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第二章 出来る事。

 退勤時刻になり、少し落ち着いた私は彼らに軽く挨拶をしてサロンを後にした。

 湿り気を帯びた風が、私の体に纏わり付く。

 蝉の合唱が五月蝿くて、何だか耳を塞ぎたくなっていた。

 「……」

 彼の半生は、また想像を超えて私に突き刺さって来た。

 愛だのなんだのなんて、十六年と少し生きて来ただけの私には何だかよくわからないもので、小学三年生なら尚更だ。

 陽が沈んでも蒸し暑い夜の道を、俯き加減で歩いていると、ふと前方に人影を発見する。

 「よおケーコ」

 咥え煙草で、街灯に照らされて立っていたのは慎也さんだった。

 「……こんばんは」

 「おう、こんばんは」

 あんな話を聞いたばかりだからか、何を話していいか分からない。他人に興味がなかった私が、人相手に気まずさを覚えるなんて、初めての事だ。

 「中山せんせーから電話あったぜ。お前ら小松園に行ったんだってな」

 小松園と言うのは今日行った児童養護施設の名前だ。どうやら慎也さんに連絡が行ったらしい。

 「……すいません、勝手な事して」

 「別に、謝るこたぁねーよ。お前ら相手じゃ特に隠してる事もねーからな」

 彼はいつも通りの表情で、いつも通りの声色でそう言った。

 「そんで?聞いたのか。あの話」

 「……はい」

 あの話……思い当たる箇所は様々だけれど、この場合はやっぱりお母さんの……。

 「どう思った?」

 と、彼はそんな事を私に尋ねて来る。

 何かを、期待しているのだろうか。私の言葉から、何かを得られると思ったのだろうか。

 「……そうですね。なんだか、悲しくなりました」

 「悲しい?」

 そんな私の言葉に、彼は首を傾げる。

 「……はい。前にも言ったように同情とかそんなものではありません。当時に、事情を把握してる私が貴方の隣にいたとしても出来ることはなかっただろうし、何かしてあげる事もできないでしょう……それは今も変わりません」

 だからなんとなく、悲しかった。

 幼い時分にそんな状況にあった彼の心の傷が、どれ程のものであったのか。共感なんて言葉にも満たない、不完全な想像ですら胸が痛んで仕方がない。

 「……なんか勘違いしているようだが、俺は別に助けて欲しいなんて思ってねぇぞ」

 しかし、彼はぶっきらぼうにそう吐き捨てる。

 「悪いことみたいに言うなよ。俺は愛されてたし、愛してたんだ。それが互いに行き過ぎてああなったんだ」

 彼の自己防衛による歪んだ認知が、そう言わせているんだろうか。いや、その歪みですら、彼が何年間も信じ続けて来た本物だ。嘘から出た誠なんて言葉もあるように、彼の中ではそれが正しいのだ。

 でも……。

 「私がその場にいたとしたら、貴方のお母さんをぶん殴って止めてましたよ」

 「……なんでだ」

 「……死んだら元も子もないですから。仮りに慎也さんが死んでしまったとしたら、一緒に食事が出来なくなる」

 「はあ?」

 私の返しに、彼はより首を傾げてしまう。

 「別にサドもマゾも否定はしません。だけど、死んでしまったらどうしようもない。殴るも殴られるも出来ないし、煙草もケーキもお刺身も、お酒も口に出来ない」

 「……くだらねえな」

 「くだらなくないですよ」

 唾棄する彼の言葉を、私は遮って言う。

 私にとっては、くだらなくないのだ。

 「私が二十歳になったら、お酒を奢ってくれるんでしょう?」

 「は?……ああ、そんな話したなあ」

 「……私は結構楽しみなんですよ。誰かとそんな未来の約束をしたのは、兄以外では初めてです」

 「……兄貴がいたのか」

 「はい……もう亡くなってますが」

 「……」

 兄は……私が中学三年生の春に亡くなってしまった。死因は交通事故。二十七歳で死んでしまった。

 「私は結構兄が好きだったんだなあって、最近になって思うようになりました。当時は気が付かなかったけど、兄とお酒を飲むのを楽しみにしていたのかもしれません」

 兄は私と違って破天荒な人だった。

 「俺は世界最強のギタリストになるぜ!」と言って大学中退と共に実家を飛び出して行った。私には時々顔を見せていたが、帰らぬ人となってしまった。

 変な映画や音楽を薦めて来ては「これは後世に残る傑作だ!友達ができたら薦めとけ!」とか、突然カードゲームを私にやらせたと思ったら、「このカードの片割れを持つ運命の相手が現れたらそいつと友達になれ!」とか訳の分からない事ばかり言っていた。

 でも、もうそんな支離滅裂な言葉を聞く事さえ叶わないのだ。

 「さっきも言ったようにサドもマゾも否定はしません。だけど、それで逮捕されたり、死んでしまうような事があったら、私は悲しい」

 「……俺が居なくなっても何にも変わんねえだろ、それに……俺は人殺しだぞ?」

 突き放すように、彼は私にそう言った。これもまた、彼の防衛本能なのだろうか。

 「関係ないですね。お母さんを殺してしまった貴方の過去は、私の主観的には悲しいと思ってしまうような事だけど……それで貴方への評価とか、見方が変わるとかは無いです」

 「……」

 話してて何となく考えが整理出来た。

 「人殺しでも、サドでもマゾでもチンピラでも……私が会った慎也さんは良い人ですよ。口は悪いけど……。だから、貴方の言う行き過ぎた愛によって、居なくならないで欲しいってだけの話です」

 死んだら元も子もないのだ。

 「……チンピラと口が悪いは余計だろ」

 私の稚拙で、感情を思ったままに吐露しただけの無茶苦茶な言葉に、そう言って彼はまた笑ってくれた。

 「まあ、お前と酒飲むまでは……死なねえ程度にサドマゾやってるよ」

 「そうしてください」

 彼と母親の間に、本当の愛があったのかは分からない。少なくとも母からの愛は無かったんじゃないかって私は思ってるけど、そんな事は今言っても仕方がないし、問題じゃない。

 後ろ向きな自己防衛が彼をサドマゾヒストにしたんだとしても……それを治そうとか、正そうとかは思わない。いや、治すとか正すとか言う表現も宜しくないかもな。

 とりあえずは、今の彼を受け止める事だ。

 そして、私の勝手な我儘で、彼が居なくならないように、側に立って寄り添っていよう。

 どうせこんな私に出来るのはそれくらいしかないから。

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