第二章 普通の反応
事は、次の出勤日に起こった。
普段通り、サロンに向かおうとエドガワビルディングの前に来ると、飯島さんが立っていたのだ。
この人とは前に連絡先を交換してからというものの、偶にメッセージを送り合う仲だ。
連絡をくれない慎也さんに会う為っていうのが彼女の希望だったのだが、慎也さんの要望もあったので軽くはぐらかす日々が続いていた。
「あれ、恵子ちゃん?」
彼女は私に気が付くと、声を掛けてきた。
「こんにちは……」
どうしてここにいるんだろう。
「えっと……慎也君、ここにいるかなあ?」
モジモジと手を遊ばせながら、彼女は尋ねて来る。
「えっと、どうしてですか?」
「前に、ここに入ってく慎也君を見掛けた事があって……でも流石に勝手に入るのはまずいから諦めてたんだけど……最近ほんとに電話もメッセージも繋がらないから……」
「そうですか……」
どうしよう……参ったなあ。
彼女にここの事を説明する訳にも行かないし。
その時、マナーモードにしているスマートフォンが震えて、私はそれをポケットから取り出す。
電話だ。着信画面に表示されている名前は薔薇園エイミー。どうかしたんだろうか。
「すいません、電話に出ても?」
と一応私は彼女に許可を取っておく。
「あ、全然大丈夫よ」
「どうも」
そう言って私は通話ボタンをタップし、スマホを耳に当てる。
「もしもし……どうし」
『ケーコちゃん助けてッ』
私の声を遮って、突然エイミーが叫んだ。
「は?え……なに、どういう」
『あたしいま、なんか変な人達に……きゃっ』
喋る彼女の声は、短い悲鳴と共に途絶え、スピーカーの向こうからガタゴトと何か音が鳴っている。
なんだ、何が起こってる。彼女の身に何が……。
『……よ、よお、聞こえたか?』
そこで、声が男の声に切り替わった。
「……誰ですか」
『……そ、そんな事はどうだっていい……こ、この女、ろ、露出狂なんだろ?だったら、ぶち犯してもいいよなあ?』
「なっ」
電話口の男の言葉に、私は目の前が真っ白になる。
エイミーが、謎の悪漢に囚われているのか?
『で、でもよお……俺ら、俺ら相手にこの女一人じゃ足りねえから、お前も来い』
「……」
『だ、誰にも言うなよ……もちろん警察もだ!だ、誰にも言うな!一人で来い……』
「……エイミーに手ぇ出したらただじゃ置かない……」
背筋が凍る、心臓が強く脈を打つ。どうしてだ……どうしてこんな事に。
『そりゃあ、お、お前次第だ。篠崎公園脇の廃工場に来い……』
「ま、まって」
私の返事も虚しく、そこで通話は途切れてしまった。
「ど、どうしたの……?」
私の尋常では無い様子に、飯島さんが声を掛けてくる。
悪いけどそんな場合では無い。
私はその廃工場に向かおうと、慌てて走り出そうとする。
「恵子君」
しかし、その方向には椅子の彼が立っていた。どうやら出掛けていたらしい。
「あれ、平井君?久しぶりだね……」
そこで飯島さんが彼の名前を口にする。
この二人、知り合いだったのか。
「おや、飯島さん。久しぶりだね……積もる話も、と思ったが……まずは恵子君の話を聞こうか」
彼も私の様子を見て、ただ事ではないと察したのか、神妙な面持ちになる。
「……何があったのかね」
そう尋ねる彼に対し、私は唾を飲み込んで、口を開く。
「……エイミーが……」
早口で捲し立てる私の説明を、彼と、後からやってきた嘉靖さんと飯島さんは黙って聞いていた。
どうしたらいい……。このままではエイミーが……!警察に電話するか?いやでも奴らがエイミーを傷付けるかもしれない。だからって私一人では何も出来ない……いっそ私が身代わりになると提案するか?いや、それでエイミーを解放してもらえる保証はどこにも……。
「恵子君、少し落ち着きたまえ」
「落ち着いてなんていられません!」
こんな時に冷静な彼の態度に、検討違いな怒りを覚える。
そんな場合じゃ無いんだ。こうしている間にもエイミーは……!
「恐らく薔薇園君は何もされていない」
「何でそんなことがわかるんですか!」
そんな言葉、気休めにもなっていない。
「囚われている事は確かだろうね……でも、彼らの……いや、彼の目的は彼女に乱暴を働く事じゃない。寧ろその逆だ」
「は?逆?」
何を、何を言っているんだこの人は。
「電話口の男の声に、聞き覚えはあるかい?」
突然、彼がそんな事を尋ねて来る。
「そ、そんなの知らないに決まって……あっ」
彼の言葉に、何か頭に引っ掛かるものがあった。
あの、ガサガサの声……金属板を爪で引っ掻くような……不快な声。
「前に……慎也さんと揉めていた大男……」
「そうか、やはり慎也と繋がりがあるんだね」
私の言葉に、彼はそんな事を口にする。
慎也さんとの繋がり?
「その電話を聞いてみない事には何とも言えないけど、電話口の男は怯えた様子ではなかったかね?」
慌てていて気が付かなかったが……確かに所々つっかえていたし、声は震えていた。
「た、確かに……で、でも……単純に緊張していただけかも……」
「そうかもしれないね……私は慎也と彼らが揉めた現場には居合わせてはいなかったから分からないが……その大男は君に乱暴をしようとしていた時、そんな様子だったかね?」
推理でもするかのような彼の問い掛けに、私はあの裏路地での大男の様子を思い出す。
人を傷付け慣れている人間の態度だった。取り巻きの口振りから察するに、普段から若い女性を暴力等で脅して何やら良からぬ事を企んでいそうな点もあった。
「……いえ、堂々としていたと思います」
「そうかい……なら、合点がいくね……彼等を脅して薔薇園君を連れ去り、電話を掛けさせたのは……慎也だ」
「…………は?」
彼の口から出たその名前に、私は思考停止する。
は?なんで?なんでそこで……慎也さんの名前が出て来るんだ。
「慎也君が、そんな事……」
飯島さんも、狼狽えている。
「今から説明するが、その前に飯島さんには話しておかなければならない事がある。慎也の傷に触れる話だが……その覚悟はあるかい?」
突然の事態と問い掛けに、彼女は困惑している様子だ。
「ど、どういう意味?」
「彼がどういう人間なのか、彼が何故いつも傷を負っているのか……そういう意味さ」
そんな彼の言葉に、眉を顰める飯島さん。
しかし、すぐに意を決した様に口を開いた。
「うん……私、彼の事ちゃんと知りたい」
「彼がどんな人間なのか知って、君は彼に幻滅するかもしれないよ」
「……だ、大丈夫」
意思のある瞳だ。覚悟を決めたのだろう。
しかし、その覚悟が……どうなるのか。
それを見た彼は、少し頷いた後に口を開いた。
「そうかい……それなら話そう……」
そう言って彼は、慎也さんの性癖について話し始めた。
彼自身の性癖の事、私が彼の性癖の為にいる事も交えつつ、慎也さんが飯島さんを拒んでいる理由と、慎也さんの過去についても話した。
一応、サロンの事と私が彼から金を受け取っている話は伏せていたが。
それを聞いている飯島さんの表情は、みるみる内に暗くなって行き、陰鬱なものへと変わっていった。
「私……知らなかった……慎也君が……そんな……」
自分が慕っていた相手が、異常性癖者だったと知り、どんな心境なのだろう。
「どう思うかね、彼を知って」
しかし彼は、そんな彼女に対して残酷にも尋ねる。尋ねなくてはならないのだ。
「……分からない……私、分からない……」
首を僅かに振りながら、彼女は言う。
「彼は、多分これからもサドマゾヒストであり続けるだろう。それは彼の意思とは関係なく、精神に刻み込まれた楔だ」
「……」
「君が彼を受け入れたとしても、彼自身が君をどう思っているかを私は知らない。もし仮に結ばれたとしても、君は彼を殴らなければならないし、彼は君を殴る。それが彼の生き方だ」
「……」
彼女は、俯いたままだ。
でも、飯島さんは言っていた。慎也さんは良い人だと、いつも助けてくれたと。
知っている筈だ。分かってくれる筈だ。今聞いたサドもマゾも含めて、彼は良い人なんだと。
それが、彼の一部でしか無いという……
「私……分からない」
しかし、彼女の顔を覆っていたのは……拒絶の色だった。
拒絶と、恐怖と、嫌悪とを綯い交ぜていた。
「分からない……貴方達の事が……慎也君の事が……サドとか、マゾとか……椅子?とか……なんなの……いったい……」
言葉を紡ぐと共に、彼女は一歩、また一歩と後ずさっていく。
慕っていた人物が、学生時代共に学舎を同じくした同窓生が、異端な性癖を持つ、理解と共感の埒外にいる人間だった。その事実への理解を放棄し、寄り添う事を、彼女は投げ出そうとしている。
何でだ。何で分からないんだ。
仕方がなかったんだ。だって彼は母親に虐待されて……ああなってしまった。
貴方は彼の事が好きなんだろ?だったら何故……そんな顔をするんだ。
「そうか……まあ、そうだろうね」
そう吐き捨てたのは、椅子の彼だ。「わかっていた」……そう言いたそうな顔をしていた。
「いや、突然こんな話をしてすまなかったね……さあ、もういいかな?これから私達は大事な話がある」
冷めた口調で、突き放すように彼はそう言った。
彼女はその言葉を受け取ると、暫く留まっていたが、やはり後ろを向いてその場を立ち去って行った。
「まっ……」
思わず伸ばし掛けた私の腕を、彼が掴んだ。
震えていた。
私が震えているのか、彼が震えているのか、分からなかった。
「あれが……普通の反応だよ」
彼女の背中を見送って、彼はそう呟いた。
普通?普通なのか?
好きだったんじゃ無いのか?愛していたんじゃ無いのか?サドもマゾも関係なく、彼が良い人だと知っていた筈じゃ無いのか?元々喧嘩っ早い暴力的な人物だという事も、分かっていたのではなかったのか?
湧き上がるこれはなんだ、怒りか、悲しみか、それとも……。
「彼女を責めないであげてほしい」
そんな私の思考を彼が遮った。
「こうなる事が分かっていたから、慎也は己の性癖を隠していたし、拒絶される前に拒絶していたんだ。ただ……恋愛感情ではなく、友人として接してくれていたなら、また違ったんだろうけどね」
そう言って彼は、私から手を離してこちらを見据えた。
仕方がない……仕方がないのか。
だったら、私はそんな普通なんていらない。
私も異常でいい。それでいい。
「さて、話を戻そうか」
彼の言葉に、私は我に帰る。
そうだ……もうあの人の事を考えている場合ではない。私にとっては、エイミーの事の方がよっぽど重要だ。
「……それで、何故これが慎也さんの仕業だと?」
私は椅子の彼を見上げながら尋ねる。
「前に嘉靖が話していただろう、「彼が貴方にした事」だ」
そういえば、珍しく嘉靖さんが感情を露わにした時があったな。
「あれはね……私が大学の時に起こった事だ」
彼は遠い所を見る目をして語り出す。
「慎也とは高校の頃からの付き合いでね、飯島さんともそこで出会った。彼は大学へは行かなかったが、卒業後もよく私とは連んでいたよ。お互いの性癖を晒し合って、嘉靖にも引き合わせた。それから三人で連んだりする事が主になったんだ」
私が彼に座る以前の話、サロンが出来る前の話だろうか。慎也さんとは高校で知り合ったんだな。
「そんなある日にね、私の携帯に着信があったのだよ。「嘉靖を預かった」と。「変態趣味の金持ちに売り渡されたくなかったら指定の場所に来い」と」
その内容は、今回の事と殆ど酷似している。彼の話が本当なら、似せているというのか。
「私は怒りに燃え、指定の場所に急いだのだが……待っていたのは縛られた嘉靖と慎也だった」
何故だ……。互いの悩みを打ち明け合って、彼等は友人になった筈だ。それなのに何故彼はそんな事を……。
「その時私は、自分の怒りが消えていくのが分かったよ。彼は、僕に殴られたくてあんな事をしたんだ」
「……愛されたくて……?」
「というよりは、確認なのかな……僕らの友情を、確かめようとしたのかもしれない」
「そんな……そんなやり方」
でも、それが彼なのだ。
愛してるから殴る、殴られる。椅子の彼と嘉靖さんを好きだから、そして自分を好きであって欲しいから、怒らせて、殴らせようとした。
今度は……何故私なのか。
「まあ、僕は殴らなかったけどね。そんな事をした彼を喜ばせるのは癪だったから、そこで二、三時間睨み合って彼が諦めるのを待った」
「それが……僕らの間に起こった事だ」と、彼は付け足した。
そんな事があったのか……。
だったら今回は、慎也さんは私を試しているのか。
こんなふざけたやり方で、愛を確認しようとしているのか。
「そういえば……あの時は前日に、偶然慎也が児童養護施設に居た事を知ったんだったか……」
前日に?私も昨日、彼と会って話をした。
「僕はその時にふと尋ねたんだ、昨日も言ったように彼の体の傷が全て本人が付けたものとは思えなくてね……「もしかして、親に暴力を振るわれたりはしていなかったかい?」と」
「……」
「彼はその時は否定したよ、いや、よくよく考えてみれば否定してはいないな。彼はこう言ったんだ。「虐待はされていない」と……」
暴力を振るわれてないとは言っていない。そういう訳か。
タイミング的にも合致している。
椅子の彼は件の出来事の前日に彼の傷に触れた。そして今回は、私が不躾にも彼の傷に触れてしまった。
彼のトラウマを刺激してしまったんだ。
それがきっかけとなって、愛故の暴力を……私で再確認しようとしているのか……?
「では、私は警察に電話をして来ます」
と、私が思考を巡らせていると、黙って話を聞いていた嘉靖さんがそう言ってサロンの方へ歩き出す。
「待ちたまえ嘉靖」
しかし、彼はそれを制止する。その声に振り返る嘉靖さんの表情は、いつもと変わらない様に見えるが、少し怒った顔にも見える。
「何故でしょう。場所も割れていて、恐らく前回同様現場にはもう薔薇園様と桃瀬様だけでしょう。警察に任せるのが得策かと」
「待ちたまえ、それでは彼が捕まってしまう」
「構いません。二度も同じ過ちを犯し、あまつさえ恵子様とその御学友に危害を加えるなど言語道断です」
「その怒りはもっともだが、とにかく落ち着いてくれ……」
と、彼は嘉靖さんの肩を掴んで宥める。
そして私の方に振り返るとこう言った。
「恵子君が決めてくれたまえ」
「えっ……?」
ここで彼は私に委ねて来たのだ。
「嘉靖の言う通り、警察に頼めばすぐに解決するだろう。だが、今回試されているのは君だ。君がどうしたいか……それを聞かせて欲しい」
私が……どうしたいか。
正直、私は慎也さんにめちゃくちゃ怒っている。
当たり前だ。私のエイミーに怖い思いをさせているのだ。
そんな事は……
「許さない」
そう口にする私に、彼は少し悲しそうな顔をした。彼は、友人が捕まってしまう事を恐れているのだろう。
本当は止めたい筈だ、だけどその判断は私に委ねられた。だから……。
「私、約束したんですよ」
「約束?」
私の言葉に、彼は首を傾げる。
「私が二十歳になったらお酒を奢ってくれるって。例え彼が捕まったとして、その時にはもう釈放されてるかもしれませんけど……そうなったら私は彼と会いたいとは思わない」
そうだ、そんな別れ方をして……顔を合わせられる筈が無い。
「だから……蹴っ飛ばして来ます。そしてお酒を奢ってくれるまで、私は彼を許しません」
そう言葉を紡いだ私を見て、少しだけ彼は笑顔を見せた。
嘉靖さんは少し不服そうだったけど。
「そうか。それが君の選択か……」
「はい。まあでも、流石に一人は不安なので……着いて来てくれますか?お二人共」
そう問い掛ける私に、彼と嘉靖さんは力強く頷いた。
「勿論だとも、君に何かあっては僕が困るからね」
「あの方には言いたい事がありますので」
と、二人は同意してくれた。
よし、じゃあ行こうか。
喜ぶかもしれないけど、彼を蹴っ飛ばしに。
待っててエイミー。すぐ行くから。