4.
三春が奇妙な行動をとりはじめたのは、おととしの夏だった。ぼんやりしていることが多くなり、放っておくと数時間もじっと身動きもしないでいることがあった。
両親はすぐに病院に三春をつれて行った。だが肉体的には何も問題はないとされた。いくつかの病院で診てもらったが結果は同じだった。
ある医者に、心療内科へ行くことをすすめられた。だが両親は躊躇した。医療記録に残ることを危惧したからだ。
そして三春は一向によくならないまま、ますます日々をぼんやりと過ごすようになった。
だが、ある夜、決定的なことが起きた。
冬馬は、何かの物音で目を覚ました。
寝ぼけた目をこすりながら体を起こす。窓の向こう、住宅街の屋根の上に三春の小さな背中があった。よろけることも不安なそぶりもなく、三春は屋根の上を身軽にひらりひらりと飛ぶように歩きまわる。屋根がかすかにきしむ音がする。
夢、だろうか。
冬馬は、覚めきらない意識の中で三春の動きを追う。
三春が振り返り冬馬と目が合う。三春がトーントーンとこちらに向かって軽やかにステップしてくる。そして離れた隣家の屋根からひときわ高くジャンプして姿が消えた。飛び降りたのだ。
最近発売された重力セーフティを設置する話を父がしていたことを思い出す。確か工事は来週で……じわりと胸に不安が広がる。
夢、じゃない。
頭の中が真っ白になった。眠気は吹き飛び窓にかけよって下を確かめる。
無意識に予想していたのは、庭に横たわる三春の姿だった。だが、庭は静けさの中、草花を夜風にそよがせていた。
代わりに道を滑るように駆け抜けていく姿があった。
よく見慣れた三春のパジャマ。やがて、それは、角を曲がり見えなくなった。
まだ、夢の続きなのか。だが、どくどくと脈打つ鼓動も、開けはなった窓から流れ込んでくる湿った夜気も、夢にしてしまうにはリアルすぎた。
冬馬は廊下にでて、隣の部屋のドアを開けた。ベッドは空っぽだった。
仕事で両親がそろっていない夜だった。三春の調子が悪いため、父親も母親もなるべく家をあけないようにはしていたが、今回はどうしてもはずせない商談があって、二人そろって、ニューヨークに行っていた。
真夜中の2時30分。
冬馬は、二人の携帯に電話をかけたが、留守番電話につながった。予定では今朝、東京着だから、多分、今頃、帰りの飛行機の中で眠っているころだろう。仮に連絡がとれても、両親も動きようがない。しかも、何をどう説明すればいい?三春が屋根から飛び降りて、どこかに行ってしまったなどと、寝ぼけた、たわごとにしか聞こえない。
だが事実は事実だ。ベッドは空っぽで冷たい。
どうする?
どこかに、たとえば警察とかに連絡するべきか。
いや。
冬馬は考え抜いた末、騒ぎを大きくするべきではないと判断した。三春は自分の意思で外に出た。しかも、その動作はひどく慣れていた。きっと、はじめてじゃない。ならば帰って来る可能性だって高い。
ベッドに戻りかけたが、思い直し、机のパソコンを起動した。三春のあのおかしな行動、人間離れした跳躍力。医者は、体に異常はないと言ったが、そんなわけない。
検索サイトを立ち上げると、「児童用アクセス制限稼動中」と画面端に表示された。冬馬はふっと鼻で笑った。これこそ子供だましだ。冬馬はいくつかのコマンドをたたいたあと、あっさりと規制のない通常の検索サイトにもぐりこむ。そして三春の病気について調べはじめた。
色々な単語で何度も何度も検索をかける。そのうちに一つの掲示板にたどりついた。
――そういえば、例の八王子の狼男って結局どうなったの?
――ぜんぜん報道されなくなったね
――知り合いが報道関係にいるんだけど、治安維持局が圧力かけたらしい
――どっかの国立研究所の実験動物が逃げ出したんだろ
――俺、八王子の地元民なんだけど、もっと怖い噂、聞いたぞ
――なんだよ
――言ってみ
――あの狼男、人間なんだって。しかも子供
――まじ?
――事件が起きた家の近所の子供でさ、何日か前から様子がおかしくなっていた子供がいたんだって。妙に、ぼぉっとしてたり、真夜中にその辺うろついたりとか。で、あの事件が起きた後、しばらくしたら一家そろって消えたんだって。忽然とさ。誰にも何にも言わずに
――は、なにそれ?
――いみふめー
――その子供が狼男だったってことだろ?
――なるほど?
――私も、知り合いがあの辺に住んでるけど、そんなの聞いたこともないよ
――なんだ、ガセか
――どうなのよ、そこんとこ?
――おーい
――返事ないね
――やっぱ、ガセか
掲示板はここで終わっていた。
……妙に、ぼぉっとしてたり、真夜中にその辺うろついたり……
三春と同じ症状だ。
冬馬は、眉を寄せて考える。
狼男事件、三春と同じ症状の子供、消えた一家。
だが、これだけの情報では判断の仕様もない。とりあえず冬馬は該当ページをブックマークして、念のためスクリーンショットも取った。
そして、今度は狼男事件についての単語も含めて検索をかけていく。だが、どれもすでに知っている内容ばかりで、めぼしい情報は何も見つからなかった。
冬馬はいつの間にか机にうつぶせてまどろんでいた。夜明けの薄い光がまぶたに染みた。チリチリと震える声で鳥が鳴いていた。その合間に割り込むように隣の部屋から、ガタンという物音が聞こえた。
冬馬は跳ね起きて、三春の部屋に向かった。
ドアを開けると、三春が窓のそばに立っていた。三春は振り返り何事もなかったかのように、おはようと冬馬に笑いかけた。明るい表情だった。久しぶりの、まともな三春のように見えた。
だが違った。
健全そのものの笑顔を彩るものが、冬馬を凍り付かせた。
唇からパジャマの襟あたりまでが赤く染まっていた。
その時、冬馬の端末が音をたてた。
「目覚まし?」と三春が無邪気に聞く。
「父さんからの電話だ」と冬馬は答える。
きっと着信履歴を見てかけてきたのだ。冬馬は何をどう伝えるべきかを頭の中で組み立てながら、電話にでた。
三春の行動と掲示板のことを知らせると、父親の対応は早かった。普段はおっとりとしているが、動くべきときには誰よりも迅速に動ける人だ。
三春は父親のコネで、ある専門機関で検査を受けることになった。数日がかりの検査が終わった後、即座に現在の病院に入院することになった。
医者は、これは一般に知られてはいない病気だと説明した。そして、いたましげに「現在ステージ3です」とつけくわえた。
この奇病には、5つのステージがあった。ステージ3では、病院の徹底した管理下で投薬をはかる。ここで治る確率は40%。両親も冬馬もその微妙な数字に希望を賭けた。
だが、投薬治療は効果がなく、三春の症状は悪化し続けた。見舞いに行っても、ほとんど意識がなく、目を開けたままただぼんやりと天井を見ていることが多くなった。比例して、真夜中に病院を抜け出そうとする頻度はあがっているようだった。
……ステージ4に移行しました。
一年前、そう告げた担当医の口調は重かった。
そして三春は、医療カプセルにいれられた。コールドスリープに近い技術で、細胞の変化をとめるには他に方法がなかった。そしてステージ4以降の治療方法は、たった一つしかないとのことだった。
脳移植。
この奇病の原因は脳の下垂体前葉にあるとされる。詳細は分かっていないが、下垂体の異常により体の変化をそくす特殊なホルモンが分泌される。そこをごっそり移植することで症状がおさまる。
だが、この提供者は限られる。同じ病にかかったことがあり、だが、発病することなく、抗体ホルモンを作ることができる脳でなければならない。当然ながら生きている相手から提供は受けられない。元々が稀な症例だから、そうそうには適合者は現れない。
一年間、なんの進展もないまま三春は眠り続けている。