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第二章 チンピラマゾヒストとの邂逅

 篠崎公園は、サロンのある場所から車で十分程度の場所だ。

 ビルの裏手には駐車場があって、椅子の彼が所有する車が停められていたので、私達はそれで現地へと向かった。

 件の廃工場は公園の西側にあり、夕焼けに染まって佇んでいた。

 ここか……。

 周りはフェンスで囲まれているが、裏口の南京錠付きのチェーンが外されており、中に入れるようになっていた。恐らく慎也さんが外したのだろう。

 私はそれを開け放ち、中へと入る。

 壁が朽ち果て、骨組みだらけになった倉庫の奥に、彼とエイミーはいた。

 「エイミー!」

 彼女の姿を見た私は、思わず叫んでしまう。

 エイミーは倉庫の柱にロープで縛られていた。

 下校中を襲われたのだろう。制服姿だが……特に見た所怪我や乱暴をされた形跡はない。

 大男達の姿もないし……恐らく用済みになって慎也さんが追い払ったのだろう。

 「ケーコちゃん!」

 彼女も私を見るなり声を上げる。

 「よぉ、遅かったなあ……一人で来いって言った筈だが……まあ良いか」

 エイミーの隣、錆だらけのパイプ椅子に腰掛け、煙草を吸っていた慎也さんがそう言って立ち上がる。

 「……慎也さん、どういうつもりですか?」

 彼を睨み付けながら、私は尋ねる。

 椅子の彼と嘉靖さんは……とりあえず黙って私に任せてくれるようだ。何かあったら慎也さんを抑えるように頼んである。

 「どうって……電話で言ったろ?こいつに乱暴すんだよ」

 ニヤリと口元を歪ませて笑いながら、エイミーの側に立った慎也さんはそう言い放つ。

 「それで、何になるんですか」

 「何になる?決まってんだろ……お前が俺を殴るんだよ」

 「そんなに殴られたいんですか?」

 私は、更に睨みを利かせて彼に尋ねた。

 「そうだよ。俺はサドマゾヒストだからなあ。殴られて、殴って、愛を確かめるんだよ」

 まるで戯ける道化のように、彼は手を広げてそう言った。

 「お前は本当に面白いよケーコ。こんな人殺しの俺を……異常性癖者のド変態を……あるがまま受け止めようってんだからなあ」

 「……」

 受け止めたんなら良いじゃないか。それで満足できないのか?

 「さあほら。早く俺をぶん殴れよ。大事なお友達がピンチだぞ?それとも俺から先にエイミーに何かした方がいいか?」

 エイミーの周りをグルグルと回りながら、彼は私に向かって挑発をする。

 ……なんだか引っ掛かる事がある。なんでこの人……私の出方を待っているんだろう。

 殴られたいのなら、予めエイミーに何かしておけば良かったんじゃないか。もしかしてこの人……。

 「ほら!早く殴れよ!こっちから行ってやろうか?」

 声を荒げ、再度挑発を強める慎也さん。しかし……。

 「……そんなつもりないでしょ」

 「ああ?」

 私は彼を見据えて言ってやる。

 ずっと思っていた事がある。この人は自信をサドマゾヒストだと言っていたけど……実はそうじゃないんじゃないかって。

 「貴方は、人を傷つけるのは好きじゃないんじゃないですか?」

 「……何言ってんのお前、俺はサドでマゾだって……」

 「じゃあ、もっと上手に笑って下さいよ」

 「……あ?」

 そうだ、そうだった。この人はあのチンピラ連中を殴っていた時も、お母さんの話をしていた時も、飯島さんを拒絶した時も、苦しそうな顔をしていた。

 去勢を張って、誤魔化して、そんな時の彼の笑顔は、下手くそだった。

 「私を怒らせたいなら、もうとっくにエイミーに何かしてるでしょ」

 「……何言ってんだおまえ」

 「あの時だってそうだった……私が来なかったら、彼らを殴る気なんてなかったんじゃないですか」

 あの裏路地での出来事、日記や、彼を知る知人の証言でもそうだった。彼が暴力を振るうのは、決まって誰かの為だった。

 「……」

 「人を殴る時の貴方は、何処か苦しそうでした……マゾヒストなのはそうかもしれません……ただ、貴方にとって暴力とは、暴力を受ける為の手段か、人の為に振るうものでしかない」

 「……はっ……知った口聞いてんじゃねえよ」

 私の言葉に思うところがあったのか、彼は少し黙っていたが、嘲笑して吐き捨てる。

 「そうですね……実際のところはよく分かりません。貴方は特に分かりづらいから……まぁでも、少なくとも私や、椅子の彼を含めた友人を殴る様な真似は好きじゃないでしょう」

 「……ははっ……おもしれー言い分だ。それで、だったら何だって言うんだよ」

 「貴方がただのマゾヒストだって言うのなら、私がぶっ飛ばしてやるって言ってるんですよ」

 「ッ!」

 私の言葉に、彼は目を見開く。

 望んでいた言葉だろ?言ってやったよ。

 「私は殴られたくないですからね。殴る側だったら引き受けてやる」

 「……ははっ……はははっ……!お前やっぱ変態だなあ!この後に及んで俺の為か⁈お友達の為じゃなくてよぉ⁈」

 声を張り上げて、彼は私に問い掛ける。

 そうだ、これはエイミーの為じゃない。

 「エイミーはそんな事望みませんよ。彼女はそんな子じゃない。傷付けられても、復讐とか仕返しとかを考える子じゃない」

 そう、あの時のエイミーは死のうとしたのだ。

 勿論他にも様々な考えがあっただろう。でも、彼女は傷付けられても自ら死ぬ道を一度は選んだ。

 「ケーコちゃん……」

 「ごめんね、もうちょっと待ってて」

 心配そうにこちらを見るエイミーに、一言掛けてから私は慎也さんに視線を戻す。

 「そして、これは貴方の為でもない。これは私の気持ちです。私の大事な友人を怖がらせて、私にこんな事をさせようとする貴方への怒りです」

 不思議な感覚だった。エイミーの件の時とは違う。

 心臓が暴れ回り、熱い血液が体を満たしているのに、寒さはない。

 彼への怒りと……これは何だろうか。

 「いいですか慎也さん……お母さんは、貴方を愛してなんかいませんでしたよ」

 「ッ……」

 私は一歩、また一歩と慎也さんへと近付いて行く。

 私の言葉に、彼は顔を歪めた。

 「自分の子供を愛していたのなら、包丁で切り付けたり、煮湯を浴びせて……あまつさえ殺し掛ける様な真似なんて……出来ないに決まってる」

 実際の所よく分からない。もしかしたら本当に彼の母親は彼の事を愛していたかもしれない。でも、受け手側がそれを愛だと自分に言い聞かせて、我慢して……そんな事はあってはならない。

 彼も……とっくに気が付いているんじゃないだろうか。自分が愛されていなかった事に。

 だって彼は狂った振りをしているだけで、言葉や態度は意外と分別を弁えている。飯島さんに対してもそうだ。性癖の事を隠して、拒絶される前に拒絶して……この人は、過去の自分を正当化する為に……肯定する為にこんな事をしてるんじゃないか……そう思ったのだ。

 「ッ……違う!お袋は俺を愛してた!だから殴ったんだ……!だから俺を殺そうとしたんだ……!だから俺もそれに愛で応えたんだ!」

 そう喚く彼は、明らかに動揺していた。無理もない、これは彼の傷で、トラウマだ。

 でもそんなの知った事か、私は今とても怒っている。

 「違いますよ……愛があるから暴力を振るうなんて……それは人を傷付ける側の詭弁です」

 「違う!愛なんだよ!愛があるからお袋はっ……母さんは俺をッ」

 「貴方ももう……とっくに気が付いているんでしょう」

 「ざけんなッ!子供が嫌いな親なんていねぇんだ!せんせーがそう言ってた!そうなんだよ!」

 「でも、お母さんは貴方を殺そうとした……」

 「それは愛してたからだ!俺を愛してたから俺をッ!殺そうと……」

 「いい歳こいていつまでもグダグダ言ってんじゃねぇッ!!!」

 「ッ!」

 私の叫び声に、譫言の様に言葉を連ねる慎也さんはビクリと肩を震わせる。

 もういい、もういいんだ。

 そんな傷背負って、引き摺って靴擦れを起こして歩いてるから、貴方はそんなに苦しそうなんだ。

 「もういい!そんな事を背負いながら生きて行かなくていいッ!愛がどうとか、母がどうとかそんな事は関係ない!アンタはただのマゾヒストだ!」

 そうだ、もう貴方は大丈夫だ。過去を清算して、しっかりと立って生きていける筈だ。

 相手を傷付ける前に自分を傷付けて、拒絶される前に相手を拒絶して……悲しいけど、優しい人じゃないか。良い人として生きていけてるじゃないか。

 「おっ……おれは……!」

 「貴方がお母さんを殺してしまったのは、お母さんに殺されそうになったからだ!仕方がないんだ!殴られて痛かったから、愛だなんだって誤魔化して生きて来た!それも仕方がないんだ!でも!それも今日で終わりだッ!」

 歩みを進めて、私は叫ぶ。

 もうなんだか自分でも何を言ってるんだか分からなくなって来た。まあでもそれでいい。

 これは感情の話だから。

 「私が今から貴方を殴る理由は、エイミーを怖がらせて怒っている事と、貴方がマゾヒストだからです」

 それと、不躾に貴方のトラウマを刺激してしまった事への……責任だ。

 「おれは……おれは……」

 呟く彼の前に、私はようやく辿り着く。

 コンクリートの床と、錆びた鉄の匂い。

 夏の湿った空気と、虫の声。

 「もういいんです……そんな辛い顔しないで下さい……苦しまないで、下手くそな作り笑顔はしなくていいんです……私の愛を確かめる為にこんなことしたりする事はもうしないでいいんです。過去の辛い出来事を正当化する必要はないんです……貴方は誰かの為に必死に何かしてあげる事の出来る良い人だから……殴るとか、殴られるとか、愛とかそんな事はもう考えないで……」

 「……ああっ……ああ……」

 彼はとうとう泣き始めた。大の大人がみっともない。だけどこれでいい。今泣いてるのは多分、子供の頃の慎也さんだ。

 彼がこうなったのは、勿論子供の頃のトラウマが原因だ。だけど、それを引き摺って、それに縛り付けられて、言語化して、行動の裏付けをして、こんな事をやらかして……そんな事はもう沢山だ。

 もっとシンプルに行こう。

 「愛故に殴るんじゃない。愛故に殴られるんじゃない。貴方は気持ちが良いから、殴られる事を望んでるんです」

 シンプルな、シンプルな理由。

 「慎也さん、貴方はただのマゾヒストだ」

 「……」

 「もう、ただのマゾヒストになっちゃって下さい」

 私は、彼の肩に手を置いてそう言った。

 「……」

 かなり長い時間、彼は黙って立ったままでいた。グチャグチャの、数々の言葉と思考が、彼の中で巡っていたのだろう。だけど、ついに彼は、コクリとゆっくり頷いた。

 そうだ。彼はマゾヒストで、私は彼に怒っているだけ。

 彼を愛してるから殴ったりする訳じゃない。

 サディストでもない。

 ただ怒ってるだけ。

 だから。


 「今日の事、私が二十歳になってお酒を奢ってくれるまで……許しませんから」


 その言葉と共に。私は思い切り彼の顔面を殴り付けた。

 「ッッッッッ!!!!」

 声にならない声を上げて、彼は後ろに倒れ込む。

 今度は、仰向けになった彼の股間に目掛けて、思い切りローファーのつま先で蹴りをぶち込む。

 「アガッッッッッッ⁈」

 今度は潰れたヒキガエルみたいな声をあげて仰反る慎也さん。

 「ふざけんなッ!エイミーにッ!何してくれてんだッ!いちいちッ!グダグダッ!愛とかなんとかッ!気色悪いッ!殴られたいからッ!女子高生攫ってッ!理由付けしてッ!お膳立てしてッ……て馬鹿かアンタはッ!」

 「ガッ!……おッ……!うッ……!オゴッ……!」

 「ッ!」に合わせながら、彼の股間を蹴り続けていると、段々とその……とにかく硬くなっていっているのが分かる。まったく度し難い奴だ。

 「周りのッ!人達ッ!巻き込んでッ!心配させてッ!迷惑掛けてッ!あッ!そういえば飯島さんもッ!アンタのこと気味悪がってたぞッ!流れで全部喋っちゃったッ!ごめんッ!あッ⁈なんだッ⁈この変態ッ!何喜んでんだッ!このドマゾ野郎ッ!とっとと出しちまえッ!溜まってるもの全部ッ!お前ん中のくだらねえもん全部ッ!」

 「うッ!……うッ!……うおおおおおおおおおッ!!!!」

 慎也さんは、叫び声を上げながら仰け反り続けて、頭と足で半ばブリッジのような体勢を取ると……とうとう絶頂したようだ。


 終わった……。

 超疲れた……自分でやっといてなんだけど……本当になんなんだこれ。


 「はぁ……はぁ……はぁ……」

 肩で息をしながら、後ろを振り返ると、皆んなが私達を見守っていた。

 嘉靖さん達がロープを外してくれたのか、既にエイミーは自由の身となっており、心配そうな顔で私を見つめていた。

 「あ……えっと……ケーコちゃん……いや、その、えっと……女王様!お疲れ様ですッ!」

 「誰が女王様だ」

 こんな状況で突然巫山戯た事を抜かすエイミーにツッコミを入れて、私は彼女の方に歩み寄る。

 「大丈夫?怪我してない?ごめん、変なこと巻き込んで」

 「ううん……だいじょぶ……怖かったけど、特に何もされてないし……それに」

 彼女はぶっ倒れて痙攣してる慎也さんの方を見やる。

 「よく分かんないけど……あたしの時みたいにシンヤさんの事、どうにかしてあげたかったんだよね?」

 そう言って彼女は、可愛らしい笑顔をこちらに向けてきた。

 「まあ……そんな感じ……かな」

 前回とは色々違い過ぎるけどね。

 慎也さんの方を見やると、椅子の彼と嘉靖さんが両脇で肩を貸して助け起こしていた。

 「満足したかい?慎也」

 そう言って椅子の彼は、慎也さんに優しく微笑み掛けている。

 「……うる、せえよ……」

 「桃瀬様は本当にどうしようもない人ですね……この落とし前はきっちり付けて貰いますので」

 と嘉靖さんは慎也さんを責め立てている。

 「さて、かなり騒がしくしてしまったからね……近隣住民に通報される前にここを立ち去ろう。話はサロンに戻ってからだ」

 そう言って彼と嘉靖さんは慎也さんを車の方へと運ぶ。

 「ああ……ケーコ……」

 感情と体がボロボロの慎也さんが、顔だけこちらに向けて、私に声を掛けてくる。

 「……なんですか」

 涙でグチャグチャだ……でもなんだか、憑き物が取れたような……そんな顔してる。

 「その……ありがとな……あとごめん……エイミーも」

 少しだけ笑いながらそれだけ言うと、彼は車の助手席に押し込まれていった。

 まああの様子なら大丈夫かな。

 下手くそなあの作り笑いじゃなかったし。

 不躾で、勢い任せな行動だったけど……まあ、結果オーライかな。

 「いこっか?」

 と、隣のエイミーがそう言って手を握ってきた。

 ごめんねエイミー、ありがとう。

 「うん……あと暑いから手繋がないで」

 「はあ⁈今は繋ぐとこでしょふつー!」

 「静かにして、行くよ」

 「はあ⁈」

 騒いで鬱陶しいエイミーを宥めながら、私達も廃工場を後にした。


 空を見上げると、陽も殆ど沈み掛けで、真っ赤な夕焼けと、夏の夜空が半々になっていた。

 そろそろ夜になるな。こんな風に、彼のサドマゾヒズムだと信じたかったそれは、ただのマゾヒズムへと変わっていく。

 本当の所はよく分からないし、結局彼は先天的なマゾヒストなだけだったのかもしれない。

 まあ、そんな事はどうでもいいのだ。

 私が二十歳になるまでは、彼には単純なマゾヒストで居て貰おう。

 その方が、過去を引き摺って生きていくよりは、彼としても生きやすいだろう。

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