第三章 卑猥電話再開
あの後、私達は無言のままチェックアウトして、無言のまま帰路に着いた。
雨は上がっていたけれど、湿った曇り空のままで足元の水溜りに映っている。
駅までの道中、並んで歩いていると掛川君がパシャリと水溜りを踏み抜いて立ち止まった。曇り空が歪んで波を立てている。
彼の方に目をやると、目を見開いて前方を見つめていた。視線を辿ると、その先には一人の女性が立っていて此方を見ている。
「……母さん……」
ポツリと、掛川君が呟いた。
……掛川君の母親か……。偶然鉢合わせだという訳か?……これは非常にまずい。
卑猥電話の彼と掛川君が同一人物だと言うのなら、恐らく今まで両親の留守を狙って私と逢引していた筈だ。
「まなぶ?……貴方何しているの、こんな所で」
カツカツとヒールを鳴らして近付いてくる掛川君のお母さんは、バリバリのキャリアウーマンと言った風だ。
グレーのパンツスーツに黒縁の眼鏡、後ろで纏めた髪がキツそうな印象を醸し出している。
「……母さんこそ、仕事は?」
不安気な表情で、掛川君は聞き返す。
休日に仕事をしている所を見ると……うちの母親と同じで休みが不定期な仕事だろうか。高学歴らしいから商社での営業とか。
「仕事が早く終わったものだから、買い物してから帰ろうかと思ったんだけど……貴方勉強は?そちらの子は何?」
レンズ越しに、彼女の目が鋭く光る。
やはり、掛川君は家で勉強している体でこうして私と出掛けていたのだろう。
これはまずい。
「えっと…」
「申し遅れました」
言葉を濁していた掛川君を遮るように私は前に出る。
「先月から、学君とお付き合いをさせて頂いてます、篠嵜恵子です」
お母さんを刺激しないよう、私は丁寧に挨拶をする。
「……お付き合い?」
「はい」
「……学と?」
「そうです」
しかし、彼女の表情は依然険しいままだ。
「普段勉強で忙しいとは聞いていましたが、今日は私が無理言って学君を連れ出しました」
「……」
とりあえず家を抜け出した原因は私にある事にしておこう。実際最初のデートを持ち掛けたのは私だしな。どれだけ効果があるかは分からないけれど……。
「学、貴方こんな事をしている場合じゃないでしょう」
だが、掛川君のお母さんは私の発言を無視するように彼に言葉を放つ。
「高校に入ってから成績は伸び悩んでいるし、この間の模試だって順位を落としていたじゃない。私の留守を狙って抜け出して……はぁ……色恋に現を抜かしている場合じゃないのよ」
「……」
母親の溜息混じりのキツい物言いに、彼は黙って俯いている。
成績が落ちていると言っているが、彼の成績は学年ではトップだ。恐らく全国模試か何かの順位だろうか。
「申し訳ないですけど、貴方……ええと、篠嵜さん?学との関係は解消して貰える?」
と、ここでお母さんがとんでもない言葉を私に投げ掛けて来る。
この人、何を言っている?
「学は今大事な時期なの。恋愛なんてものに時間を割いている場合じゃないのよ。だから学とは別れて頂戴」
眼鏡の奥の鋭い双眸が、私を捉える。
この親、子供の恋愛まで縛るつもりか。うちの親も人間関係に口出しして来るタイプだったが、まさかその相手に向かって直接言うとはな……。
私は何か憤りと言うか、良くない感情が己の中に渦巻いているのを感じる。これは……幼い頃に母親にああやって言い聞かせられた時とよく似ている。
そうか、私はあの時悲しかったのと同時に、母親に怒っていたんだな。
「これ以上学の成績が落ちるのは見過ごせません。貴方も今のうちから受験に備えて勉強していた方が良いわよ」
そう言って来た彼女の眼を、私は迎え撃つ様に見つめ返す。
「お言葉ですが……」
あまり他所の家の事情に首を突っ込むのは宜しくないかもしれないが、このままだと強引に彼と引き離されてしまうだろう。この様子だと下手すれば彼を部屋に閉じ込めるくらいはするかもしれない。だから、私は言葉を続ける。
「彼の成績が高校に入ってから伸び悩んでいるのは、好きな事を取り上げたからではないですか」
「……何?」
私の物言いに、彼女は眉を顰める。
「ピアノは脳の活動を活発にし、機能向上させるんだそうです。脳科学者も勉学に効果的だと言っている」
最後の卑猥電話から、なんとなく調べて知った事だ。バラエティ番組に出てた有名な学者も確か同じ事をテレビで言っていたのも覚えている。
「東大生の二人に一人が幼少期にピアノの習い事をしていたというデータもあるそうですよ……と言うよりそもそも、誰かに強制される物事が、身に入らないのは私のようなただの高校生でも分かります」
「……何が言いたいの?」
「……私との交際を認めてくれなくても構いません……だけどその代わり、彼にまたピアノを弾かせてあげて欲しい」
私の発言に、俯いていた掛川君が顔を上げる。その瞳が、感情で揺らいでいる。
人は自由であるべきだ。親だからって何かを強制する権利はない。
勿論、勉強をして良い大学に入って良い会社に就職する事は良い事だ。目指せるなら目指した方が良いのも分かる。
でも、そんなのは本人が望んでやる事だ。
望んでもいない将来の目標を追い掛けるなんて、そんなのはあんまりだ。そんな人生、笑って死ねる筈がない。
「貴方には関係のない事だわ」
しかし、彼女は聞く耳を持たない様子だ。
「行くわよ、学」
掛川君の手を掴んで、駅の方へと歩き出してしまう。
「彼は今苦しんでいます!どうか彼の気持ちも、考えてあげて欲しい!」
遠ざかる彼女の背中に向かって声を上げるが、振り向く事はなかった。代わりに、掛川君が少しだけ此方に顔を向けて、口を動かす。
「ごめん」、と言っているようだった。影の刺した、陰鬱とした表情だった。
私の嫌いな顔だ。
私はその場で立ち止まったまま、駅の入り口に吸い込まれて行く二人の背中を見ていた。
JRの発車メロディと、駅前の雑踏、側の喫煙所から漏れ出る煙が、辺りを満たした。
この後、彼は折檻を受けるだろうか。厳しく問い詰められるだろうか。
心配だ。心配だけど、強引に踏み入る訳にも、連れ出す訳にも行かない。
十七才の高校生なんて、無力でしかない。
無力だからこそ、親の庇護の元で暮らしているんだ。
逃げ出したいと思っていても、逃げ出せない人もいる。
だから、言葉で伝えるしかない。
でも、その言葉も伝わらないと言うのなら……。
「音で殴る……か……」
ホテルで掛川君に言い放った言葉を、ポツリと呟く。
いつも通りの見切り発車で、行き先は全くの未定。でも、出来る限りの事をしよう。
無力な私達に出来る抵抗は、所詮こんな物しか無いのだから。
……………………
夜になり、自室で今日の事を繰り返し考えていたら、スマホからコール音が鳴り響いた。
番号は……今度は非通知では無かった。既に登録されている三文字が、液晶画面に表示されている。
「もしもし」
通話ボタンをタップして、スマホを耳に持って来る。
『……やぁ、久しぶり……ところで、今どんな下着履いてるの?』
彼だった。暫く振りの卑猥電話だ。
「白の無難なやつです」
いつかと同じように、私は正直に答える。
『白か……シンプルなのも良いね。君の綺麗な黒髪とのコントラストがさぞ美しいだろうね』
「……敬語じゃ無いんですね」
『……ああ、君に対してはもう取り繕う必要も無いからね』
こうしてまた卑猥電話を掛けて来た彼は、少し吹っ切れた様だった。
『今日はごめんね、あんな感じになっちゃって』
「いえ、こちらこそすいません。……刺激してしまっただけかもしれない」
『いや、気にしない欲しい。何も言えない僕の代わりに、言い返してくれて嬉しかったよ』
「そうですか……あの後は……大丈夫でしたか?」
恐る恐る、彼に尋ねてみる。
『ああ……父さんにもバレて叱られたよ……暫くはデートは出来そうにないや……ごめんね』
やはりそう来たか。
「謝らないで下さい。こっちこそすいません。そんな事になってしまって……」
『いや、君が謝る事じゃないよ……ただ、僕の親がちょっと厳し過ぎるだけさ』
「……電話はしても大丈夫なんですか?」
『うん……こうして少し話すくらいなら問題ないよ』
「……ご両親は……私の話を聞き入れてくれそうですか?」
『……いや、相変わらず勉強しろの一点張りだったよ。……休日の外出も禁止だってさ』
今日、駅前で叫んだあの声が、どうか届いている事を祈っていたが、そう上手くは行かないようだ。
「なら……より一層音で殴るしかありませんね……」
『学祭ステージか……』
学祭ステージの利用の申し込みは、彼が生徒会長なので問題はないだろう。あとは彼の両親が来てくれるかとか、選曲等だ。練習場所も考えなければならない。夏休み中の彼の話によるとピアノを捨てられているらしいし、現在更に厳しくなった親の目があってはなかなか難しいだろう。
「とりあえず練習場所には心当たりがありますが、問題は時間ですね……掛川君の御両親が居ない時を狙わないと……」
『学祭準備期間になれば、ある程度の誤魔化しは効くと思う。実際生徒会もある程度やらなければならない事があるからね……それを言い訳にしてみるよ』
「分かりました。では本格的に始めるのは学祭準備期間になってからにしましょう」
私は部活にも入っていないし、去年もクラスの演し物等にはほとんど関わってなかったので今回も問題ないだろう。
『……またこうして、君と電話が出来て嬉しいよ』
不意に、彼がそんな事を口にする。
「……そうですね、私も嬉しいです」
『……やっぱり君は変わってるね。でも、そんな所も素敵だ』
「それはどーも」
相変わらず電話口では口説いて来るようだ。でも態度に似合わず意外とハッキリとした物言いは、会って話した掛川君と変わらない。
『今日は惜しい事をしたな、僕がまともな人間だったら……君に触れられたのに』
椅子の彼や慎也さん同様、彼は電話越しじゃないとそういう行為が出来ないようだった。
「そうですね、私は美人なので凄く惜しい事をしたと思いますよ」
『自信満々だね。でも、自分の価値を理解している女性は魅力的だ』
「そういうものですか」
『自分の武器を有効的に使えるって事だからね。まぁ、君に関しては見た目が良いって事を自覚しているくらいで、それを活かそうとかは思っていなさそうだけど』
本当にこの人は、私の事をよく見ているんだな。その通り過ぎて少し笑ってしまう。
「まぁでも触れ合ったりしなくても、電話を一本掛ければこうして美人な私と卑猥な事を話せる訳ですから、そこはお得ですよ」
『……確かにそうだね。前向きな、良い考えだ』
私の言葉に、彼は以前のようにクツクツと笑ってそう言った。
「今日は射精しないんですか?」
私は彼に尋ねる。
この訳の分からぬやり取りも随分久し振りだった。
『ん?……ああ、ははっ……とっくのとうに射精してたよ』
不意を打たれたように少し黙った後、少し笑ってそう答えた。彼は相変わらずの早漏ってやつらしい。
「下着の色を答えた時ですか?」
『いや……』
そこで彼は言葉を区切って、仕返しとばかりにまた不意を打って来た。
『君の声を聞いた瞬間さ……水面に落ちる雫みたいな、調律の取れたピアノみたいな……あんまり美しかったから、思わず射精しちゃったよ』
「…………それはどーも」
まさか……声を聞いただけとはな……恐れ入った。
そう答えて、私達は一頻りクスクスと笑い合って、「また明日」と言葉を交わしてから通話を切った。
またこうして、卑猥電話が掛かって来るようになった。
まだ彼の問題を解決した訳じゃなし、悪化させてしまった部分もあるけれど、電話を通じて彼に触れる事が出来る。今まで会って話した彼とは少しだけ違う、本当の彼と話が出来る。
一旦、その事を喜んでも良いだろう。