第三章 別れ話の続き
その後、長居しようとするサロンメンバーを追い出し、私もシフトが終わったので旧校舎で音楽を聴きながら時間を潰した。
ジェシーちゃんの美術展示(デュエバ大会)とやらは学祭二日目である明日もやっているとの事だったので、今日行くのはやめておく事にした。
制服に着替えてから適当に時間を見計らって学祭ステージのある中庭に行くと、軽音部がライブをやっていた。
私達の前のバンドだ。
流行りのロックアーティストのカバーバンド……お、マカロニえんぴつじゃないか。結構上手い、これ好きなんだよなあ。
古いメタルやハードロックばかり聴いていると思われるかもしれないが、私も流行りの音楽を嗜むのだ。何せ今をときめく華の女子高生なのだから。
そんなくだらない事を考えていると、ステージの裏手の方に掛川君の姿が見えた。
声を掛けようと近付いてみるが……なんだろう、スマートフォンを見ながら険しい表情をその顔に浮かべている。
「どうかしたの」
少し躊躇ったが、声をかける事にした。私の声に気付いた彼はこちらを見て少し困ったように笑って見せた。
「……いや、父さんが仕事の都合で来るのが遅れるらしいんだ……まあ、昨日土壇場で今日の話をしたものだから、仕方がないんだけれどね」
「……」
今日は土曜日だが、掛川君のご両親は休みは不定期のようだ。お母さんは時間通りに来れるとの事だったが……。
「どれくらい遅れそうなの」
「十五分……下手をすれば三十分くらいだそうだ」
「……そう」
このステージは一枠三十分程度だ。転換は五分で行われるので、演奏時間は実質二十五分。ギリギリだな……。
「生徒会長権限で順番をずらせないの?」
「会長にそんな権力はないよ。それに、僕らの後はもうトリだ。それを譲れって言われて素直に頷いてくれるとは思えない」
まぁ確かにそれもそうか。このステージのトリを飾るのは軽音部の一番実力があるバンドの筈だ。そのおいしい役目を手放すとは思えない。
「仕方がない、母さんが聴いてくれるだけでも十分だ」
そう言って彼は、スマートフォンをポケットに仕舞い込んでまた笑った。
空を見上げると、暗雲が立ち込み始めていた。
天気予報では雨は降らないとの事だったが、女心となんとやら……この季節の空模様は分からない。どうかこれが良くない事の前触れ出ない事を祈る……いや、こんな雲なんか、吹き飛ばしてしまえばいい。
「とりあえず、全力でやろう。掛川君……こういう言い方はあんまり好きじゃないけれど、本気でやれば伝わる事もあるんだと思う」
「……好きじゃないって?」
私の言葉に何か引っかかったのか、彼はそう尋ねて来た。
「いや、こういう感情論的な事」
私が答えると、彼はさっきまでのそれはとはまた違った、屈託のない笑みをその端正な顔に浮かべた。普段の彼がする、貼り付けられたような笑い方じゃない。たぶん、心から笑ってる。
「何言ってるんだ。篠嵜さんはいつだって感情的じゃないか」
え?そうだろうか?
首を傾げる私に対して、彼は目を細めた。
視線と視線がぶつかり合う。レンズの奥の、男性にしては意外と長い睫毛が、その瞳に映る私に影を被せる。
ハッと、息を吐いてしまった。
私は今、どんな顔をしているだろうか。
「僕らの異常性癖を前にしたって、理屈を捏ねてあれこれ言ってみたって……君はいつでも自分の心に正直じゃないか。面白いと思ったから、好きだから、そうしたいから……そんな理由で、君は僕とここに立ってくれているんだろう?」
私から空に目を向けた彼のその言葉に、納得してしまっている自分がいた。
それもそうだな。確かに私は、感情だけで動いている。
理屈も、建前も常識も、何もかも捨て置いて私は今、らしくない事をしようとしている。
案外、彼の両親も感情だけで生きているのかも知れないな。
だったら届く筈だ。
殴る意味も生まれる筈だ。
ギターのストロークと、よく通るボーカルの声が止む。
拍手の音と、黄色い声援。前のバンドの出番が終わった様だ。
実行委員が数名ステージに上がり、事前に渡しておいたセット図通りに機材を組み直してくれている。
「緊張してる?」
ステージに目をやる私の顔を覗き込む様に、彼が尋ねて来た。
「別に」
少しだけ嘘をついた。私だって多少は緊張している。
「そっか、僕も意外と緊張していないよ。発表会やコンペと違って……一人じゃないからかな……」
「そう」
自然と、私達は互いの手を取り合っていた。何でそうしたのかは分からない。二人して緊張していないと言いながら、やっぱり不安だったのだろうか。
彼は私の手を放すと特設ステージへと続く短い階段に足を乗せた。
最初の一曲だけは、彼のソロ演奏だった。
「それじゃあ、行って来る」
「うん」
彼が壇上へと上がると、ステージ前に集う生徒達の歓声が上がった。彼は生徒会長として、皆んなから慕われている。彼は丁寧にお辞儀をすると、ピアノの前に腰掛けながら、椅子の側面にあるレバーで高さを調節した。
私はそれを、舞台袖で眺めていた。掛川君はゆっくりと深呼吸すると、ゆっくりとその手を鍵盤に沈み込ませた。
穏やかに、だけど厳かに、その旋律が響き渡る。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによるピアノソナタ第十四番嬰ハ短調 作品二十七のニ。通称、『月光ソナタ』。
彼がピアノを始めるきっかけになった楽曲。彼の始まりの曲だ。
この月光ソナタという通称は、ベートーヴェン自身が呼称したものではなく、彼の死後に音楽評論家が「スイス、ツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と評したことが由来なんだとか。
目を瞑れば、凪いだ湖の水面に映る月と、その畔にはグランドピアノとそれを奏でる掛川君の姿が浮かぶ。
思えば、彼が奏でるこの曲を聴くのは初めてだった。いつだったか、彼にこの曲を弾いてみてくれと頼んだ覚えがある。あの時は、まだ彼の名前も顔も知らなかった。声しか知らなかった。
随分と遅くなったものだが、今更になってあの時何となく言ってみただけのお願いが叶えられたということか。
彼の指が、旋律が止まる。今回は第一楽章のみだ。父親がまだ来ていないこともあってか、彼は引き延ばすように弾いていた。それもあってか、優雅に、ゆったりとした印象を覚えた。
やにわに拍手が会場中に巻き起こる。普段クラシックを聴かない人間でも、この曲は知っているだろう。それだけじゃない。この拍手は、ただ選曲がキャッチーだからとか、彼がこの学校では有名だからとか、そんな理由だけでは説明出来ない程のものだった。
見れば、さっき見渡した時よりも人が増えている。
おっと、そろそろ私も行かなければ。
私は、舞台袖から壇上へと歩き出す。
ステージから見る景色というのは、不思議なものだ。三十人……いや、四、五十人はいるだろうか。この催しを見に来た何人もの人間が、揃って此方を向いている。
私が壇上に上がると、生徒達がざわめき始める。自分で言うのもなんだが、まぁ今現在校内で話題のカップルが揃って何か演奏をしようってなったら、驚きもするだろう。
そんな喧騒の中、最初に掛川君のお母さんが目に入った。無表情とも取れる、険しげな表情で、此方を見つめている。
次に、薔薇園家。エイミーが呼んだんだろうな。私と目が合うと、三人揃って笑顔で手を振って来るものだから、私は少しだけ手を挙げてそれに応える。
そして、サロンのメンバー。白衣にメイドにチンピラにゴスロリ。揃いも揃って珍妙な格好で、改めて見ると笑ってしまう。何故だか椅子の彼の姿はないが、まぁいいだろう。あれ?サロンのメンバーの隣にいる、この時期に半袖Tシャツと肌寒むそうな格好の大柄な男……おいおい、大将までいるじゃないか。何やってんだあんたまで。
『どうも、有志バンドです』
客層を眺めていたら、いつの間にかマイクを握った掛川君が挨拶をするので、私も慌ててお辞儀をする。
さて、やるか。
くだらないMCはいらない。ただ私達は音をぶちまけに来ただけだ。
視線をステージ中央へとやる。
壇上に設置された、向かい合わせのグランドピアノとドラムセット。
客席を向かずに、互いを見つめ合っていた。
私はドラムスローンの前に立ち、跨ぐようにしてそれに腰掛けた。
ふと、初めて椅子の彼に座った日の事を思い出していた。
訳の分からない求人広告を片手に訪れた、古惚けた雑居ビル。その地下には、私の想像の埒外に在るものが待っていた。
正直に明かそう。私はあの時確かに、緊張を隠しながら彼に腰掛けたのだ。
あの時と比べて、たった今このスローンに腰掛けた私は、随分とリラックスしていた。
ふと横を向くと、椅子の彼と目が合った。何処にいるのかと思ったら、ドラムセットから見て最前に陣取っていたのか。
僅かに微笑みながら此方を見ている彼の顔を見て、私も少しだけ笑ってしまった。
さあ、始めようか。音でぶん殴るとか、分かって貰うとかは、一旦いいや。
音を楽しむと書いて音楽。だったら今は楽しもうじゃないか。
私のその気配を感じ取ったのか、掛川君が鍵盤に指を触れた。
跳ねるピアノの旋律が、走り出す。
アスファルトにぶつかって跳ね遊ぶ小雨のような、草木から水面に落ちる朝露のような音粒が、会場に響き渡った。
動画投稿サイトで有名な、ミュージシャンの演奏を一発撮りしてアップするチャンネルでも取り上げられていた曲だ。
ピアノと、ドラムとボーカルだけの静かなロックンロール。
日食なつこの、『水流のロック』。
原曲では日食なつこがピアノを弾きながら歌っているのだが、女声ボーカルの曲な為私がドラムを叩きながら歌う事になった。
ドラムも歌もそれなりに出来るが、一緒にやるとなると話は別だ。ドラムに集中すると音程が外れる。歌に集中するとリズムがよれる。ここ一ヶ月は殆どこれの練習ばかりだった。
イントロ二小節目の終わりに、ハイハットを叩いてピアノに合流する。それと同時に、私の真横に備え付けられたスタンドの先のマイクに、声を乗せる。
よし、上手く出来ている。練習の甲斐があったな。
スネアドラムのフチを叩くリムショット奏法で、ピアノのスタッカートと共にリズムを刻む。
彼のピアノと、私のドラムと歌声のユニゾンが、会場の騒めきを流れる水のように飲み込んだ。
静かに、だけど確かに、音を聴くものに叩き付けて行く。
Bメロの後半から、徐々にドラムの音圧を強めて行く。鍵盤に沈む彼の指も、跳ね返るように高らかに舞う。
サビに入ると、掛川君と目が合った。
笑ってる。本当に楽しそうに笑っているので、思わず私も笑ってしまった。
音と音とがぶつかって、混ざり合って意味を紡ぐ。地を滑る低音が、空を掛ける高音が、私の歌声を包み込む。
ああ、これが兄さんを魅了したんだな。兄さんはずっとこんな事を続けていたくて、家を飛び出したんだ。
そんな単純な事に、たった今気が付いた。
掛川君だってそうだ。簡単な話だ。ずっとピアノを弾いていたかっただけなんだ。
泥濘にも似た、彼の内の底にある澱みが、堰を切って流れ出た水に押し出されて行くのが感じ取れる。音を通じて、彼の想いが私に流れ込んで来る。
応えるようにドラムを叩く。スネアの破裂音。煌びやかなハイハット。力強く響くライトシンバル。その一つ一つで、返事をする。
ちょっと遅れてやってきた、反抗期のロックンロール。彼一人じゃ頼りないから、私の音と声も乗せて叫ぶ。
二人で起こしたこの逆流で、世界を変えられる訳じゃない。でも、これを見ているたった数人、いや、たった一人の心でも、どよめけばいいと思うんだ。
親にダメだと言われ、一度は手放したのかも知れない。でも、揺らがないものがある。それが答えで、彼にとってはピアノだったのだ。
二番が終わって、ピアノとドラムだけの間奏に入る。
それぞれがバラバラに音を出しているように聴こえるが、それでいてリズムは完璧に合っていた。鼓動で拍子を、この腕で旋律を。
音の一粒一粒に想いが込もる。この時ばかりは、言葉なんていらないんじゃないかとさえ感じられた。
Cメロの、穏やかなピアノと私の歌声。抑えて、抑えて、そして、を徐々に大きく、強く……力を溜めて、放つ。
ブレイクの直後、ピアノとドラムと声とが、完璧に揃う。
ワァッと、観客の声が一瞬響いた。
もうすぐ終わる。小さな反抗期が、私達のロックンロールがもうすぐ終わる。
私達の起こした逆流が、流れ切った水のように、跡だけを残して、鳴り止んだ。
ジャンッと締めに鳴らしたピアノの和音と、短く鳴らしたライトシンバルの音がぶつかり合って弾けて曇り空の下、湿った空気に溶けて混ざって消えていった。
一拍置いて、湧き上がったのは割れんばかりの拍手と、これを聴いていた者達の声援だった。
なんて心地良さだろう。生徒達も、薔薇園家も、サロンのメンバーも、椅子の彼も、掛川君や、私だってみんな笑ってた。掛川君のお母さんも、決して笑顔とは言えないけれど、先程までとは打って変わった柔らかな表情で拍手だけはしてくれていた。
そんな中、ポツリと、何かが私の頬を叩いた。
雨だった。
ポツリポツリと雨音が徐々に徐々にと増えて行く。一分も経たない内に、そこそこの降水量で灰色の空から降り注ぎ始めた。
文化祭実行委員や、軽音部達が弾かれたようにステージに出てきて、スピーカーやマイクを近くにあるテントに運び出し始める。
集った観客達も、足早に校舎へと避難し始めていた。
私は思わず、掛川君の母親を見た。その隣には、まだ父親の姿はない。
私は呪うように太陽を覆い隠した空を見上げた。遠くから、落雷の音さえ聞こえてきた。
おいふざけるなよ……まだ聴かせてない音があるんだ。伝えてない想いがあるんだよ。
せめて彼のお母さんにだけは聴いて欲しいとマイクを掴もうとしたが、そのタイミングで実行委員がマイクスタンドと共に回収していってしまった。
どうしたら……。
そう思った瞬間、椅子の彼と目が合った。
雨に濡れながら、傘も刺さず、ただその場に立って私を見ていた。
僅かに微笑みながら、私を見ていた。
何か言われた訳じゃない。がんばれとか、めげるなとか、そんな月並みな言葉を投げかけられた訳じゃない。
ただ彼は、私の目をじっと見つめていた。
降り注ぐ雨が、ドラムセットに弾けて音を鳴らす。自然が生み出したリズムが私の周りに満ちていた。
私の脳裏に、最近観たとあるドラマの冒頭のシーンが過った。
椅子の彼の向こう、何かを諦めたように掛川君の母親が踵を返して校舎へと向かおうとしたその時、私は木製のスティックを大きく振り上げ、スネアドラムに向かって振り下ろしていた。
雨音を払い飛ばすような破裂音に、掛川君のお母さんは立ち止まり、目を見開いて此方を振り返った。
壇上にいた掛川君でさえ、驚いた顔で此方を見ている。
ただ、椅子の彼だけは笑顔を絶やしていなかった。
ペダルを用いてバスドラムを踏み鳴らす。腕を振り回してスネアとタムを行き来して、リズムを絶やさず打ち鳴らす。要所要所で響くシンバルで音を彩る。
本降りの雨と、遠く響く雷。空気を揺らすドラムソロと、濡れそぼった一台のグランドピアノ。
条件は揃っている。後は、掛川君次第だ。
ふと、視界の端に何か動くものがあった。
傘を持ったスーツ姿の男が、掛川君のお母さんに傘を刺してあげている。
間に合った……!
水を弾き続けるドラムヘッド達を、更に思い切り叩き付けだその時、掛川君が椅子に腰掛け、両手を持ち上げて構えた。
勢いよく、彼の指が鍵盤を沈める。彼の鳴らしたピアノの和音が、私が独り鳴らしていたドラムのビートに合流した。
雨とドラムとピアノのセッション。
当然だがこんなこと全く予定していなかったし、互いに合わせの練習なんかしていない。
でも、この土壇場で彼はしっかりと合わせて来た。私がピアノだったら、多分こんな真似は出来ない。彼の技量があるからこそ、彼のピアノへの想いがあるからこそ、こんな芸当が出来るのだ。
和音を二回鳴らした後のブレイク。私のコンビネーションフレーズがそれに応える。力強いピアノコードと、私のドラムフレーズの応酬が、立ち止まってくれた人達の足を地面に縫い付けた。
ふと、掛川君の両親の顔が目に入った。
ああ、たぶん、伝わった。きっともう大丈夫だ。彼の想いは音となり、あの人達に伝わったんだ。
だって、彼はこんなに楽しそうだ。自分の子供が、こんなに楽しそうに、嬉しそうに大事にしている物をどうして取り上げられようか。仮にそれをしたとして、それがどれ程残酷な事か、分かってくれたんだと思う。
彼らの顔を見ていてそれがわかった。
このセッションは、あのドラマでは始まりの音だった。この音が、あの二人を繋いだんだ。でも私達にとっては、別れの音になる。
そうか、私達は今……昨日の別れ話の続きをしているんだな。
掛川君と目が合った。とても楽しそうで、それでいて、少し悲しそうでもあった。名残り惜しむような、寂しがる子供のような……。
口で話すのではなく、音で語り合う、風変わりな別れ話。でも、これが私達の在り方だ。
本当に、自分でも何をやっているんだろうと思う。ただ、恋というものが知りたかっただけなのに、文化祭のステージで、びしょ濡れになりながらドラムを叩いて彼のピアノに応えいる。結局恋愛の「れ」の字も分からなかった。でも、その代わりに、これが楽しいって事だけは分かった。彼の事も、そのついでに兄さんの事も、分かった。
分かってしまったから、もうお終いだ。
フィニッシュに向けた激しいドラムフレーズと、雨の速さを上回るピアノコードの連打。
スティックを振り回す私と、椅子を半ば倒しながら立ち上がり強く打鍵する彼。
ごめんなさい、恋ってものがなんなのか、結局よく分からなかったや。でも、ありがとう。楽しかったよ。
さようなら、私の初めての恋人。
最後の音が、同時に鳴らされた。冗談みたいなタイミングで、雷鳴が轟いた。




