4. 東雲樹里亜——わたしはニセモノ
文化祭の練習が始まってから、二週間が経った。
どういうわけか、私は野獣役の小原と放課後の時間を共にしている。もちろん、バイトがない日に限られるけど。小原には女優になりたいっていう夢まで話してしまった。クラスメイトには、絶対話さないと思ってたのに。『エイコウ』でのあの一件を見られてしまったからか、小原の前では素の自分に戻っている。本当の自分を見られて最悪だって思ってたのに、ちょっぴり嬉しくもあった。
「東雲さん、いる?」
今日も小原と放課後の練習に勤しんでいた。
クラスメイトたちはとっくに部活に行ったり帰宅したりで、教室には私と小原以外誰もいない。サブ役の人たちは別の教室で練習していたから、正真正銘二人きりだった。
その最中、教室の扉が遠慮がちに開かれた。
野獣が王子に戻るラストシーン。感動的な場面の台詞合わせをしていて顔を近づけていた私と小原は反射的に距離をとった。
「は、はい。いますわ」
誰だろう、と振り返った先に立っていたのは、このクラスで一番格好良くて人気者の北村颯だった。容姿端麗なのはさることながら、性格も明るいためクラスのムードメーカーである。女子たちがこぞって彼を推していた。私はそこまで仲が良いというわけでもないが、隣の席になれば普通に言葉を交わす程度の仲である。事実、一学期に一度席が隣同士になったことがある。彼はなんでもないことでよく私に話しかけてくれた。
「おお、良かった。……って、もしかして練習中だった?」
「え、ええ。でもちょうど休憩してるところでした」
北村が私と小原を交互に見て、目を細める。何を考えているのだろう。彼の無表情からはあまり感情が読み取れない。
「そっか。今ちょっと時間ある?」
「今、ですか?」
「うん。話したいことがあるんだ」
彼は細めていた目を開き、真面目なトーンで尋ねてきた。私は小原と顔を見合わせる。小原は何も言わないが、「どうぞ」とでも言いたげに、右手のひらを上にして少し前に突き出した。
「分かりました。少しだけなら」
「ありがとう。ここじゃ話しにくいことだから、ちょっとあっちへ行こう」
おいでおいで、と手招きするように北村が私を誘い出す。背中に小原の視線を感じながら、綺麗な花に誘われるミツバチのような心地で教室を後にした。
北村は四階へと続く西側の階段を登りながら、この辺でいいか、と踊り場でぴたりと立ち止まる。その階段は、普段ほとんど生徒が使わない階段だった。階段は東側にもある。どちらかといえばそちらの方がメインで使われていた。
だから放課後のこの時間帯にこんなところを通る人間はいないと思ったんだろう。四階には特別教室しかないし、確かに人の往来は少なかった。
「東雲さん、突然呼び出してごめんね。びっくりしただろ」
「え……ええ。多少は。それで、話っていうのは何でしょうか?」
小原と話している時とは違う、いつも通りの丁寧な口調を心がける。
北村の顔にすっと緊張の色が滲む。彼が何を言い出そうとしているのか、なんとなく察しがついた。
「単刀直入に言うね。俺、東雲さんのことが好きなんだ。一学期に隣の席になっただろ? それからずっと気になってて、告白しようか迷ってた。東雲さんはお嬢様だし、人気者だからさ、なかなか言い出せなくて。でももう、見てるだけなんて嫌なんだ。俺と、付き合ってください」
誠実で真っ当な告白だった。
正直今まで男の子からこんなふうに呼び出されて告白を受けたことは両手で数えるぐらいある。その中には一度も話したことのないような人までいた。その人たちとは愛情が湧かずに交際まではいたらなかったんだけど。
北村は……どうなんだろう。
本当に私のことが、好きなんだろうか。
今の台詞だけ聞けば、長い時間想いを募らせてくれていたようだが、一体私のどこが気になっていたんだろう。
気になる。
彼は私をどれだけ見てくれている?
「北村くん、ありがとう。その……一つ聞いてもよろしくて?」
「え? うん」
「私のどこを、好きだと思ってくださっているの?」
「それはもちろん、綺麗なところだろ。それから上品だし、家柄もいいし、なんでも持ってるし。声も可愛いし、全男子にとっての憧れだよ」
にひひ、とだらしのない笑顔を浮かべる彼の顔を、思わずまじまじと見つめてしまった。
まさか、北村の言う私の好きなところって、そんなところだけ……?
隣の席になって話してみて気が合うからとか、一緒にいて楽しいとか、そういうんじゃないの? 好きっていうのは、心と心がつながるからこそ生まれる感情なんだと思っていた。それなのに彼は、私の、いわば上っ面だけを眺めて良いと思ってくれただけだ。
さっき、誠実な告白をされた時の甘やかな彩りが、瞬時にしてガタガタと崩れていくような感覚に陥る。
胃の中がキリリと痛い。
私を好きだという男に、自分のことを理解してもらえていない苛立ちがむくむくと湧き起こった。
「お言葉ですが、北村くん」
「はい?」
てっきり告白の返事を聞けると思ったんだろう。予想外の言葉が出てきて、彼の顔に焦燥感が浮かび上がる。
「私のこと、なーんにも知らないよね」
「……え?」
喉の奥から飛び出したのは小原と話している時と同じような、低い声。つまり地声だ。普段は努めて高い声で話し上品な女を演じているから、北村の目がぎょっと見開かれる。
「さっきの答えの感じだと、私の表面だけを見て好きだって思ったってことだよね? 私、そんなに中身がないように見える? まあみんなの前では本性を出してないからしょうがないかぁ」
「し、東雲さん? だ、誰……?」
「そりゃびっくりするよね。お上品なお嬢様だと思ってた人物が、こんなふうにあけすけに喋り出したら。でも残念、こっちが本当の私なの。みんなが見てた東雲樹里亜はニセモノなんだ。あなたは、ニセモノの私に恋をしてたってわけ。本当は私、お嬢様口調で喋るのやめたいし、楽しいことがあったらみんなみたいに大口を開けて笑ってみたい。下品な話だって混ざってみたいし、放課後は興味のある部活だってしてみたかった。でもできないんだ。ねえ、これでもまだ私のことが好きだって言える?」
試すような口調で、北村の全身を見つめる。北村は蛇に睨まれた蛙のように微動だにしない。沈黙の時間が二人の間を漂う。やがて我に返ったかのか、「嘘だろ」と大きめの声で呟いた。
「お前は、東雲さんじゃない! 俺の好きな東雲さんはもっと丁寧な話し方をする人だっ。それに、告白してきた相手をこんなふうに冷たくあしらったりなんかしない!」
「……そう。それならご勝手に」
クウ、と悔しそうな吐息を漏らしたかと思うと、北村は一目散に階段を降りて行った。彼を侮辱したつもりはないけれど、彼は相当恥ずかしい思いをしただろう。そこまで追い詰めるつもりはなかったんだけど、つい苛立ちが口調に滲み出てしまっていた。
だって、悔しかったんだもの。
本当の私を見ようとしてくれる人はどこにもいないんだって。
私の本性を知ってもなお、私を好いてくれる人なんて、どこにも……。
その日、教室に戻ると小原の姿が見えなかった。トイレにでも行っているのかと思ったが、教卓の上に「ごめん、用事ができたので先に帰ります」と書き置きがあった。私を気遣ってくれたのかもしれない。
帰宅していつものように父に渡す日記を書こうと思ったけれど、手が震えて何も思い浮かばない。仕方ないから、「今日は掃除当番で、教室の隅々まで磨き尽くして先生に模範生だと褒められました」と嘘をでっち上げた。こんな適当な嘘っぱちの文だって、父はそのまま信じ、受け入れる。本当にみんな、私の上っ面だけを眺めて生きている。父だって、私を好きだというクラスメイトだって。私は、ニセモノだ。
翌日、学校に登校して教室の扉を開けると、普段は感じられない違和感を覚えてぎょっと周りを見回す。心臓を突き刺すような冷ややかな視線が、どこからともなく向かってくる。誰が、ということはない。全員が、私を見る目を変えているように感じた。
『東雲樹里亜は二重人格』
『性格ブスで男を見下してる』
一日過ごすうちに、そんな声が耳に飛び込んできた。女子トイレで、廊下で、教室の隅っこで、誰もが私をチラチラと見てそっと囁く。
もう東雲さんには関わらないでおこう。
陰でどんな悪口を言われてるか分からないし。
俺らのことも見下してんじゃね。
心無い言葉がダイレクトに胸に飛び込んでくる。みんな、私に聞こえないように噂をしているつもりなのか、それともわざと聞こえるように話しているのか。どちらでも同じことだ。
一体なんなのよ。
北村のやつが変な噂を立てたんだ。
すぐにそうと分かったけれど、北村を詰る気にはなれなかった。私が彼を振ったのは事実だし。振られた腹いせでこんなことをするなんて幼稚だと思うけど、気持ちは分からなくもない。
ただ一つだけ、聞き捨てならない噂が漂っていた。
『東雲とオケラはデキている』
本当、あまりにくだらないと思う。
私と小原を演劇の主役に選んだのはお前らだろ。それで二人で放課後に練習をしてたら「デキてる」だって? ふざけんな。みんな、どうして自分たちに都合の良いように事実をねじ曲げる? 期待して、裏切られたと思ったら叫び散らして、本当にばっかみたい。
「東雲さん……?」
『エイコウ』でレジを打つ手が止まっていた。
今日の学校での出来事を思い出していると、自然と表情筋がガチガチに固まっていた。意識が学校での一日の方に流れて、悔しさが込み上げる。聞き慣れた声がしてはっと顔を上げると、買い物かごを台の上に置いた小原が、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「小原」
普段は目にしたことがない、弱い者を慈しむような彼の顔つきと、買い物かごの中にある食材の数々に視線を彷徨わせる。定価三百円のキャベツが、見切り品で半額になっている。ピーマンもにんじんもしめじも、全部見切り品。傷んでるのにいいのだろうかと、また彼の顔を見やる。小原は全然気にしていない様子で私が品物をレジに通すのを待っているようだった。
ピ、ピ、と軽快な音を立てながら次々に商品のバーコードを読み込んだ。鍋でも作るのか、かごの中に入っていたのはほとんどが野菜だった。あとは、申し訳程度の安い鶏肉がひとパック。最後に出てきたのは、パッケージに女の子に人気の動物のキャラクターが描かれたラムネ二つと、戦隊モノのウエハースチョコだった。
妹たちがいると言っていたので、彼女たちの分だろう。
“たち”というからには何人かいるのだと思っていたが、妹二人と弟一人、といったところだろうか。三人も下に兄弟がいたら大変だろうな。教室ではクラスの“陰”だけど、小原の妹や弟にとって彼は大事な母親代わりの兄。そんな彼らの想いを想像すると、どうしてか胸がしゅんと湿ったような気分にさせられた。
「東雲さん、大丈夫?」
吃りのない口調で彼が私の顔を覗き込んでいる。私がうん、と頷くと彼はそれ以上何も聞いてこなかった。
今日、クラスで自分たちのことを噂されていたことを、彼だって知っているだろう。
知っていながら、あえて口にはしないでくれている。
こちらがバイト中ということもあると思うけれど、その優しさが身に沁みた。