第一章 理解と共感
あの後、シフトの相談をした私は帰路に着きいつも通りの半日を過ごした。
いくら業務内容が楽だからと言って毎日通っていたら親も心配するだろうし、何より業務内容についてはそもそも話せない為、月火金土の週四日と定めておいた。
まぁ暇になったらいつでも来ていいと彼は言っていたが……ひとまずはこれで良いだろう。
しかし我ながらとんでもない所を初バイト先に選んだものだ。
顔も名前も知らないおじさん(?)の上に座って射精されるアルバイトをしている女子高生なんて世界広しと言えど私だけだろう。
そんな事を考えていたら、今日の授業が終わってしまっていた。
本日は金曜日、初出勤日だ。鞄を手に取って教室を後にしようとすると、ふとクラスメイトの女子達の会話が耳に入って来た。
「なんか最近この辺り露出狂がでるらしいよ〜」
「えヤバ」
「こわ〜」
露出狂か……。
本当にこの辺りは多いな。
普段他人の話なんてさして耳に入らないのだが、昨日別の特殊な性癖をお持ちの方に会ったので立ち止まってしまった。
世の中には色んな人がいるんだな……と月並みな感想を抱きながら、私は教室を後にする。
暫く歩いて、雑居ビルが立ち並ぶ例の通りへと行ってエドガワビルディングに辿り着く。
地下へと続く階段を下り、入り口の扉のノブを回すと……。
「あれ」
開かない。
よく見ると昨日あった看板も出ていない。
おかしいな、今日来るって話で終わったと思ったのだが……。
ふと、扉の横にインタフォンがある事に気が付いた。恐る恐る呼び鈴を鳴らそうと指を出したら……。
「お待たせ致しました」
「わっ」
いきなり扉が開いて、嘉靖さんが出て来た。
「恵子様、お帰りなさいませ」
「え?……ああ、どうも」
いきなりメイド喫茶のような挨拶をする彼女に少々面食らい「ただいまにゃん」とか言い出しそうになったが、テンションがちゃんとした使用人のようだったので冷静になり、適当に返事をしておく。
「どうぞ中へ」
「はい」
そう促され、中に入ると彼女は扉に鍵を掛けた。
「……施錠するんですね」
「はい。ここでの業務内容は違法ですから」
「……そうですね」
やはり自覚はあったか。
「普段はあの看板は議長様の部屋の前に置かれています。昨日は恵子様がいらっしゃるので表に出しましたが」
「はぁ……あの、なんで議長なんですか?」
ここで昨日気になっていた疑問を彼女にぶつけてみる。
「あの方は人間椅子ですので」
と彼女は真顔でそんな言葉を返してくる。
「え?どういう……」
「議長は英語で言うと『Chair man』……直訳すると椅子男です」
「ああ、なるほど……」
駄洒落じゃねーか。思いの外くだらない理由だった。
嘉靖さんの後に続いて、私は彼の待つ突き当たりの部屋へと入る。昨日同様彼女はそのまま別の部屋へと入って行ってしまった。
部屋の中央へと目を向けると、やはりそこにはアンティックな椅子がぽつねんと置いてあった。
「やぁ、恵子君。本当に来てくれるとは思わなかったよ」
その椅子から意外な挨拶が飛んでくる。
「……昨日シフト決めましたよね」
「いや何、とりあえずはあの場を誤魔化して二度と来なくなるんじゃないかと思っていてね」
「はぁ」
まぁ仕事内容が仕事内容だものね。
「失礼したね……。とりあえずは掛けてくれたまえ」
「……はい」
彼に近づき、ゆっくりと腰掛ける。鞄を椅子の傍に置き、ふぅっと一息ついた。
昨日は勢いで座ったが、やはりこの中に人が居ると思うと妙な感じだな。変な緊張がある。
革とクッション越しに、何となく人の形のようなものを感じるし……。
「ふむ、椅子に座る君はより一層美しいね」
「はぁ」
「烏の濡れ羽の様な艶やかな黒髪、磨かれた黒瑪瑙のような瞳、透き通る程に白い肌……正にこの椅子の似合う大和撫子だ」
「それはどうも」
なんだか物語に出てくる軟派貴族のような台詞を耳元で囁かれてしまった。悪い気はしないが状況が状況だけに冷静になる。
「謙遜しないのだね」
「いや、まぁ……見てくれが良いとはよく言われるので」
そんな感じで話しかけられる事は今まで多々あった。まあ私の返しがつまらないのでその内皆離れて行くのだが。
「自分の価値を正しく理解しているのは良い事だね。人には人それぞれが持つカードがある。手札を把握しておくのは定石だ」
「はぁ」
私はこんな風に、「はぁ」とか「そうですか」とかしか返事を返さないので会話が弾み難いのだ。他人に興味が無いのもあるが、自分の話をするのもつまらないので気が付くとこんな返事ばかりが出て来てしまう。おまけに表情も固いし声にあまり抑揚が無いので友人が出来ないのだ。
しかし、私は今座っているこの男に興味を抱いている。興味がなければこんな事はしていない。
「……いつからですか」
「ん?いつからと言うのは?」
「いつから椅子の中に?」
「君が来る三十分程前かな」
「そうではなく」
「ああ、成る程ね……」
私の質問に対し、彼は少し考えた後に口を開いた。
「高校ニ年生の時だったかな。手先は器用な方でね、自分が入れる椅子を自作していたよ」
「……きっかけとかあるんですか?」
「気になるかい?」
背後からの問い掛けに、私は頷きを持って答える。
「はい、気になりますね」
「ふむ……では左にある本棚の最上段左端にある本を取って来てくれたまえ」
彼の言葉の通りに目で追うと、様々な小説が差し込まれている本棚が目に留まる。彼の蔵書だろう。
立ち上がって、指定の本を持って彼の元へと戻る。
「『江戸川乱歩傑作選』……」
表紙に書かれた文字をポツリと読み上げる。
「その中にある『人間椅子』というタイトルの短編がある。それを読んでみると良い」
「……じゃあ、お借りします」
パラパラとページを捲り、該当する話に目を通して行く。
「……」
意外と短い文章で、割とすぐに読み終えてしまった。
パタリと本を閉じ、暫し天井を仰ぎ見る。
端的に言ってしまえば、『ある女性作家の自宅の椅子に入り込む変態男の話』……なのだが、それだけでは言い表せないものを感じた。
怪奇的で倒錯的でゾッとするような……とにかく私のような一介の女子高生の語彙で説明できない。
最後のどちらとも取れる落ちはある意味爽快というか、妙な浮遊感というか謎の読後感がある。
「どうだったかね」
すると、今現実にいる椅子の中の男が語りかけて来た。
「……面白かったですね」
「君は淡白だな」
「普通に読み物として面白かったのでそう表現したまでです」
「そうかい、それはとても良く出来たお話だからね。理解してくれると思っていたよ」
淡白だ、と苦言を呈された様に思ったが、反して彼の口調には何やら喜びのようなものが感じ取れた。好みが合う相手が見つかったとでも思ったのだろうか。
「まぁ、ともかくそれがきっかけという訳さ」
「……この男に共感したってことですか?」
「いや……それは少し違う気がするね」
少し考えるような声色で彼はそう告げた。
「私も君同様見てくれは良いし、家はそれなりに裕福だったものでね、そのような点において物語の椅子の中の彼に共感する事はなかったかな」
「はぁ……では何故?」
「私は元々、狭い場所が好きというかなんというか……厳密には違う気もするのだが……【Claustoro philia】、詰まるところ閉所愛好的なところがあってね」
「閉所愛好……」
読んで字の如く、閉じられた場所……狭い所が好きだということか。
「小学生の頃から体育館倉庫の積み上がった体操マットの間に挟まるのが好きでね……休み時間や放課後はよく挟まっていたものだ」
「はぁ…」
確かに小さい頃は私も押し入れなんかに入るのが好きだった気がするな……それの延長みたいな事だろうか。
「そんな事を続けていたらある日……若い男性教師と女性教師が体育倉庫で情事に及び始めたことがあったのだよ」
「おぉ……」
なんだかとんでもない話になって来たな。
「私は当時体も小さく、しかも積み上げたマットの下の方に挟まっていたからバレなかったのだろうね……彼らがベッド代わりに僕のいるマットの上に乗って来た時は危うく死にかけたし、肋も折ったものさ。ははは」
「笑い事なんですかそれ?」
何年生の時の話か分からないが、小学生の子供の体では下手すれば圧死も有り得ただろう。だが、そう語る彼は何だか宝物を見せびらかす子供の様に楽しそうだ。
「しかしそれに勝るものがある事に僕は気が付いてしまったんだ。体操マットを隔てて男女が情事に耽ている事に得難い興奮を覚えたのだよ」
「なるほど……」
わかんねーな。
「よりそれを近くで感じたいと思ったが……それ以上上の方に挟まっていたのではバレてしまうので出来なかった。色々と思案しているうちにあっという間に卒業さ」
「それで後にこの本に出会った……」
「そう、その通りなのだよ恵子君」
彼の言葉には熱が入り、徐々にテンションを上げていく。
なんか……お尻の所に何か当たっているような……いや、考えるのはやめておこう。
「衝撃を受けたよ……椅子ならばより近くに女性を感じる事が出来る……そう考えたらもはやマットの上の情事などどうでもよかった。その甘美な文章に私は魅了され、椅子を作るようになったのだよ」
「そして今に至ると」
「そういう訳だね」
その人物の性格や性質は、幼少期の経験が影響を与えているという話を聞いた事があるが、これはその最たる例だろうか。少なからず生まれ持っての性というものはあるのだろうけど。
「ここまで聞いて、私をどう思う?」
ふと、考え込んでいた私に彼が尋ねてきた。
暫し黙って言葉を思案した後、私は口を開く。
「多少は理解できました」
「ほう」
「全く共感は出来ませんでしたが」
「……成る程」
そう言うと、椅子の中の彼はクツクツと笑っているような気がした。
「何か可笑しいですか?」
「いやなに……私に座ろうと思った時点で普通の女子高校生ではないとは思っていたのだが、よもやここ迄とはと思ってね」
「普通ではありませんか」
「そうだね、あくまで私の主観だが……私の話を聞いた者は皆理解や共感などといった以前に、嫌悪や見世物小屋的な好奇心を露わにするものだ」
「……私も貴方のその奇天烈な性質に不躾な関心を抱いていますよ」
「君は正直だね」
「よく言われます」
そう、私はあまり上手に嘘が吐けないのだ。気難しいとも思われたりするかも知れないが、得意では無いのだから仕方がない。
だからこそ、この人間に興味を抱いた事を……初めて他人に関心を持った私自身を困惑する事こそあれ、否定したり隠したりする事は出来ないのだ。
「君は優しいのだね」
「は?」
唐突に発せられた彼の言葉に、私は首を傾げる。
優しいだって?この私が?
「君は昨日から今の今まで、私を否定するような、傷付けるような言葉を一つも発さなかった。それは我々のような者達からすれば、非常に有難い事なのだよ」
柔らかな口調で以って、彼はそう言った。
「どうでしょう……もう少し幼ない頃に貴方と出会っていたら、気持ち悪いだのなんだのと言っていたかも知れませんし、未だに変な人だなあとは思っていますよ」
今の世間の流れで、自身の理解の及ばない人達も世の中にはいるんだなと何となく思うようになったから、今はこう言えるだけなのかもしれない。
「まぁ自分と違う者を排斥しようとするのは本能的なことだからね。子供がそのような行動に移るのは致し方のない事さ。私だって自身がこのような性癖を持っていなければ、そのような人達を非難する側に立っていたかもしれないしね」
「はぁ」
「……まぁ何が言いたいかというと、君が私の上に座ってくれて嬉しい……という事さ」
「……それはどうも」
この人は随分と回りくどい……勿体振るような喋り方をする人だな。何かを確かめるように、間違わないように予防線を張っているみたいだ。
まぁ会ってからまだ一日しか経っていないし、分かったような気になるのは良くないか。
「まぁ、貴方の性癖については多少の理解はしましたが……貴方の人と成りについてはまだ全く分からないので追々教えて下さい」
「おや、性癖だけでなく僕自身にも興味があるのかね」
意外そうな声で、彼は私にそう言った。
「だって性癖は貴方の一部に過ぎないでしょう」
私は思った事をそのまま返した。
「……成る程君はやっぱり、優しい人間なのだね」
私の言葉をどう捉えたのか分からないが、彼は先程お同じ言葉を口にする。私はそれに対して、やっぱり首を傾げるのだった。