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夏休み短編6 一本の電話

 電話で相手から受け取る声は、実は実際の肉声では無いのだという。詳しい原理や仕組みはよく分からないけれど、受話器に発した音声を電気信号に変換した後、相手の電話機のスピーカーから音として出力するのだそうだ。

 昨今、携帯電話の普及率は鰻登りで、私が中学生になる頃には同級生の殆どがスマートフォンを買い与えられていた。私がそれを親から持たされたのは、中学三年生になった時だった。当時友人が居らず、家族以外で連絡を取る相手は皆無だったので、無用の長物と言える代物である。

 ニュースなどを見ると、スマートフォンによる犯罪や事件に、中高生が巻き込まれる事例が多発していると良く目にした時期がある。SNS等で繋がりを持った顔も名前も知らない相手と会った結果、トラブルに巻き込まれてしまったとかそんな話だ。

 スマホの普及により、顔も名前も知らない相手とメッセージや通話のやり取りをするのは然程珍しい事でも無くなって来ているが、私はまだその経験はない。なんならどんな感覚なのだろうかという興味すらあった。己の個人情報を漏らさずに、最終的に相手と顔を合わせなければ問題は無い筈なので、要は自身のリスクヘッジが重要であるという事だ。


 現在八月も半ばを超え、段々と夏休みの終わりが近付いて来た。

 そんなある日、リビングの窓際で晩夏の夜空を眺めていた私のスマートフォンに、一本の電話が掛かってきた。

 番号は非通知だったが、なんとなく出てみる事にした。特に理由は無かった。

 机に置いてあるスマートフォンを手に取り、ソファに腰掛けて通話ボタンをタップした。

 声と喋り方から察するに相手は恐らく男性。

 彼は名前を名乗らず、第一声はこうだった。


 『君、今どんな下着履いてるの?』


 創作物の中でしか聞いたことのない、典型的な悪戯電話だった。

 以前の私なら即電話を切っていただろう。しかし、今の私の周りには異常性癖者が何人も居て、私は彼らに興味を抱いていた。

 だからその時ふと思ったのだ。

 この電話の相手も、そうなのではないかと。

 故に私はこう答えた。


 「いや、何も履いてないですけど」


 私は全裸だった。

 風呂上がりで家に誰もいない状況を良い事に、私は生まれたままの姿でソファに座って机に置いていたドクターペッパーを飲みながら外を眺めていたのだ。

 なのでそれを正直に答えただけだ。

 すると、相手はこう言った。


 『君、履かない派なの?』


 そんな派閥があるとは知りもしなかった。

 エイミーは偶にノーパンで出掛ける事があるみたいたが、衛生的な観点でも私はイエスパン派だ。

 「いや、風呂上がりなので何も着てません」

 と、私はまた正直に答えた。すると暫く黙っていた彼は、電話の側で少しだけ笑っているようだ。そして……。

 『まったく……堂々と答えるんだもんなぁ、不意を打たれたよ。……今僕、射精してるよ』

 相手は突然こんな言葉を返して来た。

 たまげたなあ。世の中色んな人がいるもんだなと、改めて思い知らされてしまった。

 「そうですか」

 『……驚かないの?』

 「いえ、凄くびっくりしていますよ」

 『そうは思えない反応だね……気持ち悪いとは思わない?』

 「いや、別に。不思議な事もあるもんだなと思いました」

 『……』

 私の言葉を聞いて、彼はまたクツクツと笑っている様だった。

 何かそんなにおかしな事を言っただろうか。

 『……また明日も電話掛けてもいいかな?』

 男は、私のそんな態度が気に入ったのかそう尋ねてくる。

 「別に構いませんけど」

 思ったままに答えた。なんだか面白そうだと思ったからだ。

 椅子の彼的に言わせてみれば、やはり普通の女子高生の反応じゃないのかもしれない。けど、そう思ってしまったのだから仕方がないのだ。

 『君、変わってるね』

 「貴方には言われたくないですけど」

 『そうか……それもそうだね……それじゃあ、また明日』

 そう言って電話の相手は通話を切った。

 私は、真っ暗になってしまったスマートフォンの画面を見つめる。そこに映る私の顔は、少しだけ口角が上がっている様にも見えた。

 まさか私が全裸だと言う事実を聞いただけで射精するとは……嘘か誠か分からないが、椅子の彼に並ぶ異常性癖を有してるのかも知れないな。

 これにも、名前があるのかも知れない。

 明日彼に聞いてみようと思った。


 こうして、私と電話の彼との奇妙な関係が始まった。


 翌日、私は部屋着代わりにしている体操着のまま家を出て、サロンへと向かった。

 いつも通り嘉靖さんが出迎えてくれて、私は最奥の部屋へと通される。

 「やあ、今日も元気そうでなによりだ恵子君」

 「こんにちは」

 普段通りに椅子の中から声を掛けてくる彼に軽く挨拶をして、私は腰掛ける。

 「ふむ……少し太ったかな?」

 「そうですか?」

 座った矢先に、彼がそんな事を口にする。

 「まあ、と言っても僅かだがね……普段から君に座られている私でなきゃ見逃しちゃうね」

 恐ろしく早い手刀を見逃さなかった彼かよ。浮世離れしてる雰囲気があるけど、意外に俗っぽいんだよなこの人。

 しかしまあ、多分すいませんに通いまくっている所為だろう。毎日のようにあそこでサービスしてもらっているからなあ。学校が始まったら暫くあそこには通えなくなると思うと少し残念だ。

 「議長様、女性に対してその発言は些かデリカシーに欠けるかと」

 サービングカートを押しながら丁度部屋に入って来た嘉靖さんが、ピシャリと彼に言い放つ。

 「ふむ、……確かにその通りだね。非礼を詫びよう、すまなかった」

 「いや別に構いませんが」

 見るからに太って来たり、私の美しさが極端に損なわれる様なら何か手を打つくらいの事はするが、怒る程気にしている訳ではない。一応母に言われてスキンケアとかヘアケアとかはやっているけれど、そこまでの執着があるわけではなかった。

 「外は暑かったでしょう、これを」

 嘉靖さんはカートに乗せたアイスティーと、三段重ねのケーキスタンドを私の横に置いてあるサイドテーブルに乗せてくれる。

 「ありがとうございます」

 これも太った原因の一つではないだろうか。私が他の人より少し食が太いと言うことを知ってからか、彼はやたらとケーキやお菓子を用意する量を増やしていった。

 お礼を言ってから氷で冷やされたアイスティーを口にする。

 ふむ、美味しい。ピーチフレーバーだ。アールグレイをベースに、熟した白桃の甘い香りが鼻に抜けていく。私はスタンドの上からまずクレームダンジュを取って口にした。

 これも良いな。ふわふわのチーズが口に溶けていく。多分ヨーグルトも使っており、程良い酸味が夏にはピッタリだ。

 紅茶とケーキを嗜みながら、私はふと昨日の風呂上がりの事を思い出す。

 「そう言えば昨日、悪戯電話を受けたんですよ」

 「悪戯電話?」

 椅子の中の彼が私の言葉に反応を示す。

 「はい、番号は非通知でした。電話に出ると「今どんなパンツ履いてるの?」と尋ねられました」

 「……非常に古典的かつオーソドックスな卑猥電話だね」

 卑猥電話……そう、卑猥電話か。その言葉が適当だろう。

 「はい、それでその時私は全裸だったのでそれを答えると……」

 「全裸?」

 「ああ……風呂上がりだったもので」

 「それを答えたのかい?」

 「はい」

 私の言葉を聞くと、昨日の電話の彼の様に、椅子の中の彼もクツクツと笑い出す。

 やはり私の反応は普通では無かったのかもしれない。

 「ああ、いやすまない。続けてくれたまえ」

 「はあ……そうしたら彼はこう言いました「ありがとう。僕は今射精しているよ」と」

 「ふむ……恵子君はこう思った訳だね?……彼もまた、我々と同じなのではないのかと」

 「はい」

 私の言わんとしている事が分かったのか、彼はそう言い当ててくる。

 「ふむ……まだ一概にそうとは言い切れないが、もしかすると【Telephone scatologia】かも知れないね」

 「テレフォンスカトロジア?」

 また聞き慣れない単語が出て来た。

 「ああ、卑猥電話スカトロジーとでも呼ぶべきかな。スカトロジーとは元々糞尿に対する性癖というか思想の事なんだが、この場合は汚らしい言葉……卑猥な物事を電話を通して相手に伝えたり聞いたりする事からこう名付けられたのかも知れないね」

 スカトロジー……糞尿で興奮する……そんな性癖もあるのか、これまた驚いたな。

 「つまり、卑猥電話で興奮する性癖だと」

 「ざっくり言ってしまえば正にその通りだね」

 なるほど、また危険な性癖が出て来たものだ。

 別にその電話口の相手が私に取って危険かどうかじゃない。紗奈さんに言わせると、相手を必要とする性癖なのが電話の彼に取って危険なのだ。

 私以外の人間にも卑猥電話を掛けているのだとしたら、下手すれば通報されて逮捕されてしまう。非通知だからと言って警察が動けば発信元は割り出されてしまうのだろうし。

 もし、電話の彼がその行為でしか性欲を満たせないと言うのなら、これはサディズムマゾヒズムに並んで危険な性癖だと私は思う。

 「それで、恵子君はその電話の彼をどう思ったのかね」

 思考を巡らせていた私を、彼の言葉が呼び掛ける。

 「そうですね、いつも通りです」

 「いつも通り?」

 「はい。面白そうだなと思いました」

 「それじゃあ……また電話が掛かって来たら応対すると?」

 「今の所はそのつもりです」

 面白い事は幾つあっても良い。彼の上に座って、エイミーの裸体を見て、女装してる嘉靖さんにお茶を淹れてもらって、紗奈さんと動物の交尾を見て、慎也さんを蹴飛ばして、大将にご飯を食べてさせてもらって、ジェシーちゃんに匂いを嗅がせて、卑猥電話を受け取る。こんな刺激的で面白い日々はないだろう。

 「……そうか、まあそう言うだろうと思っていたさ」

 予想通りの答えだったのか、彼は椅子の中で独り言つ。

 「だが、まだその電話の彼がどのような人物かは分からない。十分に用心していてくれ。下手に個人を特定される様な事は言わない事だね。直接的に何かしてくるかどうかはまだ分からないのだから」

 「……心配してくれてるんですか?」

 「そりゃあそうだとも。君は私の『椅子の君』なんだからね」

 「……どーも」

 確かに、異常性癖者が誰も彼も私に取って良い人かどうかは分からない。

 異常性癖者で無くてもそうだ。周りにいる人々が、私に取って良い人なのか悪い人なのかなんて分からないのだ。

 「とりあえず、何かあったら私達に相談してくれたまえ」

 「分かりました」

 まあ、荒事になるんだったら慎也さんも頼れるしな。あの人電話で呼んだら五分以内に必ず来るからなあ。今日もサロンの前で待機してたし。……うざったいから帰らせたけど。

 昨日の電話の彼の言葉が本当なら、多分今日も掛かって来るのかな。

 名前も顔も知らない相手と電話で繋がる。

 妙な事もあるものだ。


 その日の夜自室にて、兄が置いていったCDプレイヤーで音楽を聴いていたら電話が鳴った。

 非通知だ。恐らく電話の彼かも知れない。

 スマートフォンを手に取って緑色の通話ボタンをタップする。

 「もしもし」

 『……ねぇ、今どんな下着履いてるの?』

 やはり昨日の男だった。

 「黒です」

 そして私はまた正直に答える。

 『黒……黒かあ、いいね。どんなやつ?』

 「ワイヤレスの上下です。ユニシロの適当なやつ」

 『ああ、あれかあ。シンプルなのがいいね。縫い目が無いのも、生地感も、ふと見てみると綺麗なんだよね』

 「そうですか」

 よく分からないがお気に召したようだ。

 『君はいくつ位なの?声の感じは結構若い雰囲気だけれど』

 彼はそう尋ねるが、サロンでの会話が私の頭を過ぎる。

 「年齢はお答え出来ません」

 『……それもそうだよね。ごめん、変な事を聞いて』

 なんだか謝られてしまった。

 このような電話を掛けているからと言って、普段からこの人が非常識的な人間かどうかは分からない。

 声の感じからは向こうもそれなりに若そうだが、声の印象なんてものは当てにならないし、見た目も割とそうである事はジェシーちゃんと出会って思い知った事だ。

 「私を特定する様な事以外ならある程度は答えられますよ」

 『そうか……それじゃあ、趣味とかはある?』

 趣味……趣味かあ。

 「いや、特には」

 『そうなんだ。じゃあ、今何してた?』

 「音楽を聴いていました」

 『へえ、どんなの聴くの?僕はこう見えて結構音楽に詳しいんだ……って見えないか、ははは』

 突然電話ジョークかましてきたなあ。

 「布袋とCharの『Stereocaster』です」

 多分知らないだろうけど。

 『……へぇ、随分渋いの聴いてるね。あの曲カッコいいよね、PVもシンプルでイカしてるし』

 あれ、どうやら知っているようだ。私も兄に薦められなければ知らなかったけど。

 『ロックとかよく聴くの?』

 「兄の受け売りでそれなりに……日本なら人間椅子、八十八ケ所巡礼、BOØWY。洋楽ならBlack Sabbath、MR.BIG、King Crimsonとか色々です」

 『凄いね、僕と殆ど一緒だ。特にMR.BIGは最高だね、『Colorado Bulldog』が一番好きだ』

 「ああ、イントロかっこいいですもんね」

 以前兄に突然ギターを与えられて一番最初に練習させられた曲だ。思えば思う程初心者が手を出していい曲ではない。暇潰しには丁度良かったし私はとても器用なのでそのうち弾けるようにはなったが。

 『楽器とかやるの?』

 「前にギターを弾いていた時期もありましたけど、ここ二年くらいはあんまり」

 その他ベースもドラムも、ピアノなんかも教えられたけど、最近は触ってもいない。

 『そっか……僕も最近は弾けてないなあ。まあ僕の場合はピアノなんだけどね』

 電話の彼はどうやらピアノを嗜むようだった。

 音楽が趣味なのだろうか、私は趣味って程ではないのだろうけど。

 「……今日は射精しなくていいんですか?」

 ふと、そんな事を聞いてしまった。そんな言葉が無意識に出て来るとは……私もかなり麻痺して来ているな。

 『ん?ああ……とっくのとうに射精しているよ。僕は見ての通り早漏なんだ……って見えないか、ははは』

 また電話ジョークをかまされてしまった。

 早漏……読んで字の如く素早く射精が出来るってことか。

 「そうですか、それは良いことですね」

 『えっ?良いことだと思うの?』

 あれ?良いことじゃないのか?

 「スピードは大事だと思いますが」

 私は処女なので良く分からないが、紗奈さんがそう言っていた。彼女の言い分はこうだ。

 「性行動の最中は無防備になり、注意力も散漫になるから、外敵に襲われやすくなります。素早く終えるのは大事な事だと、友人が言っていましたよ」

 『……それって野生動物とかの話じゃないのかな』

 ……考えてみればそれもそうか。自分で言っておいてなんだが外敵ってなんだよ。

 いや、待てよ……前に兄が「けいちゃんが生まれる前に、親父とお袋が夜中にヤってたから、ギター持って突入してガンズの『スウィートチャイルド』弾き語りしてやったぜ!そん時の種で生まれたのがお前ってわけ」って言ってたな。

 うん、やはり外敵は存在するからスピードは大事だ。考えれば考える程兄は最低だ。種ってなんだよもう少し言い方あるだろ。

 『まあでも、ありがとう。励ましてくれたんだね』

 「え……?いや、まあはい」

 どこがどう励ましになったのか、そもそも早漏とやらが良くない事なのか分からないがとりあえず適当に返事をしておいた。相手が私の意図とは関係なく好意的に受け取っている場合は適当に「うん」とか「はい」とか返事をしておけば良い。これは最近学んだ事の一つだ。

 『……ん?君の住んでいる所からも見えるかな、今日は晴れてて月が綺麗だ……夏は曇りや雨ばかりで少し嫌になるから、こんな夜も良いものだね』

 ふと彼がそんな事を言い出すので、私は少しだけカーテンを開けて窓の外を見上げる。雲は疎で、星と月とが淡く光りながら待っていた。

 なんだか、歌うように喋る人だな。

 確かに、夏にしては澄んだ空をしている。夏の終わりが近い所為だろうか。

 「そうですか?雨が降っていると外に出なくてもいいという口実になります。それに幾らか気温も低くなる。更に言えば、カエルもカタツムリもミミズも喜びますよ」

 この間の雨の日交尾観察の時に紗奈さんがそう言ってたしね。

 『ははは、確かにそれもそうだな。笑ってる動物もいるんだね……それに、君みたいな人も』

 彼は私の言葉に少しだけ笑って、なんだか寂しそうな声を出した。

 『君は透き通るような、綺麗な声をしているね』

 「……どうも」

 声か……初めて言われたな。可愛いとか美人は何度も言われて来たけど、声を褒められたのは初めてだった。顔も名前も年齢も知らない彼は、何も知らないからこそ私の声に美しさを見出したのだろうか。

 『それじゃあ、そろそろ切るよ。また明日も掛けてもいいかな?』

 「お好きにどうぞ」

 『ははは……ほんと、ありがとう』

 そう言い残して彼は通話を切った。

 少しだけ彼の事が知れた。彼は音楽が好きで、ピアノが好きで、私と聴いてる曲が似通っていて……そして早漏らしい。

 しかし……ギターか。

 私はなんとなく思い立って自室の収納クローゼットを開ける。奥の方に安置されていた黒いギターケースを引っ張り出して、手で埃を軽く払い、中を開いた。

 フェンダーのストラトキャスターだ。強請ってもいないのに七歳の誕生日に兄がくれたものだ。まあ、特に私は何も欲しがらなかったので兄の趣味で選んだのだろう。

 この間のジェシーちゃんとの一件もあり、私はなんだか柄にも無く感傷的になっているのかも知れなかった。今までの私は空っぽだったから、その虚の中に一つだけ入ってる兄の事をこうして何度も思い出すのだ。

 二年の歳月で錆びてしまった弦を外し、ケースの中に一緒に放り込まれていた新しい替えの弦をギターに貼り直す。ついでに全体も軽く拭いておいた。

 その後、私は少しだけギターを弾いて眠りに着いた。

 明日の電話の彼は、何を話すだろうか。何を聞いて射精するのだろうか。

 こんな事を楽しみにしながら眠る女子高生は、全国広しと言えど、多分私だけだろう。


 日が登って、沈んで、また夜になった。

 今日も蒸し暑くて、まだまだ冷房無しでは眠れそうにはない。

 私は部屋の本棚から適当な本を一つ手に取って読書に耽る。

 この本はとある音楽アーティストが作ったアルバムの初回限定版に付いてきた物だ。作詞作曲者本人が執筆したものらしい。

 読み進めていると、スマートフォンのベルが部屋に響いた。

 手に取るとやはり非通知。電話の彼だろう。

 「もしもし」

 『今夜も月が綺麗だね……キリギリスと、星が笑ってる……ところで、今どんな下着履いてるの?』

 改めて聞くと、この人結構いい声をしているな。低過ぎずの爽やか系の。口調も相まって声優感がある。……まあ台詞の後半が少しアレなのだけれど。

 「赤です」

 『赤かあ……情熱の色だ。そういえば、赤いアンスリウムの花言葉は情熱なんだそうだ。暖かい時期に咲くから、今が見頃だね』

 アンスリウムか……父が以前庭で育てていたっけな。

 『それはそうと、どんな下着?またユニシロのワイヤレスかな?』

 「いえ、総レースです」

 前にエイミーに買わされたやつだ。とりあえず女性は一、二着は必ずこういうのを持っていないとダメなんだそうだ。

 『そうか、それは華やかだね。あの透け感は何にも例えられないくらい綺麗だ』

 どうやら今回もお気に召したようだ。

 「射精出来ましたか?」

 『もう一声欲しいところかな』

 「因みにTバックでもあります」

 『うッ……』

 お、射精したようだ。

 『ははは、また不意を打たれた。……君はどうやら、僕を楽しませるのが上手らしい』

 「……それはどうも」

 彼は電話の向こうで何やらゴソゴソとやっている。多分諸々処理してるんだろう。

 『いやあ、ごめんね。君の声が聞きたくて、また電話しちゃったよ』

 「別に構いませんが」

 『今、何してたの?』

 「本を読んでいました」

 『題名は?』

 彼の問い掛けに、私は開いていた本を閉じて答える。

 「『盗作』です」

 『ああ……ヨルシカの』

 「そうです」

 『へえ、意外だった。流行りの音楽も聴くんだね』

 「まあ食わず嫌いは良く無いのでなんでも聴きますよ」

 『昔のロックナンバーを聴いている人間は、流行りの曲を毛嫌いしている人も多いからね……よく知りもしないで意外と言った事を謝るよ』

 「別に謝らなくてもいいですよ。好きな時に好きな音楽を聴いていればいい。ジャンルとか流行りとか廃りとか人の目はどうでもいいですから」

 因みにこの本は兄の部屋にあったものだ。兄は周りの人間に対して昔のロックしか聴かない振りをしていたが、影では普通に流行りの曲も聴いていた。理解できないが見栄を張っていたんだそうだ。私からすると見栄にすらなっていないし、何の、何に対しての見栄だったのかも見当がつかない。

 『そっか……僕も同じ考えだ。見ての通り僕はクラシックを聴いていそうな雰囲気だからね、ロックも聴くと言うと驚かれるんだ……って見えないか、ははは』

 この人このジョーク好きだなあ……。

 『ヨルシカの盗作か……あれは良いコンセプトアルバムだし、良い読み物だったな。初めてあの硬くて厚い本を開いて、スピーカーから流れる音に耳を傾けた時、丁度今日みたいな月が出ていた。君からも見えるかな』

 彼の言葉に、私は夜空を見上げる。満月まで後数日という雰囲気だ。

 「見えてますよ」

 『そっか……今、同じ空を見上げてるんだね』

 ヌゥッ、ポエット!

 おっと、思わずラオモト=サンになってしまった。最近忍殺を読み返した影響かな。

 しかし、詩的な表現を好む人だ。アーティスティックなのかな。

 『ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番はわかるかな?』

 「月光ソナタですか」

 『よく知っているね』

 「いや、数字で言われてもわかりませんでした。話の流れ的になんとなく」

 私の返しに、彼はまた小さく笑う。私の言動がいちいちツボに入るようだ。

 今私が読んでいる小説は、半分程ページが空白で中がくり抜かれており、そこには一つのカセットテープが入っている。A面には、『月光ソナタ』と書いてあるのだ。これは、ピアノソナタ第十四番の愛称だった。

 『そっか……僕はあの曲が大好きでね。特に第一楽章。物悲しいんだけど、どこか美しい』

 そう言った彼の声も、何処か悲しげだ。

 ベートーヴェンの弟子であるカール・チェルニはこの曲を聴いて「夜景に遥か彼方から魂の悲しげな声が聞こえる」と評したんだそうだ。

「弾いてみて下さいよ」

 『えっ……?』

 私は不躾にもそう言ってみた。

 何故だかは分からないけどなんとなくそう思ったのだ。

 「ピアノあるんでしょう?電話越しですけど、聴かせて下さい」

 しかし、彼は沈黙してしまった。

 何か……彼の心の何処かに素手で触れてしまったような感触があった。私には無遠慮に人の傷に触れてしまう悪癖がある。

 『……いや、もう暫く弾いていないから自信がないや。少し練習してからでもいいかな』

 ようやく口を開いた彼はそう言ったが、多分嘘だ。

 この電話口の男の事を私は何も知らないが、それでも嘘だというのはなんとなく分かる。恐らく、彼がピアノを聴かせてくれる事は無い気がするのだ。

 「そうですか、分かりました」

 『……それじゃあ、そろそろ切るよ。君と話せて楽しかったよ』

 「あっ……」

 それだけ言うと、今日も彼から電話を切ってしまった。思わず声を出してしまったが、わたしは何を言い掛けたのだろうか……。

 ……何だろう、もしかしたらもう掛かって来ないかもしれないな。まあ、それはそれで仕方がないか。

 私は椅子から立ち上がって、自室を出て隣の兄の部屋へと入る。

 母も、偶に帰ってくる父も、何か思う所があるのかこの部屋には立ち入りたがらない。なので、ここの掃除は自然と私の担当になった。

 兄の部屋はとにかく物が多い。壁一面に貼ってあるブラックサバスのポスター。数本のギターとベース。電子ドラムと電子ピアノ。漫画やテレビゲームにバットとグローブ、そして何故か角にトーテムポールが置いてある。私の部屋と同じ広さなのに、雑多で手狭で、多趣味な彼らしい部屋だった。

 私は電子ピアノから伸びているプラグをコンセントに挿し込み、電源を入れる。

 鍵盤に触れるのも二年ぶりだ。

 ピアノの足元は楽譜を置けるスペースになっており、私はそこから一冊抜き取る。

 ピアノソナタ第十四番、『月光ソナタ』だ。楽譜の読み方は、兄から教わった。

 久しぶりだったので、所々つっかえながら辿々しく旋律を奏でる。下手くそなソナタだ。まあ、でも二年のブランクがあるのでこんなもんだろう。

 楽器も偶には悪くない。多分音楽でしか得られないものもある。だから兄は家を出て行ったんだろうし。

 ……電話の彼は、どうしてピアノを弾かなくなったんだろうか。


 翌日、私はいつも通りすいませんに立ち寄る。

 「ごめんください」

 「はい!すいません!」

 相変わらず謝罪を挨拶代わりにする大将に会釈して、私はカウンター席の方に目を向けると……。

 「う〜ん……う〜ん……」

 紗奈さんが居た。何か唸っている。

 「こんにちは紗奈さん」

 「……む?おお!恵子女史!奇遇だね」

 私を見るや否やパァッと表情を明るくした紗奈さん。その笑顔と、夏でも何処でも着ている白衣が蛍光灯の光を受けて眩しい。

 「紗奈さんもここ知ってたんですね」

 「いやあ大将とはちょくちょくサロンで会ってだんだけどね、来たのは初めて。まぁそれは良いんだけど……ちょっと食べ切れそうにない……」

 そう言って肩を落とす彼女の前には、唐揚げ定食の三人前が置かれていた。まだ半分も食べていない。どうやら注文したは良いものの、お腹いっぱいで食べられないようだ。

 「……食べましょうか?」

 「おお!助かるよ!」

 再びメガネを輝かせながら顔を上げる紗奈さん。この人いつも元気だよなあ。

 「大将、オムチャの三とドクペで」

 「あいよぉ!オムチャ三、ドクペ一丁ずつ!すいません!」

 紗奈さんの隣に座って素早く注文を済ませる。因みに今のはオムチャーハン単品三人前一つである。ドクペは最近私が大将に頼んで置かせて貰った。

 「おお……この残り以外にまだ食べられるんだね、おっそろしい」

 まさか注文するとは思っていなかったみたいで、紗奈さんは眼鏡を押さえながら驚いている。

 「あ、そうそう。聞いたよ〜恵子女史。今イタ電受けてるんだって?」

 「イタ電?」

 ああ、イタズラ電話……電話の彼の事か。サロンで聞いたのかな。

 「ええ、まあ」

 「その後どうだい?まだ続いてるの?」

 「はい、今の所三日連続で掛かって来てますよ」

 「ほぉ〜。流石恵子女史、異常性癖者キラーだね」

 「はあ?」

 何じゃそりゃ、誰も殺してないぞ?

 「この短期間で何人の異常性癖者を手籠にしてきたんだい?」

 「いや、誰も手籠になんかしてませんが」

 「自覚がないってのがまた凄いところだね」

 何だって言うんだまったく。

 私はただ彼らが面白そうだからお話ししてるだけだ。座ったり、裸を見たり、蹴ったりしているのは流れでそうなっただけ。

 「まあ、それはそうと……どんな感じ?その電話の相手は」

 ポケットからピースを取り出し、火を付けて咥える紗奈さん。強いの吸ってんなあ。

 「いや、とりあえず開口一番どんな下着を履いてるのかを尋ねられて、答えると彼が射精して、数分雑談して終わりって感じですかね」

 「おお……答えただけで射精とは、かなりの早漏だね」

 「本人も言ってました。自覚があるみたいです」

 「それは良い事だ。生物として性行動の時間は短ければ短い程生存確率が上がる」

 「それもそうですね」

 「……他には?なんかないの?」

 そう尋ねる彼女に、私は少し考えた後に口を開く。

 「音楽が好きみたいです」

 「音楽?」

 「ええ……ロックからクラシックと幅広く。後ピアノが好きみたいですね、最近は弾いてないそうですが」

 「ほう、芸術家肌かな?異常性癖者が多いタイプだ」

 「そうなんですか?」

 彼女がそんな事を口にするので、思わず私は聞き返してしまった。知らなかった。

 「いやまあ、私の偏見なんだけどね。ダ・ヴィンチは弟子の少年を愛人にしたり、ミケランジェロは筋肉フェチだったり、フェルメールは除き魔だったり。日本だと有名映画監督がロリコンって話もあるしね。まあ、みんな本当の話かわかんないけどさ」

 「へぇ……」

 まぁ、確かに。そう言われてみれば多い気がしないでもないが。

 「まあ、その電話の彼も、恵子女史が居て良かったね。こんな可愛い子が卑猥電話に付き合ってくれるんだからさ」

 「はあ」

 向こうの彼は、私の顔も年齢も分からないんだけどね。

 「おまちどぉ!オムチャ三一丁!すいません!」

 「はい、すいません」

 私は紗奈さんの前に置いてある定食を自分の方に寄せ、手を合わせてから食べ始める。

 うん、少し冷めても衣がザクザクで美味しい唐揚げと、旨味の効いたオムチャーハンが相性抜群だ。

 「いやぁ!恵子さんっ!相変わらず良い食べっぷりだぁ!これ、賄いの余りですがどうぞ!すいません!」

 「どーも」

 食べてる私を見て喜ぶ……じゃなかった、興奮している大将は、またポテトサラダを出してくれる。そんな私をみて、頬杖を付きながら紗奈さんがこう言った。

 「……ほんと、異常性癖者キラーだね恵子女史」

 「?」


 もう電話は掛かって来ないと踏んでいたが、その日の晩も非通知で着信が来た。

 相も変わらず、第一声は『どんな下着履いてる?』であり、態度や様子も声で推し量る範囲では特に最初の時と変わらなかった。


 その次の日……またその次の日も、彼は夜に電話を掛けてきては、私の下着を確認して射精していた。特にあれから私の個人情報を聞き出そうとする素振りも見せず、ただただ射精した後に雑談を少しだけして通話を終える……それだけの日々が続いた。

 昼はすいませんで食事を摂り、サロンに行くか、ワングーに行くか、エイミーと遊ぶかをしてから、夜に彼から卑猥電話を受ける。そんな毎日が通り過ぎて、もう夏休み最終日の三日前となっていた。


 今日の夜はこれから全国的に生憎の雨で、雨天を嫌う彼はそれを見てどんな言葉を話すだろう。

 「もしもし」

 『……空、見てる?今日の夜空は雨催いだね。でも前に君が言ったみたいに、喜んでる動物もいるって思ったら、そんなに悪い気分でも無くなったよ。君のお陰さ……ところで、今どんな下着履いてるの?』

 「グレーのカルバンです」

 『へぇ、あのスポーティなやつか。可愛くて良いよね。あのロゴを少し見せるのが流行ってるらしいよ』

 「そうなんですね」

 下着の一分を見せるのが流行っているのか?世の中の感覚が分からないな。これもエイミーに薦められて買ったものだし、ただの下着とは思えない程の値段だった。

 『……今日は何してたのかな』

 「特に何も、ボーッとしてました」

 『何も考えずにぼんやりとする時間も、偶には良いよね。今日みたいな日は雨音に耳を傾けて、月が休める様に息を潜めて眠るんだ』

 相変わらずの口調で彼は、言葉を溢すように紡いでいく。

 「なんだか詩的ですね」

 『え?……あはは。そう言われるとそうだね、少し照れくさいや。君と話してる所為かもしれない』

 この男、ちょっとずつ口説き文句みたいなのを挟んで来るな。少し椅子の彼に似ている気がする。

 『詩を見るのが好きなんだ。メロディーも伴奏も無いのに、文字や言葉が歌ってるみたいで』

 「詠んだりはしないんですか?」

 『……うん、しないよ。見たり、聞いたりするだけだ』

 「……そうですか」

 やはり、この手の話になると彼は少し言葉に詰まる。音楽も詩も好きだけど、何か理由があって今は触れなくなってしまった。そんな雰囲気を感じる。

 『……君はさ、生きるってどういう事だと思う?』

 「え?」

 ここで突然、彼が哲学的な話を放り込んでくる。随分と抽象的な話で、大掛かりなテーマだ。

 『いや、なんて言うか……こんな話は周りの人間と実際に会って話すのも気恥ずかしいからさ……君となら出来ると思ったんだ』

 照れ臭そうな声で、彼は私にそう言った。彼は時折、何か思い詰めたような……そんな雰囲気を発する事がある。決まって、音楽関係の話をした後だ。楽しそうに好きな話をするのだけれど、次第にトーンを落として、言葉に詰まるのが殆どだ。

 「……そうですね」

 彼の言葉を受けて、思えばエイミーと顔を突き合わせてこんな会話をするなんて想像が付かない。余程シリアスな状況でも無ければ、いつも通り無益な雑談を繰り広げるに違い無い。

 「……今の私に取って生きる事は……悔い無く死ぬ事ですかね」

 『悔い無く死ぬ事……』

 私が発した言葉を彼は反芻する。

 「面白いとか、興味があるとか、好きだと思う事は何でもやってみて、見て聞いて触れて味わって……それで今際の際に、笑って死ぬ為に生きてるんじゃないかと思います」

 これは元々兄の持論であり、今は私の人生哲学である。彼は悔い無く逝ってしまったように見えたが、無論完全に何のやり残しも無く……って訳じゃ無かっただろう。でも最後まで笑ってたから、私も最後は笑っていたいとなんとなく思ったのだ。

 『……笑って死ぬ為……そうか、そうだね、良い言葉だ』

 彼は電話口で目を瞑って、何度も頷いている様な、そんな雰囲気で返事をした。

 「貴方は?生きる事ってなんですか?」

 『僕は……なんとなく……かな』

 「なんとなく?」

 私も、彼の言葉をそのまま口にする。

 『偶々両親の所に産まれて、なんとなく親の言う通りに生きて来たんだ。別に何がやりたいとか、何になりたいとかそういうのは無くて、なんとなく時間の流れに身を任せてふわふわ漂っていた、そんな感じだ』

 酷く身に覚えのある言葉だった。

 ほんの数ヶ月前の私は、無意味に、何も考えずに、無作為に時間を浪費して、気が付けば十七年経っていた。

 そんな生活に嫌気が差しても、自らそれを変えようとまではしなかった。結局の所、私自身の意思で起こした行動は、「椅子の彼に座る」というただの一つしかないのだ。

 「……そうですね、つい数ヶ月前まで私もそうでした。いや、さっきの話をしておいてなんですけど、多分今も半分以上はそうです」

 『半分?』

 「はい。多少の悔いは取り払えて来ているのかも知れませんけど、そう簡単に生き方は変えられるものじゃないですから、半分以上はまだ薄ぼんやりとしながらフラフラ歩いてるんだと思います」

 『……』

 「だから、例えば今死んだとしたら……私は半笑いで横たわっているでしょう」

 『……ははは。半笑いか、なるほどね』

 私の表現が可笑しかったのか、彼はまた少し笑っているようだ。

 『半笑いか……そうだね、僕もとりあえずは微笑程度を目指してみようかな』

 「そうですね、私も満面の笑みで終われる自信は無いので、その辺でいいと思います」

 『ははは、志が低いね』

 「別に良いんじゃないですか」

 『え?』

 志が低かろうが、目標が大したものでは無かろうが、別にどうでも良いんじゃないだろうか。

 「私だって偉そうに言っていたけど、何かこれと言ってやりたい事がある訳でもなりたいものがある訳でも無いんです……ただ、最近出来た友人達の事を、少しずつ理解したいって……そう思ってるだけなので、大した事はありません」

 『……理解したい』

 「貴方の事もそうですよ」

 『えっ?』

 私の言葉に、彼は面食らっている。まさか卑猥電話の相手にこんな事を言われるとは思っても見なかったのだろう。

 「電話で相手の下着の詳細を聞いて射精するなんて……訳が分からなくて、面白い。それを理解したい……少しの興味と関心で、私は貴方とお話しているんですよ」

 『……』

 「気に障りましたか?」

 私のこの不躾さは、その内誰かを傷付けたり、不快な思いをさせるのかもしれない。しかし、私は上手に嘘は付けないし、思ったままを話すという行動が、何かの近道になる事もあるという事を知っている。

 『いや、そういう訳じゃないよ。ただ、驚いてるんだ。君みたいな人と話すのは初めてだからね』

 「そうですか」

 『……』

 再び言葉を途絶えさせる彼。

 こんな話を切り出す人は、大抵何かを抱えている。人付き合いを殆どして来なかった私でも、なんとなくだけどそう思う。相手と面と向かって話す事が苦手なのか、それとも周りに親しい人間がいないのか……彼が求めたのは、顔も名前も知らない私だった。

 「何か、話したい事があるんじゃないですか。私で良かったら聞きますよ」

 気が付いたらそんな言葉が口から出ていた。

 自分でも少し驚いた。自分で自分に驚くなんて、私自身の変化に私の認識が追い付いていない証拠だ。

 『……君は優しいね』

 場当たりな私に、彼はそんな評価を下す。

 「いえ、友人の受け売りです。なんの解決にもならないかもしれないけど、誰かに話すだけでも幾分人は楽になるって……だからこれは優しさじゃなくて、その場凌ぎの気休めですよ」

 「……いや、やっぱり君は優しいよ」

 それでもそう言い直した彼は、一拍置いて口を開いた。

 「名前も顔も知らない僕が、名前も顔も知らない君に、こんな事を話すのはおかしな事だと思うけど聞い欲しい。下らない身の上話なんだけどね」

 名前も顔も知らないからこそ、私は彼の話を気軽に聞けるのだし、名前も顔も知らないからこそ、彼は気軽に話せるのだろう。

 そうして話し出した彼の身の上話は、家庭の問題の話のようだ。


 その内容から察するに、彼はどうやら私と同じ高校生のようだ。

 両親共に私でも知っているような良い大学卒のエリートのようで、厳格な彼らは電話の彼が幼い頃から厳しく勉学に力を入れて教育して来たのだと言う。

 彼は勉強が好きでは無かったが、やりたい事もなりたい物もなかった為、とりあえずは言う通りに勉強に励んでいたのだそうだ。

 そんなある日に彼はピアノと出会った。

 幼い頃街中で通り掛かったストリートピアノで、『月光ソナタ』を奏でる女性を見たのだという。それに見惚れ、感動した彼は「勉強もしっかり頑張るから」と両親を説得してピアノを習い始める事になった。

 以降必死に勉強し、ピアノも楽しく続けていた彼は、有名なコンクールで優勝する程にまでなったのだという。

 やりたい事、なりたい物が見つかり掛けた彼だったが、高校になってから両親にピアノを禁じられたのだという。曰く「大学受験に大事な三年間なのだから、遊びはここまでだ」と、大事にしていたピアノを勝手に捨てられ、剰え小学生の頃から通っていたピアノ教室も解約させられたのだそうだ。

 生まれて初めて両親に怒鳴り、感情をぶつけた彼は、父に頬を叩かれて……絶望した。


 『本当に、僕の気持ちを理解出来ない親の事が理解出来なかった。同じ人間の筈なんだけど、何か違う化け物のようにすら見えたんだ。…………それで、この夏休みは殆ど家と夏期講習の往復になった。空いた時間に……君にこうして電話を掛けているんだよ』

 その声色は、確かな絶望の色で染まっていた。いつかの雨の屋上で聞いた、エイミーのそれにそっくりな気がして、少しゾッとする。

 そんな彼は、話題を切り替えて昔の事を語り出した。

 彼は幼い頃から、ピアノのレッスン以外は放課後も土日も半ば家に閉じ込められる様に勉学を強いられて来たんだそうだ。お陰で友達も出来ず、自由も制限させられていた。

 小学校高学年になったある日、彼は両親が出掛けている最中に自宅に掛かって来た一本の電話を受け取った。電話の相手は名前も名乗らずに第一声、こう言ったのだという。


 『ねえ、今どんな下着履いてるの?』


 彼は困惑したが、その電話の相手に興味を持ち、嘘を付いた。まだ声変わりもしていなかったので、相手は彼を女の子だと思ったらしい。ピンク色の下着を着けていると嘘で答えると、相手は大層喜んだそうだ。

 『ゲームも漫画も買ってもらえなかったしね、当時家にある娯楽と言えばパソコンで見る動画サイトと、テレビくらいのものさ。気が付いたら僕は、両親が居ない間を見計らって、そのイタズラ電話の男を真似て、タウンページから無作為に電話を掛ける楽しみを覚えたんだ』

 それが彼のこの行動のきっかけだった。

 『成績が落ちない内は、空いた時間に動画サイトで音楽を聴く分には親は何も言わなかった。でもフィルタリングが掛かっていたからね、この手の刺激はこれでしか得られなかったんだ』

 前に紗奈さんが言っていた。異常性癖者の一部はその欲を発散させる為に相手が必要だと。

 しかしこの彼は、真っ当な思春期の性の発散を満足に行えず、両親からの束縛と重圧からこの様な性質へと変貌したのだ。

 私はこの後の彼の言葉がなんなのか、なんて発するのかは分かっていた。誰も彼も同じなんだ。自分の性癖を詳らかに話した後は決まってこうだ。


 『どうだい?気持ち悪いだろ?』

 「私はそうは思いません」


 半ば被せる様に、私はそう言い放つ。

 これは彼等の防衛手段だ。気持ち悪いよね?なんて言われたら、普通の人間は言葉を濁す。言われる前に自分から言って、相手の言葉で傷付く事を防ぐのだ。だが、そんな手段も本能も、私には必要ない。

 「別に気持ち悪いとは思いません。少なくとも私は、そんな話を聞いた上でそう思える程無神経では居られない」

 『……』

 「前にも言った筈ですよ、驚くし、興味もあるし、下世話な好奇心は隠すつもりもありません。でも、気持ち悪いとは思わない。寧ろ今の話を聞いて、納得しました」

 『……納得?』

 彼は私に聞き返す。もう何度だって言おう。これは私の持論で、これからも私の導だ。

 「共感は出来ませんが、理解は出来ました。貴方のほんの一部でしかないけれど、それでも私は、今、貴方を理解出来たような気がします」

 『……そっか。そうだね、理解するって事は、大事なことなのかもしれないね』

 理解しなければ、側には立てない。寄り添う事も出来ない。私とこの人との間には、物理的な隔たりがある。名前も顔も知らない。この声だって、唯の電気信号でしかないのだ。でも、そんな事は重要じゃない。

 「貴方は、ご両親が理解出来ない。そして、ご両親も貴方を理解していない。私もそうです……自分の親が何を考えているか分からないし、押し付けてくる思想の理解は出来ません」

 普通であれと、普通の人間と関われと、何度だって言われて来た。母の言葉も、普通がなんなのかという事すらも理解出来ないまま、私は考える事を辞めて人間関係の構築を諦めた。しかしそうやって出来上がったこの私は、つい最近まで到底笑って終わりを迎えられるような人生は歩めて来なかったのだ。

 「だから……話をして、聞いてみるしかないんだと思います。このままずるずると、泣いて死ぬような人生を送るくらいなら……向こうが歩み寄って来ないなら、こっちから行くしかないのかも知れません……」

 『……それでダメだったら?』

 「それでダメだったら……まぁその時は逃げ出すしかないですかね」

 『逃げ出す?』

 私の言葉に、少し意外そうな声で彼は聞き返して来た。もっと真っ当で、為になるような返事を期待していたとしたら、申し訳が無い。

 「はい。うちの兄はギタリストを志してましたが、両親にその理解が得られない事を悟ると、家を飛び出して行きました」

 でも、逃げる事だって、一つの生き方だ。

 「逃げた先が、後ろじゃなくて前かも知れない。退がった方向が、必ずしも間違えではなくて正解なのかも知れない。なんの保証もないし、酷く無責任だけど、私は逃げても良いんじゃないかって思っています」

 だって、家を逃げ出した筈の兄は笑って死んだのだから。『面白かった』と溢して、その終わりを迎えたのだから。

 『……そうだね。僕、もう一度親と話してみようかな』

 そう言った彼の声は、少し明るさを取り戻していた。途中から自分で何を言っているのか分からなかったが、まぁ良い風に捉えてくれたみたいで良かった。

 あんまり自暴自棄にはなって欲しくなかった。何処まで思い詰めているかなんて知る由もないけど、いつかのエイミーや、慎也さんの様に偶々なんとか出来る事ばかりじゃないのだ。自らの命を断とうとしたり、偽りの母の愛を証明する為に友人を傷付けたり……そんな事にはなって欲しくない。

 兄が亡くなった時、母は仕切りに「あの時止めていれば」と口にしていた。私はその時、「兄の考えを了承して、一緒に暮らしていれば」という意味だと思っていたが、今思えば違うのだと分かった。「強引に説得して家に留まらせる」という意味だったのだ。母は、根本的な部分では無くただ「兄が家を飛び出して行ったから死んだ」、「兄が家を飛び出さなければ死ななかった」という限定的な部分しかし後悔していなかったのだ。

 結局母と兄は互いの事を理解出来ないまま死別してしまった。

 今理解出来なくとも、生きていなければこの先にあるかもしれない可能性すら手放す事になる。そんなのってあんまりだ。

 「上手くいくかは分かりませんけど、分かってくれると良いですね」

 私は彼に、思ったままを伝える。どうせ今の私に出来るのは、祈るか、話すかしか出来ないのだから、そのままの気持ちを話すしかないだろう。

 『……ありがとう……君の言う通りだ。少し楽になった』

 「それは良かったです」

 彼はまた、少しだけ明るい声に戻った。

 『……明日、話をしてみるよ。その後にまた、電話を掛けてもいいかな?』

 「構いませんよ」

 『ありがとう……それじゃあ、また明日』

 「ええ、また明日」

 そう言って、彼は通話を終わらせた。通話が切れた事を報せる断続音が耳元に鳴り、私は携帯を机の上に置いた。

 窓に目をやると、予報通りの雨が降ってきていた。遠方で、雷が一瞬雲の隙間を駆け抜ける。夏の雷雨を、神立と言うのだっけ。

 カーテンを閉めて、私はベッドに横たわる。あの名前も顔も知らない彼は、上手く両親と話せるだろうか。解り合えるだろうか。

 あんな偉そうな事を言っていた私だって、両親のことは満足に理解出来てはいないし、これからそう努めようとかは本気で考えていない。

 だが、もし……椅子の彼や、サロンの皆の事が母に知れたらどうなるだろう。関係を断て、とそう言うだろうか。きっと言うと思う。

 もしそうなったら、私は何と言って母に理解して貰おうとするのだろう。最後まで理解を得られなかったら、私は……。

 すぐに出そうもない答えに頭を巡らせていたら、眠気が来た。今日はこのまま寝てしまおう。

 カーテンの隙間から一瞬だけ光が飛んで来て、空気を震わすような音が遅れてやってきた。

 私は、雷鳴の隙間の雨音に耳を傾けて、息を潜めながら眠りに落ちた。


 その日から、私の携帯に非通知の電話が掛かってくる事は無くなった。その次の日も、その次の日も電話は鳴らなかった。

 彼がどうなったのか、両親と理解し合えたのか、今となっては分からない。


 名前も顔も知らない彼が、自暴自棄になっていない事を祈った。おかしな話だ。顔も名前も知らない誰かを、こうして心配しているなんて。


 気が付くと、夏休みは終わっていた。

 九月の一日まで、雨は降り続いていた。

 電話の代わりに、ただただ雷が鳴っては夏の空気を震わせていた。

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