1. 小原守——彼女の本性
「どうなってんだよ姉ちゃん? 俺の買ったこの弁当に蝿が入ってたんだけど? 危うく食べそうになったんだが。というか蝿が止まったとこ、食べちまったんだが? おかげで腹が痛えっ。まったくどうしてくれんだよ!」
木曜日の午後六時、スーパー『エイコウ』に怒号が響き渡った。
明日、金曜日は定休日だからか、お客さんは通常よりも多い。ついでに夕飯前の時間でもあるので四列あるレジにはずらりと後ろの方まで列ができていた。僕は十分前からレジに並んでいる。スーパーで十分待ちと言えば、なかなかのロスタイムだ。
あと二人進めばようやく僕の番だ——とホッとしていたところに、さっきの怒鳴り声。列に並んでいたお客さんが皆、レジ前の声の主に注目するのが分かった。
一体誰だ、こんなに混んでる時間帯にクレームを入れに来たやつは?
そんな心の声がそこかしこに散らばっている。
クレーム客は見たところ四十代くらいの男性で、見るからに人相が悪く、こう言っちゃ申し訳ないが髪の毛が薄い。だから余計に顔の面積が広く感じられて、強面の顔が一層際立っていた。
「蝿……ですか。そのお弁当、見せていただけますか?」
レジのお姉さんの高く細い声が、シンと静まり返った店内に響く。どこかで聞いたことのある声だなと思ったものの、少し距離があるので顔までは見えない。クレーム客は、レジに並んでいたお客さんを押し除けて、店員さんにぐっと身を寄せていた。
「ほおら、見ろよ。これ、でかいだろ? こんなの買った弁当に入ってたら、姉ちゃんだって気持ち悪いだろ? どうしてくれんだよ、ああ?」
「ひっ……。し、失礼ですがこの虫は、本当に最初からお弁当の中に入っていたんでしょうか? 証拠はありますか?」
僕ならば即座に「申し訳ありません」と謝ってしまいそうなところを、店員さんはきちんと事態を把握しようと冷静に質問していた。が、それがチンピラ男の逆鱗に触れたのか、「なんだってえ?」と粘着質な声を上げる。
「おいお前、客の言うことを疑うのかァ!? それでも店員か? この店のスタッフ教育は一体どうなってんだよ! しかもよく見たら姉ちゃん、若いなぁ。高校生か? お前みたいなお子ちゃまが、客のご意見を失礼な態度であしらっていいのか? ああん?」
昭和の暴走族にでもいそうな下品な口調で、店員さんに顔を押し付けるようにして彼女を睨め付ける。もう勘弁してくれ。やめてあげてよ。ていうか誰か、彼女を助けてあげてくれ。誰もいないなら自分が——とレジの列から一歩踏み出そうとした時だ。
「……はあ。ったく、黙って聞いてりゃとんでもない言いがかりつけてきやがって」
ドスの効いた暗い声が店内に響き渡る。女の人の声だということは分かったけれど、どこから声が飛んできたのか分からない。周りを見回しても、他のお客さんも同じようにキョロキョロと声の主を探している。救世主は一体どこにいるんだ? 不可解な声の出所にみんな「?」顔だった。
「……は?」
だが、男にだけは声の主が分かったようだ。呆けたような顔で口をぽかんと開けている。彼の間抜けな視線は先ほど彼がクレームをつけていた店員さんに向けられていた。
「さっきから、お前のほうこそ蝿みたいにしゃあしゃあ難癖つけやがって、うっせえんだよ! お弁当に蝿ぇ? そんなもん、うちのミスなわけないだろうが。こっちは毎日何度も、嫌というぐらい商品検査してんだよ。というか証拠を出せ、証拠を。証拠がないならうちのせいにされても困る。店長〜助けてくださーい!」
まさか、嘘でしょ?
クレーム男に言い返していたのはまぎれもなく、先ほどまで丁寧にクレーム対応をしていた店員さん自身だった。
彼女は大声で「店長ー!」ともう一度叫ぶ。するとバックヤードから店長らしき男性が出てきた。「強盗はどこだぁー!」とこちらも大声を振りまいている。
「ちょ、待てよ、俺は強盗じゃあ——」
「はいはい警察呼びまーす! 大人しく事情を聞かせてくださいね〜」
男の肩をガシッと掴んだ店長はそのままバックヤードへと男を引きずっていった。その腕力も見事だったが、それ以上に先ほどまで文句をつけられていた店員さんの方へと、視線が吸い寄せられる。
そこでふと、僕は彼女と目が合った。
「ふう」と息を吐いていた彼女の目が大きく見開かれる。胸には「東雲」という名札がついているのを見た。
「し、東雲さん?」
僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女は「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。引き攣った表情が、僕と今ここで出会ってしまった後悔を滲ませている。
「小原……くん、なんでここに」
クレーマーに言い返していた時とは違って、元の高く細い声で呟く。なんとか取り繕うとしていることは分かるが、もう遅い。僕の記憶の中には先ほどドスの効いた声で男に言い返していた彼女の姿がしっかりと刻み込まれていた。
「ゆ、夕飯の買い物に……」
「そう、なんだ……へえ〜……」
明らかに動揺している彼女に、僕自身もこれ以上なんと返したらいいか分からなかった。相手がクラスメイトの彼女だと分かった瞬間、いつも通りの吃りが出てしまうし。さっきのクレーマーとのやりとりについてツッコむ勇気もない。彼女の方もずっとばつが悪そうに視線を泳がせていたから、レジで僕の番が回ってきても、お互い気まずいままだった。
「あの、小原、くん」
レジが終わり精算機で機械にお金を投入した時、彼女が再び僕に声をかけた。何も悪いことなんてしていないのに、反射的に身体がぴくりと跳ねる。
「……なに?」
一つ後ろに並んでいたお客さんが怪訝そうな表情で僕たちを見ている。この息の詰まる時間が早く過ぎ去ってほしいと願いつつ、東雲さんに視線を向けた。
「その、さっきのこと、絶対誰にも言わないでっ。言ったらあなたの家のこと、色々と晒してやるからっ」
男に言い返した時と同じ強い口調で彼女がそう言い放った。その豹変ぶりに僕は慄く。
「わ、分かった。誰にも言いません」
「それならもういいっ」
険しい表情を浮かべて、プイと僕から視線を逸らす東雲さん。これ以上は話すまいとしていることがよく分かる。僕の方も慌てて精算機の方から身を引いた。レシートを取るのも忘れて。
それが、学校一のお嬢様である東雲樹里亜の本性を知ってしまった日のことだった。