第三章 彼と放課後
残暑冷めやらぬ九月。
残暑と言うか猛暑。
波瀾万丈な夏休みも終わり、私は炎天下での登校を余儀なくされている。
母も出張から帰ってきて、生活は安定しているがこの暑さはどうしようもないのだ。
現在私は、あの場で掛川君と連絡先を交換した後に教室へと戻って、昼食のサンドイッチを自席に取りに来たところだ。
「ケーコちゃんどこ行ってたん?」
と、隣の席のエイミーが声を掛けてくる。相変わらず今日も可愛いなこの女は。
「いや、ちょっと用事」
「ふ〜ん」
エイミーと親友になってからというものの、彼女とは毎日昼食を共にしている。
私達は教室を出て、旧校舎へと忍び込み、階段を上がって屋上の前の踊り場に来た。ここがいつもの定位置だ。
古びた木造校舎には冷房の類はないが、あちこち隙間が空いているせいか風が吹き抜けて意外と居心地は悪くない。
「そーいえばケーコちゃんお昼あんまり食べないよね?だいじょぶそ?」
そこに座り込み、弁当を広げていたエイミーが私に尋ねて来る。
「いや、大丈夫だけど」
正直全く足りないのだが、食べ過ぎると五時間目以降が眠くなって仕方がないので少なめにしているのだ。
「……エイミーも少ないよね」
彼女のお弁当は、握り拳二つ分くらいの小さなもので、鳥ささみやサラダがメインの低糖質高タンパクな内容だった。
「あ〜……今ダイエット中だかんね」
こんなに細いのに?そういえばブレイデンさんがそんな事言ってたな。
彼女の体の何処に不満があるのか分からないが、更に痩せようと考えているようだ。
「まぁ別にどうでも良いけど、倒れたりしないでよ」
「だいじょぶだいじょぶ。ヘルシーにしてるだけで栄養は考えてるから」
こんな風に、私達は他愛もない会話を続ける。
あ、そうだ。
「エイミー、掛川学って知ってる?」
「え?生徒会長の?」
どうやら知っているようだ。ていうかあの人生徒会長だったのかよ。
「へえ、生徒会長だったんだ」
「えっ……知らなかったの……」
「うん」
「ケーコちゃんらしーね」
湯掻いた鳥ささみにレタスを巻いて口に入れ頬張りながら、彼女はそう言った後に首を傾げた。
「でもらしくないね。ケーコちゃんがサロン以外の人の話するなんてさ」
「ちょっと話す機会があったもんだから」
「ふーん」
彼女自身あまり興味がないのか、特にそれについては聞き返して来なかったので自然とこの会話は流れた。
恋愛の事はエイミーには聞き辛い。彼女は異常性癖者で、その性質から恋愛どころではなかったと以前話していたのを覚えている。
慎也さんも、飯島さんとはその後結局どうなったのだろうか。
あの様子だったから、もう会っていないのかも知れない。私の方にも連絡は来ていないし。彼女の恋心は、一体何処へと行ってしまったのだろう。
異常性癖が、それを壊してしまったのだろうか。
放課後、エイミーは家族と用事があるからと言って、今日は一人で帰る事となってしまった。
するとそんな時、スマートフォンがメッセージの着信を報せる為に震えた。
誰からだろう。
画面を見やると、そこには掛川学の三文字が浮かんでいた。
『良かったら、一緒に帰りませんか』
その一文が送られて来ている。
そうか、恋人というのは一緒に登下校するものなのかも知れないな。漫画でもそんなシーンがあった覚えがある。まあ、今日はバイトも無いし良いだろう。
『はい』
と返事を返すと『下駄箱の前で待っています』と返ってきた。
スマホを鞄に放り込み、私は昇降口へと向かう。
「あ、篠嵜さん」
二年生の下駄箱の横に立っていた彼は、私を見付けると声を掛けて来る。
彼はパッと見て「優等生」という言葉がよく似合う印象だ。
センターパートにしてサラリと流れる黒髪と、品の良いナイロールフレームのウェリントン型の眼鏡がよく似合う整った顔立ちをしている。身長は百七十五センチと言ったところか。
「お待たせしました」
「それじゃあ行きましょうか」
言葉を交わし、私達は校舎を出て校門へと向かう。
九月に入っても、陽が落ちるのはまだまだ遅い。照り付ける日差しに憎悪を覚えるが、まぁ毎日の事なのでそんなに目くじらを立てていてもしょうがないか。
「篠嵜さんの家は、どの方向ですか?」
隣を歩く彼が私に尋ねる。
「瑞江の、高架下の近くです。近くに公園があるところ」
「ああ、恐竜の遊具がある」
どうやら大体の場所は知っているようだった。
「そうです」
「結構近いですね。僕は駄菓子屋の近くに住んでます」
へえ、あそこか。
私の家の近く、食事処すいませんがある方とは逆方向に公園がある。その先に駄菓子屋と病院や電気屋、住宅が立ち並ぶエリアがある。
「駄菓子屋か……最近行ってませんね」
幼い頃はよく一人で行ったものだ。僅かなお小遣いでどれだけお腹が満たせるかが勝負だったから、当時二、三十円くらいだったポテトフライをひたすら食べていた記憶がある。
「じゃあ、これから行きますか?」
私の言葉を受けて、彼はニコリと笑ってそう誘って来る。ふむ、彼氏と下校時に逢引か……それっぽいな。
「構いませんよ」
「それじゃあ、行ってみましょうか。と言っても……僕行った事ないんですけどね」
掛川君はそう言ってはにかんで笑った。
「珍しいですね、しかもそんなに近いのに」
「高校に上がる前に越して来たんですよ、前住んでた所は一ノ江の方です」
「へえ」
まぁ確かにその辺りに住んでいたら私と小学校が被ってる筈だしな。
並んで歩き、程なくすると件の駄菓子屋が見えて来た。因みに私の家は通り道にあるからもう通り過ぎている。
『春江商店』と書かれたその駄菓子屋は、私が幼い頃と何も変わっていなかった。経年劣化で少し変色したテントの屋根の様な赤い庇と、コーラの赤いベンチ。建物の二階はピアノ教室になっており、小学生の生徒が弾いているのだろうか、窓の隙間から拙いピアノの旋律が漏れている。
「『猫踏んじゃった』ですね」
上を見上げながら、掛川君がそう呟いた。
「ですね……よくよく考えたら物騒な名前ですよねこれ」
「ははは……確かにそうだ」
彼は私の言葉に少しだけ笑う。そんなに変な事言ったかな。
「この曲は作曲者が不明で、曲名も発祥国も明らかになっていないんです」
「へえ……」
そうだったんだ。
「ブルガリアでは『猫のマーチ』。ルーマニアでは『黒猫のダンス』。フィンランドでは『猫のポルカ』と、曲名は国によって違います」
「全部猫ですね」
「いえ?ロシアだと『犬のワルツ』、キューバでは『三羽のアヒル』……スペインに至っては『チョコレート』と、もはや動物ですら無い場合もありますよ」
随分と詳しいんだなあ。勉強以外にも雑学とか強いのだろうか。いや、頭良さそうってだけで彼の成績とか知らないんだけどね。
「まあ、とりあえず入りましょうか」
二階から視線を下ろした彼は、駄菓子屋の引き戸を開けて中へと入り、私もそれに続く。
店内はまあ……よくある駄菓子屋だ。左右に陳列棚と、中央には平台。奥には弁当が並べられたショーケース、その上にはレジが置いてある。
「おや、あの悪ガキの妹かい」
久しぶりに来たので、キョロキョロと中を見渡していたら、レジの奥から声がした。
そちらに近付くと、レジの後ろで椅子に座りながら煙草を吸っているお婆さんが居た。
うおっ……この人なんも変わってないな。アフロめいたド派手なパーマ頭と、不釣り合いに小さな眼鏡が特徴的で、人の事に興味がなかった私でも良く覚えていた。ていうか……。
「私の事覚えてるんですか」
「そりゃあ覚えとるわ。メグミの妹のケイコだろう」
嘘だろ……確か小学五年生くらいを最後に来てないぞ……。しかも兄の事や名前まで覚えているようで私は驚愕する。
「兄は手の付けられない悪ガキだったが、お前はむっつりとしていて何を考えてるか分からなかったが大人しかった……そしてポテトフライを買い占める子だったのも覚えとる」
「あ〜……」
そんな事まで……。
「あんまりがっつくもんでひもじい家のガキかと思ったわ」
そんな風に思われていたとは……。
「そうだったんですか?」
隣で話を聞いていた掛川君が、隣に来て尋ねて来る。
「ああ、まあ……私同世代の他の人と比べると良く食べるみたいなので」
「へぇ……」
「しかし……えらい別嬪になったなあ……彼氏までこさえて来やがって」
口の悪いお婆さんの言葉に、一瞬否定しそうになったが口を噤む。そうだった、隣の彼は一応私の恋人だった。
「ああ、いやまあ……」
「だが、むっつりとした所は変わっとらん。だから背が伸びてもすぐに分かった。可愛らしい顔をしてるのに相変わらず仏頂面で勿体無い」
「まあ、そうですね」
可愛い事も無愛想な事も自覚がある私は、とりあえず頷いておく。ていうかこのお婆さん放っておくと無限に喋るんだったっけ、一旦黙らせておかないとお菓子が選べないな。
「えっと……今から彼とお菓子を選ぶので、少し黙っていて下さいね」
「ちょっ」
私の直接的な言葉に少し身構える掛川君。しかし、お婆さんは鼻にも掛けていない様子で紫煙を燻らせた。
「その言い草もあの頃のまんまだ……好きなだけ買うてけ」
「どうも」
その様子を見て、掛川君はホッと胸を撫で下ろす。大方お婆さんがブチ切れるかと思ったのだろうが大丈夫だ。今の彼女の言葉で思い出したが、私は子供の頃から「うるさいから黙ってて」と面と向かって言っていた記憶がある。
漸く静かになったお婆さんを横目に、私は駄菓子の物色を始める。
お、ブタメンだ……懐かしいなあ。あとペペロンチーノね、これも冬になると来る度に四個くらい買っていた記憶がある。もっと大きいサイズがあれば良いのにと常々思っていた。
「いろんな種類がありますねえ」
隣に立った掛川君は、多種多様な駄菓子に目を丸くしている。……ここの駄菓子屋っていうか……駄菓子屋という場所自体に来た事ないんだなこの人。
「何かオススメは?」
「そうですね……まあ美味しさで言ったら蒲焼太郎系ですかね」
私は赤いパッケージのそれを手に取る。
魚のすり身を薄く伸ばして味付けして焼いた物だ。
「へえ、なんかシブイですね」
「他にも種類があって、焼肉、わさび、酢ダコなんかもあります」
「一番好きなのは?」
「無難に蒲焼か焼肉ですかね……一時期これをオカズに白飯を食べていた事もありました」
母バレてに止められたけどね。
「なんだかおつまみにも良さそうですね。飲んだ事ないけど」
「兄が酒にも合うと言ってたのでそうなんでしょうね」
「へぇ……よし、じゃあこれにします」
彼は陳列棚から結局全種類の蒲焼太郎シリーズを二枚ずつ手に取って、レジへと持って行く。
「これ下さい」
それを見るや咥え煙草のまま年季の入った電卓をポチポチと押し、お婆さんは値段を提示する。
「一枚十五円、十四枚だから……二百十円」
「安いですねえ……はい、二百十円お願いします」
あれ、値上げしたのか。私がよく買っていた頃は十円だった筈だが……時代の流れというものは斯くも恐ろしい。
「どうぞ」
半分手に取った彼は、笑顔で私にそれを差し出して来た。あれ、それ私の分だったのか。
「お金払います」
「いえ、これくらいなら全然」
む、これがアレか……「ここは俺が払うよ……」ってやつか。男性が格好付けてる時に、それに乗っかってやるのが良い女だと、この間慎也さんが言っていたっけ。ここはまあ有り難く奢られておこう……なんか最近色んな人にご馳走になってばっかりだな?
「それじゃあ、お言葉に甘えます」
「はい、甘えて下さい」
半分受け取った私は、軽くお婆さんに会釈してから店を出て、外に置いてあるベンチに腰掛ける。掛川君もそれに倣って腰を下ろした。
とりあえずはシリーズの顔である蒲焼さんからいこう。包装を破り、中のシートのようなすり身を露出させるが……なんだ?こんなに小さかったか?値段も上がって中身も減らしたって事か、不景気だなあ。
「ん、美味しいですねこれ。確かにご飯にも合いそうだ」
「ええ、とっても合います」
今度一人で蒲焼太郎白飯がっつき大会でもやろうかな。
私は立ち上がって隣にある自販機の前に立つ。小銭を投入し、ボタンを押してジュースを二本買った。勿論ドクペだ。
「どうぞ」
「え?ああ、すいません」
彼に差し出してやると、少し躊躇ったが受け取ってくれた。まあお礼ってやつだな。
「……なんですかこれ」
なに?
真紅の色をしたその缶を受け取った彼は、何か珍しい物でも見るような顔でそれをまじまじと眺めている。
「え……ドクターペッパーですけど……」
「へえ……初めて見ました」
なんだって?
茨城や千葉、千葉寄りの東京ではそこら中に売っているだろ。地域によって売ってない事も多いのだが、マックスコーヒーとドクペは江戸川区ではソウルドリンクとしてそこら中の自販機やスーパーに置いてある。中途半端な微糖が嫌いな私は無糖のコーヒーか、激甘マックスコーヒーしか認めていない。ドクペなんか毎日飲んでる。
「どんな味なんですか?」
「そうですね……コーラの上位互換です。コーラはドクターペッパーの未完成品……言わば引き算されて出来た代物なので、コーラに様々なフレーバーを足したものだと考えて貰えると味が想像しやすいかも知れません」
「え?コーラってこれを元に作られたんですか?」
彼は私の言葉に目を丸くしている。
「はい。ドクターペッパーを真似ようとした誰かが、材料費を抑える意味合いで、フレーバーの元になる素材を引っこ抜いて出来たというのがコーラ誕生の歴史です。ドクペの下位互換、ジュース界の発泡酒、負け犬の飲み物、デカイ顔をする弟、なんて呼ばれてるそうです」
兄が前に教えてくれた事の一つだ。
私はプルタブを起こし、それを喉に流し込む。うん、うんざりする程熱い夏にはやはりドクペだな。喉を刺激する炭酸と、入り混じった複雑なフルーツフレーバーが鼻に抜けていく。
そんな私を見た彼も、缶を開けてドクペを呷る。
「……なんだか杏仁豆腐みたいな風味がしますね。でも美味しいです」
「でしょう」
まあこれ嫌いな人間なんていないからな。何故かシェア率が低いのと、売っている場所が限られているからコーラの方が美味しいみたいな雰囲気に世間は流されているそうだが、どう考えてもドクペの方が美味しい。
蒲焼太郎とドクペに舌鼓を打っていると、上のピアノ教室からまた別の旋律が聞こえて来る。生徒が入れ替わったのだろうか、今度はかなり上手い。聴いたことのある曲だが……曲名が浮かばないな。
「『トロイメライ』ですね、シューマンの」
掛川君が、不意に曲名を口にした。
へえ、そんな曲名だったのか。トロイメライ……確か、「夢」とかそういう意味だっただろうか。
「詳しいんですね、ピアノ」
「え?……ああ、よく聴いていた時期があったので」
頭の後ろに手をやって、またはにかむようにして彼は笑った。
確かに品が良くて大人しめな印象の彼には似合っているな。
しかし、駄菓子屋の上のピアノ教室か……言っちゃあなんだが雰囲気が合っていなくて少し可笑しいな。この幻想的な旋律のせいもあるんだろうけど。
「そろそろ帰りますか」
駄菓子も食べ終わり、窓から溢れ落ちる旋律に耳を傾けていた私は、彼の言葉を受けてベンチから腰を上げる。
「そうですね」
「……楽しかったです。またご一緒してもいいですか?」
「バイトが無い日なら構いませんよ」
「良かった……また声掛けますね。それじゃあ」
片手を挙げて、彼はそのまま駄菓子屋がある通りの角を曲がって行く。私も手を挙げてそれに応えて見送った。
……これが普通の恋人というやつなのだろうか。帰り道に駄菓子屋に寄って、少しお話をして帰る。エイミーとケーキ屋に立ち寄る時とあまり変わらない気もするが……。
彼はどうだっただろうか。一応私の事が好きだから告白して来たのだし、今日私と過ごした時間を、どう捉えているのだろうか。
……ていうか彼は、私の何処を好きになったんだろうか。
容姿だろうか?性格……は、あり得ないか。彼とは話した事もない筈だし……いや、私が忘れているだけという事もあり得るが。
まあ、次会った時にでも聞いてみようかな。初めて出来た彼氏な訳だし、恋愛というものを知る上でも、彼の理解に努める事は大事な気がする。