復讐を遂げた後、オフェーリアは少し大人になっていた。
恋愛要素強めになっています。よろしくお願いします。
美しい紺碧の目を持ったプリンセス。
彼女はオフェーリアと向き合いながらも慈愛に満ちた表情で自分の下腹部をゆっくりと撫でた。
「だから、あなたが何と言おうと、遅いのよ。レピード公爵家には認めなければいけない責任があるし、私ももう取り返しがつかない」
彼女の名前はベアトリーチェ、この国の王女であり近々、他国への嫁入りが決まっていた。
「父と母も私のことを許してくれたわ。この子を祝福してくれている。後はあなただけなの。オフェーリア」
「…………」
「頼む。君だって小さな命を己の執着心で摘み取るほど罪深い女じゃないよな?」
「そうよ。子供を愛おしいと思う気持ちが、あなただって女だものわかるわよね?」
「まだ生まれていなくても何にも代えがたい、素晴らしいものだ。わかってくれ、オフェーリア、婚約を解消しよう」
婚約者のジラルドもベアトリーチェに続いて言葉を紡ぐ。
彼女を守るように寄り添って、婚約解消を告げる姿に今までの彼との思い出が急速に色を失って、くだらないものだったような気がしてくる。
そもそも、なぜ彼は彼女と寄り添って側にいるのだろう。
「ジラルド……ありがとう、そう言ってくれて、私、嬉しい」
「そんな、良いんだ。ベアトリーチェ。たとえ、君が他国に嫁ぐ運命だったとしてもそんなものは跳ねのけてこの子と三人で幸せに暮らそう」
「っ! っええ! ええ! 絶対よ!」
ひしっと抱き合う二人は、目じりに涙を浮かべていて、傍から見ればとても美しい光景だ。
しかし当事者となってしまったオフェーリアは、呆然自失でくらくらしていた。
ただ、心臓がどっどっと鳴り響いて嫌な汗をかいて慎重に言葉を選んでいった。
「……なるほど、状況は理解いたしました。ご懐妊おめでとうございます」
「! ありがとう、オフェーリア。良かった私、あなたに祝福してもらえ━━━━」
「それで、早速ですがレピード公爵家とわたくしの実家の共同事業についての話に移っても構いませんか?」
早口でお祝いを述べてそれから、感動をあらわにしようとしているベアトリーチェに対して、オフェーリアは焦った様子で言った。
とにもかくにも、重要なのはそこだ!
というかむしろそこ以外はまったく重要ではないと言い換えても問題ない。
婚約解消なんて言われなくてもこちらから申し込むぐらいだ。
「主にわたくしが仕切っていた話ですが、お互いの領地をつなぐ街道の話、それから魔法に関する共同研究、新しい作物の開発に新規事業の導入、それらはわたくしとあなたの婚姻にあわせて行われていましたのよ?」
「……」
「……」
オフェーリアが一番重要なことについて話し出すと、彼らは途端にキョトンとしたような顔で黙り込んで、その様子は二人して無垢な子供にでもなったみたいだった。
オフェーリアは呼吸も忘れて、続けて言った。
「お互いの領地の交通を便利にすることでどういう利点があるか、そのお話はきちんとしたはずですわ。
それに伴う出資も準備も、融資の話もまとめてありますのよ。研究に対してはどういう補填を考えていますの?
レピード公爵家お抱えの魔法使いたちには、研究の成果によって生まれる魔法道具の収益を報酬にするという話をしていますわよね。しかしここで計画が頓挫しては、報酬も何もありませんわ。
そのほかにも、ここで終わらせては何も利益を生まないこと業が山ほどありますわ」
勢いに任せて、オフェーリアはテーブルに手をついて、目の前にいる彼らに言い募る。
無意識に体が浮いて、必至になって訴えかけていた。
「愛を貫き通すのは結構、けれどそのことによる損失は計り知れないことはわかっているでしょう!?」
テーブルをどんと叩いて、口にする。彼らは言葉を返さない。
ベアトリーチェの侍女が姫をかばうように少し前に出てきた。
「だからこそ、その損失を被らないために、わたくしはわたくしの権利を行使して、損害賠償を請求するのは当然のことですのよ?」
「……それは……」
オフェーリアの最後の言葉に、ベアトリーチェは小さくつぶやくようにそう口にして、それからチラリとジラルドに視線を向ける。
「でも、その損害賠償を請求するにしても、あなた達が誠意を見せてくれる支払い方をしてくれないことには、わたくしは大損をしてしまいますの」
契約上、請求は出来る。しかし問題は、レピード公爵家に支払い能力があるかどうかということだ。
もうすぐ嫁ぐ予定だった王女を孕ませたのだから、彼はベアトリーチェの婚約者にも賠償金を支払う必要がある。
国同士の決め事を放棄したその代償はいくらレピード公爵家だからと言ってもそうやすやすと払えるものではないだろう。
だから、先に前もってオフェーリアに誠意を見せて欲しい。申し訳ないと思うのならばその補填をして欲しい。
それをわかっているはずだと思いながらもオフェーリアは最後に言う。
「ですからきちんとした話し合いを。一体どのようにして、各方面への損害を賠償するつもりですの?」
少し落ち着きを取り戻すために深く呼吸をして、それから彼らに問いかけるような形で言ったのだった。
「…………そんなことだから」
ぎりぎりで理性を保ち、話し合いという体を崩さなかったオフェーリアだったが、ベアトリーチェはがくっとそのまま視線を落としてそれから、気がふれたかと疑うような瞳でテーブルに強く手をついて立ち上がった。
「まだわからないの!? そんなだから、あなたはジラルドに呆れられてしまったのよ!?」
「っ」
「そんなふうに頭の中は、目先のお金のことばっかりで一杯!! そんなことであなたのそばにいてジラルドが癒されることがあったと思うの!?」
机の上に膝を乗せてベアトリーチェはおもむろにオフェーリアの髪を掴んで引っ張った。
藍色の長い髪は彼女の真っ赤で長い爪に引っかかり、引っ張られてずきずきと痛む。
ただでさえ、めまいがするような損失を前に頭がおかしくなりそうだというのに、さらに彼女は怒鳴りつけるように言いながらオフェーリアの頭をバシンとはたいた。
「ベアトリーチェッ、やめるんだ! 子供に障るよ!」
「ベアトリーチェ姫様っ、おやめくださいっ」
「離しなさいっ、カテーナッ!! この女が悪いのよ!! お金のことばかり!! そんなの真実の愛の前では些細でちっぽけなものよっ!!」
頭をぐいぐいと揺さぶられてオフェーリアは脳みそが口から飛び出してしまいそうだった。
「女として可哀想! 愛し合う私たちの仲を引き裂くために、お金を取ったってあなたなんて愛されないのよ!! それがわからないような性悪で、守銭奴で、可愛くない女なんて誰にも愛されないに決まってるじゃない!!」
彼女の長い爪が、オフェーリアの頬を鋭く切り裂いて痛みが走り、ついにオフェーリアは小さく蹲って自分を守る体勢に入った。
……そんなこと言われても、嫉妬でこんなことを言っているわけじゃありませんのに!!
「醜い嫉妬を向けられる私の身にもなってよ!! 認めてくれると言ったのに、お金で私を追い詰めて、それって嘘つきのやることじゃない!!」
「っ、や、やめてくださいませっ」
「あら、あんなに偉そうに私たちの非を糾弾していたのに、ちょっと反撃しただけで、被害者のつもり!? バカみたい、妊婦の私の方がずっと、ずーっとこの状況に傷ついてる!!」
「痛いですわっ」
「私の方がずっとあなたに傷つけられて痛かった、心がね!!」
そんなことを言われながらベアトリーチェは、侍女たちに止められてぷりぷりと怒って去っていった。
それからオフェーリアは自分の侍女に連れられて、実家のギルランダ侯爵家に戻り、自室に一人になってから損失の額を計算し、最終的に堪えられなくなって、ぶるぶると震えながら一人で泣いた。
普段から気丈に振る舞っているオフェーリアだが、突然の狂気じみた暴力とひどく歪んだ理論に対抗できるだけの精神力は持ち合わせておらず、むしろ優しい家庭で伸び伸びと育ってきた方なので、恐怖と悲しみが入り混じってふさぎこんだ。
世の中にまさかこんなに理不尽なことが存在するなんて想像だにしておらず、涙はとめどなくて自分の弱さがどうにも情けなかった。
オフェーリアは自立心が旺盛な方だ。
だからこそ父や母や将来夫となるジラルドに頼るだけではなく、自分からも様々な取り組みをして責任を持ち、自分の選択によって多くの物を手に入れたいと思っている。
今までその試みはおおむねうまく行っていたしその努力も怠らなかった。
むしろそういうことが好きで、オフェーリアはまっすぐに自分の好きなことをやって育ってきた。
しかしベアトリーチェの存在がその生き方に初めて大きな挫折をもたらした。
突きつけられた損害の数字。それは自分が今まで稼いできた金額を埋め合わせても足らないぐらいのもので、父や母には嫁にも行かずに王家かどこかで働いて、お金を補填すると申し出た。
しかし彼らは、失敗のことなど気にしなくていい、むしろしばらく休めと言い、それから一ヶ月ほどオフェーリアは引きこもりのように生活した。
一ヶ月を過ぎたが、オフェーリアは初めての挫折から立ち直ることはなく、両親はその様子を見て、今度はたくさんお見合いの予定をいれた。
彼らにどういうつもりなのかと問いかけると、男でついた傷は男で癒すことが出来るらしい。
彼らは、オフェーリアが婚約者が浮気をしていて、妊娠までさせたことについて傷ついていると思っているらしい。
しかしそちらではないとは言いづらく、仕方がないのでお見合いをして日々を過ごす。
何にせよ、父と母は、非常にワイルドである。
大雑把というか豪胆というか、だからこそ、オフェーリアがやりたいことをやらせてくれるという良い点もあるがいかんせん、繊細さに欠ける。
それにどの人も、あんなふうに別れる可能性があるのだったらオフェーリアはもう二度と婚約もしたくないし結婚もしたくない、そう思っていた矢先だった。
「ベアルツィット侯爵家のヴァレントだ。以前は、王族の護衛任務についていた」
そう短く告げた彼は、とても気難しい顔をしていて凛々しく、まさに堅物というような言葉がよく似合う人だった。
向かい合って椅子に腰かけているのに、座っている時点でも身長差がわかりやすくついていて、少し目線を上に向ける必要がある。
それに何より、彼は多分一回りぐらいは年上だろう。こんなに年上の男性など何を考えているのかわからない。
「オフェーリアですのよ。自己紹介なんていらないのではなくて? どうせ知っているんでしょう」
「知っているとは、何の話だ」
「ですから、姫殿下のスキャンダルに巻き込まれて大損害を出した阿呆とはわたくしのことですの」
短く問いかけてきたヴァレントに対して、オフェーリアは子供じみた声で適当に言う。
一ヶ月もたてばベアトリーチェの妊娠とそれを取り巻く事項がどのように処理されたかは明るみに出た。
ジラルドの婚約者であったオフェーリアは、こうしてお見合いをしていると何度も「不憫な目に遭ったのだね」とたくさんの男に言われた。
しかし、オフェーリアはそんなふうに慰めて欲しいわけではない。
むしろそういうふうに慰めようという態度を取られると、プライドが傷ついて仕方がない。
なので多くの場合、その話題を出されて苛立ち、ペラペラと自分がいかに怒っているのかをまくしたてると大抵相手の方から、お断りをされるのがいつもの流れだ。
「……ああ、そうか。なんだか申し訳ないような気になるな。……あの子は何というか自己中心的過ぎるんだ」
……あの子?
けれどもいつもの様子とは違って、ヴァレントは少しバツが悪そうにオフェーリアから視線を外してベアトリーチェのことをそんなふうに形容した。
それに申し訳ないだなんて言うのはおかしいだろう、彼はベアトリーチェと何の関係もないのだから。
そう考えてから、彼が王族の護衛についていたという先ほどの言葉を想いだして、合点がいく。
「まさか、あなた……ベアトリーチェ姫殿下に仕えていたんですの?」
「……一応。まぁ、その騒動がある前に実家を継ぐために護衛任務から外れていたが、そう言うことになる」
お見合いという状況だからか、すんなりと前職を明かしてくれる彼が急にキラキラと輝いて見える。
興味がない時には、まったくもって彼の良い部分など見つけられなかったが、その大きな体も、持っているティーカップが小さく見える様な手のひらも、派手ではないがそれなりに整っている容姿も素晴らしいものだと思う。
特に、お堅く気難しそうなその鋭い眼光は、何より誠実そうにも見える。
そして彼を目の前にしてオフェーリアはここ最近怠けていた頭をぐるりと回転させて、一度小さく息を吸ってから、少し言葉を選んで慎重に、しかし気さくな笑みを浮かべて聞いた。
「それなら、よくベアトリーチェ姫殿下のことを知ってらっしゃるんでしょうね」
「それほどでもない。現に今回の懐妊からの降嫁される話にも驚いた。多くの人間に迷惑をかけて、仕方のないお人だ」
「ええ、わたくしもそう思っていますわ、でも……そうね」
あまり強い言葉を使ってベアトリーチェのことを言い表さないヴァレントのことを考えると、彼は彼女に情があるのではないかと考えられる。
それならば、敵視しているふうに口にして警戒されるのは得策ではないのかもしれないと思考を巡らせた。
オフェーリアは言った。
「あの方は、わたくしにも真摯に話をして、自分の真実の愛をとても信じている様子だった。その純粋な気持ちだけは、素晴らしいものだと思ったんですのよ」
「…………なるほど」
純粋にあそこまでねじ曲がった理論で他人を批判できるいうこと、それはすごいことだ。何も嘘は言っていない。
しかしヴァレントは明らかに、さらにバツが悪そうな様子になって重苦しくオフェーリアの言葉を肯定した。
「あら、なんだかはっきりとしない返事ですわね。もしかして、わたくしの言ったことが何か間違っていました?」
「いや、君から見てそうだったのならば、それを否定するつもりはない」
「では、ヴァレント様は、そうではないと思うということですの? 彼女は好ましい人間ではない?」
「そうじゃない。それに今は降嫁されたといっても、王族を悪く言う言葉をそう簡単に口に出すべきじゃないだろう」
この応接室には二人しかおらず誰も聞いていないというのに、はぐらかしてはっきりとは言わないその様子は、如何にも何かを知っていそうで、オフェーリアはドキドキした。
もちろん、彼女のことを心の奥底では嫌っていて、あんなことをして降嫁されたことを腹立たしく思っているだけかもしれない。
けれども何かあるとオフェーリアは察知した。
情があるふうなのに、オフェーリアの誉め言葉には同意しない、煮え切らないような態度は、複雑な感情を覚えているからこういうふうなのではないかという考えを助長させる。
そう、例えば護衛に付いていた時に、ベアトリーチェの……民衆に知られていないスキャンダルを知ってしまっているとか。だからオフェーリアの言葉に同意も否定もできない……とか。
ただ高貴な身分の人間に仕えている使用人は、もちろん主の秘密をたくさん知る機会がある。
だからこそ仕事をやめたからと言って、それを簡単に口外するのは裏切りに当たる行為だ、めったなことがなければ口にしないだろう。
「そうでしたわ……あなたのことを知りたいからと言って、あまりに性急に問いかけてしまいましたわ」
ならば、どうにかして口を割らせて、彼女に正当な復讐をするのはどうだろうか。
男を介して台無しにされたオフェーリアの復讐としてはピッタリではなかろうか。
このベアトリーチェのそばにいた男をオフェーリアが懐柔して情報を吐き出させて彼女を追い詰める。
……これでこそ、男でつけられた傷を男で癒すというもの!
「まずは趣味あたりからお聞きしたいですわ。ヴァレント様。たくさん、あなたのことを知って、わたくし、あなたに気に入られたい」
「……随分ダイレクトに、そういうことを言うんだな。最近の若い子はそう言うふうに積極的になるのが流行っているのか?」
「ええ! ええ! それはもう、気に入った人は逃さないように自らどんどん行きなさいと両親にも教えられました」
……結婚相手でも利用する相手でも、自分の望むことをかなえるためになんでもしていいと教えられましたの!
オフェーリアはたっぷりの笑みを浮かべて、ヴァレントに言う。
「ですから、ぜひわたくしと婚約してくださいませ。ヴァレント様、損だけはさせませんと誓いますわよ」
「…………なんだか君は、やり手の商人みたいだな」
「あら嬉しい、褒めてくださるだなんて」
彼は、鋭くオフェーリアの何かを察知した様子でそんなふうに言う。当たり前だろう、突然態度を変えたのだから。
多少警戒されたようだがそんなことはどうでもよかった。
自分に惚れてもらえばいいなんてそんなのは簡単なことだろう。
商談と同じだ。相手が求めていることを知って、自分がどういう形でそれを提供できるかを考える。
それからオフェーリアがそれを一番良い形で渡せることをプレゼンすればいい。そうすればおのずと人はついてくる。
だからこそオフェーリアには自信があった。
もちろん言った通り損なんてさせない、そんなへまはしない。騙すように利害関係を構築したとしても再現性がなければ意味がないのだ。
努力して手に入れるからには、長期的に見てたくさんの利益を生んでもらう方が都合がいい。
彼の場合も同じで、欲しいのは情報だとしても、それ以外にも価値あるものがあるはずだ。
だからこそ正攻法で手に入れて、愛し合って然るべき、そしてオフェーリアは復讐を果たすのだ。
……最高の案です。これが成せれば、後は今回のことで知った教訓を生かして次の計画に移ることができますわ。
次の計画は何をするかなど決まっていない、しかしオフェーリアは計画を立てるのが大好きで、そうして課題を出しては次から次に新しいことをやっていきたい。
一ヶ月の長い休暇は終わりを迎えて、今の対象にぎらついた瞳を向けて頭の中で次々に彼を落す案をいくつも考えたのだった。
作戦その一、プレゼント!
最終的にはヴァレントの方からオフェーリアのことを望んでもらう必要があるが、それは最終段階として、そもそもの友好的な関係の構築も大切なことだろう。
ということで、オフェーリアは先日会ったばかりの彼のことを考えて、どんなものをプレゼントをもらって喜ぶのかと思考を巡らせてみる。
すでに調べるために使用人たちに指示を出し、父や母にはそれはもう深く深く恋に落ちたのだとヴァレントのことを伝えてある。
これで本腰を入れて彼と交流することができる。
……それにしてもプレゼントとは古典的な手法ではあるけれど、距離を縮めるためにはもってこいですのよ。
それに突然価値があるものを贈られると、何かを返さなければならないという衝動に多くの人間は駆られるものですわ。
つまり、わたくしのお願いを聞きたいという気持ちになるも同然。
もちろんそこで、プレゼントよりも価値のあるものを要求するのはナンセンス、しかし例えば、そこでデートに誘うのなんてどうだろうか。
彼とともに過ごす時間を如何にもオフェーリアが価値あるものと感じていて、純粋無垢な愛情を持っていると思われること間違いなしだ。
しかしそれを要求するにはまず、彼が価値があると思うような代物を贈る必要があるだろう。
貰ったものに価値を感じなければ、お返しをしたいという気持ちにさせることは難しい。
……だからこそ、自分の望む反応の為にもプレゼント選びというのはセンスを問われるんですの……。
ここは、手堅く稀少性の高い食べ物や宝石にしておくべきか……将又、彼の好みに合わせてわたくしがどれほどヴァレントに想いを抱いているかを示すか……。
オフェーリアは難しい顔をして必死に悩んだ。
その様子にオフェーリアの侍女たちは、彼女がやっと本調子にもどったと少し微笑ましく思いながらもニコニコしながら支えたのだった。
「これは……煙草だな」
「はいっ、煙草ですの」
「それにしてもまたどうしてこれを、俺に?」
彼は首をかしげてそう問いかけてくる。前回のお見合いの時同様に今日も彼の邸宅にお邪魔し、今回はガゼボでお茶をしていた。
ああして突然告白したオフェーリアに、ヴァレントは特に拒絶することはなく、こうして次の面会の機会を得られた。
しかし、今こうして婚活をしていて、良い雰囲気になっている女はオフェーリアだけではないだろう、ならばとオフェーリアは考えた。
彼のことを誰よりも好きだと思ってもらえるような踏み込んだ贈り物にしてほかの女性に差をつけるべきだ。
そこで考えたのが煙草だ。
前回会った時に、随分と大人な人だと思ったのは、香水の香りに混じって少々、煙草の匂いがしたからだ。
それに上級貴族たちはこういう嗜好品を好んでたしなんでいるものだ。
贈り物としても一般的であるが、成人男性にお菓子なんかを渡すよりはずっと彼のことを考えていることが伝わる贈り物のはずだろう。
「前回、お会いした時に、微かに煙草の香りがしたので、ヴァレント様やその近しい方にお好きな方がいらしゃるのかと思ったのですわ」
もちろん本人が吸わない場合でも問題はない。
お見合いの前にあっている人間など、家族以外にいるはずがない、彼の両親に気に入られたらおのずと彼も気を許してくれるはずだ。
「その方に渡していただいてもよろしいですし、何よりこの煙草はもっとも栽培に適していると言われている南方の地で作られ、特殊な技法で巻かれている一級品です。市場には出回らず、一部の貴族しか買うことができない優れモノですからぜひ一度試していただきたいのです」
……まぁ、そんな代物をすぐに持参できたのは父の愛用品だからなのですけれど。
そんなことは口にせずにあたかも今日の為に頑張って手に入れたというような顔をする。
もちろんこんなものぐらい余裕で手に入れられることができるのだと示して、オフェーリアを手に入れたいと望んでくれるのならそれでいいが、そう簡単なアピールだけでうまくはいかないだろう。
なににせよ、彼がどういう反応をするかによって、方向性を変えようとその反応を違和感がない程度に見つめる。
すると彼は、一つ手に取ってそれから、しばらく見つめた後に少し気まずそうにこちらを見た。
……あれ、何か間違えたんでしょうか。
「……実はあの時、急用があって一度、騎士団の詰め所の方へと行っていたんだ。その時に匂いがついたんだろう、俺は基本的に煙草は吸わない」
言いつつ、箱に戻してどうしたものかと視線を彷徨わせる。
ヴァレントのその様子を見ると、家族にもそういう人間がいないのだと推察できる。
その予想外の事実に、オフェーリアは一瞬固まって、背後にピシャンと雷が落ちたような衝撃を受けていた。
計画を立てて実践することが好きなオフェーリアだが、実のところ予想外のことにはあまり強くないという弱点があった。
可能性も考えていないようなことに直面すると、焦りが体を駆け巡って渡したそれを引っ込めようかと考えた。
「ただ、そうだな。これを吸い終わるまでは喫煙者になってみてもいいかもしれない。高級品なら無駄に雑味もなくて吸いやすいんだろう、火をつけてみても?」
「……はい、構いませんわ」
贈答用にシガーカッターとマッチも入っているのですぐにでも吸い始めることができる。
彼はあまり慣れていない様子だったが、仕事仲間が吸っていると言っていただけあって、適当にカットして火のついた煙草に口をつける。
少し加えて、考えるように煙の味を確認している様子は、あまりスマートとはいいがたい。
しかし、ふっと短く吐いた煙草の煙がふわっと揺れて、空気に溶けていく。
……むせたりしないんですのね。
非喫煙者だというのに、なんだかすぐになじんだ様子で吸い込む様を見ていると大人だなぁと尊敬してしまうような妙な気持ちになった。
「割とうまい、少し煙いが悪くないな。それにしても君はよく、そんな些細なことを覚えていたな。煙草の匂いがする人間なんて珍しくないだろう」
軽く話題を振られて、オフェーリアは用意していたセリフをなんとなく見惚れながら言う。
「……ヴァレント様に恋に落ちてしまったのですわそれはもう、深く。だから香りを覚えるなんて当たり前のことですのよ」
「それは……」
オフェーリアがそう口にすると彼は、言い淀んで、それから自らの手で覆うように持っている煙草をくわえてそれからため息のように吐き出す。
彼がオフェーリアの恋心を疑っているのは紛れもない事実だろう。
一瞬煙が滞留して、それから彼はオフェーリアの真意を見透かそうとしているように鋭い視線をこちらに向ける。
その様子に心の奥の方がむずっとして、急にわがままを言いたくなった。
「……ヴァレント様」
「なんだ?」
「こうして持ってきましたけれど、わたくし煙草の味を知らないのですわ」
「……」
「一口、欲しいんですの。内緒で」
「内緒って、誰に」
「大人に」
「俺も大人だが」
「ではダメと言いますか」
「…………」
思ったままに口にすると、彼はどうやら困っている様子で、口をへの字に曲げてオフェーリアと煙草を交互に見つめて、いろいろとわずらわしいことを考えている様子だった。
それを見て、また一つ彼を知ることができたと思う。
きっと彼はまじめだ、そしてその真面目さと同じぐらい、そこそこ優しい人なのだろう。
「そういう言い方をするということはこれでいいのか? 俺が口をつけてしまったが」
ある程度の時間悩んでから適当に折り合いをつけたらしく、自分の持っている煙草の持ち手をこちらに向けて、伺うように首を傾げた。
真面目で優しくて大人だ。
折り合いがつかなくて、困り果てるのではなく、最終的に適当なところで曖昧にして、説教もせず、深く訳も聞かずにオフェーリアの要望に応える。
「はい」
オフェーリアは向けられた煙草ではなくヴァレントの太い手首をそっと掴んでそれから口をつけて、煙草の煙を口に含む。
煙草の先で火が明るくなってジワリと燃える。口に広がる苦みと煙草独特の風味。
……あまりおいしいものではありませんわね。
「ふふっ、ありがとうございます。同じ味を共有できてうれしいですわ、ヴァレント様」
「……君は、誰に対してもそうなのか」
「いいえ、あなたにだけですの」
彼は困ったようにそう言って、物調面のまま、もう一度煙草の煙を口に含んでそれからまたため息のように吐き出した。
そんなこんなで始まった作戦はすんなりと進行していき、取り立てて方針変更などなくすすめられた。
アレから何度かヴァレントと交流をしたオフェーリアは、あまり気負わずに彼と会うことができるようになっていた。ちなみに○○作戦と銘打つのは失敗したときにはずかしいので止めることにした。
庭園を散歩したり、部屋で長話をしたりしたので基礎となる関係はすでに構築できていると言っていいだろう。
そしてオフェーリアの有用性については存分に示すことができた……と思われる。残すところはというと、後は確実なつながりだろう。
つまりは性行為である。
もちろんそれが本懐ではない人間もこの世の中に入るし、それをしてしまえば情報の引き出しが難しくなる男もいる。
しかし、それは今までの彼を見ていればわかる通り、真面目できちんとしているヴァレントは責任と称して懐に入れてくれるだろう。
そうなればもう手中に収めたといっても過言ではない。ヴァレントはオフェーリアのことを警戒はしつつも好意的に見てくれている。
……ここらで決定打を打ちましょう!
そう決意をしてオフェーリアは飛び切り可愛らしいドレスを着て、いつもよりも入念に準備をしてから彼の邸宅へと向かった。
ここまでの準備は抜かりなく、ここ最近は大人向けの恋愛小説で山ほどイメージトレーニングをしたのだ、ヴァレントを落すための準備は整った。
オフェーリアは勝ち戦に挑むようなつもりでヴァレントの部屋へと入った。
彼は机に向かっていて、顔をあげてオフェーリアに少しだけ笑みを向けた。
「来たか、すまないな。よそで時間を取ることが出来なくて」
「いいえ、構いませんわ。わたくしが無理を言ってあなたに会いたいと望んでいるだけですから」
「……ありがとう。もう少しで終わるからソファーで待っていてくれ」
そう言って机に視線を戻す。
ヴァレントは両親が元気なうちは騎士としての仕事についていたが、もともと跡取りとして戻ってきて家を継ぐことが決まっていた。
だからこそ後継者教育はきちんとされている、しかし外で仕事に従事していた時間分だけ、経験値が足りていない。
そういう家の方針らしいが、だからこそ今こうして、跡継ぎとして覚えることが多くある。
なので必然的に婚活に割く時間は少ない。
どうやらオフェーリア以外に良い仲の女性も作っていない様子だというのは最近知ったことである。
「はい、本を読んでいるので急がなくても大丈夫ですわ。きちんと待っていますから」
そこに付け込んで、仕事の合間にでもお茶をしようと彼の部屋に上がり込めたのは大きい。
オフェーリアの言葉にお礼を言ってヴァレントは仕事に戻る。
こうして、オフェーリアが部屋に来ることに慣れてもらって、ともにいて居心地がいいと思ってもらうことも大切な要素だ。
しかし暇な時間を過ごすのはオフェーリアは苦手なので、持参していた本を開いて、侍女が出してくれた紅茶を飲みながら彼のことを待った。
しばらくするとふと本に自分以外の影が落ちて、ふと上を見上げる。
するとそこには後ろから本を覗き込んでいるヴァレントの姿があった。
「ああ、悪い。随分と集中している様子だったから、声をかけあぐねていた」
真下から見上げると彼は壁のように感じられるほど大きくて、ハッとこれはチャンスかと思い至る。
オフェーリアは本を膝の上に置いたまま見上げて笑みを浮かべる。
「いいえ、何ならこうして肩に手を置いて、甘く囁いてくれてもよかったのですわ」
そう言って背後の彼の手を取って自分の肩に導く。
耳に髪をかけて笑みを深める。
「自分というものがありながら、ほかの物に集中しているなんて面白くないと」
「……面白くないといった場合、君はどうするんだ」
「それはもう、ヴァレント様だけを視界に入れて、もう目をそらさないと言いますわよ」
そうして見つめ合って最終的には、キスをする。そうしたらきっとその気になるだろう。
そういう様子で小説では事に持ち込んでいた。
オフェーリアはあらゆるシチュエーションで男性を煽るために、準備は万全なのだ。
今となってはどういう状況でも、彼を煽ることが出来ると自負している。
「むしろ、逸らさせないでくださいませ。ヴァレント様」
そう口にして手を肩から頬にもっていく、彼の手は自分の手と違って大きくて角ばっている。
しかし頬に振れた手は、なんだか肌ざわりがよく感じられて心地が良い。
「柔い頬だな」
「ふふっ、そうでしょう。こんなふうにしたのはあなたにだけですわ」
「……オフェーリア、そうだとしても簡単に触らせるものではない。世の中には妙な勘違いをする男が沢山いるんだから」
オフェーリアは彼を煽ったが、彼は何故だか説教をするみたいにそう言ってオフェーリアから手を放す。
……勘違い、ではないんですけれど。
その手を惜しく思いながらも、オフェーリアは離れていく彼を少し恨めしく思う。
どうやらその意図は伝わっているように見える。
しかし、オフェーリアが望んでいるような態度をしても、手を出してくることはなく、少々もどかしい。
机を挟んで反対側の椅子に座り、いつもの距離に戻ってしまうと、あおりを入れる隙もなくなってしまう。
……今のは惜しかったですわ、次こそは、ものにして見せますもの。
そう考えて今日も今日とて彼との会話を楽しんだ。
気を張っていなくても彼は、初めて会った時よりも気さくになっていて、話の内容には困らない。
ユニークで楽しませるような会話をしてくれるわけではないけれど、それでも素で好ましく思っているのは事実だった。
とある日、城下町を散策しながらオフェーリアたちは天気のいい昼下がりの時間を過ごしていた。
買い物は自分たちの屋敷にやってくる商人たちからするとしても、こうして身分を少しの間忘れて気ままに歩き回ることは気晴らしになる。
「……姫殿下のスキャンダルで、隣国との関係に貴族たちが参っていても平民たちは変わらず、日常を過ごしているんですのね」
「そうだな。あの子が何をしようとそれをきっかけに戦争になるわけでもない、結局損害はレピード公爵家が補填することができたし、王都は特に変わらずだな」
「そう思うと少し安心しますわ。わたくしが受けた損害も、領地を傾かせるほどではありませんでしたもの。だからこそ同じようにギルランダの領民たちも王都の民と同じように日常をおくれていると思えますもの」
「君は良く領地のことを考えているんだな、素直に尊敬する」
「それほどではありませんわ」
軽く会話をしながらも、王都の行きかう人々を眺めていく。
大体の人間は表情も明るく、これから向かうどこかへ心を躍らせている様子だ。
きっと生活は充実しているのだろう。この国は他国よりも資源が豊かだ、多少の王族の不手際があったとしても、多くの場合は水に流される。
……それにしても、人々が生き生きとしているのはいいことですけれど人が多いですわね。……ということは……。
オフェーリアはすぐにピンと来て、ヴァレントのそばによって、その手に少し触れてそれから、きゅっと手を握ってみる。
「少し人が多いですから、はぐれないようにこうしていても構いませんか?」
「構わないかというか……もう繋いでしまっているだろう」
「ええ、振りほどかないでくださるとうれしいですわ」
「……なんだか俺は、いつも君のペースに持ち込まれてばかりな気がする」
「気のせいですわ。それに」
少しその場で立ち止まって彼の手を引く、それから背伸びをして口元に手を当てた。
するとヴァレントは素直に、口元に耳を寄せてくれる。
「ヴァレント様が積極的になって下されば、わたくしは受け身になってすべてを受け入れる覚悟がありますのに」
そういうと彼はぱっとこちらを見て、驚いたような表情を浮かべる。
その間に手をつなぎ直して恋人のように指を絡めた。
「ふふふっ、冗談じゃありませんわよ」
「そこは、冗談だと言っておくべきところだろ」
「だって本当のことですもの」
余裕たっぷりにそういうと、彼は少し怒ったような様子で、手を引いて歩き出す。
結局、手を振りほどかれることはなかったが、その日のアプローチも意味をなさずに終わったのだった。
別の日のこと、いよいよオフェーリアはしびれを切らして、ヴァレントが仕事を終えてくるりと椅子を回転させたときに、そばによってその腿に手を置いて彼が立ち上がらないように制した。
「……オフェーリア?」
疑問を持って名前を呼ぶ彼に向かって、そのままキスをしてしまおうと、顔を近づける。
「っ」
しかし、とっさの判断でヴァレントはオフェーリアの口元をふさぐように手のひらを当ててその行動を止める。
「…………なにするんですの」
「君こそ、何してる」
口に手を当てられていて少し声がこもっている。
「口づけですわ。構わないでしょう、仕事も終えた様子ですし」
「そういう問題じゃない」
「じゃあなんの問題があるって言うんですの、いいではありませんかそのぐらい」
「……はぁ、何故君がそのぐらいなんて言うんだ」
「だってそのぐらいなんですもの」
それ以上のことをヴァレントとはするつもりでここにいる。
こうして何度も何度も、アプローチをかけて、煽って、愛嬌を振りまいて、望んでいると示して、こんなにもそばにいる。
それに彼に抱かれたという事実をもってして、本当の意味での関係を結べたと言えるだろう。
そして情報を話してもらったらオフェーリアはもっとうまくやる。彼に損は一つだってない。
「キスぐらいなんですの。結婚をしていない姫が見事に解任するようなことがあるぐらいですもの、わたくしたちの関係はそれに比べたらよっぽど健全ですわ」
「それと比べるな。それに、たしかに両親が公認しているとはいえ、君は……」
「なんですのはっきりしませんわね」
たしかに彼からすればこんなにオフェーリアが積極的な意味が分からないかもしれない。
しかしオフェーリアの頭の中ではすでに完璧な計画が出来上がっていてなんの綻びも見当たらない。誰も損をしない、するといえばベアトリーチェぐらいだろう。
それを彼もわかっているはずだ、害する気などないのだ。
だって、愛しているという言葉に偽りもないし、そういうことをしたいという気持ちにも嘘偽りがない。そのぐらいはわかるだろう。
ならば性行為をしたのち、どんなことを目的にしていようとも関係のないことだ。
彼にとって利がある、オフェーリアにも利がある。それだけだ。
……それなのにヴァレントと来たら、いつもいつも、いつもっ。
オフェーリアはここまで、煽っているというのに何もしてこない彼にいい加減腹が立って、少し頬を膨らませて、口元を覆っている手をどける。
「何がいけないんですの、こんなにもあなたを愛して共にいたいと望んでいる人間がいるのに、どうして拒絶するんですの」
「拒絶しているわけじゃない」
「ならもっと積極的になればいいんですの? これ以上? もっと扇情的に? みだらな言葉を口にして?」
困り果てたように言う彼に、オフェーリアは苛立った気持ちをそのままに、彼の体に上半身を預けるように倒れこんだ。
彼の腿の上に乗り上げて逞しい胸板に頬を預ける。
「ああ、こんなに愛しているというのに、いけずですわ。わたくしは魅力的ではありませんの? こんなに猫のように甘えたのなんてあなたが初めてですのに」
「……」
「もどかしいですわ、いくら一緒に居ても、心は繋がっていない。そんな気がしますの。寂しい、満たしてくださいませんの?」
小説で読んだ言葉をそのままオフェーリアは言った。その言葉に若干の気持ちがこもっていたことは内緒だけれど、それよりも彼の膝の上は思ったよりも心地が良い。
体が大きいからだろうかすっぽり覆い隠されてしまうようで、本当に子猫になったような気分だ。
「それとも、ああ……もしかしてあなたは意気地なしなのかしら、ヴァレント。純真な女に手を出す度胸のない優柔不断な人なの?」
練習していた言葉を惰性で続けて言った。
すると彼は、椅子の肘掛けに置いた手をぐっと握って、それにオフェーリアは一瞬言い過ぎたかと考える。
しかし、すぐにふっと力が抜かれて彼は、困り果てたような声で「もう、何とでも言ってくれ」とがっくりとして言ったのだった。
それにどこまで行っても優しい人だなと思いながら、オフェーリアは子猫のように甘えながら、煽ったり誘ったりして、時間を無為に過ごしたのだった。
そしてまた別の日のこと、オフェーリアはついに限界を超えてしまって、ソファーの上でヴァレントの上に乗りながら腕を組んでとても不機嫌な声で言った。
「ああもう、いいですわ。どうあってもあなたはわたくしに手を出すつもりはない、そういうことですの!」
「だから、そういうふうに決めているわけじゃない」
「でもそうしないんですの。いいですわ、わかりましたわ。もういいですのよ」
そんなふうに言っていても、オフェーリアはもう期待しないからきっぱり彼とは縁を切って接触もなくすというわけでもない。
ただヴァレントの上に乗ったまま、いつもの調子の彼に怒るのも面倒になってその体に上半身をあずけて倒れこんだ。
「なんだ、急に怒りだして」
「だって、わたくしの望むようにしてくださらないんですもの、もういいですわ」
彼の上にこうしているのはもはやオフェーリアの定位置だ。丁度良くて人肌を感じられて安心できて心地が良い。
そしてそのままオフェーリアは、計画の話をし始めた。
「……ただわたくしは、あなたの持つであろうベアトリーチェ姫殿下の情報が欲しかったんですのよ」
ヴァレントのことを見ずにオフェーリアはもうどうにでもなれとばかりにそっぽ向いて続きを言う。
「だって、あの人にわたくし、とんでもない損をさせられたんですもの。それで賠償の話を持ち出したら、わたくしに乱暴をしたんですの。酷いでしょう」
オフェーリアは生まれて初めてあんなふうに物理的に痛い目に遭わされたのだ。
精神的に痛い目にあわされたことも怒っているが、なによりああいう態度を取られて、それで泣き寝入りするしかなかったことが腹立たしい。
「だから、ヴァレントに取り入って、あの人のさらなるスキャンダルを探して仕返しをしようと思っていた……のに……あなたと来たら、わたくしのことを一向に抱きもしないし、いっつも煮え切らない態度!」
ヴァレントはすぐ隣にいるけれど、オフェーリアは友人に愚痴を言うようなつもりでぷりぷりと怒って続けて言う。
「何が不満だっていうのかしら。わたくしの体を代償にしてあなたから情報を引き出すつもりだったのに、台無しですの」
「……」
「情報をもらったからと言ってヴァレントの立場を悪くするようなことは絶対にしませんわ。うまくやりますもの」
「……それは、いいのか君はそんなふうに体を差し出して。もっとあるだろう女性には。心から愛した人に自分の純潔をささげたいという気持ちが」
ペラペラとオフェーリアが話しているとヴァレントはたまらず口を出し、苦々しいような声で言った。
それにオフェーリアはふんっと鼻を鳴らして彼をにらみつけるように見上げた。
「あら、そんなの幻想ですわ。愛や情なんてものはね、たくさんの打算や、利害関係によって構築される幻のようなものですわ」
「あんなに愛をささやいていた君がそれを言うのか」
「ええ、言いますわよ。だって、ああいうのって決まり文句みたいなものでしょう。それに、嘘は言っていませんもの。愛は持っていますわ人並みに」
現実主義的で、打算的で純真無垢ではない、それがオフェーリアでありその愛情もまた、そういうものの上に存在している結果でしかない。
それにほんの少しばかり、情緒的にヴァレントのことを気に入っているという節もある。
彼の膝の上は心地いい、このまま猫のようににゃあにゃあと言って暮らしたい気持ちもあるぐらいだった。
「ああでも、あなたは意気地なしの朴念仁だからわたくしを自分のものにすることはないんでしたわね、失敬。でもいいんですの。こういう関係でも、これではあなたとお近づきになった目的と手段があべこべになってしまうけれど」
目的は情報、手段は彼と良い仲になること。だった。
しかし、良い仲になったことがオフェーリアにとってそこそこの良い目的になりえる物だった。
けれども、大元の計画と目的をオフェーリアは忘れることはできない。
だからこそ頭の中でまた算段を組み立てる。
「……ただそうはいっても、わたくしはまだ誰の物にもなっていませんし、あなたとの関係を切って、ほかのベアトリーチェの騎士だった人に当たってみましょうか。それで情報が手に入るなら御の字、そうでなくても、諦めがつくまでやりましょう」
別にオフェーリアが誰のものになろうとも彼はどうでもいいのだろう。彼自身手を出してこないのだし。だからこその結論だった。
「そういうわけですから、ヴァレント。わたくしはしばらくあなたと会えません。それは別に嫌いになったとかそういうわけではありませんわ。ただ、目的を果たさなければ…………」
喋りながら考えているとうまく結論が出て早速、立ち上がって情報収集に向かおうと考えたのだった
彼の胸板を押して上半身を起こしたが、ふと腰に手が回っているのが見えて、これではどこにも行けないではないかと疑問符を浮かべてヴァレントに視線を向けた。
彼はとても苛立った様子で目を細めて、しばらく黙った後、たっぷりの間を置いてからオフェーリアの後頭部へと手を持ってきて、グイッと引き寄せる。
「っん」
驚いて身を引こうと考えたが、思いのほか力が強い。
唇同士が触れ合って、今まで一度もしたことがなかったキスをする。
「っう、ん」
それだけではなく唇を割って、彼の舌が口の中に侵入してくる。
さして体温は変わらないはずなのに彼の舌が熱く、唾液でぬるりとしていて、舌で舌をなぞられる感覚は今まで一度も感じたことがない感触だ。
驚きから吐息が漏れて、息を吸いたいと思うのに口を真っ向からふさがれていてうまく出来ない。
口を離そうと胸元をグイッと押すと、後頭部を抑えている手とは反対側の手で突っ張っている手をどかされてさらに深く口づけられる。
目の前に広がっている光景は、キスをしているのに怒っているように鋭く見つめるその瞳で、オフェーリアは怖くもないのに心臓が酷く音を立ててぶるりと震えた。
それから一頻り、オフェーリアの口の中を舌でまさぐって、長い口づけを交わした後に、やっと離れていく。
すぐにこんなことを唐突にした文句を言いたかったが、口を離されるとやっと呼吸をすることができて、肩で息をして目じりに浮かんだ涙を指の腹で拭った。
「……なぁ、オフェーリア」
その間に彼は、低く丁寧にオフェーリアのことを呼ぶ。
それにまだ返事は出来ずに視線だけで返す、彼はオフェーリアがきちんと聞いていることを理解して続きを言った。
「俺がずっと君を抱かなかったのは、君がずっと隠しごとをしていたからだ」
......隠しごと、ですの……?
たしかに警戒されているとは思ってましたわ。でもそんなの些末なことじゃない。
「君はたしかに魅力的だったが、あんなふうに媚びられて、俺はてっきり誰かに脅されてるんじゃないかなんて思ってたぞ」
「っ、はぁ、別に、そうだとしても、そうじゃなかったとしてもあなたにとっては変わりませんわ。ただ、望んでいる女がそこにいるだけでしょう」
だから抱かなかったなんていうのは、合理的ではない。脅されていようとも打算があろうとも、事実利益になるのなら何でもいいだろう。
しかし、オフェーリアの言葉に彼はまた苛立った様子で、睨みつけるような視線のまま言った。
「違う。明確に、違う」
「ああ、倫理的な話をしているんですか? 倫理的に良くないことならばたしかに━━━━」
「そういう話じゃない。君が、心の底から望んでそうしているのか、否か、そういう話だ」
「??」
「普通に好意的に思われて愛情を覚えて、俺とそうなりたいというのなら俺もそうだと口にする。しかし、君の様子はあからさまにそれ以外の目論見があることを隠していなかっただろ」
「事実そうですもの」
「それで? 俺がそのことを鑑みず、誘惑すれば乗ってくる人間だと思ったわけか」
彼は怒り心頭といった具合で、オフェーリアの両頬を片手でつかむようにして自分の方を向かせる。
優しくて朴念仁で、真面目だった森のくまさんのような彼はなりを潜めて少々強引だ。
いつもだったらオフェーリアだって食ってかかるのだが、なんだかこんなふうに言われるとオフェーリアが悪かったような気もしてきて少しだけバツが悪い。
……でもわたくし間違っていませんわ。
そう思う気持ちもあって、オフェーリアは拗ねたような態度で小さく頷いた。
するとヴァレントはわざとらしくため息をついて、それから言った。
「見くびらないでくれ。そんなに冷徹な、欲に負けた大人じゃない。一生の相手を探しているのに、訳ありなことを知りながら、君が誘ったからと言って自分の欲望をぶつけていいとは考えない」
別にソレの何が間違っているのだろうと思う。
けれどそう言ったら、まるでオフェーリアが冷徹で欲に負けることが当たり前だと思っている非道な人間みたいになってしまうと思って口を閉ざした。
「君はもう少し、人の情緒を慮るべきだ。いいな?」
「………………」
「了承できないか?」
確認するように言われて、オフェーリアは首をぶんぶんとたてに振りたかった。
しかし、ヴァレントがとても真剣に言っていることは理解できる。
それにベアトリーチェに言われた言葉が脳裏でひらめいて、たしかにオフェーリアにはそういう情緒的に足りない部分があるかもしれないと思う。
「善処しますわ」
だからこそ、少ししょんぼりして出来るだけ小さな声で言った。
すると彼は、苦笑してそれからぱっと手を放し、よしよしと頭をなでる。
それがものすごく不服でオフェーリアは眉間にしわを寄せて彼のことを睨みつけた。
けれどもオフェーリアの気持ちなど彼にとっては些細なことのようで珍しく笑みを見せて言う。
「君は偉いな。言うことを聞けて」
「子供みたいに褒めないでくださいませ」
「……そうだったな。悪い、子ども扱いはしない方がいいな、どうせこれから大人同士の関係になるんだから」
「どういう意味ですの?」
彼はとても平然とそんなことを言って、いまだに膝の上にいるオフェーリアを縦抱きにして立ち上がる。
急に体を軽々と持ち上げられてオフェーリアは意味が分からずに、間抜けな顔をして聞いた。
「そのままの意味だが? だって君は、俺がこうしなければよそへ行くんだろう。それで俺の時と同じようにして、今度は手酷く扱われるかもしれない」
「いいえ、情報さえくれればこのままの関係でも構いませんわ」
彼が歩くたびに体が揺れて、気が付くとベッドの淵におろされる。
そこに座って、手をつくとさらりとしたシーツの感触がする。
まるで彼が、私を引き留めるために仕方なくそういうことをするように言っているように聞こえたので、オフェーリアはただ事実を返した。
そうなると彼にとって利益がいないが、それはほかのもので補填することだってできる。
「わたくしの計画に必要なのは、あの人のスキャンダルだけですもの、そこに性行為は含まれてませんわ」
「だとしても」
オフェーリアは教えてやるような気持ちでそう口にしたが、肩口を押されて、うまく抗えない。
「散々あんなふうに煽られて、意気地なしだの朴念仁だの言われて、そのまま引き下がるわけがない、そう君は思わないか?」
「…………」
「君が君の為に自ら望んでああしていたことは十二分にわかった。だからこそもう俺は、君に手出しをしない理由はないだろ」
押されてそのままゆっくりと背後のベッドに倒れこむ。
ヴァレントは膝をベッドに乗り上げて、獲物を見つめる様な瞳でオフェーリアのことを見下ろしている。
「安心しろ。君を自分のものにしたらきちんと君に報いてやる。それに君の考え方からすればこれは、君の目的が報われるだけだ、事実として俺が君に手を出すという状況があるだけ」
「……間違っていませんわ」
「なら、受け入れてくれるんだろう、オフェーリア」
胸の中心に手を置かれて起き上がることができない。
さして力を入れられているわけでもないのに抗えない。それに彼が言った通り、これは最初の計画通りに事が進んでいるだけで何も間違ってなどいない。
オフェーリアが望んだ通りのシナリオだ。
なにも問題はないはず。
何度も望んだ結末のはず。
しかしいざそうなると、うまく声が出てこなくて彼を必死で見つめるだけだ。
なんだかとても心細いような、開けてはいけない扉を開けてしまったような心地になって、ごくっと息をのんで何か口走ろうとした。
「まぁ、今更、何を言おうと、もう手遅れだがな」
けれども彼はそう言って、おもむろに唇を重ねる。先ほどのような深いキスに思考を奪われて、もう二度と今までの無垢な自分に戻ることはかなわないのだった。
結局ヴァレントとは体の関係を結び、それから正式に婚約し、彼はオフェーリアの要望を吞んでくれた。
というかどうやら元々、ベアトリーチェを野放しにはできないと考えていたらしくすぐに情報を得られた。ベアトリーチェの悪行は明るみになっている物以外もたくさんある。
そしてそれを告発するために、ヴァレントは実家に戻ったらしかった。
しかしその大切な情報をまるっとオフェーリアにくれたのだから彼はとても気前がいい、今後とも、良い協力関係を築いていきたいと思う。
……まぁ、それに一度結んでしまったからにはもう後戻りはできませんし。
進んでしまった関係は戻らない、オフェーリアはまごうことなく大人になったが、それが良いことかと言われると少々難しい。
しかし、悪いことではなかったことも、これまた不服だが自分の中での確固たる事実だ。
「今日は一段と美しい装いだな。オフェーリア」
きれいなドレスを着て迎えに来た彼の元へと顔を出すと、当たり前のような顔をしてそう褒めてくれる。
その瞳の中には間違いなく熱く燃え上がるような愛情があることをオフェーリアは知っている。
手を引かれて馬車に乗った。
「あなたも、正装がよくお似合いですわ、ヴァレント」
「ありがとう」
手が触れている部分からジワリと熱くなるようで、息苦しいような、恥ずかしいような難しい気持ちになる。
こういうふうに思うようになったことは面倒くさく、非常に厄介だ。
しかし、これを知らずにいたらオフェーリアは今までのようにずっと人の感情を少し軽んじたままだっただろうと思う。
だからわかって嬉しいのだが、振り回されているようで腹が立つ。
「なんだか今日はやけに機嫌が悪そうだな。何かあったか?」
「いいえ、何もありませんのよ。ただ…………なんでもありませんわ」
いつもの通りにはっきりとものを言おうとする。しかし彼に振り回されていることを認めるのは腹立たしい、そんな気持ちがせめぎ合って、言い淀む。
こんなことなど今まではなかったのに、とヴァレントが恨めしくなった。
恨めしいのに、キスがしたい。その薄い唇に触れると心地がいいことを知っている。
その自分の思考にこれまた腹が立って、プイッとそっぽを向いた。
それから人生とは難しく、いろいろなことがあるのだなと思う。
初めてした挫折も、初めて知った感情も、知らなかった自分はもっと強気だった、けれど知ったうえでも理解してより良い関係を多くの人と作っていきたい。
そう思えることが一歩前進したということなのだろうかと難しく考えた。
が、しかしともかく今回のことは仕返しがきちんとできるこれで良しとしようと思う。
二人して馬車に乗ってどこに向かったかというと、それは王城だった。
そこには、降嫁に際して、側近を外されたカテーナという侍女が働いており、彼女はオフェーリアたちを自分の部屋へと案内した。
それから重苦しく言ったのだった。
「オフェーリア様、あなた様は覚えていらっしゃらないと思いますが、あの時はきちんとお止めすることができず大変申し訳ありませんでした」
「……ああ、なるほど、気にしていませんわ」
彼女は、オフェーリアが婚約破棄を切り出された時にいた侍女だろう。
カテーナはまず頭を下げて、それから自分の引き出しからひもでくくられているたくさんの手紙を出す。
「ありがとうございます。……あの方の行いは、この国の秩序を乱す行為です。あなた様のようにたくさんの方が、苦しんでいます。どうか、彼らの思いを無下にしない形で利用していただけたらと思います」
手紙の束はすべて恋文のようだった。事前にヴァレントから聞いていた通りのことをベアトリーチェはしていたらしい。
「わかりました、必ずそのようにします。それにしても随分と数があるのですわね」
「はい、私はずっと、こうするべきか決めあぐねていました。けれど、ヴァレント様からの紹介であなた様が動いていると知ってあなた様ならば、あの方の罪を裁いてしかるべきだと思ったのです」
「そうですか。ありがとうございますわ、カテーナ。きっと爽快な復讐劇にすると誓います」
オフェーリアは気丈にそう言って、笑みを浮かべる。
オフェーリアの頭の中にはすでに完璧な計画が構想されているのだった。
ベアトリーチェは妊娠安定期に入り、順風満帆な生活を送っていた。
レピード公爵家に自らの与えた損害を賠償させて、さらにこの温室のような国でずっと贅沢な生活をする、それはベアトリーチェの念願だった。
だからこそそれが叶ってすべてがうまくいっていることに毎日、目が覚めるたびににやけてしまうような日々だ。
しかしその日は違った。
忙しない侍女の声で起こされて、ベアトリーチェの目覚めは最悪だった。
「ベアトリーチェ様! すぐにお召し替えを、大変なことになっていますっ」
慌てた様子の侍女が疎ましく、腹が立って耳をふさぐ。
せっかく口うるさいことを言ってくる侍女のカテーナを王城に置いてくることができたというのに、これでは彼女がいた時と何ら変わりがないではないか。
「うるさいわね……もう少し寝かせなさいよ、お腹の中の子まで驚いているでしょ」
「起きてくださいませ! ベアトリーチェ様、本当に緊急なんです」
隣にいた侍女までもがそう声をあげて、面倒くさくなって顔をあげて起き上がる。
するとそこには、レピード公爵家の面々がそろってベアトリーチェに厳しい視線を向けていた。
「……え? ……どういうこと、こんな女性の部屋に……朝から……」
起き抜けのぼんやりする頭を押さえて、髪を後ろに流しながらも、睨みつけるようにしてこちらを見ているジラルドへと視線を向けた。
彼の手には、ぐしゃぐしゃになった手紙が握られていた。
「……どういうことなんだ、ベアトリーチェ……君は私だけを愛していたわけではなかったのか?」
「汚らわしい」
「本当ですわ」
重苦しくそういったジラルドとは別に、レピード公爵夫人とその妹が吐き捨てるようにそう言った。
その様子に驚いてベアトリーチェは、心の中の混乱を表に出すようにして、彼に言った。
「な、何のことだか、わからない。その言葉に偽りはないわ、どうして突然こんなことを? 教えて!? ジラルドッ」
きちんと悲痛そうな声が出て、ベッドの上から降りて彼に詰め寄る。
しかし、こんなに混乱している様子のベアトリーチェを見ても誰も同情的な視線を向けてはくれない。
妊娠しているのだからとなんでも許してくれた優しいレピード公爵家の人達の態度とは思えないほどだ。
……ま、まさかね。まさか、あり得ない、でもこんなにガンとした姿勢を今までに一度だって見たことがない……。
ベアトリーチェの脳裏では、自分の中ではなかったことにしていた、たくさんの行為があれだろうかこれだろうかとひらめいては消えていく。
次第に呼吸は震えてきて、それから彼はベアトリーチェに握っていた手紙を差し出す。
それを奪い取るようにしてベアトリーチェは手に取り、それから急いで中を開いた。
とても丁寧な文でつづられているのは、ベアトリーチェの腹の中にいるのは間違いなく自分の子供だと言うブルースという男爵家次男の男の文章だった。
……ブ、ブルースッ、ああもう本当にどうしようもない男、抱かせてあげて貢がせてあげて、楽しませてあげたのに、本当に図々しい!!!
「こんな、こんなの知らないわ。私、本当よ、だって、そう、こんな手紙一枚でなんの証拠もない。私のことを貶めようとした人間の仕業だってことは明白でしょう!?」
心の中では、ほんの少しばかり遊んだあの男の顔が思い浮かんで、頭の中だけで滅多打ちにして叩きのめす。
そしてこの騒動を終えたら、彼と彼の実家ごとひどい目に遭わせてやるのだと意気込んだ。
「きっと私のファンだったのだわ。私は王家で手の届かない存在だからこそこうしてあなたと結ばれたことが不服だったのよ。だからこんなものを……」
それから、もしこういうふうになったら言おうと思っていたセリフを口にする。
こう言えば、ベアトリーチェのことを信じざるを得ないだろう。
だからこそ心の中ではほくそ笑んで、泣いているように見せるために、顔を俯かせて、すすり泣くような声を出す。
しかし、しばらくそうしていても誰もベアトリーチェを気遣う者は現れず、仕方がないので誰も声をかけてくれないならと、涙をぬぐったふりをしつつ視線をあげる。
彼らの目線は変わらないまま、そこでやっと想定している以上のことが起きたのだと理解できて、ベアトリーチェは無言のままジラルドに向き合った。
すると彼は、ぐっと歯を食いしばってそれから、吐き捨てるように言った。
「この、誰にでも股を開く雌犬め、おい、箱を出せ!」
彼は、普段の優しい雰囲気とは打って変わって汚い言葉でベアトリーチェを罵る。
それから彼の怒鳴り声に、驚いた侍女は、腕に抱えるほどの木箱を持って来る。
それを差し出すのを待ちきれず、ジラルドは、侍女の手から箱をとりひっくり返す。するとざあっと床に広がる。
それはたくさんの手紙の束で、封筒から出されたものもそうでないものもやまほどあり、ベアトリーチェは拾っていくつも確認してみると、どれもこれも見知った男の名前ばかりだ。
その誰もが、ベアトリーチェのこと細かに夜の情事を丁寧な文章でつづっている。
こんなにたくさん、それもこんなに詳細に書かれた手紙にベアトリーチェは何か異常な執念のようなものを感じて、ぞっとしてすぐに手放した。
たしかに、王都に住んでいる適当な男性貴族を相手にはしたが、彼らに面識はまったくなかったはずだ。
それなのにこんなふうに結託して、こんなことをしようとは考えても見なかった。
「その腹の中にいる子供も私の子供じゃないだろう! それに、この手紙、王都住まいの貴族の館に次から次に届いているらしい!! なにが一体どうなっているんだ。こんな、こんな女と私が結婚したなど、レピード公爵家の品格がっ」
「まさにその通りだ、さっさとこの女を追い出すべきだと言っただろう。ジラルド」
狂ったように頭をガシガシと掻き乱すジラルドに、レピード公爵がそう口にする。
ベアトリーチェは、急に瓦解した夢の生活に頭が追い付かない。
真っ白になってしまって、言い訳も思い浮かばない。
すべてはうまくいっているはずだった。
それなのになぜ? ベアトリーチェはただ好きなように生きて妊娠して、適当な人に養ってもらって悠々自適な生活を送ることが出来ればそれでよかったのに。
はたしてこれを指揮したのは誰で、誰に損害を被らせたからこんなことになったのだろう。
この手紙を送ってきたうちの誰かだろうか、それとも元従者の人間たち?
この状況では誰が怪しいかなどわからない。それに腹が立って、床を拳でたたいた。
「そんなことを簡単にして、この女が外でまた何かやったらどうするつもりですか父上!! これ以上の醜態をさらして、私が社交界であざけられるんですよ!!」
「それもこれもお前が、浮気な心で姫殿下と関係を結んだのが悪かったのだろう!! そもそもオフェーリアにしておけばこんなことには━━━━」
親子喧嘩を始める彼らの中から、オフェーリアの名前が出る。
その彼女こそ、過去にベアトリーチェが関係を持った貴族たちに話を聞いて、内容を合わせて手紙をばらまいた張本人だ。
まず、報復を怖がって何も主張できない貴族たちには、ほかにも被害者がいることなどを伝えて、協力を募る。
次に、浮気な関係を持っていたことがばれたくない人間にはいろいろな名前で手紙を複数枚書いてもらう。そうして公爵家に送る以外のものはその偽名の手紙を使い情報のかく乱を狙う。
その二点を主張したうえでカテーナからもらい受けた手紙を使って脅しをかけた。
そもそも彼女が被害者と言ったのは、浮気な関係を結んでいた男たちではなくその周りの何も知らない、もしくはオフェーリアのように損害を被った令嬢たちの事だ。
彼らを利用し、オフェーリアは手紙の作成を手伝い、匿名で手紙を届ける準備をし、面倒くさい仕事が山のようにあったけれど、強い執念があったからこそ成し遂げたことだった。
しかし当のベアトリーチェはその彼女の名前などとっくに忘れてしまっていて、彼女かもしれないという可能性すら見出せない。
ただ、呆然としてそれから我に返って猛烈に手紙を破り捨てる行動に出たのだがそれもまた意味がない。
結局のところ、彼女は詐欺の罪で捕らえられることになった。
生まれた子供はレピード公爵家の血筋ではない髪色と目の色をしていた。
なのでオフェーリアの助言によって、騙されて金銭をかすめ取られたとレピード公爵家は訴えを起こし、それに多方面からの訴えが重なって王族はベアトリーチェをかばいきれなくなったのだ。
そうして誰の子供かもわからない幼子とともに、ベアトリーチェは幽閉塔に閉じ込められて、今では昔の男に順繰りに手紙を書くだけの壊れた廃人となったのだった。
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