2. 東雲樹里亜——最悪の配役
あーサイアクだ。
今日は人生で一、二を争うぐらいひどい日かもしれない。
バックヤードでクレーマーの客について、店長にあれこれ事情を説明した後、「お疲れ様。災難だったねえ」と労われてシフトを抜けたのはつい先ほどのことだ。
「でもまさか、きみがあんなに大きな声を出せるなんて思ってなかったよ、ハハ……ナイスファイト!」
「あの時は必死で……すみません、びっくりさせてしまって」
「とんでもない! 誰だってあんなクレームつけられたら性格も変わるって〜!」
へらへらとした笑みを浮かべながら、指を「グッ」と突き出してきた店長は、普段は見せない私の一面を知って面食らっているのがよく分かった。
さすがに、いくらピンチだからって性格まで変わる人間はいないでしょうよ。
そんなツッコミは心の奥底にしまい込んで、アルバイト先のスーパー『エイコウ』を後にした。
スーパーからの帰り道、すっかり暗くなった夜道をふてくされながら歩く。九月になってちょっとは涼しくなるかと思ってたのに、まだまだ夏みたいに暑い。クソ、と唾でも吐きたくなるがさすがにそこまではできない。羽織っていた薄手のカーディガンを脱いで腕に巻き付ける。
学校でもこのカーディガンみたいに上っ面に被った皮を剥ぎ取れたらいいのにな。
馬鹿な喩えを思いついて苦笑する。
剥ぎ取れるわけがない。
私が普段からどれだけ注意して「みんなの東雲樹里亜像」を守っているか。
それなのに今日、よりにもよってクレーマーに怒鳴りつけるところを、クラスメイトの小原に見られるなんて!
先ほどの『エイコウ』での一幕を思い出して、背中を冷や汗が伝う。隠し通せると思ってたのに。高校三年間、誰にも気づかれずにみんなの理想の「東雲樹里亜」を演じ切る。そう腹を括って入学した。完璧だったはずだ。学校ではボロを出したことなんてない。
なのに、それなのに……。
はあ、と大きくため息を吐くと、冷や汗が再び流れ落ちるのが分かった。暑いと思っていたのに汗が流れて身体が冷える。もう一度カーディガンを羽織る。やっぱり私はこっちじゃないとダメみたい。薄皮を一枚被る私。ふふ、これが私の生きる道かあ……。
夜道を歩きながら、家に帰り、父親から今日の“日記”を提出させられる場面を想像して辟易とする。
毎日、その日に学校で起きたことを日記に書いて父親に渡す——それが東雲家の一人娘である私に課せられたルールだ。
父は、私の住まう地域一帯の地主であり、うちはいわゆる“名家”である。父自身は県議会議員をしていて巷では有名人。私は、そんな東雲哲郎議員の娘として、立ち居振る舞いから服装、習い事、口調、仕草までお手本のような人間のそれを強いられる。はっきり言ってすごく窮屈。というか、今すぐ家を逃げ出したいくらいにはこの生活に息が詰まっている。幼少期からずっと「お前は東雲家のお嬢様だからな」と言い聞かされてきて、昔は当たり前に両親の言うことを聞いてきたけれど。高校二年生になった今は、それなりに自分でやりたいことなんかもできて、我が家のやり方が肌に合わないと感じていた。
「日記だって、毎日そんな書くことねーよ」
ただ毎日学校に行くだけなのに、どうしてそんなに特筆すべきことがあるだろうか。月に一度の席替えでみんなから席決めの順番を譲ってもらったとか、友達から今日も綺麗だって褒めてもらえたとか、適当なことばかり書いている。ひどい時は誰々に告白されたけど丁重にお断りしたとか、もうヤケクソで書き殴る日もある。だがそんな時も、字だけは丁寧に書かないと、父親に怒られる。由緒正しい東雲家の人間が汚い字を書くなって怒られちゃう。だから父に見せるものは全部気を遣う必要がある。なんて窮屈な家庭。私だって隣の席のあの子や前の席のあの子みたいに普通の家庭に育ちたかった。みんな、“普通”で羨ましい。
あ、でもあいつだけは違うんだっけ。
小原守。
さっき、『エイコウ』で私の本性を知った張本人。
彼は学校でいつもボロボロのシャツを着ていて、見るからに家庭に事情があるんだろうなって分かる。喋る時は常に自信がないのか、必ずと言っていいほど吃る。“小原”という名前だから「オケラ」なんて可哀想なあだ名で呼ばれているし、多分友達はいない。私の父は地域の人たちの事情に詳しくて、小原家のことも他の人よりよく知っている。父親が介護職で母親はいない。小原が小学生の時に離婚したそうだ。なんでも、母親の方が他に男をつくって出て行ってしまったとか。子供にとってはかなりショッキングな話だろう。
そんな小原はシングルファザー家庭でなかなか大変な生活を送っていると容易に想像はつく。しかしだからと言って、私が直接彼に何か働きかけることはないし、父も同様に小原家に関わろうとはしない。小原だって、自分と全然立場が違う女に同情されたって嫌だろうし。
さっき、スーパーで「家のことを晒してやる」と言ったのは彼の家のこうした事情のことだ。だって、私の本性を学校でバラさでもしたら、父がどれだけ怒り狂うか目に見えている。ああ、本当にそうなったら最悪だ。二度と校門を跨げない。なんなら引き篭もる。それぐらい、私にとっては一大事だった。
とにかく明日から、やつが私のことで何かボロを出さないか監視しなくちゃ。
小原の性格上、わざと今日のことを吹聴するようなことはないと思うけど。うっかりミスであることないこと話してしまうってのはあるかもだし。もし本当の私を誰かに知られでもしたら、きっと学校で後ろ指をさされるだろう。
小原守——ぜっっっっったい口を割らせないから!
翌日、私の心配をよそに、小原は普段通り周りの視線におどおどとしながら小さくなって過ごしていた。
五時間目、“総合”と銘打たれた時間に、九月末に開催される文化祭の出し物を決める時も、教室の隅っこの席でじっと息を潜めているのが分かった。
「二年二組の出し物は演劇『美女と野獣』でいきたいと思いまーす!」
文化祭実行委員の男子が声高らかに宣言する。沸き起こる拍手喝采。そんな中でも、私は小原のことが気になってしまう。ダメダメ、私の方が意識しちゃってるじゃん。
「“美女”のベル役、東雲さんがいいと思うんですけどみなさんどうですか?」
小原の肩がぴくんと揺れる。何あれ。自分と関係ないはずなのになんでそんな反応してるのよ。
「いいと思います! 樹里亜ちゃんしかいない!」
「東雲さんなら適任だよ〜」
「はい。では賛成多数なんですけど、東雲さんいいですか?」
小原がはっと顔を上げた。実行委員の男子の顔を見つめている。そんなに食い入るようにして見なくてもいいのに——。
「東雲さん?」
名前を呼ばれた。呼んだのは実行委員の男子だ。「え?」と顔を上げると、教室中のみんなが私に注目しているのが分かった。あれえ、どうして? と考える暇もなかった。
「美女のベル役、お願いします」
「え、ええ……。良いですわよ」
つい、いつものように|人当たりの良い柔らかな笑顔で頷く。……って、ベル役!? 私、何を適当に頷いてしまったの……!
内心すごく焦ったけれどもうどうにもならない。今更前言撤回なんて格好悪いし。みんなが言うように、ベル役は自分以外の誰にも務まらないだろうって、心のどこかで思ってしまった。あれほど毎日殻を脱ぎ去りたいと感じているはずなのに、まだ薄汚いプライドが邪魔をしている。
「はい、それじゃあベルは東雲さんに決定! あとは“野獣”役だけど……」
今度は示し合わせたかのように、全員の視線が教室の端っこの席に座る彼——「オケラ」こと小原に向けられていた。
「“野獣”役は小原で良いんじゃない」
「そうだよ。ぴったりじゃん」
「頼んだよ、小原ー!」
あくまでも適役だからお願いします、と彼を役に大抜擢したかのように朗らかに声をかける。あーまたやられてるし。先生はこの有様を見て何も思わないのか、端っこでただ黙って議論が進むのを眺めていた。
「ぼ、僕が野獣役……?」
小原は分りやすく狼狽えた。誰かに助けを求めるように視線を泳がせる。あ、今目が合った。何、私にどうにかしろって言うの? あいにくだけどそれは難しいお願いだわ——と一人妄想劇を繰り広げていたところではたと気づく。
『美女と野獣』って確か、最後にキスシーンがあるんじゃ……。
ええっ、ということは、私と小原がキス!?
いや、さすがに学校の行事だし、本気でするわけじゃないだろうけど。でも“フリ”でも小原と私がキス——それって許されるの?
「あの、ちょっと待ってくださらない——」
私は手を挙げて抗議しようとした。危ない、このままだと私、小原と不名誉なキスをしなくちゃいけなくなるところだった。気づいてよかった、と安心したのも束の間、実行委員が「それでは賛成多数で小原くんが野獣役に決まりましたー!」と他人事のように宣言する声が響いた。ちょ、ちょっと待ってよ。小原はまだOKしてないんじゃ。
反対しようとしたけれど、決まりかけた議論を自分一人の意見で覆せるほど、私はみんなの前でがめついキャラではない。いつだって気高く、それでいてクラスの和を乱さないように、“お嬢様”として品のある振る舞いをする。それが私に期待された役割なのだ。
結局その後、メインキャスト以外の役までするすると配役が決まっていき、つつがなく五時間目の終わりを告げるチャイムが響いた。呆然と議論に取り残されたのは、私と小原、ただ二人だけだった。