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第二章 日記

 慎也さんとの食事から一日空けての金曜日、私はいつも通りサロンへと向かっていた。

 「どしたん元気ないね、だいじょぶそ?」

 最近サロンまで送ってくれるようになったエイミーが、私の顔を覗き込んでそう尋ねて来た。

 「ああ、うん。別に」

 「ふ〜ん。まあなんもないならいいけどさ」

 と、彼女は前を向き直す。

 何かあったとするのなら、勿論一昨日の慎也さんの話だろう。

 彼が何故サドマゾヒズムに至ったか、その経緯が私の想像を遥かに超えたもので参ってしまったのだ。

 救いなのは、彼本人が自身の性癖というか考えを少数派であるとしっかり認識している事と、自分の様に殴り殴られる事を好きではない人が居る事を理解して、徒に暴力を振るったりしない事くらいだった。

 その認識まで欠落していたら、あの人はとっくに犯罪者に成り果てていた事だろう。

 「それじゃあ、私はここで」

 「おけ〜、また明日〜」

 サロンの前に着いたので、エイミーとお別れして地下への階段を降りる。

 何だか少し憂鬱だった。

 多分、座ったら彼にバレるだろうな。私が悩んでいる事が。

 彼自身が、慎也さんの事は分からないと言い切った以上、何の解決にもならない。いや、そもそも問題など起きていないのだ。

 さっきも言ったように、彼は自分から殴られに行ってトラブルや喧嘩になる事はあれど、徒に他者に暴力を振るうような事はしない。

 本人は母親との記憶を良い事のように認識している訳だし、あの年齢だ……諸々折り合いを付けて今を生きているのだろう。

 強いて問題点を上げるとしたら、飯島さんの気持ちと、慎也さんの気持ちだ。

 結局は、これは私の感情的な部分によるところなのだ。

 私の近くにいる人達には、出来るだけ幸せでいて欲しい。ただそれだけだ。

 人と関わって来なかったからこそ、今の私はそう思うのだ。

 「何か、お悩み事ですか」

 不意に声がして、無意識に俯いていた顔を上げると嘉靖さんの姿があった。

 気が付くと私は、サロンの扉の前で立ち止まっていたようだ。

 扉を開けて、私の顔を覗き込んでいる。

 「……いや、なんて言うか……」

 何か言葉にしようとしたが、上手くいかない。相変わらず口下手だな私は。

 「御学友のことでしょうか、または……桃瀬様のことでしょうか」

 「……お見通しですね、嘉靖さん」

 私は思わず自嘲気味にそう言ってしまう。

 「ついこの間彼の話をした時の表情と、被って見えましたので」

 この人はよく人の事を見ているな。気遣いの出来る良い人だ。

 「……何があったかは分かりませんが、私も、議長様も、いつでも相談に乗りますよ」

 「……」

 「そのお悩み事に対して、解決の一手を打てるかどうかはさておき、我々は話を聞く事くらいは出来ます」

 「……嘉靖さんは、どうしてそんなに私に優しくしてくれるんですか?」

 思えばこの人は、私が椅子の彼に座った日からずっと良くしてくれていた。

 彼が私に好意的なのは分かる。私が彼の異常性癖を満たしているからだ。しかし、嘉靖さんは違う。

 椅子の中の彼ともエイミーとも違って、私は彼に何もしてあげられてはいないのだ。勿論、彼が紗奈さんの言う自己完結型という事もあるのだが。

 「……恵子様……いや、恵子ちゃん」

 ここでふと、彼の声が低くなり、男性的な物へと変わった。以前買い物の最中に出会った時と同じ声だ。

 「椅子の彼は僕の親友だ。だから、君という女性が居てくれる事を、何よりも感謝しているんだ」

 そう語る彼は、メイドとしてではなく、椅子の中の彼の親友として話しているのだろうか。

 「あの人はいつも辛そうだった。今まで何人かの女性があの時給に目が眩んで此処に来たけど、結局彼に座ろうとはしなかった。あろう事か罵詈雑言を浴びせ、嫌悪を露わにする者も居た。まあ、それは仕方のないことなんだけどね」

 私が彼に座る前の話だ。どれだけの長い時間を、彼は一人で過ごして来たのだろうか。

 性欲と一言に言ってしまえば、少し下世話な話に聞こえるだろうけど、とても大事な事だ。生きている以上切っても切れない人の性。

 「丁度恵子ちゃんが来る一ヶ月前なんか、彼は去勢しようかなんて話もしていたくらいでさ。本当に彼は悩んでいたし、僕は彼の力にはなれないし」

 去勢……。そうか、彼はそこまで思い悩んでいたんだな。いつも飄々としていて、周りくどくて、勿体ぶるような態度を取る人だけど、それを悟らせないようにしていたのかもしれない。

 「だからありがとう、彼に座ってくれて。僕らに、興味を持ってくれて。僕らと、一緒に居てくれて」

 「……」

 「それが、僕が君に優しくしようとする理由かな」

 そう言って彼は、私に向かって笑顔を向けてくれた。

 私の不躾な興味と好奇心と、退屈への忌避という下世話な感情が、それ程までに彼らの救いになっていたと言うのか。

 なら、こっちにも言いたい事がある。伝えたい気持ちもあるんだ。私だって……。

 「……私だって、私みたいな人間と一緒に居てくれる貴方達に、感謝しているんですよ。無愛想で、気が遣えなくて、人付き合いが苦手な私に良くしてくれる貴方達に感謝しているんです」

 椅子の彼と嘉靖さんだけじゃない。紗奈さんも、慎也さんも、エイミーだってそうだ。

 だから、皆んなには幸せでいて欲しいんだ。

 「無愛想はお互い様でしょ」

 私の感謝の念に対して、そう言って笑う彼はとても美しかった。女性的な笑い方じゃなくて、男っぽく、歯を見せて笑う彼はそれでも美しい。

 「さあ、中へ入ろう。彼が待ってるよ」


 「やあ、ご機嫌よう椅子の君。今日は何事かね?」

 いつも通りサロンの最奥で鎮座していた彼は、普段通りの飄々とした態度で私に問い掛ける。

 「……慎也さんに……お母さんの事を聞きました」

 「ふむ」

 彼に腰掛けながら、私は口を開いて言葉を紡ぐ。

 「貴方は知っていましたか、彼の親からの虐待の事は」

 そう尋ねた私に対し、彼は数秒沈黙した後口を開いた。

 「虐待……彼がそう言っていたのかね?」

 「いえ、彼は愛故に叱られたって感じの話し方をしてましたが……」

 「そうか……」

 そこでまた彼は考え込む。恐らく話す内容を整理しているのだろう。

 「いやなに、私自身彼からそんな話は聞いた事がないんだがね。彼が児童養護施設出身だという事は聞いていたよ。母親が早逝し、父親も頼れず身寄りがなかったと」

 「……」

 「彼の身体の傷を見た時にふと思ったんだよ。これは全て自身の意思で付けたものなのかってね。異常性癖の中にはね、幼少期のトラウマがトリガーとなって生じるものもあるんだ」

 「トラウマ……ですか」

 仮に彼の場合で当て嵌めるなら、母親からの虐待……。

 「そう、特にサドマゾヒズムは幼少期の虐待が原因となるという話も多く上がっているんだ。……悪いが恵子君、彼の話をもう少し詳しく聞かせてくれるかな」

 「……はい」

 私は、居酒屋で彼から聞いた話をなるべく詳細に彼に説明した。

 「ふむ……虐待のストレスや、親への恐怖心、自己否定的感情を、『愛情』と言う虚構のプラス要素で補填して精神を保っていた……という事かも知れないね」

 それに対して、彼は分析を言葉にする。

 「はい……話を聞いていて、私もそう思いました」

 「愛故に殴る、殴られる……その意味と、私の彼への認識は足りていなかったようだね。彼の友人として、彼を分かってやれていなかった自分が腹立たしいよ」

 「私もあの話を聞くまでは思い付きもしませんでしたし、本人も先天的なものだと言っていましたし」

 だかやはり、この話しをした所で何が出来る訳ではない。私は医者ではないし、彼を満たせる程丈夫でもない。ていうかそもそも彼の為でも彼を殴りたくも殴られたくもないのだ。

 「ふむ……では行ってみるかね」

 と、ここで彼はそんな事を口にした。

 「行く、というのはどこに?」

 「彼が居た養護施設さ。以前そこを通り掛かった時に慎也に教えてもらった事があるから場所はわかる。彼は中学三年生までそこで暮らしていたから、施設の人間に聞けば彼の事がより分かるかも知れない」

 なるほど……だけど。

 「聞いて、どうしましょうか……私は、彼に何かしてあげられるんでしょうか」

 「……恵子君。確かに私達が慎也にしてあげられる事はないかもしれない。ただ、相手の理解を深める事はとても重要だ。これは別に異常性癖に限った話ではない。人と接する上で大切な事だとは思わないかね」

 「それは……まあ、そうですが」

 「元々ね、このサロンはただお喋りをする為に作ったものなんだよ」

 「お喋り?」

 椅子の中の彼の言葉に、私はより耳を傾ける。

 「そうさ。別に性癖を治すとか、お悩み相談とかそんな大それた事をしようと思ったわけじゃない。ただ同じ悩みを有する者同士、他愛も無いお話でも出来ればなって……無論、お悩み相談等そういう希望があれば出来る限りの力で持って応じるがね。ただ、居場所の無い者や、世間から排斥された人間の拠り所になればと、そう思ったんだ」

 拠り所、か。現に異常性癖者でない私も、此処が一番の居場所になっていると言っても過言ではなかった。

 「それに、胸の内を話すだけでも、幾らかマシになるだろう?どうかね、恵子君」

 そう言ってのける彼は、多分今笑顔を浮かべているんだろう。まったく、自信満々だな。

 「ええ、お陰様で」

 「ふむ、自分で言う事では無かったね。これは失礼した」

 と、彼は戯けてそう言ったが、私としても少し楽になったのは事実だ。

 そうだな。何もしてあげられるかどうかを決めるのは、もっと慎也さんを理解してからでも遅くはない。

 「……行きましょう、その養護施設に」

 「うむ。では上で待っていてくれたまえ、五分程で私も合流する」

 「着いて来てくれるんですか?」

 彼の意外な発言に、私は思わず目を丸くする。

 「こんな時くらいはね。偶には隣から君を見つめるのも悪くはない」

 「……そうですか」

 まったく、好きあらば軟派な事を言うなこの人は。

 「では、待ってます」

 そう残して私は彼から立ち上がり、部屋を出て地上へと向かう。

 何でか分からないが、彼は椅子に入る時と椅子から出る時を見せてくれないのだ。前に一度だけ外で会った時もそうだったが。

 まあ、彼が居てくれるなら心強い。流石に一人で行くのは緊張するしね。

 「嘉靖さん、ちょっと出て来ます」

 私は廊下の掃除をしていた嘉靖さんに一言声を掛ける。

 「はい、いってらっしゃいませ」


 「いや、非常に暑いね……十七時を回っていると言うのに、あんなに日も高い。夏は椅子の中に篭るに限るとは思わないかね?」

 そんな訳のわからない事を言って隣に歩く男は、椅子の中の彼だ。

 暑いと言いながら、長袖のワイシャツと黒いスラックスという出たちなのは何でだろうか。

 あと、椅子の中は暑くないのかあれ。

 「もっと涼しい格好をしたらどうですか」

 「いやなに、私はあまり日差しには強くないのだよ。あと空調が効き過ぎていると寒くて堪らない時があるからね、袖を捲ると言う手段が取れる服を着るのが一番さ。選択肢が一つ多い分私の方が有利だ」

 「何かと戦ってるんですか?」

 日差しに弱く、空調にも弱い。まあ見た目の印象から体が丈夫そうとは思っていなかったけどね。ちょっと痩せ過ぎな気もするし、女性のように肌が白いし。

 「夏は本当に気が滅入るよ。ひんやりとした宇治金時が食べたい気分だ。氷菓と白玉の乗っているものが好ましい」

 「貴方も甘党なんですか?」

 「甘党というよりは糖質依存症だろうね。糖分を取ると脳は快楽物質であるドーパミンを分泌する。しかしそれはほんの一瞬でね、また次の快楽を求めて甘いものを欲するのさ」

 「へえ」

 糖尿病にならないでね。

 「うちの家は厳格な家庭でね、甘味や菓子の類は殆ど出て来なかったのさ。その反動も大いにある」

 なるほど……。慎也さんが甘党なのも、幼少期にその母親に食べさせてもらえなかったとか、そんな理由があったりするのだろうか。

 そんな事を考えているうちに、件の養護施設にたどり着いた。

 一応先程彼が電話でアポを取ってくれているらしい。

 幼稚園の居抜きとして使っているらしいその施設は、大きな庭があり、遊具で遊ぶ子供なども見受けられる。

 私達は門を潜って受付へと向かう。

 窓口には初老の女性が詰めており、彼はそこのガラス窓を覗き込んで挨拶をする。

 「失礼、先程お電話させて頂きました、平井と申します」

 む?今なんかサラッと名乗ったぞこの人。平井っていうのか。

 「あ〜、はいはい。お待ちしておりました」

 女性は私達から見て横の奥にある勝手口から表に出て、こちらへとやってくる。

 「すいません、お忙しいところ……」

 「いえいえ、いいんですよ。慎也君のお友達なんですってね?」

 「ええ、高校からの付き合いで」

 「そうなのね。彼、元気にしてる?顔も出さないし全然連絡もしてくれなくてねえ」

 「元気いっぱいでよく振り回されてますよ」

 「まあ」

 女性は彼の言葉を聞くと、安心したように、嬉しそうに笑った。

 彼、意外と社交的なんだな。椅子の中に篭って嘉靖さんに何でもやらせてる印象が強いから、てっきりサロンに出入りしている人以外との付き合いは苦手なんだと思ってた。

 「あら、あなたは?」

 と、女性と目が合って尋ねられてしまった。

 「篠嵜恵子っていいます。私もその、慎也さんの友人です」

 「まあ、可愛らしい。慎也君と仲良くしてくれてありがとね」

 「いえ、私の方が良くしてもらってばかりで……」

 そんな風に挨拶と彼の近況報告をして、私達は施設内の応接間の様な場所に通される。

 テーブルを挟んで、横長のソファが二組ある簡素な部屋だ。

 彼と横に並んで座るのは何だか新鮮だな。

 「それで……慎也君の子供の頃の話が聞きたいのよね?」

 「ええ」

 「そうねえ……ちょっとヤンチャが過ぎるところはあったけど、とっても優しい子だったわ。困ってる子はほっとけない子でね。イジメを止めてくれたり、近所の暴走族を静かにさせてくれた事もあったわね。……ちょっとやり方が乱暴だったけど」

 「今とあんまり変わりませんね」

 「そのようだね」

 目を細めながら昔を懐かしむ彼女に対し、彼はやや体を前に出して質問する。

 「失礼ですが、彼には何か変わった所はありませんでしたか?」

 「変わった所?」

 「ええ、例えばそう……自傷癖とか」

 彼のその言葉に、女性の目元がピクリと動いた。やはり……。

 「ええと……なんていうか……」

 「すいません、言い難い事とは重々承知しています。しかし、私は彼の事を知りたいんです。より深く理解したいと、そう思ってこちらに参った次第です」

 「……」

 彼女は、悲しそうな顔をしながらやや顔を伏せてしまう。

 これはかなりセンシティブな話しだ。躊躇いもあるだろう。だが……。

 「ああ、失礼ですが御婦人、お名前は」

 「えっ?ああ……そういえば名乗ってませんでしたね、中山です」

 「ありがとうございます。それで、中山さん。彼は、怪我をしたり、自分を痛め付ける事によって、興奮したりはしていませんでしたか?」

 「ッ……」

 彼の発言に、中山さんは更に目を見開く。

 私も驚いた。まさかここまで直接的な言葉を選ぶとは。

 「中山さん、私はね……彼と同じなんですよ」

 「……同じ?」

 「彼の自傷癖、いえ……被虐性愛とはまた異なるものですが、それに似た異常性癖を有しています」

 「いじょう……せいへき」

 彼を見る彼女の目に、少し影が落ちる。

 理解できないもの、自分と同じ人間ではないものを見る目だ。

 彼の隣にいる私でさえ、良い気分ではない。これよりもっと直接的で、ささくれ立つような物を、彼等はその身に受けて生きて来たのだ。

 「私は彼の友として、彼の側に立ち、理解し、寄り添いたいのです。同じ問題を抱える者同士として……」

 「……」

 彼の言葉に、中山さんは少し沈黙した後、口を開く。

 「うちの施設では幼い頃から日記を付けさせているんですが……慎也君が、幼い頃に書いたものがまだ保管してあります」

 彼女は、理性で感情を殺して応えるような、そんな風に私には見えた。

 年の功が為せるものか、それとも彼女の慎也さんへの思いがそうさせたのか。

 「それに、諸々彼の気持ちが書かれています……よかったら、お持ち下さい」

 「ありがとうございます」

 中山さんの言葉に、彼と私は頭を下げると、彼女は「今持って来ます」と言って部屋を出て行った。

 「……ふう、冷静な女性で助かったね」

 「……」

 「おや、どうかしたかな私の君」

 俯いている私に対して、彼は声を掛けてくる。

 「いえ……少し、堪えました。ああいう目は……気持ちのいいものじゃ無い」

 「……恵子君が気にする事ではないよ。ああいうのは慣れている」

 「慣れているとかいう問題じゃありません」

 「……」

 中山さんは、目に見えて拒絶したり、言葉で彼を遠ざけたりはしなかったけれど。それでもあれは深く心を抉り込む目だ。

 仕方がない、仕方がないと言えばそれまでだが……。

 「……君はいつも誰かの為に泣いているね」

 優しく笑って、彼は私にそう言った。

 「……泣いていませんが」

 彼の瞳に目を合わせ、私はそう返す。

 「比喩的な話さ。君はいつだってあるがままに僕らを受け止めて、理解しようと咀嚼して飲み込んで、我々の背負う物を肩代わりしようとしてくれている」

 「……そんなつもりはないですが」

 前にも思った事だが、この人は感情的というか……時折ふと一人称が「僕」になる事がある。感情が溶け出すって、こういう事を言うのだろうか。

 「僕が言っている、良き隣人とは正にそういうものなのだよ。側に立ち、寄り添う……君が僕に座ってくれただけでも飛び上がるくらい嬉しいのに、君がそういう人間であったことも同じくらい有難いと思うのさ」

 「……」

 「だけど、それじゃあ君が大変だ。まだ十代の多感な少女に、そこまでの大荷物を持たせる訳にはいかないから……」

 彼はそこで言葉を区切って、私の肩に手を置いてこう言った。

 「僕の分の肩代わりしてもらっているものくらいは、僕にも背負わせてくれ」


 その後、慎也さんの日記を持って来てくれた中山さんにお礼を言って施設を後にし、サロンへと戻った。

 彼はいつも通り私とは別の入り口からサロンへ入り、椅子の中に潜り込んで待っていた。

 「さて、読んでみようか。少し気は引けるがね」

 「はい」

 中山さんから手渡されたその日記は、小学生が良く使う学習ノートだった。

 表紙には、赤いカーネーションの花の写真がプリントされている。

 「カーネーションか、皮肉なものだね」

 それをカメラ越しに見ている彼がそんな事を口にする。

 「……では、読みますよ」

 「うむ」

 私はまず軽くパラパラと捲って中を確認する。日付はかなり飛び飛びで、毎日書いていた訳ではなさそうだ。最後の方は既に小学六年生になっている。

 とりあえず私は最初のページを開く。西暦から推測するに恐らく彼が小学三年生の頃だろう。施設に来てからの生活を日記に認めている。


 『今日は、ケントくんと、マナちゃんと、セイヤくんと友達になった。みんなやさしいけど、おれのことはぶたなかった。しせつのせんせーも、おれのことはぶってくれなかった』


 初めの文章はこんな感じだ。最初に出て来た名前は施設の他の子供達だろうか。母と死別し、環境が変わった事で困惑しているのかもしれない。

 他のページを読んでいくと、思ったより普通の日記だった。宿題をやったとか、虫を捕まえたとか。

 しかし、ここであるページが目に留まる。


 『みんな、おれのことをぶってくれない。ここのみんなは、おれのことを愛してくれていないんだ。どうしたらぶってくれるかな。どうしたらかーさんみたいに愛してくれるのかな』


 日記を持つ私の手が、微かに震える。

 母親からの虐待で、認識が歪んでしまった彼は、周りから優しくしてもらっても、それを愛とは受け止められないで孤独を感じているのだ。

 「大丈夫かね?」

 「……はい、大丈夫です」

 少しだけ深呼吸して、気持ちを落ち着かせてから他のページに目を通す。


 『おこられた!やっとおこられた!せんせーはおれのことをぶたなかったけど、やっとおこられた!がっこーでマナブとカズヤとショータがマナちゃんをイジメてたから、なぐってやったらせんせーがおこってくれた!わるいことをするやつをもっとなぐれば、せんせーもみんなもおれのことをなぐってくれるかな』


 これは……。

 「なるほど……これが彼の善行というか、ある種正義感というか……それの本質なのだろうか」

 怒られる為に、殴られる為に誰かの為に暴力を振るう……。幼さ故に、助ける手段が暴力であった事を叱られたという事実についてはまだ理解出来ておらず、悪い行いをする者を暴力で以って成敗すれば、そのうち誰かが自分を殴ってくれると解釈したのか。

 「まあ、今でこそ彼は良い行いをした所で殴られたりはしないと理解しているだろうけど……これが根底にあったという事か」

 再び、日記へと目を通す。


 『ほいくえんのせんせーの言うとおりだ。自分の子どもがきらいな親なんていないって言ってたとおりだ。だからかーさんはおれをなぐってたんだ。今日は、学校のせんせーがおれをなぐってくれた。けんかりょせばいとかなんかわからないこと言ってたけど、せんせーもこれは愛のむちだって言ってた』


 恐らく、学校の友達と喧嘩になって、まだ昔気質の教師に拳骨でも落とされたのだろうか。

 それより……。

 「この文章……」

 私は気になったその一文に指を差す。

 「ふむ……これが彼のサドマゾヒズムの原因か……「自分の子供が嫌いな親なんていない」。当時の保育士のこの言葉を聞いて、自分に暴力を振るう母親の行動原理を愛と結び付けたのか。これは想像だけど、恐らく慎也はその保育士に尋ねたのでは無いかな「どうして母は自分を殴るのか」「母は自分の事が嫌いなのか」とね……恐らくその保育士が気休めで放ったこの一言が、彼の認知を大きく歪めてしまったのだ」

 「……」

 言葉というのは、不完全だ。発した側と、それを受け止める側では解釈が違う事なんて多々ある。しかし、それが彼の人生に大きな影響を与えてしまった。

 そこで、私はとある文章に目が留まった。


 『かんべっしょじゃなくて、このしせつに来れてよかった』


 「かんべっしょ……?」

 ポツリと私はその言葉を口にする。なんだろう、かんべっしょ……。

 そこで、何か思い至ったのか椅子の中の彼が口を開いた。

 「まさか……いや、少し待ってくれ」

 椅子の中からキーボードを叩く音がする。この椅子の肘掛けの中には、半分に分割されたキーボードが備え付けられているんだとか。

 何か調べ物か?

 「……そうか、そういうことか……恵子君、これを見てくれたまえ」

 彼のその言葉と共に、私のスマートフォンに彼からメッセージが届く。

 メッセージには、とあるサイトへのリンクが貼られていた。私はそれをタップして開く。


 『当時お茶の間を震撼させた、千葉県親殺し事件について』


 大きく表示されたその文章を理解するのに、私はかなりの時間を要したと思う。

 目が文字の上を滑るというか、全く頭に入ってこなかった。

 その記事は、何年も前に千葉県で起きた児童による親への殺人事件を解説したもので、その犯人となった当時小学三年生の「少年A」の動機は、「母からの虐待に対する復讐か?」とか、「当時の調べでは児童Aはそれでも母親を愛していると供述」等と記載されている。

 まさかこれは……。

 「かんべっしょ……これは恐らく少年鑑別所の事だろう。犯罪を犯した少年を収容する施設だ。この記事でも、少年Aは鑑別所に収容された後、精神病院に移送されたとも書いてある。つまり……」

 そう説明する彼の続きの言葉が聞きたくなくて、私は思わず日記を落としてしまった。


 「ッ!」

 それによってとあるページが開かれ、そこに書いてある文章を見た私は、絶句してしまった。

 文字や口調から、少し成長したことが伺えるその文章には、こう書かれていた。


 『母さんに会えないのはさみしいけど。母さんがおれを殺そうとするくらい愛してくれたから、俺も母さんを同じくらい愛してるって伝えたかった。だからしかたがないんだ。しかたがないんだ。しかたない。しかたないしかたないしかたないしかたないしかたないしかたないしかたないしかたない』


 慎也さんは母と死別したのではない……行き過ぎた虐待で殺されそうになり……それを自らの防衛本能で返り討ちにして……殺してしまったのだ。

 「彼は……この罪悪感に押し潰されんとする為に、サドマゾヒズムに至った……そうする事で、自分を保って来たんだな」

 彼はそう言ってから、暫く黙ったままでいた。

 私も、何の言葉も発せなかった。

 ただ日記の文字を見ていた。

 しかたない。しかたない。

 愛してるから、しかたないのか。

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