第三章 やっぱり
それから、暫くの時が経った。
いつも通りにサロンでのアルバイトをこなし、放課後にジェシーちゃんとデュエバに興じたり、エイミーと遊んだり、休日には掛川君と何回かデートもした。
エイミーの意見やその他恋愛漫画等を参考にして都心などに赴く事もあったが、まあそれなりに楽しめたと思う。
しかし、依然として恋心と言うやつは霞かかった靄のように掴み取る事が出来ないでいた。
掛川君は世間一般的に見れば良い彼氏なんだろうと思っている。見た目も爽やかで、物腰柔らかく優しい人だ。勉学に優れ、意外と本やその他の趣味も合う。話していて楽しい事には楽しいのだ。
しかし、何故だろうか。これは直感的な部分なのだが、底が見えないと思う事が多々あった。
別に恋人だからと言って隠し事をしないで欲しいとかそう言う話ではない。ただ、己を偽って接している様な、そんな違和感を時折感じるのだ。
私が薄々勘付いている事柄と、それが一致するのであれば良いのだが、彼の方から切り出して来る雰囲気は無い。かと言って私もこの関係を断ち切ろうとは思ってはいない。
そんな事を腹の内に抱えながら、気が付けば十月に足を突っ込んでいた。
漸く気温も下がって来て、過ごしやすい日々がやって来た。
今日は十月の一日、日曜日。掛川君と四回目のデートの日だ。駄菓子屋前で待ち合わせをするのが、デートの最初のお約束になっていた。
軒先のベンチに座って、ドクペを飲みながら彼を待つ。今日も二階のピアノ教室から重力に従って音が落ちて来る。
お、この曲は私も知っている。クラシックばかり流れているこの音楽教室では珍しく、今日はポップス……いや、ロックが流れていた。
「『水流のロック』ですね」
不意に声がして、そちらを見やると掛川君が立っていた。
「クラシック以外も聴くんですね」
ドクぺの缶をゴミ箱に捨てながら、私は掛川君にそう返した。
「はい。特に分け隔てなくなんでも聴きますよ」
「多趣味ですね」
「篠嵜さん程ではありませんよ」
そんな会話をしながら私は立ち上がり、彼と一緒に駅に向かって歩き出す。
本日の目的地は本八幡。以前にエイミーと服を買いに行った複合施設コルトンだ。
駅に辿り着き、改札を通って電車に乗り込む。
「掛川君はコルトンは初めてですか?」
吊り革に掴まりながら、私は隣に立つ彼に問い掛ける。
「ええ、初めてですね」
「そうですか。まぁ複合施設だけあって映画館からゲームセンターまでなんでもあるので退屈はしないと思います」
「それは楽しみです」
程なくして本八幡に到着し、無料送迎バスに乗ってコルトンへと向かう。
利用した事はないけど、バッティングセンターもあるしテニスコートもあるしゴルフの打ちっぱなしまであって割とやりたい放題なんだよなこの施設。正直都心に行くよりここで遊んでた方が良いんじゃないかって思うのだが、エイミーはそれに逆らって都心に出たがる。理解が出来ない。
コルトンに到着した私達は、今日は無難にショッピングをする事にした。
掛川君も参考書を買う予定があったとの事で丁度良かったのだそうだ。
十月の頭だが、既に施設内はハロウィンの装飾があちこちにちらほらと見受けられる。気が早い事で。
「わぁ、大きい本屋ですね」
本屋に着き、店内を見渡した掛川君は感嘆のの声を上げる。まぁ確かにここは広いな。本だけでなく文房具やトートバッグに、果ては何故か靴下まで売っている始末だ。
図らずもエイミーがつまらないと評した本屋デートをする事になってしまったな。私はそうは思わないけれど。
参考書等が置いてあるコーナーへと赴き、掛川君が物色し始める。
……なんだろう。つまらなさそうな顔するなあ。
まぁ私としても参考書なんて面白くともなんともないので、気持ちが分からないわけではないが。
「あ、ありました」
目的の物が見つかったのか、彼はそれを手に取ってそう言った。
「掛川君は、勉強は嫌いですか?」
不意に私は彼にそう尋ねてしまう。彼は対して、少し目を丸くしてから首を横に振ってみせた。
「いいえ、特に嫌いというわけではありませんよ。知らない事を知る、出来なかった事が出来るようになるという感覚は良いものだと思います」
「……そうですか」
立派な考えだなあ。
私なんか分からなかったら放ったらかしにするから、いつまで経っても成績は上がらない。まぁ別に上げたい訳でも無いけれど、現状維持で手一杯だ。
「篠嵜さんは?」
「……別に好きでも嫌いでも無いですね。興味が無いというか……国語等で物語を読むのは好きでしたが」
「篠嵜さんは読書家ですもんね」
「そこまででは無いですけど。……まぁでも、いざテストで問題として出されると困るんですよね。「登場人物の心情を書け」と問われても筆が止まります」
ただ暗記する物だったら良いのだが、心情など当人にしか分からないのだし、問いの答えを見ても首を傾げる事ばかりだった。
「理解は出来るけど、共感は出来ないって事ですか」
不意に彼の口から投げ掛けられた言葉に、少し驚く。
「……はい、まぁそういう事ですね。下人や老婆の行動の理由は理解出来るけど、共感が出来ない。解き方の道筋を立てて、問題としてある程度の答えを出すことは出来ますが、「何故?」という感情が私の筆を止めるんです」
「羅生門ですか」
「はい」
老婆が死人の髪を抜いていた理由も、下人が最後に老婆を蹴り倒し、着物を剥ぎ取った理由も分かる。分かるが、共感が出来ないから私は頭を悩ませるのだ。
「だから、本ばかり読んでいますが現国の成績は良く無いんですよ」
私が掛川君に向き直ってそう言うと、彼は少し微笑んでこう返してきた。
「篠嵜さんは、やっぱり優しい人なんですね」
「え?」
度々この人が私にむけて来る言葉。「優しい」という評価。これにはいつも首を傾げてしまう。
「そうやって共感する事は出来ずとも、理解に努め、悩む。人を知ろうと、相手に寄り添おうとしている証拠です。僕だったら、問題の傾向と対策を頭に叩き込んでおしまいですから」
「それがどう優しいという評価になるんですか?」
私は彼に問い掛ける。
「他人の気持ちを汲み取ろうとする人って、案外少ないと思います。クラスメイト、友達、果ては家族であっても、相手の気持ちを顧みずに自身の考えを押し付ける」
そう言う彼の顔に、少し影が刺した気がした。
「だから、分からないままにしないで、歩み寄る篠嵜さんを「優しい人」だって僕は思うんですよ」
そう締め括った彼の表情は、先程とは変わらぬ笑顔だった。
「……」
私はただ、分からないから尋ねて、考えているだけだ。何度も言うが優しいとかじゃ無いと思うのだけれど……。まぁ、好意的に捉えて貰えているのなら良しとするか?
本屋を出て、少し施設内をブラ付くと楽器店が目に入った。
壁に下げられたギターやベース。電子のドラムのセットに、ピアノも何台も並べられている。
「掛川く……」
寄って行きますか?と尋ねようとしたのだが、彼は聞こえなかったのかその場を通り過ぎてしまった。
彼は音楽が、ピアノが好きなようだから良い場所だろうと思ったのだけど、違ったか?
意図的に遠ざけた様に見えたのは、気のせいだろうか。
いよいよ私の予想が、確信へと近付いて来る。
だけど、彼が切り出さないのなら私から問うのも気が引ける。
彼自身気が付いていないのかも知れないし。
その後秋物の服を数着買ったり、フードコートでクレープを食べたりして、目的が無くなったので早めに駅に戻る事にした。
バスの待ち時間のタイミングが悪かったので、歩いて本八幡駅へと向かう。バスが出ているとは言え、歩いて十五分程度の距離だ。バスを待つより早い事もある。
線路沿いに駅へと向かっていると、ポツポツと雨粒が落ちて来た。
秋めいて来たとは言え、まだまだ天気は崩れがちで、すぐに空模様を変えるのだ。
「すいません、僕傘持ってなくて」
「いえ、天気予報では一日晴れでしたから、掛川君が謝る事では無いし私も折り畳み傘なんて持ってません」
早歩きで歩いていると、いよいよ本降りになって来た。結構な強さで私達の顔を叩く様に濡らして来る。
「走りますか?」
そう尋ねて来る掛川君。しかし私は、とある建物が目に入ってある事を思い付いた。
これも良い機会かも知れない。
「あそこで雨宿りしましょう」
そう言って私が指を刺した方向に目を向けた掛川君は、目を丸くして再度私に向き直る。
「えっ……いやでも、あそこは……」
「ラブホテルですね」
そう、多分本八幡周辺に一軒しかないラブホテルだ。駅からコルトンに向かう道中にある為、雨宿りには打って付けだろう。
「掛川君が嫌ならこのまま走って駅に向かいますが」
そう尋ねると、彼は顔を伏せて逡巡する。しかし、顔を上げて私に向かってこう言った。
「そうですね。買った服もある事ですし、行ってみましょうか」
言うまでもないが、私はラブホテルなんてものに足を踏み入れたのは初めてだ。
ぶっきらぼうな態度の関西弁で話す受付係に指定した部屋の鍵を手渡され、私達はびしょ濡れのままエレベーターへと乗り込む。
それなりに古い建物なのか、やや小煩い音を立てて私達を乗せた鉄の箱は上へと登っていく。
部屋のある階に到着し、通路を進んで扉の前に立ち、鍵を差し込んで回して開けて中へと入る。
「おお……」
これがラブホテルか。
やや手狭だが、白を基調とした豪奢な装飾の一室だ。
二人掛けのソファと、目の前にはテーブル。テーブルの天板はガラス製でその上にはライターと灰皿が置かれている。
テレビや、小型の冷蔵庫もあり普通に居心地は良さそうだ。
整えられたベッドはダブルサイズと言うやつだろうか、家具屋やテレビ以外でお目に掛かるのは初めてである。
私は荷物をテーブルに置いて、掛川君の方を向く。
「このままだと風邪を引いてしまうので、先にシャワー浴びて来ても良いですよ」
「……えっ……?あー、いや。篠嵜さんが先に浴びて来て下さい。女性が身体を冷やすのは良くありませんから」
若干上の空だった彼だが、すぐに落ち着きを取り戻してそう返して来た。
「そうですか、それじゃあお言葉に甘えます」
私は洗面台がある脱衣所に行って、服を脱ぐ。
まぁ、これはそういう流れだろう。
一応恋人なのだし、こういう経験もしておいた方が良い。勿論彼にその気がないなら雨宿りだけして帰れば良いだけの話だ。とは言え一応入念に洗っておこう。
む、ジャグジーとかは付いてないのかこの風呂。『天気の子』で見てから少し憧れていたんだが、まあ良いか。湯船を張るのは面倒なので、普通にシャワーで済ませよう。
備え付けのシャンプーやコンディショナー、ボディーソープをジャブジャブ使い、汗を流す。
脱衣所に戻り、タオルを手に取ろうとすると……。お?これバスローブってやつか?初めて着るなあ。
バスローブを羽織って、ドライヤーで髪を乾かす。ここは三時間六千円との事なので、早めに済まそう。
準備整えた私は、掛川君が居る部屋へと戻った。
「お待たせしました、次どうぞ」
「……ええ、どうも」
ソファに腰掛けて待っていた彼は、私を横切って脱衣所へと入っていった。
とりあえず私はベッドに横になってみる事にした。
おお、なんかスプリングが効いててボヨボヨしているな。そして今気が付いたが天井が鏡になっている。これは面白い。
寝転がりながら、ベッドの脇にあるスペースに置いてあったテレビのリモコンを手に取り、点けてみる。
おお……アダルトビデオだ……ってこれ、観た事あるな……朝霧浄監督の作品じゃないか。
私が極偶にAVを観る時は、兄の部屋にあるDVDを拝借していた。色々数があるのだが、兄は決まってこの朝霧監督の作品しか持っていなかった為、今テレビの画面に映っているものは観た事があるものだった。
彼女が三日間家を空けている間に彼女の友達を連れ込んでそういう事をする的な内容なのだが、兄はこのシリーズを何本も持っていた。
大抵事を済ませた男女が、空腹になって全裸のままインスタントラーメンを作って食べるというシーンがあるのだが、私はこれを「事後ラーメン」と勝手に呼んでいる。
丁度事後ラーメンのシーンに差し掛かった所で、掛川君が脱衣所から出て来た。
「お待たせしました……って何観てるんですか……」
「AVです。この作品は兄が好きだったので、久々に私も観てました」
「そうですか……」
掛川が徐に隣に腰掛けたので、私はテレビの電源を落とす。
身体を起こして彼の顔を見る。彼も、私の視線に気が付いてこちらに目を合わせた。
「……」
「……」
暫しの沈黙。髪は乾かさなかったのか、彼の髪はまだ少し濡れていて、雫が一つ髪を伝って首筋に流れる。風呂上がりで眼鏡を外した彼は、やはり端正な顔立ちをしていた。
しかしその表情が……なんていうか……申し訳なさそうな顔をしているのは何故だろうか。
「……してみますか?」
私は、彼に問い掛ける。
こういう事は合意の上でするべきだ。幾ら私が問題ないと思っていても、向こうに問題があったらいけない。
「……そうですね、してみましょうか」
そう言って彼は立ち上がると、部屋の照明を落とした。
ベッド脇にある間接照明だけが、唯一の光源。仄暗い部屋に浮かび上がる彼の影。ゆっくりと、此方に近付いて来る。
彼が片膝を乗せると、ベッドがその重みで少し傾く。私が仰向けになると、彼は両の腕を突いて、私の上に覆い被さる様にした。
互いの距離が近い。彼の表情は、部屋が暗いせいで薄ぼんやりとしか見て取れない。
「正直こう言ったまともな性交渉は初めてなので、どうしたら良いかわかりませんが……」
「僕だって初めてですよ……なので、お互い様です」
そう言って彼は、私のバスローブの紐に手を掛けて、シュルリと解いた。
私の身体が露わになる。
流石に少し気恥ずかしい。エイミーに見られるのとも違う、別の感情が湧き起こる。
彼もバスローブを脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿となった。
彼はあまり運動はしない様だったけれど、それでも引き締まった良い身体をしていた。少し肉が足りないくらいだ。
彼の手が、私の頬に触れる。
動かした彼の膝が、私の内腿に触れて少し冷たい。
彼の髪から伝った雫が、私の鎖骨に落ちて弾けた。
唇と、唇が近づいて……
「やっぱりダメだ」
そう言って、彼は、私の頬から手を離した。
「……ごめんなさい篠嵜さん。貴方はとても魅力的な人だけど、こういう事は出来ません」
暖色の間接照明が、彼の表情を照らす。申し訳無さそうな、辛そうな、そんな顔。
そんな気はしていた。もしかしたらとそう思っていた。
彼は私とそういう事をする気はないような雰囲気だったし、そして何より……。
「……やっぱり電話じゃないとダメなんですか?」
「ッ……」
私の口から出たその言葉に、彼は少し動揺する。
「……電話越しじゃないと、射精出来ないんですか?」
「……」
私の問い掛けに、彼は暫く沈黙したが、やがてコクリと頷いた。
やはりそうだ。
そんな気はしていたのだ。
掛川君とは『盗作』の話は一度もしていない。なのに、以前私があの作品から引用した文言に対して、彼は言及もせずに引用で返して来た。彼はいつも私が呼んでいる本や、聴いている曲のタイトルから話を始める。なのにあの時はただ引用で返してお仕舞いだった。
ピアノが好きなのにピアノを避ける所もそうだ。似通った点が幾つもある。
そして親が過保護だと言っていたがそうではない、彼の親は彼に勉強を強いているのだ。だから放課後はすぐに帰らなければいけなかったし、休日のデートだって、毎週出来ている訳でもなかった。多分、親が家にいないタイミングを見計らっているんだろう。
彼は、あの卑猥電話の彼だったのだ。