夏休み短編3 独白
私は今、あなたの前に、私の犯して来ました、世にも不思議な罪悪を、告白しようとしているのでございます。
『人間椅子』江戸川乱歩
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私は異常性癖者である。
生活している時間の八割程を、全く人間界から姿を隠して生きている。
生来の気風故か、薄暗く、狭く、洞穴の様にジメジメとした場所を好む私は、そこに閉じ籠るのが常だった。自室の押し入れ、納屋の木箱の中、学校の掃除用具入れ、車のトランク。様々な場所に身を潜めては、その窮屈さに安心を覚えた。
私は幼い頃、痩せぎすで目が悪く、癖毛であり、何かこうむっつりとした雰囲気を纏う薄気味の悪い子供だった。その所為なのか同級生には虐められ、父は黙りこくる私をよく殴った。
この世界は私には広過ぎる。こうも広くては、何時、何処で、何が飛んでくるのか分からない。子供心にそう思った私は、とにかく狭い方へ、暗い方へと逃げ込んだ。
小学校の体育館倉庫は私のお気に入りだった。小窓が一つしか無く、それを閉めれば真っ暗で、ジメジメとした埃と黴が私を包んでくれた。特に積み重なる体操マットの間に挟まるのが好きだった。程よく柔らかいし居心地が良い。
ある日、突如この安寧を破らんとする者が現れた。
体育教師の若い男だった。墨でも塗りたくった様に肌は浅黒く、大柄で、運動の得意ではない生徒に強く当たる嫌な奴だった。
彼に続いてもう一人入って来た。私のクラス担任である若い女性教師だった。陶器の様に白い肌に、首や肩が細っそりとしていて、子供心にも美しいと思う顔立ちをしていた。
マットの隙間から、壁際にある新体操用のキャスター付きの鏡越しに、彼らの姿を見た。
男はジャージのジッパーを勢い良く下すと、肌着を脱ぎ去りその屈強な肉体を露わにした。徐に女に近付き、強引にその唇を奪った。
女のジャケットを剥ぎ取り、ブラウスを半ば引き千切る様に放り捨てた彼は、彼女の肩を掴んで体操マットの上に押し倒す。
そうだ、私が挟まっているこのマットの山
だ。
まるで獰猛な野生動物が、美しい草花を手折る様に、男は女のその身体を貪った。
黒と白とのコントラストが混ざり合い、灰色に近付いていくその様から、私は目が離せなかった。
厚みのあるマット越しにも、彼らの重みと、その熱とが伝わって来た。迸る汗と涙、押し殺しつつも漏れ出る嬌声。仰向けになっていた私は、その隔たりに浮かび上がって飲み込まれていくような感覚を覚えた。
永遠にも、刹那にも感じる時の末に、果てた彼等は予鈴を聞くや否や、衣服の乱れを直してその場を後にした。
私は射精していた。身体が丈夫な方ではないので、この時の彼等の重みと衝撃で肋に罅が入っていたのだが、それでも射精していた。
これが私の精通である。
以降私は毎日体育館倉庫に忍び込んでは、時折やって来る彼らの情事を、布と綿越しに楽しむ様になった。
しかし、時は経って卒業の日が訪れ、私の当時の唯一の楽しみは消えて無くなった。中学生になって、同じ事を繰り返したが、情事に及ぼうとする者は現れなかった。
私はその頃、普通の自慰行為では射精出来なくなってしまっていた。
同級生の卑猥な雑談にも混じれず、共感出来ず、己で発散も出来ない。そんな鬱屈とした日々が続いた。
その頃に、一度だけ仲の良い友人にこの悩みを打ち明けた事があった。しかし、その次の日にはクラス全体に広まっており、私は嫌悪され、罵られ、排除された。
私はこの事を人に話す事は無くなった。
私の父は厳格な人で、虐めの所為もあってか私の勉学の成績が少しでも落ちると、訳も聞かずに暴力を振るった。陰気な私の態度が気に入らなかったのか、私の目を見ては罵詈雑言を吐き散らかし、更に強く当たるようになった。
彼は世間体や体裁に重きを置く人で、私の事なんか通知表やテストの点数でしか見ていなかった。よもやこんな粘り気を帯びた悩み事を抱えていたとは、思いもよらなかったであろう。
通っていた中学校から離れた高校を受験した私は、己の性癖をひた隠しにしていた事もあり虐められる事は無くなった。しかも驚く事に恋人も出来たのだ。
相変わらず痩せていて、暗い雰囲気を帯びていたのだが、背が伸びた所為なのかそれを好印象として受け止める女子が増えたのだ。元々整っている方だった顔立ちも、幼さが抜けてそれなりの物になったからかも知れない。
相手は長い黒髪と、黒縁の大きな眼鏡が似合う美しい女性だった。
共に下校し、休日は本屋や茶店に趣き、普通の逢瀬を重ねた。彼女といる時間が心地良くて、次第に狭い所に逃げ込む癖も無くなっていった。成績も安定し、父は私を殴らなくなった。この歳になると其の場凌ぎの社交性は身に付け始めていたので、それなりに友人も出来た。
私はようやく暗い所から抜け出せた様な、そんな気分を覚えたのだ。
若い男女が二人きりになれば情事に発展するのは自然の摂理だ。我々も次第にそういう雰囲気になり、彼女の家で身体を交わらせるにまで至った。
しかし問題があった。
勃たなかったのだ。
幾ら試してもダメだった。
次第に彼女は私への態度を変えていき、熱が冷めて変な形のまま固まる鉄のようになっていった。
結局その一ヶ月後、彼女に別れ話を切り出され、私はそれを承諾した。
私はあの暗い体育館倉庫の、湿り気と黴を纏った体操マットの間から、抜け出せてなどいなかったのだ。
その後も何度か言い寄ってくる女子と関係を持ったが、誰一人上手く行かずに、裏で不能と罵られた。
私は普通の人間ではなかった。人とは異なる性質を持つ奇人だったのだ。
狭い所に居るだけでは満たされない。女を直接抱こうとしても身体がそれを拒んでしまう。若い身体から湧き上がる、持て余す程の情欲は私の心を蝕んだ。
私は読書が好きだった。見た事もない世界や、聞いた事もない景色、知り得ない経験や知識を与えてくれるからだ。気を紛らわす意味合いもあったのだろう。私はとにかく読書に夢中になった。
そんな時に一冊の本に出会った。『江戸川乱歩傑作選』と題されたそれは、彼の短編集であった。
当時の私は推理物やミステリーの類が好きでは無く、江戸川乱歩を唯の探偵小説家としてしか認識していなかったのであまり興味は湧かなかった。だが暇潰しにと読んでいると、一つの短編が目に留まった。
そう、『人間椅子』だ。
私は齧り付く様に印字された文字を目で追った。読み終えた後も何度もその話だけを繰り返し、繰り返しに読んだ。一言一句を空で言える程になった頃、私は椅子を造り始めていた。勿論、私が入る為の椅子だった。
私の家はとても裕福で、父は有名な大地主だった。政財界の人間にも伝があり、私の家には様々な人間が訪れた。
私は応接間にあるソファを改造して、その中に入る様になった。躊躇いや葛藤は勿論あったが、興奮と好奇心がそれを勝った。あの物語の、椅子の中の男になった様な気分になり、妙な高揚感に包まれたのをよく覚えている。
そんな最中に、一人の客人が訪れた。時折私の家に顔を出す、何処かの良い所の出の若く美しい女性だった。彼女は父の仕事相手なのか、時折雑談を交えつつも、小難しい話を繰り広げていた。
薄い鞣革一重を隔てて、そこに私が居るとも知らずに、彼女は小一時間も上に在り続けた。
張りの良い臀部の感触、その重みが私には手に取るようで、時折クスクスと笑う彼女の揺れ動く様に心が躍った。
私は、実に数年振りに絶頂へと至った。
私は、表で普通の人間の振りをしながら、裏では怪人となり、この様な事に耽る様になった。
度々彼女がやって来ては、全裸で椅子の中に入り込み、彼女を感じていた。
私は悦に浸っていたのだ。私をよく殴っていた父も、この美しい女も、此処に世にも恐ろしく、不気味な怪物が潜んでいる事を知る由もない。無防備に、楽しげに、会話を弾ませるばかりで、私が妙な気を起こせば途端にこの女が危険に晒される事になるとは夢にも思っていないだろう。
その後、他の椅子を改造したり、一から造って置いておいたりと、私の欲を満たす為に励んだ。
父の書斎の椅子に忍び込んだ。私がその気になれば、椅子の中から刃物か何かで心臓を貫く事だって出来る。仄暗い優越感に私は口を歪めて溢れ出る笑いを堪えていた。
テレビで見た事がある政治家が訪ねて来た事もあった。こんな所で聞き耳を立てている人間が居るとも知らない彼らが、薄汚い思惑と、黒く煤けた企みをさも当たり前の様に話しているのが滑稽で堪らなかった。
住み込みで働いている家政婦の寝室のベッドの中で一夜を明かした事もある。二十代後半のその女は、まさか雇い主の息子が同じ空間に居るとも知らず、私の上で自慰行為に及び始めた。クッションとシーツを突き破って、その柔らかそうな体を揉みしだいてやろうかという欲を必死に抑え付けた。
一つ、また一つと、私が化け物として生きる為の籠が家の中に増えていった。しかし、その様な大掛かりな事を繰り返していれば、いずれボロが出る。
大学のニ回生になった頃に、父にバレて顔が歪む迄殴られた後、実家を勘当された。
その頃には、学生の身でありながらある手段でかなりの収入を得ていた私は、別に生活には困らなかったが、この扱い辛い有り余る欲を発散する事には頭を悩ませていた。あの家だったからこそ、私は今まで悦楽の日々を過ごす事が出来ていたのだ。
当然私は父の事を良く思っては居なかったが、あの様な舞台を用意してくれた事には感謝している。
しかし、私が入る椅子を作ったところで、置く場所もなければ座る人間もいない。
公共の場や何処かの施設でそんな行いをすればいよいよ私は恐ろしい罪名を付けられて投獄されてしまうだろう。
再び暗い洞穴へと放り込まれた私は、頭を抱えて蹲る日々が続いた。
そんな時に思い付いたのが、異常性癖者を集わせる場を作ろうという考えだった。
私以外にも様々な異常性癖を有する者が、悩み苦しんでいる。そんな者達の憩いの場になればという気持ちと、あわよくば私に座ってくれる美しい女性が訪れないかという下心を携えて、私は行動を起こした。
実家から離れた場所にある雑居ビルを購入し、似た様な悩みを持っていた幼馴染を誘って、私はサロンを開いた。
それが、【人間椅子倶楽部】である。
サロンを開いてから数年、高校時代の友人や、道端で生き物を観察していた女性、偶々立ち寄った定食屋の店主など、様々な異常性癖者と出会った。
しかし、幾ら待っても私の上に座ってくれる者は現れなかった。
誰か、誰かいないかと渇望し、冗談半分で下らない求人広告を装った事もあった。そこまで来るともうおかしくなりそうだったので、私は去勢でもしようかと考えてすら居た。
何故私は、こんな人間なのだろうか。
何故私は、このような性癖を持ってしまったのだろうか。
あの経験が全てでは無い。生まれ付き暗くて狭い所が好きだった。
私は生まれて来てはいけない人間……いや、怪物だったのでは無いかとすら思った。
多様性だなんだと騒ぎ立て、表向きは私の様な人間を受け入れる準備をコツコツと進めているこの現代でさえ、声を上げて「私は異常性癖者だ」と言えばどうなるか。普通の人間の振りをして築いた人間関係は、どんな音を立てて崩れ落ちるのか。こんな化け物めいた怪人を、この気持ちの悪い欲望を、正義感や倫理観で発散させてくれる人間が現れるのか。
そんな筈はない。見ず知らずの人間を手放しに受け入れて、剰えその欲を満たしてくれるような人間は、この世に存在しない。
私はそんな考えをいつも頭の中で巡らせて、いつか腐って落ちる事を祈って待っていた。
そんな暗い洞穴に一筋の光が差し込んだ。ある日一人の少女が、私の目の前に現れたのだ。
烏の濡れ羽の様な長い黒髪と、夜露を一滴垂らした様な切れ長の黒い瞳、黒百合の茎を思わせる様なスラリと伸びた首や手足と、抱けば壊れてしまいそうな細い腰。
その美しい少女は、私の薄汚い欲望を聞いても嫌悪を露わにせず、剰え興味関心を抱いているとすら述べた。
正義感でも、道徳感でも、倫理観でもない。単純な好奇心と不躾な興味。共感では無く理解。退屈凌ぎであるとすら彼女は言った。
その言葉や彼女の態度は、酷く私の心を打った。
同情では無い、時代の流れも関係ない。ただ彼女は、己の為に、私に座ろうとしてくれているのだ。
私の提案を承諾した彼女は、遂に、私に腰掛けたのだ。
彼女には黙っていたが、人生で一番長く、そして天にも昇る様な射精だった。そして私が泣いていた事も、秘密のままだ。
それから数ヶ月が経った今も、彼女は私の上に座っている。
夏休みに入った彼女は、学校がある時よりも早めにサロンに訪れては、長い時間私の上に座ってくれている。
外の気温は三十度にも昇り、ここに来るまでに彼女はいつも少し汗ばんでいる。布とクッション越しに伝わる彼女の体温とその甘い香りは、私の身体に伝わって循環する。
今私が興奮しているとの旨を彼女に述べると、なんでもない風に無表情を貫くが、少し狼狽えている様が私には手に取るように分かる。少し尻を浮かせて座り直し、決まってその綺麗な指で耳元の髪を掻き上げる。その仕草が堪らなくて、私はいつも彼女に卑猥な言葉を投げ掛けてしまうのだ。
「ん?なんだかいつもと香りが違うね、シャンプーでも変えたかな?」
「椅子越しでも分かるんですか?」
「私は鼻が効くからね。君の匂いはよく覚えているよ」
「ふーん」
部屋に備え付けたカメラを通し、画面で見る彼女は、その桜桃のような唇を窄ませる。
何処をどう切り取っても美しい、完璧な私の『椅子の君』だ。
そのしなやかな身体は、いつも私の上に在った。この醜く哀れな私に撓垂掛かる彼女は、どんな美しい花より、どんな鮮やかな色の蝶より、どんな芸術作品よりも崇高で、何者にも代え難いのだ。
その柔らかな臀部も太腿も、スラリと伸びた白い手も、夜風に揺れる絹の様に柔らかで美しい髪も、その重さも、香る匂いさえも私は手に取るように分かる。
その端正な顔立ちが、鉄仮面の様な無表情が、私の投げ掛けた言葉で少しずつ変わっていくのを見ると心が躍る。眉一つ動くだけで快感を覚え、下唇を舐める様を眺めるだけで絶頂に及ぶ。
本を読みながら、うつらうつらと船を漕ぐ彼女は黒猫の様で、転寝をする姿すら気品に溢れている。足を組めばその生っ白い太腿に目が奪われ、腕を組めばその程よい細さの二の腕に双眸を持っていかれる。
私の下らない話を聞いて穏やかに微笑む姿はまるで聖母だ。
こんな具合に、彼女の素晴らしさを挙げるとキリがない。
この様な事を考えながら、日々彼女の椅子をやっているのだ。本当に気持ちの悪い。沼地に潜む薄気味悪い化け物のような怪人が、この私だ。
そんな私を、彼女はあるがままに受け止める。
最早正義感でも、道徳感でも、倫理観でも構わない。同情でも哀れみでもなんでもいい。ただ私の上に座り続けて欲しいと常々思う。
「今日は静かですね」
不意に彼女に声を掛けられた。昔の事を思い出していた所為だろうか。彼女に軽くセクハラをかましてからというものの、暫く言葉を発していなかった。
「なに、偶には黙って君を感じるのも悪くないと思ってね」
「そうですか」
「このまま私が中に入っている事を忘れて、ただの椅子として身を委ねて見るのもまた一興じゃないかな」
もっと色んな彼女を見てみたい。カメラを意識せず、膝下の私の存在を忘却し、一人になった彼女がどう振舞うのか。見てみたい。
「……ただの椅子に用はありませんし、興味もないですよ」
しかし彼女はこう答えた。いつも彼女は有りの儘に感情を吐露するのだ。本人曰く嘘やお世辞が苦手との事で、だからこそ私に座るその意味が混じり気の無いものだと実感出来る。
「それもそうだね、君は【私】に座る為にここに居るんだった」
「そうですよ。そんな事も忘れたんですか」
「いやなに、君が私に腰掛けてからというものの、季節は移り変わって既に夏だからね。少し慣れて来てしまっている自分が怖い」
「何か刺激が必要ですか」
手元の本に目を落としたまま、彼女はそんな風に私に尋ねた。無防備な娘だ、自分が座っている椅子が、怪物の成れの果てである事をいまいち理解し切れていない。
「そうだね、今度は水着でも着て座って貰おうかな。その方がより君を近くに感じられるし、視覚的にも楽しいだろうね」
「……今度エイミーと水着を買いに行くので、考えておきます」
こんな巫山戯た提案に、やや前向きな姿勢すら見せる始末だ。私にどうこう言われる筋合いはないのだろうけど、少し彼女の事が心配になる。
「ふむ、その際は追加報酬を支払うよ。水着着用時は時給六千円でどうだろうか」
冗談半分にそう提案してみる私に対し、彼女はパタリと本を閉じて膝の上に置き、設置されているカメラの一つに目を向けた。レンズと画面越しに、私と目が合う。
「別に時給は上げてくれなくても構いませんよ。いつも楽しませて貰ってるので」
「……」
「……笑ってるんですか?」
彼女の言う通りだ、私は思わず笑みを溢していた。私が彼女の事を手に取るように分かるのと同じで、彼女も私の事はある程度分かるようになって来たようだ。
本当に、素晴らしい女性だ。本当に私が言えた義理ではないが、彼女はどうかしているとしか思えない。
君以上の人は、二度と僕の前には現れないだろう。
頼むから、僕の上から立ち上がらないでくれ。
お願いだから、僕の前から居なくならないで欲しい。
「それじゃあいっその事、この時給五千円も無しにしてみるかい?」
なんて事は、恐ろしくてとても言える筈も無かった。
僕と君を繋いでいるのは、ただの雇用契約でしかない。詰まる所、一つの言い訳に過ぎない。
それに甘んじる僕は愚かだろうか。
でも、これくらいの臆病は許して欲しい。
もう二度とあんな暗闇には戻りたくはない。
ただ狭いだけの部屋に蹲って居たくはない。
君の座らないただの椅子にだけは、なりたくないんだ。