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第三章 最悪の日前日

 それから少し経って、いよいよ最悪の日の前日になってしまっていた。

 もう既に九月半ば前だというのに、一向に気温は下がらず、しかも明日は快晴なんだそうだ。そんな炎天下で、未来ある若人を前時代的拷問めいた競技の渦に放り込もうというのだから、うちの学校は中々に気合の入った加虐嗜好の持ち主が校長をやっているに違いない。

 現在私は、放課後だというのに体操着で校庭の端に立たされている。既に本日も蒸し暑く、照り付ける太陽が私の肌を焼くように燦々と輝いていた。

 「……チッ」

 「ケーコちゃん、怖い顔してるよ〜」

 思わず太陽を睨み付けて舌打ちをしてしまった私に、エイミーが声を掛けてくる。

 「……これいつ終わんの?」

 「え?今日は十八時くらいまでやるってさ」

 「は?」

 ば〜〜〜〜〜〜〜っかじゃねえの⁈

 「え?なんで怒ってんの?」

 現在我々二年B組一同は、明日に控えた体育祭のクラス対抗競技に向けて練習を行おうとしていた。

 「いやあ、楽しみだねえ体育祭」

 「いや、少しも楽しみじゃない」

 「え?どしたん?だいじょぶそ?」

 「そっちがだいじょぶかよ……毎年思ってたけどこれ何が面白いんだよ……どいつもこいつも頭おかしーんじゃねえの?」

 「え、ケーコちゃんヤバ……キレ過ぎ……」

 どうやらこの隣にいるエイミーは、体育祭に対して前向きな様だ。

 正直私は幼い頃から体育祭というものが大嫌いだった。別に運動が不得意な訳じゃない。どちらかと言えば私は運動神経は良い方だ。なんでも卒なくこなせる器用さを持つこの私は何をやらせても八十点は堅い。しかし、この体育祭という行事は何も面白くないのだ。

 何故か江戸川区の小中高等学校は涼しい時期に運動会、体育祭の類を開催しようとしないし、名前も顔も知らない同級生や、他学年の生徒が走ったり投げたり引っ張ったりしてる姿を見ていても何も面白味がないし、勝とうが負けようが興味無い。

 去年なんかあまりに面倒臭かったのでこの手の全体練習とかいうのは全てサボった記憶がある。今回もそうしようかと思っていたのだが、エイミーに無理矢理連れて来られてしまったのだ。

 「あ、ケーコちゃん。始めるってさ」

 「チッ……」

 「舌打ちで返事しないで……こわいんだけど……」

 因みに、クラス対抗競技とやらはドッジボールらしい。こんなの練習もクソもないだろ。付け焼き刃で上手くなるとも思えないし。

 「じゃあ二手に分かれて〜」

 と、多分クラスの中心人物っぽい雰囲気の男子生徒が何やら仕切っている。試合形式で練習しようって話か。どうやら教室の席を中央で割ってチーム分けをしたらしい。どうせ明日は全員同じチームなのだが……。それに試合を繰り返すよりは、ボールを取る練習とか、仲間同士でのパスとかの連携に重点を置いたほうが良いんじゃないか?……まぁどうでも良いか。

 それに、一年の時のクラス競技よりは幾分ましだ。一年時はまさかの大ムカデ競争。クラス全員が一列となり、それぞれの足を紐で括り付け、一斉に左右の足を前に出して走るという地獄の競技だ。何度も転ぶし、痛いし疲れるしで本当に最悪だったので、私は一回目の練習以降は全てサボり、本番もトイレに篭ってやり過ごしたのを覚えている。

 対してドッジボールはまだ楽だ。突っ立ってるだけでいいし、面倒になったらボールに当たりに行って即終わりだ。

 そんな事を考えていたら、試合が始まっていた。

 誰も彼もコートの中を走り回って楽しそうにしている。……お、ボールが来た。

 私は飛んできたボールをキャッチする振りをして、わざと取り零す。

 「篠嵜アウト!」

 お、仕切ってた人……よく私の名前知ってたなあ。エイミーもそうだが喋った事が無かったり、関わりの無い人間の名前と顔を覚えている人の感覚がまったく分からない。

 私はコートから出て、試合の行方をボーッと眺める。

 「……」

 うん、サボるか。誰もこっち見てないし。なんか試合やってるだけで上手い人が下手な人にアドバイスとか、そういう練習っぽい事の一つもしてないから居ても居なくても変わらないだろう。

 私はそのまま後退り、校舎裏の方に歩いた。

 このままフェードアウトしていれば、誰も私が居なくなった事には気が付かないだろう。

 そのまま私は人目に付かぬよう校舎裏を通って裏口から校舎に入ろうとしたが、とある人物と鉢合わせしてしまう。

 私がこの学校で顔も名前も知っている人間は、エイミーとジェシーちゃん。そして担任(顔は分かるが名前は知らない)と……。

 「あれ、篠嵜さん。こんにちは」

 私の彼氏である掛川学君くらいだ。

 「……こんにちは」

 「篠嵜さんは、クラス競技の練習?」

 彼は何やらハードルを校舎裏の壁際に運んでいた様だ。他にも明日の体育祭で使うのであろう道具があちこちに置かれていた。彼は手に持っていたそれを置いて私の方に歩み寄って来る。

 「まぁ、そんなとこです。そちらは」

 「僕は体育祭実行委員の手伝いです」

 「実行委員だったんですね」

 「いえ、生徒会として手伝ってます」

 ああ、そういえば生徒会長だったなこの人。大変だなあ。

 「今は休憩中ですか?」

 「いえ、今切り上げた所ですが」

 「あれ?B組のグラウンド使用許可は十八時迄で申請されてたと思いましたが……」

 げ……。部活動に関係のない生徒がグラウンドを使用するのは生徒会の許可がいるのかなんなのか知らないが、彼はその辺りを把握している様だった。

 「いや、面倒臭くなったので逃げて来ただけです」

 「え?……ああ、なるほど。そう言えば去年も篠嵜さんはサボってましたね」

 特に非難する様子も見せず、彼は笑顔でそんな事を言って来た。

 「……なんで去年の私の事を知ってるんですか」

 思わず、疑問に思った事を聞いてしまった。

 「え?同じクラスでしたし……」

 「えっ」

 マジかよ。なんか告白された時に「貴方の事は顔も名前も知らない」とか言っちゃったよ。凄く失礼だな私。

 「ああ、気にしないで下さい。学校で喋った事は二度くらいしかないですから……それに篠嵜さんあんまり他人に興味なさそうだったし」

 「はあ、なんかすいません」

 エイミーにも言われた事だが、無表情とは言え周りに興味が無さそうというのはなんとなく分かるらしい。

 「まぁ、今はこうして僕の事は覚えてくれたようなので構いませんよ」

 「まぁ、流石に付き合っている人の事は忘れませんが」

 あ、そういえば彼に聞いておかなければならない事があったんだった。

 「あの、掛川君」

 「はい?なんでしょう」

 掛川君は校舎の壁に凭れながら私の顔を見つめている。

 「私の何処が好きになったんですか?」

 今も彼が言った様に、私との接点なんて去年同じクラスだった事くらいしかない筈だ。自分で言うのもなんだが容姿以外に殆ど取り柄はない。

 「え?ああ……」

 彼はその問いを受けて、少し考えながら言葉を選んでいる様だ。

 一週間程前に丁度ここで私に告白して来た彼の動機が分からなかった。

 「そうですね……まぁ最初に貴方に興味を持った理由は、身も蓋もないんですが……とても綺麗だと思ったので」

 少し照れた様に、頬を指で掻きながら彼は話し始める。

 「入学して、同じクラスになって、なんとなく目で追う様になって……話した事は殆ど無いけれど、貴方がどんな人なのかは少しですが分かる様になっていきました」

 「はあ」

 「面倒臭そうにしているけど、運動が得意な事。美術の才もあり、歌も上手だ。読んでいた本も僕と趣味が合いそうだったし、段々と惹かれて行きました」

 驚いたな。そんなに私の事を見ていたとは。

 「あ、なんかストーカーみたいですね。引いちゃいましたか?」

 そう言って少し申し訳なさそうな顔をする彼。

 「いえ、別に」

 「そう、なら良かったです……。まぁあとこれは最近知った事ですが、友達思いの良い人なんだって」

 「友達思い?」

 私がか?

 「ええ、薔薇園さんの件です」

 ああ……私がクラスメイト……名前忘れちゃったな……エイミーに嫌がらせを加えていた奴らを殴った時の事か。

 「一応生徒会長なので、その辺の事は耳に入って来ます。それを聞いた時に驚きました。あの篠嵜さんが友人の為に怒りを露わにした……」

 「……いや、別にそんな大層な事じゃないですよ。私は私の感情を優先して暴力を振るっただけです。理由はどうあれ褒められた事じゃ無い」

 「まぁ、そうかも知れませんが。周りを顧みずに、自分が思った様に行動できる貴方の強さに憧れたんですよ」

 私の……強さ?

 「体育祭だってそうです、嫌だと思ったって普通はサボりません。悪い話に聞こえるかも知れませんが、皆クラスから孤立する事を恐れて、嫌だと思っても練習に参加したりするのが殆どですから。そんな中貴方は……とても自由だった」

 「自由?」

 そう彼の言葉を聞き返した私の横を、紋白蝶が羽ばたきながら過ぎて行った。彼はそれを目で追いながら、言葉を紡ぐ。

 「周囲の目も気にせず、自分がそれで良い思った事をする。体育祭も練習もサボり、学祭も朝の出席だけ終えて姿を晦ませる。僕は割と周囲の目や大人の評価を気にしてしまうので……貴方のそんな所に憧れました」

 ……なんか行事に後ろ向きで協調性の無い根暗高校生の話にしか聞こえなかったが、彼からしてみれば良い様に映ったようだ。

 「あとこれも理由の一つですかね……貴方の声は、とても綺麗だ」

 声が、綺麗。なんだか少し前にも誰かに同じ事を言われたっけな。

 「どうですか?僕の答えに満足出来ましたか?」

 そうやって彼は、またはにかむようにして笑う。

 「……はい、ありがとうございます。納得はできました」

 「なら良かった」

 掛川学……私はこの一週間の彼と、生徒会長という肩書きしか知らない。しかし彼は、ずっと前から私を知っていたようだ。恋愛をすると決めたからには、私も彼同様、彼を理解していくことが必要だ。

 「あの、今日は何時に帰れますか?」

 「え?……ああ、十八時には切り上げると思いますけど」

 「じゃあ、下駄箱のところで待ってます」

 「え、ああ……はい!」

 私からそんな事を言い出すのが意外だったのか、彼は少し面食らっていたがすぐに笑顔で返事をしてくれた。

 今日はバイトもないし、まあ良いだろう。

 「それじゃあ、私はそれまでの暇潰しに行って来ます」

 「ははは、戻るんですね」

 踵を返そうとする私を見て、彼はそんな事を言ってくる。

 「まあ、タイミングが良さそうなので仕方がなく」

 「そうですね……それじゃあ、また後ほど」

 そう言って私達は、それぞれ逆の方向へと向かった。

 「あ、ケーコちゃん戻って来た!絶対帰ったと思った〜」

 校庭の方に戻ると、丁度試合が終わったところだったのか、水分補給していたエイミーが私に気が付いて声を掛けてくる。

 「いや、帰ろうとしたんだけどやめた」

 「え、どしたん?」

 「掛川君と帰る事になったから」

 「あーね?一応ちゃんとカレカノやってんだ」

 「まあ、一応ね」

 彼氏と彼女か……多分私達のこれは世間一般から見てのそれとは大分掛け離れているのだろうけど、とりあえずはこれで良い。まだどう転ぶか分からないが、彼の事を知って、そこから恋愛というものを知っていけば良いのだ。


 十八時を少し過ぎて、私は制服に着替えて下駄箱のところで彼を待つ。結局あの後もひたすら試合形式での練習?が行われ、私はわざとアウトになって終わりまでボーッと突っ立っているという行動を繰り返し続けた。退屈だったなあ。

 「お待たせしました」

 指定の夏服に着替えた掛川君が、諸々用事を終えたのか下駄箱までやって来た。

 「いえ、私もついさっき来た所なので」

 「そうですか、では行きましょうか」

 そう言った彼の隣を歩いて、校門を潜る。

 日没時間だけは秋の振りをしているようで、最近はこの時間には太陽は殆ど沈んで、西と東で赤と黒のグラデーションを空に描いている。

 「あの、良かったら夕食一緒にどうですか?」

 掛川君がそんな誘いをして来る。ふむ、それもまた一興か。

 「いいですよ」

 「良かった、何か食べたいものとかありますか?」

 「そうですね……サイゼとか」

 「サイゼですね、確か駅前にありましたっけ?」

 なんだその言い方は、行ったこと自体はあるけどここ数年は訪れていないみたいな。

 「ええ、駅前にありますけど……あんまり行かないんですか?」

 「はい、うちの家はあんまり外食をしないので」

 ああ……まぁうちも両親が共働きじゃなかったら今みたいな頻度では行っていないか。

 「今日は体育祭の準備があるから遅くなるって言ってあるので、十九時半頃に戻れれば大丈夫かと」

 「……ご両親、厳しいんですか?」

 少し彼の顔に影が刺した様な気がしたので、私は思わず尋ねてしまう。

 「え?……ああ、まあそれなりに。過保護なもので」

 「そうですか」

 「なので、あんまり篠嵜さんと放課後や休日に一緒にいられる時間は短いんです……ははは」

 ……過保護ねぇ。なんだか含みのある様な言い方だったけれど、まあ詮索し過ぎるのも良くないか。徐々にその辺は聞いていけばいい。

 少し歩いて瑞江駅に到着し、いつもの雑居ビルのエレベーターに乗り込みサイゼのある階に降り立つ。

 平日の夜という事もあり客は疎だ。この駅は居酒屋と飲んだくれが多いので、時間帯にもよるが、ファミレスはあまり人気が無い。

 店員に案内された席に腰掛け、いつも通り注文票にメニュー番号を書き込もうとするが……掛川君はサイゼ初心者か、偶には同行者と一緒にメニューを見る気遣いも必要か。

 「最後に来たのは小学校低学年くらいだったかな……何かオススメはありますか?」

 メニューを広げ、目を落としていた彼はそんな事を言い出す。

 は?最後に来たのが小学校低学年?そんな人間存在したんだ……。

 「そうですね……とりあえず前菜は無難に小エビサラダか柔らか青豆、ほうれん草も捨てがたい……副菜のエスカルゴは絶対食べないとダメです、フォッカチオとセットで。ピリ辛チキンも絶品で……あと最近ポテトがリニューアルしたのでオススメです。メイン所はディアボラチキン……パスタ系だったらペペロンチーノとたらこソース……まぁとにかく全部美味しいですよ」

 ん?オススメを聞かれたので答えたのだが、なんだか彼は面食らってる感じだ。

 「どうかしましたか?」

 「あ、いえ……本当に好きなんだなって」

 そう言って彼は笑顔を浮かべているが……なんだろう?まぁいいか。

 「じゃあとりあえずサラダとエスカルゴとフォッカチオとディアボラチキンにしてみます」

 「……足りますか?」

 育ち盛りの男子高校生なんだし、もっと食べるのでは?

 「いや……とりあえず食べてみて足りなかったら追加してみます」

 「そうですか」

 注文票に彼の分を書き込んだあと、自分の注文を書き足していく。とりあえず絶対条件のエスカルゴとフォッカチオを二つずつ、あとディアボラは確定。マルゲリータと……ペペロンチーノとカルボナーラとたらこソースはとりあえず迷ったらもう三つ頼む事にしている。あとはピリ辛チキンとムール貝辺りかな。ポテトも頼んでおこう。

 二枚目に突入した注文票を店員に手渡し、ドリンクバーでジュースを入れた後に席に戻る。

 「篠嵜さん、いっぱい食べるんですね」

 「え?ああ……まあ」

 すると、彼はそんな事を言った後、少し上を見上げる。いや、見ているのではない……聴いているんだ。彼は天井にあるスピーカーから流れる音楽に耳を傾けている様だ。流れているのは、ピアノの旋律。曲名は知らないけれど、跳ねる様に楽しげな音が聞こえる。

 「……なんて曲ですか」

 「え?」

 不意に私は彼に尋ねてみる事にした。駄菓子屋でもそうだったが、どうやら彼はピアノに詳しいみたいだからな。

 「クレメンティの、『6つのソナチネ』の第二番ですね。イタリアンレストランなので、イタリア生まれのピアニスの曲を使っているんでしょう」

 「ソナチネ?」

 「イタリア語……またはドイツ語等で「小奏鳴曲」……「小さなソナタ」という意味です」

 「小さなソナタ……」

 「はい、初心者向けのソナタと言いますか、技術的には簡単で、尺も短いので練習曲としてよく用いられます。特にこのクレメンティのソナチネはその側面で有名ですね」

 「へぇ」

 やはり掛川君はピアノが好きな様だ。普段浮かべてる笑顔よりなんというか、無邪気な印象を受ける。

 「ピアノなら、私も多少の心得があります」

 「へえ、そうなんですね」

 「今言ったソナタで浮かんでくるのは、ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番」

 「『月光ソナタ』ですね。あれはいい曲だ」

 「はい、私もそう思います」

 ……。

 「掛川君は、普段休日は何してるんですか」

 「休日ですか?基本的に勉強で、後は読書とかですかね」

 「校舎裏で、本の趣味が合いそうと言ってましたが、どんなのを読むんですか」

 「そうですね……教室で篠嵜さんが読んでいたもので一番好きだったのは『ぎぶそん』ですかね」

 「ああ……」

 去年のいつだったか読んだ記憶があるな。ガンズアンドローゼズに憧れた中学生がロックバンドを始めて、文化祭でライブをやる小説だったか。読みやすい文体でテンポも良く、私もかなり好きだった覚えがある。

 「専門用語が殆ど出てこないし、優しい物語だと思いました。あれを見てロックを始める人もいるんじゃないですかね」

 「そういえば兄はあれを読んでギターを始めたとか言ってましたね」

 主人公のバンドのリードギターの少年が持っているギターがかっこいいからとか言っていたっけ。ギブソンのフライングVだ。当時アルバート・キングもマイケル・シェンカーも知らない兄が、いきなりお小遣いを叩いてあのギターを手にしたというのだからどうかしている。今思えばあれは初心者が最初に買うギターではない。だって座って弾き辛いし。

 「へえ、素敵ですね」

 「どうですかね、それから何もかもそっちのけでギターに打ち込んで相当周囲を困らせてましたが」

 「……僕が思うに、良い作品には引力があるんだと思います」

 「引力?」

 烏龍茶の入ったグラスを傾けながら、彼は突然そんな言葉を用いる。

 「はい。昔軽音楽がテーマのアニメが流行った時は、ギターやその他の楽器の売り上げが急増したそうです。自転車のアニメが流行った時はロードレーサーが、キャンプアニメではキャンプ用品が……そう言った趣味を推している作品だからと言って、良いものでなければ人は食い付かないし、何かを始めるきっかけにはなり辛いでしょう」

 「まぁ、そうかも知れませんね」

 「なので、あの小説はそれだけの引力を持っていたって事です。少なくとも、お兄さんが熱中するくらいには」

 まぁ確かに、あのライブシーンは私にだって心惹かれるものがあった。音を楽しむと書いて音楽と呼ぶ。楽器を演奏している主人公達の楽しさは十二分に伝わってきた。

 「……掛川君に取って、一番引力のあった作品はなんですか?」

 「え?」

 私は彼に質問を投げ掛ける。恋愛を知る為という目的とは、別の意味も含まれているのだが、どうにしろ彼を知らなければならない思う気持ちに変わりはない。

 「そうですね……僕の場合は読み物や映像作品ではなく、メロディですかね」

 「メロディ……」

 「はい……さっき篠嵜さんが言った、『月光ソナタ』です。あれを初めて聴いた時の胸の高鳴りは、今でも忘れられません」

 彼はそう言葉を並べると、私に目を合わせて笑った。

 ……この人は、分かって言っているんだろうか。それとも……。

 ふと思い至った私は、彼の目を見てこう言った。

 「美しいメロディには目がないんですね」

 「……そうですね、昔から」

 私がとある小説の引用を用いると、彼は少し口を閉じたが、やはり同じ引用で返してくる。

 そのタイミングで、注文した料理が次々と押し寄せ、この話題はそれに流されていった。

 その後、料理を平らげて少し雑談した後、そろそろ帰らなければならない彼が言うので、共に帰路に着いた。

 「それじゃあ篠嵜さん、また明日」

 「はい、また明日」

 駅からだと私の家の方が先に着くので、彼とはそこで挨拶を交わして別れる。

 彼の人となりはなんとなくは分かってきた。しかし、恋愛についてはまださっぱりだ。放課後にサイゼデートというのは非常に魅力的な事のように思うが、所謂トキメキとかそういうのとは違う気がする。

 そんな事より気になる事が幾つか出来た。私の頭は、徐々にそれの方向に傾き始めていたのたが……今はまだいいだろう。とりあえずは、明日の地獄の様な時間を乗り切らなければならない。

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