5. 小原守——揺れる空気を引き裂いて
東雲樹里亜は二重人格で、性格ブス。オケラとデキてるとか超やばい。
クラス中、いや学年中に東雲さんにまつわる噂が立ち始めた。
放課後に演劇の練習をしている最中に、北村君に呼び出された翌日からだ。諸悪の根源が彼にあるのは一目瞭然だった。けれど僕は、彼女を悪く言う人たちに何も言い返すことができない。普段から、このクラスの虫ケラのような存在だと揶揄われてきた。理由は気弱なこの性格のせいでもあるし、貧乏がゆえに洗濯もままならないワイシャツを毎日着ているからでもある。とにかく、権力のあるクラスメイトに逆らうことはできなかった。
その代わり、東雲さんにだけは——彼女のことだけは気になって、『エイコウ』で働いている時に声をかけてみたけれど、彼女は大丈夫だと頷いた。僕が心配するまでもなく、彼女は強い人だった。クラスのみんなが自分の悪い噂をしているのを聞いているにも関わらず、毅然とした態度で学校に来続ける。僕みたいに、喋る時も吃ったりしない。授業中に先生に当てられたら、堂々と回答を口にする。一体どうしてそんなに強くいられるのか。聞いてみたいけど野暮な気もしていた。
東雲さんに対する嫌がらせは、日に日にエスカレートしていった。
彼女はみんなの前でほとんど口を利かなくなった。
何か言葉を口にする時は、以前と同じようにお嬢様口調で話し出す。
まるで、みんなが「二重人格」というのが嘘の噂だとでも言うように、今まで通りの彼女がそこにいた。
そんな東雲さんを面白く思わないのか、北村君を始め彼と仲の良いメンバーは、噂を立てるだけでなく、彼女の教科書を汚したり上履きに画鋲を仕込んだりと、物理的な攻撃にまで乗り出した。
そして、刃は僕へと向けられる。
「おいオケラ、お前、東雲樹里亜ともうやったのか?」
「放課後の教室で何してんだよ。やらしー」
ケタケタと僕を嘲笑う声が教室に響き渡る。昼休みに一人、机でお弁当を食べている時だった。幸い東雲さんは教室におらず、この薄汚い言葉を聞かせずに済んだ。
「……」
反論すれば余計にあることないこと言われる。これまでの経験で理解していた。だからずっと黙っていた。
「反応なしかよ。ってことは図星なんだな」
「うわあ、澄ました顔して最低な男だなァ?」
最低なのはどっちだよ。
反論する代わりに、北村君のその整った顔をきりりと睨みつける。
「ああ? なんだその目は」
「……東雲さんを悪く言うな」
「ハァ?」
反論しないと誓ったはずなのに、彼女のことも侮辱されて頭に血が上ってしまっていた。
「僕のことはいくら言っても構わない。でも、東雲さんを貶めるのは絶対に許さないっ!」
普段は教室の隅でなりを潜めている僕が、突然声を張り上げたものだから、教室にいたメンバーが何事かとこちらを振り返った。
「あれ、今のって小原?」
「あんな声出るんだ」
「東雲さんのこと、よっぽど好きじゃん」
「東雲さんとデキてるって本当だったんだー」
僕を嗤う声、冷ややかな視線、冷たい空気を感じて背筋に冷や汗が流れる。けれど、反論したことに後悔はない。自分が悪く言われるならまだしも、彼女の名誉が傷つけられるのは本当に許せなかった。
「なんだそれ」
僕が大声を張り上げたのがそんなに面白かったのか、北村君は唾と一緒に捨て台詞を吐き捨てると、仲間と一緒に僕のそばから離れていった。
教室の入り口に佇む東雲さんの姿に気づいたのは、彼らが僕の視界から完全に消え去った後だった。
東雲さんは僕と目が合うと、気まずそうに廊下の方へくるりと踵を返していった。
それからも僕たちの放課後の演劇練習は続いた。
昼間の教室でのことは何事もなかったかのように、東雲さんの演技は相変わらずクオリティが高い。それも、日に日に上達しているからやっぱり彼女には才能があるのだ。
「ねえ、小原。どうしたの。なんか最近ぼーっとしてない?」
「え? そ、そう?」
「うん。心ここにあらずって感じ。何かあった?」
僕は、純粋な瞳で僕の顔を覗き込む彼女をまじまじと見つめてしまう。
“何かあった”のはそっちの方じゃないか。
僕がクラスメイトから悪く言われているのは前々からだ。東雲さんの悪い噂が立ち始めたのが最近のことで。きみはそれを気にしてるんじゃないのか?
「……何もないよ。ただ、きみのことが心配なだけ」
「私? はは、私は大丈夫に決まってんじゃん。第一、あんな陰口言ってるやつって一部の人だけだし。北村が、私に振られた腹いせで幼稚なことしてるだけ。そんなのにいちいち傷ついてたらこっちの身が持たないって」
まるで、他人事のように軽く答えてみせる東雲さん。
どうしてだろう。
どうして彼女はそんなに強くいられるんだろう。
「東雲さんは、すごいね。僕は……僕はいつも、みんなから冷たい言葉を浴びせられると、萎縮してしまうんだ。学校行きたくないって思うこともある」
「ふうん、そっか。でも休まず来てるじゃん。だったら小原も負けてないってことだよ」
「負けてない……」
澄んだ瞳で僕のことを見つめる東雲さんの言葉に、そっと心が温もる思いがした。
誰かに自分の頑張りを認めてもらったのは初めてかもしれない。東雲さんのことはこれまでよく知らなかったのに、無色透明だった彼女のイメージが、どんどん色付いていく。しなやかかつ強かで、ちょっぴり腹黒いところはあるかもしれないけれど、夢を持って自分の芯を貫く。お嬢様なことしか知らなかった彼女の輪郭が、どんどん明確になっていく。
もっと、もっと知りたい。
彼女の線をもっと。
くっきりと描きたい。
「東雲さん——」
僕が口を開きかけた時、彼女が「あっ」と何かを思い出したかのように声を上げた。
「やば、今日シフト入れてたんだった! イレギュラーだったから忘れてた」
「シフトってアルバイトの?」
「うん。ごめん小原、今日のところはここまででっ」
「わ、分かった。また明日」
わたわたと帰り支度をして教室から飛び出ていく彼女の背中を見送った僕は、そっと口を閉じる。
さっき自分は、彼女に何を言おうとしたんだろう。
自分の気持ちも判然としないまま、彼女と同じように帰路についた。今日は妹たちの宿題を見る日だ。僕も、急いで帰ろう。
文化祭の準備は滞りなく進み、いよいよ本番を迎えた。
僕も東雲さんもクラスで特別な扱いを受けていたけれど、舞台の練習だけはみんなで合わせてもらえた。一応主役の二人だ。僕たちと台詞合わせをしなければ、他の役の人だって困るからだろう。
迎えた演劇の時間、僕はずっとそわそわと落ち着かない気分だった。
待ち時間の間、東雲さんは舞台袖ですっと背筋を伸ばし、凛としたまなざしで佇んでいた。そのあまりにも美しい立ち姿に、僕は我を忘れてしまう。これまで、放課後に二人で練習をしてきた風景を思い起こし、なんとか緊張をほぐした。
ようやく劇が始まった。『美女と野獣』。有名な話なので、観客が展開を知っているというのはいくらか安心感を覚えた。と同時に、失敗したら誤魔化しが効かないというのはプレッシャーだった。
『この広い世界のどこかを冒険したい、言い表せない程大きな冒険を』
『恋は醜いものを美しく変える。恋は目ではなく心で見るもの、だからキューピットは盲目に描かれている』
彼女がベルの台詞を言うたびに、情景が目に浮かぶようだ。感情のこもった演技は、その時々で色を変え、形を変え、ベルという人間を——東雲さんを、カラフルに染め上げる。こんな彼女がいた。しなやかなだけじゃない。上品なだけじゃない。自分の意思をはっきりと持ち、誰に何を言われようともへこたれない、強い彼女。僕は知らなかった。あんなに一緒に練習したのに、本番でなお、また新しい彼女を知ることができるなんて。
『最後に一目だけでもいいから会いたかった』
大好きなベルと、本当は離れたくなかった野獣が放つ一言が、僕の本心と重なる。
一時でもいいから、彼女に会いたいし、一緒にいたい。
僕はいつからそんなふうに思うようになったんだろう。
『戻ってきて、お願い、私から離れないで、愛してる』
離れないで、愛してる。
自分が言われているわけではないのに、彼女のその一言は芯から熱く会場全体を温めた。
一番感動的な、美女と野獣のキスシーン。
二人の距離がグッと縮まる。本当にキスするわけではないのに、彼女の息遣いを間近に感じて、僕の心は甘く溶ける。そして——。
「!!」
いざ、キスをするふりをしようとした時だ。
舞台が暗転して、誰かの足音が聞こえた。と当時に、ドン、という軽い衝撃音がすぐそばで響く。彼女の身体が誰かに押された。咄嗟に彼女を受け止めることもできず、そのまま彼女の唇が僕のそれに触れて——。
僕たちの唇は、間違いなく重なった。
大勢の観客の前で、まるで結婚式で愛を誓う夫婦のように。
不意打ちでキスをした僕たちはお互いに硬直した。観客たちの間で大きなざわめきが起こる。
「え、本当にキスしてる?」
「本格的だな」
「というか事故じゃない?」
「大丈夫か、アレ」
ひそひそと、この不自然な状況を噂する人たちの声が響く。なぜか、ここで流れるはずのBGMも止まり、みんなが僕たちの接吻を食い入るように見つめているのが分かった。
「あ……うっ……」
我に返ったかのように、東雲さんが僕から咄嗟に身を離す。その顔は真っ赤に染まり、両手で口元を押さえた。
呆然とした表情で僕を見つめる東雲さん。違う、僕じゃないよ。僕がわざとキスしたんじゃない。と、弁解することもできなかった。彼女はくしゃりと顔を歪めて、身を翻し、舞台の袖へと、逃げた。
まさかの主役の逃亡。
一層ざわめきが大きくなるオーディエンス。
さすがにこのまま舞台を続けるわけにもいかず、僕たちの演劇『美女と野獣』はそこで幕を閉じることになった。
「東雲さん、待って!」
ざわざわと揺れる空気を切り裂くようにして、舞台袖に駆けて行った彼女を追いかける。
すれ違うクラスメイトたちのくすくすという笑い声が耳を撫でた。
叫び出したい衝動を堪えながら、彼女の背中だけを求めて進んでいく。
東雲さん、東雲さん——!
僕の胸の中は、放課後に二人で練習をしたささやかな思い出の画がいっぱいに広がっていた。