2.
その病院の中庭にはベンチがあった。
両親が担当医と話している間、幼い冬馬はここで本を読みながら待つ。こぢんまりとした台形のスペースで、ベンチから少し距離を置いた正面には、正方形の窓があり廊下を行き交う人々の横顔がのぞく。
時々、病院のスタッフが来て声をかけてくれたり、患者がふらりと現れ、無言で横に座ることもある。でも、そんなことは稀で、基本的には誰もいないし、誰も来ない場所だった。
冬馬はここが好きだった。放ったらかされ忘れ去られたような静けさ。足下にはいつも落ち葉が散らばり、手入れの行き届かない花壇には、草がぼうぼうと伸びている。ベンチのそばには、高くよく伸びたケヤキがあり、風が吹き抜けると、本のページの上に木漏れ日が舞う。普段は厳しい両親が自販機で好きな菓子やジュースを買ってくれることも嬉しかった。
その日も、冬馬は本を読んでいた。ふとページの上の木漏れ日が濃い影に覆われた。
はっとして振り返る。誰かが背後から、本をのぞきこんでいた。しかもその顔は冬馬のコメカミすれすれにあった。
「わぁ!」
「ひゃぁ!」
びっくりして叫ぶと、向こうも驚いたらしい。どっと、後ろに倒れこむ。
冬馬と同い年くらいの少女がいた。髪がウェストまでふわりと長く、肌は日にあたったことがないみたいに白い。淡いピンク色のパジャマを着ている。入院患者の一人に違いない。
彼女は座り込んだまま、ぼぉっと焦点の定まらない目をしていた。
「ごめん、びっくりして」
なぜか冬馬は悪いことをした気になっていた。ベンチをぐるりと回って手をさしのべた。彼女は我に返り「大丈夫」とつぶやいて一人で立ち上がった。
彼女がきちんと立ち上がったのを見守ってから、冬馬は再びベンチに戻り本を開く。すると
「字ばっかり」と、耳元でささやかれた。今度は驚かなかった。少し背伸びをしてのぞきこむ彼女に「こっち来て座りなよ」と笑いかけた。
少女は首をかしげて少し考えこんだ後、とことこと歩いてきて隣に座った。
「どこから入ってきたの?」
冬馬が聞くと少女は背面の壁にある扉を指さした。いつの間に、と思う。本に夢中で全く気づかなかった。
「ぼろぼろ」少女はつぶやく。
「え?」
「その本」と、指さす。
「ずいぶん昔の本だから」
カバーはどこかにいってしまい、むきだしの表紙は折れた跡がある。彼女は眉をしかめて本に顔を近づける。
「……これ名前?なんて読むの?」
「アクタガワ リュウノスケ。知ってる?」
「あくた……?変な名前。知らない」
「短編集なんだけど、今、読んでたのは、或る阿呆の一生って話なんだ」
「あほな人の一生をかいた本?それ、面白いの?」
「おもしろいって言っていいかは分からないけど。このアホってのは、作者のことなんだ。」
少女は少し考え込む。
「その人、頭が悪いから自分をアホなんて言ってるの?」
「逆だよ。頭が良すぎたんだ」
「アホなのに頭がいいの?」
「うん。ものすごくね」冬馬は考え考え言う。「だから、死なずにはいられなかった」
少女の肩がぴくりと揺れる。
「死んじゃったの?」
「ずいぶん昔にね」
「そう」
少女の唇がきゅっとひきしまる。死という言葉のせいかもしれない。冬馬は話を変える。
「きみも本が好きなの?」
「うん」と嬉しそうにうなずく。
「でも、あまり読めないの。すぐ疲れちゃう」
「どんな本が好き?」
「絵がたくさんある本」
「絵本かぁ」
彼女は目を輝かせうっとりと言う。
「ゴンギツネとか、フランダースの犬、あと、しあわせの王子さまが大好き」
冬馬は少し驚いた。どれも美しいけれど悲しみが残る物語ばかりだ。
「みんな暗いって、いやがるけど私は好きなの」
何かに挑戦するように、少女はきっぱりと言う。どうやら気の強い性格らしい。冬馬はほほえんで、うなずいた。
「ぼくもどの話も好きだよ。」
少女は満足そうな顔になり
「私、ミホ。美しく歩くってかいて美歩」と自己紹介した。
「ぼくはトウマ。冬の馬だよ」
「冬馬はどうしてここにいるの?お見舞い?」
「うん。姉が入院してるんだ」
「よく来るの?」
「週に二、三回かな」
「ふぅん」少女は足をぶらぶらさせる。
「お姉さんは何階にいるの?」
「3階だよ」
少女がはっと息をのむ。
「私も3階にいるの。」
冬馬も息をのむ。
3階?
お互いに探り合うように見つめ合う。
冬馬は、なるべく平坦な声で「でも、一回もあったことがないね。」と言った。
「うん。あまり病室の外にはでちゃいけないことになってるから」
美歩は気まずそうに口ごもる。それから二人は無言になった。
美歩は空をあおぎながら軽く伸びをした。ピンクのパジャマの袖からのぞく手首は、あまりに細くて弱々しかった。
何かを迷うように美歩はちらちらと冬馬を見る。だがやがて決心したように「あのね……」と口を開いた。
その時、
「美歩ちゃん!」
白衣を着た女性が廊下側の扉をあけて、あわただしく中庭におりてきた。女性は冬馬など見えないかのように美歩にかけよると、病院用の無線ヘッドセットマイクに向かって「見つけました。一階、B号棟、中庭です。無事です」とささやいた。
一分もしないうちに、病院のスタッフというよりは、訓練された軍人のように無駄な動きのない連中が数人、中庭にあらわれた。一人がそっと美歩をだきあげ「確保」とささやいた。他の人間は、険しい顔付きで時計をのぞきながら、白衣の女性とひそひそと話し合う。冬馬は半ば呆然と、その光景を見ていた。
美歩はだきかかえられながら、心残りがありそうに冬馬をじっと見ていた。冬馬も何かを言おうとしたが、何を言えばいいか分からなかった。
もどかしく重なっていた視線がはずされる。美歩の姿は抱きかかえた男の体の向こうに隠された。
中庭のドアをくぐろうとしたとき、美歩は首を伸ばし、
「3018」
と、冬馬に向かって叫んだ。大人たちは、はじめて冬馬の存在に気づいたように振り返ったが、気にとめることもなく、薄暗い廊下に吸い込まれていった。
突風が過ぎ去った後のように中庭は急に静まりかえる。
ついさっきまで、美歩がここにいたことが嘘みたいだった。夢の後のようにぼんやりとする。
冬馬は古びた本に視線をおとす。だが目が文字の上を滑るだけで、内容が入ってこない。
3018。
耳にはその数字の響きがくっきりと残されていた。
何を表す数字か、美歩が何を伝えたかったかはわかっていた。
涼しい風が足下の落ち葉をころがし、梢をざわめかせた。