見られなかった。
「そんな顔しないで」
「ごめん」
二人はだまりこむ。冬馬は次の言葉を探した。でも何も見つからなかった。
美歩が口を開く。
「冬馬、お願いがあるんだ」
「なに?」
「私を……て」
美歩の声がかすれて聞こえなかった。だが唇の動きで何と言ったかわかった。
「ごめん……聞こえなかった」
冬馬は確認するために問い返す。
「ん-、やっぱなんでもない」
「そろそろ行かないと」
「またね」
美歩はいつもと同じ微笑みで冬馬を見送った。
冬馬は平静を装って病室をでる。色々なものが胸を苦しくしめつけ鼓動が異様に早かった
冬馬の足は三春の病室に向かった。苦しさと悲しさがごちゃまぜになって三春に無性に会いたかった。たとえカプセル越しでもいい。顔が見たかった。
病室につくと扉が少しだけ開いていた。中から話し声が聞こえた。
「提供者が見つかったのでしょう?」
母の甲高い声がした。同時に冬馬の心臓がどくんと跳ね上がった。提供者とは、当然、脳移植のだろう。つまり三春はこの奇病から救われると言うことだ。冬馬の胸に痛いほどの希望と喜びがこみ上げてきた。
「耳が早い」いつもの担当医とは違う声だった。「一体、誰が情報を漏らしたことやら」
「博士、お願いします。この子をどうか救ってください」父が言う。「三春が生まれたとき、あなたはこの子を抱き上げてくれた。覚えているでしょう?」
「なるほど」博士はつぶやいた。「私をここに呼び出したのは、そういうことですか」
「お願い、これを逃したら次はもうないわ。お願いします、お願い……」
母の懇願を、博士は断固とした口調で遮った。
「残念ながら、今回、娘さんに移植手術はできません」
父が声にならないうめき声をあげた。
「なんで、なんでよ?」母が叫ぶ。
「順番があります」
「そんなのあなたの権限でどうにだってなるでしょ?何が欲しいのよ?お金?いくらだって寄付してあげるわよ」
「これ以上、話すのは無駄ですね。失礼」
カツカツと床をはじく音がしてドアが開いた。背が高く人間味のない顔をした男が冬馬を一瞥して通り過ぎた。