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第三章 言葉では伝わらない事、言葉じゃないと伝わらない事

 まだ身体が、あのステージで生じた熱を持っている気がする。

 秋口だというのに、私はうんと冷たいシャワーを頭から被った。

 目を瞑れば、またあの情景が脳裏に浮かぶ。

 手元には木製のスティックが、囲むように並べられたスネアやタムやシンバルが、横には立ち並ぶ観客が、目の前にはピアノを楽しそうに弾いている君が。

 音さえ聴こえくるようだ。それ程までに、あの数十分は私の中に深い爪痕を残していった。

 蛇口を締めて、浴室から出てタオルで身体を拭う。

 服を着るのさえ躊躇われて、親がまだ帰ってこないのを良いことに、私は首からタオルを下げただけの姿でリビングへと向かう。

 冷蔵庫からドクターペッパーを取り出し、プルタブを起こしたタイミングで、テーブルの上に置かれた私のスマートフォンの画面が光る。それと共に、静寂が満ちる部屋を着信音が切り裂いた。

 表示されている名前は、勿論掛川君だった。

 私はソファに腰掛けて、通話ボタンをタップする。

 「もしもし」

 『もしもし……今日は少し肌寒いくらいの気温だったのに、妙に火照る感じがするんだ……君はどうかな』

 また、歌うような、詩を詠むような口調で彼が言った。

 「私も、似たようなもん」

 『そっか……君と同じ感覚で、僕は今息をしているんだね。嬉しいような、それでいて少し気恥ずかしさもあるような……くすぐったい感じがする』

 「そうだね、少しくすぐったい」

 『ははは……ところで、今どんな下着を履いてるの?』

 こんな時でさえ、彼はこの電話を卑猥電話として扱った。

 少し可笑しくて笑ってしまうが、まあそうだよな。元々これは、一本の卑猥電話から始まった物語だ。

 「何も着てないよ。素っ裸」

 私が素直に答えると、電話の向こうでガタンと椅子か何かが倒れる音がした。

 「大丈夫?」

 『いやなに、また不意を打たれたものだから……少し慌てちゃってね……僕今、射精してるよ』

 「だと思った」

 まるで女の子を口説く時のような声色でこんな事を言うのだから、彼も筋金入りの異常性癖者なのだと、改めて認識させられる。

 『……ピアノまた買ってくれるって』

 ポツリと、彼が呟くように言った。

 そうか、それじゃあ。やっぱり想いは伝わったんだな。

 あの後、ステージを降りた私達は、言葉も無く別れて帰路に着いた。

 家に帰った彼が、両親とどんなやり取りをして、どんな言葉を交わしたのかは分からない。でも、ピアノを買ってくれるって事はそういう事なんだろう。

 「良かったね」

 『うん……僕は適当なキーボードでも良いって言ったんだけど、アップライトピアノにするって父さんが言うもんだから、甘える事にしたよ』

 息子を抑圧してきた事への謝意か、図らずとも傷付けてしまっていた事への誠意か……それは分からないけど、彼の声を聞く限り、妙な心配や勘繰りをする事は野暮だと思った。

 「本当に良かった」

 『うん……そうだね、君のおかげだ』

 「私はただ、ちょっとドラム叩いて歌っただけだよ」

 特別な事は何もしてない。エイミーに言いたい事をぶちまけたり、慎也さんを蹴飛ばしたりしたのと、何ら変わりはない。

 『そうかも知れないね……でも、そのちょっとが、僕を変えてくれたんだよ』

 彼は、言葉を続ける。

 『たった一つの曲が、僕をピアノへと導いたように、君の……僕たちの、たった一回の演奏が、母さんや父さん達に考えて貰うきっかけを齎したんだ。僕一人じゃダメだった。だから、君のおかげさ』

 「そこまで言うならまあ……どういたしまして」

 『うん、それでいい』

 それから、少しだけ沈黙が続いた。外はもう、雨は止んでいる。

 『……言葉はもう、いらないかな?』

 彼が不意に尋ねた。

 そうだな、あの話はもう、あのステージで終わってしまっている。既に過ぎた話を蒸し返す程、彼は無神経じゃないし、私も野暮ではなかった。

 「そうだね……でも、これだけは言葉にしておきたい」

 言葉が全てじゃないって事を、彼と過ごして、彼と同じ音を鳴らして、私は知った。だけど、言葉じゃないと伝わらない事だって、沢山あるんだと思う。

 「ありがとう掛川君。私と付き合ってくれて」

 『こちらこそありがとう篠嵜さん。僕と付き合ってくれて』

 そう言い合うと、どちらからともなく笑い出した。一頻り笑って、またどちらからともなく「おやすみ」と言い合って、通話は終わった。

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