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第三章 別れ話

 あれから、巡る様に日々は過ぎた。

 ステージで披露する楽曲を決めて、放課後は毎日サロンで練習。

 普通の高校生相手にクラシックというのもどうかと思うとの彼の提案を受けて、楽曲はロックを選定した。

 ロックは体制に対する反乱から生まれた音楽だ。親への反抗期にはもってこいだろう。

 だがその曲には一つ問題があった。

 演奏するにはピアノだけでなく、女性ボーカルとドラムが必要だったのだ。

 兄に仕込まれていた事もあり、私はピアノ、ギター、ベースを始めとして、ドラムもそれなりに出来る。これ幸いにと掛川君に頭を下げられ、致し方なく共演する事になってしまった。

 再びピアノに触れた彼は水を得た魚のようで、音楽をする事の楽しさを抑えられんとばかりに、更にもう一曲やろうと提案までして来た結果、彼が最初にソロで一曲、その後私と二人で二曲やる羽目になってしまった。まぁ、言い出しっぺは私なので、仕方がない。

 私は久々にドラムを叩いたので、勘を取り戻すのが大変だったが、兄が自室に電子ドラムを置いて行ってくれていたので助かった。助かったが、日夜練習三昧になってしまったのは言うまでもない。

 クラスの準備も、勉強も、そっちのけで毎日ドラムの練習と、都合の合う時間にサロンで彼との合わせの練習。日々は流れて文化祭はもう明日に迫っていた。


 本番前最後の練習を終え、私達はいつもの駄菓子屋前のベンチに並んで腰掛けていた。ここ最近の、彼とのルーティンの一つだった。

 互いにドクターペッパーの真紅の缶を片手に、目の前の道路を行き交う車が残すヘッドライトの帯をぼんやりと眺める。

 「いよいよ、明日だね」

 隣に座る掛川君が、ポツリと呟いた。

 「そうだね」

 傍に置いたスクールバッグからはみ出たドラムスティックを視界の端に捉えながら、私はそう返す。

 この頃陽が落ちると、少しだけ肌寒くなる日が増えた。昼間は二十五度前後とまだまだ暖かいが、夜になると何か一枚羽織らないと心許ない。

 残暑が続いた十月の空気を切り裂くみたいに、思い出したように吹いた秋の風が私の体を少し震わせた。

 すると、掛川君が少し前屈みになって足元の何かを拾い上げた。

 「もう黄落の時期だね」

 そう言いながら彼が指に挟んで私に見せてきたのは、黄色く染まった銀杏の葉だった。東京都ではあちこちに街路樹として植えられているから、珍しいものでもない。だから、こんな風に注目したのはたぶん生まれて初めてだ。

 「うん。もう、秋だね」

 「君の声を初めて聞いた時にはまだ青々としていたのに、今じゃ所々化粧を始めている……上着が恋しくなる訳だ」

 詩的な台詞で以って時の移ろいを表現する掛川君は、さも当然のように私の肩に脱いだ自身のブレザーを掛けた。私は彼のこんな喋り方が嫌いでは無かった。

 「悪いよ」

 現在は夏服から冬服への衣替え期間であり、ブレザーを着ないで出掛けたのは私が悪い。この気候で彼をワイシャツ一枚で過ごさせるのも申し訳ないので返そうとするが……

 「今はまだ彼氏だからね。これくらいはさせて欲しいな」

 私を手で制して、彼はそんな言葉を口にした。

 「そう、ありがとう」

 私は礼を返してお言葉に甘える事にした。

 相変わらずよく人を見ている。優しくて、気遣いが出来て、面白い。私には勿体ない恋人……。

 そんな事を思い掛けて、私はある事に気が付いてハッとして彼の方を見やる。

 「…………今はまだ?」

 彼の言葉を、思わず口で繰り返していた。

 なんでそんな……含みのある言い方をしたのだろう。

 そんな私の顔を見て、彼は少しだけ申し訳なさそうに笑ってから、目の前の街路樹に視線を戻した。

 また風が吹いて、ハラリと黄色い葉が落ちて流れる。 それと共にピアノ教室から旋律が響き出す。

 これは、誰の曲だっけ。

 これは、なんて曲だっけ。

 このメロディは、何を伝えたかったんだっけ。


 「もし明日……両親が僕らの演奏を見て、ピアノを弾く事を許してくれたのなら……僕と別れて欲しいんだ」


 落葉と、漂う繊細な音色の間をするりと抜け

て、彼の言葉はハッキリと私の耳に届いた。


 ああ……そうか、これが別れ話ってやつか……なんて、流石に他人事が過ぎるか。


 依然として、私は恋とやらの理解が深まったかどうか分からない。これからゆっくりと知っていけばいいと、そう思っていた。けれど彼からの別れ話に、思ったよりショックを受けている自分自身に、少し驚いた。


 「……理由を聞いてもいいかな」

 我ながら、なんて冷静で可愛げがない事だろうと思いながら彼に尋ねた。こんな状況で、世の中の女性はどんな顔で、どんな態度を示すのか、どうすればいいのか、私には分からなかった。

 「そうだね……僕はきっと、逃げ出す理由が欲しかったんだ」

 「逃げ出す理由?」

 「「逃げた先が後ろじゃなくて前かもしれない」……僕の好きな言葉の一つだ」

 それは、夏休み最後の卑猥電話で私が彼に掛けた言葉の一つだった。

 「結局あの後両親の理解が得られないことが分かって、この間まさしく君が言ってくれた様に……だったら恋人でも作って駆け落ちでもしてやろうかなって思ったんだ。だから学校で一番気になる篠嵜さんに告白してみたんだ」

 通り過ぎる車のヘッドライトが、掛川君の顔を照らす。

 「まぁ、まさかその言葉をくれた人と、篠嵜さんが同一人物だとは思ってもみなかったけれどね」

 一瞬だけ照らされた彼の顔は笑っていた。「けど」と言いながら彼は言葉を続ける。

 「電話越しの、電気信号に変えられたあの声と、君の声が一緒だって……同じ綺麗さだって気が付くのに、そう時間は掛からなかった」

 彼は私より早い段階で卑猥電話の相手が私だと気が付いていたんじゃないだろうか。いつか電話で話した本の内容を、面と向かって引用された時のことを思い出した。

 電話で相手から受け取る声は、実は実際の肉声では無いのだという。だけど、その美しさだけは一緒だったと、受けとたった言葉は本物だったと、そう言ってくれているのだろうか。


 だとしたら……

 「だったとしたら、どうして別れ話なの」

 また私は、率直に尋ねてしまう。


 だって、こんなのまるで運命じゃないか。始まりは卑猥電話だったとしても、声しか知らぬ相手と、こうして出会って恋人になる……まるで物語じゃないか。


 「一緒に逃げてくれって、どうして言わなかったの」

 彼の目を真っ直ぐ見て尋ねると、彼はクスリと笑ってこう言った。

 「だって、僕が言う前に君が言ったんじゃないか。「音で殴ろう」って」

 そうだった。逃げるのではなく、真正面から殴り込む事を提案したのは私だった。その私がこんな事を尋ねるのは余りに見当違いだった。

 「……そうだったね……確かにそうだ」

 「責めてるんじゃないんだ。僕は嬉しかったんだよ。隣に立って、一緒に立ち向かおうって言ってくれてるんだからね」

 「だったら尚のこと……」

 「違うんだ。たぶんこれは、まだ恋じゃない」

 ピアノ教室から洩れ出た旋律が、示し合わせた様にピタリと止んだ。

 風と落葉とヘッドライトが、彼と私と旋律を取り残して行く。

 「まだ……まだ、恋じゃないなら、なんなんですか」

 私は確かに、それを探している途中だけれど、君はそうじゃなかったの?だから私に告白したんじゃないの?

 私の問い掛けに、彼はまた笑顔でこう返した。

 「これはきっと、憧れだ」

 「……憧れ……」

 憧れか……言葉だけ聞けば、確かにそれは恋愛とは違うのかも知れない。

 彼は私に憧れているんだと、校舎裏で言われた時の事を思い出す。

 「憧れから始まる恋だってあるんだろうね……でも、僕は君と対等でいたいんだ」

 「対等じゃなかったの?」

 「君はそのつもりで居てくれてるんだろうけど、僕としてはそうでは居られない。逃げる事が悪い事じゃないと言ってくれたけれど、素敵な考えだと思ったけれど僕は前に進む事を選んだ」

 「……」

 「そう決心させてくれたのは君だ。間違っていたとしても、後悔したとしても……僕は前に進むよ……そうしてようやく、対等になって君の隣に立てるんだ」

 「……でも、対等になったら別れるんでしょ?」

 私は首を傾げてそう尋ねた。

 「うん……別れて……憧れじゃなくなって……そこから君を好きになって……振り向いてもらうんだ」

 「……だったら、別れないままの方がいいんじゃないの?」

 「ダメだよ……だって君は、僕の事を好きじゃないもの」

 「……」

 「だから、良い男になって振り向かせるのさ」

 彼の事はとても素敵な人だと思っているけれど、これが恋心ではないということは何となく私にも分かっている。

 そこで言葉を区切った彼は、手に持っていた銀杏を風に乗せて放した。

 「それでも、明日が終わって、両親の考えが変わらない時は……こんな僕と一緒に逃げて欲しい」

 明日の演奏で、掛川君の両親の気が変われば私達は別れる。変わらなければ、関係を続行して駆け落ち……という事か。

 「……なんて、保険をかけるみたいで情けないけれど……ダメかな」

 彼はまた少しだけ申し訳なさそうな顔で笑いながら尋ねた。

 駆け落ちか……まさか私の人生にそんな選択肢が生まれてくるとは思わなかった。

 彼が十八歳になるのは来年だし、私の貯金を使えば、それなりに現実的な話なんじゃないかと思う。

 正直な所、エイミーと離れるのも、サロンの皆んなとお別れするのも……椅子の彼に座れなくなるのも……嫌なんだと思う。

 でも私は、既に彼に言ってしまっている。あの時、あのホテルの一室で、素っ裸で言ってしまっている。

 「ダメな訳ないよ。私から言い出した事だもん」

 自分で言い出した事を、後になって反故にする程私は薄情ではない。

 「だけどね、掛川君」

 私は、歩道の左側からやってくる人物に目だけを向けた。

 「君のピアノで……奏でる音で、心が動かないなんて事はないと思う」

 私は立ち上がって声だけを彼に向ける。

 「良い作品には引力がある……選んだ学曲も、君が奏でる旋律も……とても素敵なものだから……きっと惹かれてくれる。魅せられてくれる。だから、大丈夫だよ」

 私の言葉を聞いていた掛川君は、すぐ傍まで近付いて来ていた人物に気が付いた。

 「……母さん」

 そう呼ぶ彼の声に彼女は……掛川君のお母さんが顔を上げて立ち止まった。

 仕事帰りだったのだろう。前回会った時同様、グレーのパンツスーツを身に纏っていた。

 「学?……それと、貴女はあの時の……ちょっと、一体こんな時間に何をして……」

 また我々が逢引きしていると思ったのだろう。彼女は眉間に皺を寄せて、掛川君の方に近寄るが……

 「母さん」

 対して掛川君は、立ち上がって真っ直ぐに母親の目を見て口を開いた。

 「母さん……明日の文化祭、父さんと一緒に来て欲しいんだ」

 「……文化祭?」

 意表を突かれた彼女は、やや目を見開いて驚いている様子だ。しかし、すぐに先程の表情に戻る。

 「色恋の次は、文化祭なんて下らないものに現を抜かしているの?言ったでしょうそんな場合じゃな……「母さん!」

 再び苦言を呈そうとした母親に対し、彼は声を張り上げてそれを遮った。

 その横顔は、この間駅前で彼の母親と遭遇した時のものとは、どこか違って見えた。

 「……僕は、ピアノを続けたいんだ。勉強の片手間でも良いから……一日に一時間でもいいから……ピアノを弾かせて欲しいんだ」

 眼鏡のレンズの奥に光る瞳が、目の前の母親を射抜いた。

 「その話はもう終わった筈よ……!ピアノなんて……大人になってから好きなだけ趣味でやればいいだけじゃない!そんな下らないものに……」

 「下らなくなんかありませんよ」

 掛川君のお母さんの鋭い眼差しが、口を挟んだ私に向けられる。

 「貴女……この間言った筈だけれど学との交際は……」

 「今、その話は関係ありません。彼だけの事に付いてです」

 「……何が言いたいの。」

 「……母親だったら、勿論知っているでしょう。学君がどれだけピアノが好きか……ピアノを弾いている彼が、どれだけ無邪気に、楽しそうにしているか」

 この数日間。毎日傍で彼を見て来た。鍵盤に触れる彼は、旋律を弾き上げる彼は心の底から楽しそうに笑っていた。

 学校で、生徒会長として浮かべるあの笑顔とは、全く違って見えたんだ。

 「ご自宅ではどうですか……ここ数年、学君は笑っていますか?」

 「ッ……」

 私は家での彼の様子は知らない。でも、思い当たる節があったのだろう。母親は息を呑む様にして口を噤んだ。

 「全国模試でも二十位以内にはいつも彼の名前があると聞いています。それに、うちの学校では常にトップです。ピアノを弾いていても、勉強をそっちのけにするようないい加減な人ではないと、母親である貴方は一番理解してる筈です。将来の為に、大して好きでもない事をここまで出来る人だと、知っている筈です」

 私はぼんやりと、身の入らない勉強を何年も続けて来た。

 なりたい姿も就きたい職も、分からないままに、見つからないままにただなんとなく勉強して来た。

 問題に躓いたら、そのままにして置いた。

 別に無駄を嫌っているわけでは無い。「将来の役に立たない勉強はしない」とかそういう話ではなく、つまらないからだ。興味が無い事を続けるのは苦痛だからだ。

 だからこそ、彼が今まで如何に努力して両親の期待に応え続けて来たかが分かるのだ。

 だからこそ……


 「だから、どうか彼の話を聞いて上げて下さい。そして、明日の演奏を聴きに来て下さい……訊いて上げてください……彼の思いを」


 私が深々と頭を下げると、掛川君のお母さんは一度口を開いたが、一瞬停止した後、すぐに閉じた。

 想いは伝わったのだろうか。

 「……帰るわよ」

 しかし、私の横を通り過ぎて、彼女はビールを鳴らして歩き出してしまう。

 「母さん」

 それを見た掛川君が堪らず声を掛けると、お母さんは少しだけ彼を振り返った。

 「……少し、考えるわ」

 それだけ言うと、また前を向いて歩き出した。

 たぶん……大丈夫だと思いたい。

 「ありがとう、篠嵜さん」

 その背中に目を向けたまま、掛川君が私に言った。

 「……いや、また出しゃばってしまった。ごめん」

 「謝らないで欲しい。君はいつも、僕が欲しい言葉をくれるんだ」

 彼は、目線を私に向けて微笑んだ後、片手を軽く上げて歩き出す。

 「それじゃあ、また後でね」

 「うん……また後で」

 それだけ言葉を交わして、彼は母親の背中を追い掛けて行った。

 また後で……あれから毎日私は、彼からの卑猥電話を受け取っている。恐らく今日だって、私のスマートフォンの着信音が鳴る筈だ。

 両親の答えは、その時に聞こう。

 私も、自販機でドクペを購入してから帰路に着く。


 別れるか、駆け落ちか。

 随分と極端な二択だ。しかもそれの行く末は、明日の私達が鳴らす音に懸かっている。

 しかし私は、彼の両親が来るか来ないかの心配はしていても、演奏を聴いた上で心変わりをするかしないかの心配はしていなかった。


 兄さん曰く、音には魂が……心が宿るのだという。


 直接言って分からないのなら、音をぶつけて、思いを分かってもらおう。

 彼の好きな物を取り上げる事が、如何に残酷な事かを理解してもらおう。

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