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3. 小原守——見たことのない笑顔

 一体どうなってるんだ。

 僕が、“野獣”をやる羽目になるなんて。

 話し合いが始まった時点で薄々予感はしていたことだ。だから一生懸命前に立つ実行委員から目を逸らしていたんだけど、無駄な努力だった。一度“野獣”役に推薦されると、やっぱり反論の声も上げられない。心の中では猛反対している僕にお構いなく、クラスのみんなはすぐに僕が“野獣”役ということで同意した。本当に、どうしてこんなことに……。


「はあ。もう嫌になっちゃうわ」


 放課後、誰もいない教室で僕よりも先にため息をつく人物がいた。他でもない、文化祭で“美女”役に抜擢された東雲さんだ。昨日の放課後に彼女が『エイコウ』でクレーマーを撃退するところを見てから、気まずくて目を合わせられずにいる。


「あのさー、これから練習だよね。あんたも、不憫ね」


 東雲さんは、普段みんなの前で見せるのとはまったく違う口調と声色で僕に話しかけてきた。ええっ、そんなにキャラ変わる? って本当にびっくりするぐらい、いつもの彼女と違う。家柄の良いお嬢様な彼女は見目麗しい容姿をしているだけでなく、普段は口調まで丁寧だ。 

 それなのに僕の前ではもう取り繕うことをやめたのか諦めたのか、サバサバとした話し方をしてくる。二重人格、というワードが脳内に浮かぶ。彼女は一体何者なんだろう。東雲さんに関しては家柄が良いということしか知らない。シングルファザーの僕の家とは正反対だ。

 そうだ。彼女は僕なんかと関わるべき人間じゃない。

 それなのに神様のいたずらか、僕は彼女と一緒に大役を務めなければならない。

 あまりにカオスな状況に、演劇の練習に集中できる気がしなかった。


「し、東雲さんは、嫌じゃないの? ぼ、僕なんかと主役なんて」


「嫌っていうか、大変そうだなぁ〜とは思うよ。まあでも私、将来そういう仕事に就きたいと思ってたからもう開き直ったわ」


「そういう仕事って、どんな……?」


「芸能系の仕事。女優とか」


「な、なるほど……」

 

 東雲さんの容姿なら女優にだってなれると思う。そう口に出せたらよかったんだけど、そこまでの勇気はなかった。代わりに、ふとあることに気づく。


「もしかして、その夢を叶えるために、バ、バイトしてるの?」


 彼女の肩が揺れる。どうやら図星だったようだ。


「え、ええ。そう。専門学校に行きたいから。でもお父さんに言ったらたぶん反対されるし。こっそりバイトするしかなくて。だから昨日、あんたが目の前に現れた時はびびった」


「そ、そうだったんだ……へえ〜」


 もっと気の利いた返事ができればよかったものの、ついいつもの癖で会話を終わらせてしまう。そんな僕の口下手さに呆れたのか、彼女はため息をつきながら「あのさ」と切り出した。


「昨日、『エイコウ』に来てたのってなんで? いつも木曜日のあの時間、シフトに入ってんだけど、小原のことなんか見かけたことなかったんだけど」


「そ、それは……昨日はたまたまっていうか。普段は土日に行ってるんだけど、昨日、お父さんの仕事が遅くなるからって代わりに買い物に」


「お父さん? ああ、例の介護職の……」


 意味深な様子で頷いた東雲さん。僕は、彼女が僕の父親の職業を知っていることが意外だった。


「知ってるん、だね」


「当たり前じゃない。私を誰だと思ってるの? 言ったでしょ。昨日の『エイコウ』でのこと、クラスのやつらに話したら、小原の家庭のこともバラすって。私、なんでも知ってるんだからね」


「そ、そういうことか」


 つっけんどんに言い放つ東雲さんを見ていると、やっぱり僕が知っている彼女とは180°違っていて、まるで初対面の人と話しているみたいだ。


「高校生のあんたがスーパーに買い物って、小原んちもつくづく大変ね」


「そうでもないよ。妹たちのお菓子も買いたかったし」


「妹たち? 兄弟いるんだ」


「うん。歳の離れた兄弟だから、長男の僕がその、母親代わりっていうか。色々と面倒みなくちゃいけなくて」


「へえ、意外。母親代わりねえ。そりゃ本当に大変だ」


「そんなに大変でもないよ。好きなんだ。妹たちの面倒を見るのは。可愛いし、頑張り甲斐があるよ」


 言いながら、東雲さんの瞳が大きく見開かれていくのが分かった。なんだろう。僕の顔に埃でもついているだろうか——と頬に触れてみた。その刹那、東雲さんがふっと微笑んだような気がした。


「小原ってそんなふうに普通に話せるんだー」


「え?」


「ほら、いつも吃ってばっかじゃん。でも今、家族の話してる時は活き活きしてたからさ」


「そ……そうかな?」


「あ、また吃った。でも本当にさっきの小原はいつもと違ってた。なんか、そっちの方が格好良いんじゃない? なんて、私が言えることでもないんだけどね」


 今度は寂しそうに顔を歪めた彼女。僕は東雲さんのことを多くは知らない。けれど、彼女は彼女なりに、ままならない想いを抱えているのだと感じた。


「お父さんはさー、いっつも私のこと監視してんの。毎日日記とかつけさせられんだよ。信じられる? 話し方とか周りの人への振る舞い方とかにすっごく厳しくて、息が詰まる。今こんなふうに小原と砕けた口調で話してるのがバレたら、それこそ大目玉くらうよ。だからこのことは誰にも言わないでね」


 友達のいない僕ならば誰にも自分の秘密をバラすことがないと安心したのか、本音を語り出した彼女に、じっと見入ってしまった。なんだろう、この感じ。普段のお嬢様口調で品行方正な彼女とは全然違う、よく言えば親みやすい彼女がそこにいた。夢でも見てるんじゃないかって錯覚する。

 教室の窓の外から、運動部の掛け声が響いてきた。時計を見ると午後五時を回っている。もうこんな時間か、と呟いた時、彼女が「練習」とまた切り出した。


「どうする? 美女と野獣に抜擢されるなんてツイてないけど、練習はしとかないとやっぱりダメだし、ちょっとやってみる?」


 だるそうなのは変わりないのだけれど、先ほどよりは練習に乗り気な様子でそう提案してきた。僕もつられてうん、と頷く。


「じゃ、やってみるか。台本のここ、練習しよう」


 脚本係がいつの間にこしらえたのか、すでに台本は僕たちの手元にあった。

 彼女の指示通り、僕は台詞を読んでみる。初めてのことで難しかったが、意外と噛まずに読むことができた。


「おお、小原、台詞だといい感じに話せてるよ。演技向いてるんじゃない?」


「東雲さんこそ。やっぱり上手いね」


「ふふ、でしょ? お互い二重人格なのが功を奏したかも」


「笑えない冗談だな」


 僕たちは顔を見合わせて笑い合う。

 東雲さんは女優志望なだけあって、予想以上に演技が上手かった。今日役割が決まったばかりなのに、すぐに美女役にのめり込んでいる。役作りへの集中力もさることながら、その真剣な面持ちに、普段の彼女が見せない魅力が見え隠れしていた。誰かの発言に「ふふふ、そうですわよね」と肯定していることが多い彼女が、こんなふうに台本の台詞をコロコロと話し続けているのもまた新鮮だった。女優になりたいと語っていた時の彼女の目は見たことのない輝きに満ちていた。確かにちょっとばかり口が悪いところもあると分かったが、僕にはそれが、彼女を年頃の人間たらしめているように映った。

 要は彼女も、僕たちと同じなのだ。

 完璧なお嬢様なんかじゃない。

 彼女にだって不満はあって、その不満を乗り越えようともがいている。

 そう思うと、今まで遠い存在だった彼女を、とても身近に感じた。


「はー楽しい! 楽しいね、小原」


「う、うん。初めてで不安だったけど、意外と楽しい」


「今日はもう遅いからまた明日——じゃなくて、月曜日に頑張ろう」


 すっきりとした表情をした東雲さんが僕に笑いかける。その瞬間、どきりと胸が高鳴った。そんな表情もできるんだ。見たことのない彼女の爽やかな笑みが、記憶にしっかりと刻み込まれた。



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