3.
病院からの帰り、車の中の空気はいつも重たい。美歩に初めて会った日の帰りは、特にひどかった。
後部座席の中央に座った冬馬は、前席の父母の横顔を観察する。母親は、いつものきりっとした表情にさらに磨きがかかり、射るような目つきで前を見ている。運転席の父親は端正な顔を苦しげに歪めて、唇を噛んでいる。
「どうして、博士はあなたの頼みを聞いてくださらないの?」
沈黙を破ったのは母だった。父がゆっくりと母へと視線を向けるが、母の視線はまっすぐ前に向けられたままだった。
「恩師なんでしょう。あなたの頼み方が足りないんじゃない?」
「頼んだよ」
父の唇から深いため息がこぼれる。
「何度も何度もね」
「博士の研究室に多額の寄付をしてはどうかしら?私の会社を売ってもいいわ」
「博士は金で動かせる人間じゃないよ」
「あなたの人脈を使って説得してもらったら。私もお父様に頼んでみますから」
「彼のバックをどこだと思ってるんだ?無駄だよ。それに博士は昔から厳格で公平さを重んじる。小細工はしない方がいい」
「公平?これのどこが?」
母が金切り声で叫び、父をにらんだ。母の目は真っ赤だった。父が困ったように母の肩に手をあてる。
「落ち着いて。後で話し合おう」
父は一瞬、冬馬を振り返った。夫婦の争いを見られたくないのだ。
「姉さん、そんなに悪いの?」
冬馬がたずねると、母のきっとした表情がくしゃりと崩れる。涙があふれだす。
「大丈夫だよ。三春は強い子だから」
力のない声で父が言った。
「気休めばかり、あなたはいつもそう。楽天的で取り返しがつかなくなってから慌てだす」
「まだ何も決まっていない状況で慌てても仕方ないだろう」
「もし……もし三春に……万が一かあったら私も生きていられない」
父が眉をひそめ「いい加減にしなさい」と厳しい声で言った。
母の嗚咽がおさえきれずに大きくなる。
冬馬は自分の掌を、母へと伸ばす。救いを求めるように母が強く冬馬の手を握りしめた。冬馬はもう片方の手も伸ばし母の掌に重ねた。本当は包み込むようにしたかったが、自分の小さな手ではできなかった。
昔、三春が同じようにしてくれた時、冬馬は安心して泣き止むことができた。でも母の涙は止まる気配がない。
やっぱり三春のようにはいかないな、と冬馬は考える。
翌日の放課後、冬馬は校長室に呼び出された。
「失礼します」
ドアを開けると、校長は窓際にたって紅茶を飲んでいた。部屋は、茶葉のいい香りで満たされていた。
「やぁ」
まるで長年の友達のような気軽さで、校長はほほえんだ。
「きみの分も用意してあるよ。座って飲みなさい」
ソファと対になったテーブルの上で、ティーカップが湯気をたてていた。横にはクッキーがあった。冬馬は軽く頭をさげてから、ソファに座る。
白い髭を生やした初老の校長は、向かい側のソファにゆっくりと座った。知的で柔和な目、年齢のわりによく鍛えられひきしまったスタイル。伝統ある私立名門校のトップにふさわしい容貌だ。
彼は、少しだけ困ったように冬馬を見ている。冬馬はうつむき時間を気にしている。校長室の古びた柱時計が、かちかちと古びた音をたてていた。
校長が口を開く。
「先日、きみと話した件だが、ご両親から丁重なお断りのメールをいただいたよ」
「はい」
「正直、信じられなかったよ。国立中学への編入や飛び級は、とても名誉なことだ。長く教職についているが断った生徒を、私は知らないし聞いたこともない」
校長はため息をついた。
「きみはそれでいいのかい?」
「えぇ」冬馬はうなずいた。「ぼくの意思でもあるんです」
「きみの?」
「姉の病気がよくないですし、全寮制で時間の自由がきかないのはちょっと。場所も遠いですし。それに、ぼくはこの学校が好きなんです。できれば、ここで学び続けたいと思っています」
自分の学校をほめられ、校長は喜んでいいのか迷う顔をした。それから「では、正式にきみを選抜リストからはずすように申請するよ。いいんだね」と、念を押した。
「問題ありません」
冬馬は明快に答えた。
気分を切り替えるように、校長は紅茶を一口飲んだ。
「一度、三春くんの見舞いに行きたいとおもっているんだが」
「ありがとうございます。でも、ちょっと特殊な病院なので、家族以外は入れないんです」
「そうか」残念そうに目を細め、彼はしみじみとした口調で言った。「家族が病に倒れるというのは、周りから見る以上に大変なことだろう。きみはそんな中で、とても、よくがんばっている。担任の先生もほめていた。成績は変わらずにトップクラスで、友達も多く、慕われていると」
「ありがとうございます」
「きみはとても強い。まるで……」
そこで校長は言葉を切った。
「もう戻ってかまわないよ」
冬馬は、校長室を後にした。
校長は、冬馬のいなくなった後のテーブルの上を眺める。紅茶は一口も飲まれず冷めていた。クッキーも手をつけられていない。
「不思議な子供だ。まるで……子供じゃないみたいだ」
自分の矛盾した言葉に、校長はふっと微笑んだ。