第二章 サドマゾヒズムの理由
週が明けてからの水曜日の放課後、今度は突然慎也さんからお呼びが掛かった。
何事だろうか。彼から何かのお誘いが来たのは初めての事だ。
待ち合わせ場所は瑞江駅の外れの方にある居酒屋だ。高校生を居酒屋に呼び付けるとか、何を考えているのか。
「ケーコちゃん、かえろー」
と、声を掛けて来るのは、隣の席のエイミーだ。サロンの事がバレてからは、バイトの日でも途中まで一緒に下校するようになった。
「ごめんエイミー、今日は先帰ってて」
「ん?おけー。あ、そうだ。この間のメッセだけどさ」
「メッセ?」
「メッセージの事、日曜日の」
ああ、エロ自撮り送り付けてきた時の話か。
「あれやめたほーがいいよ。おじさんみたいだったもん」
そんなこと言ってたなそういえば。
「どの辺が?」
「ぜーんぶっしょ。『ね』をカタカナにしたり、『ちゃん』もカタカナだし、びっくりマークも顔文字も全部おじさん臭い。『おじさん構文』でググってみ?」
「おじさん構文……」
スマートフォンで検索を掛けてみると、多くの記事やサイトがヒットする。へぇ……世の中のおじさん達はこういう文章を打つんだなあ。
「あと、これは元々ゆおうと思ってたけど、ケーコちゃん普段から句読点おーすぎ!マジでおじだからそれ」
と呆れ顔のエイミーがそんな事を言って来る。
「エイミーが漢字わからなかったり、変なところで文章を区切って読んで訳の分からない勘違いするから気を使ってあげてたんだよ」
「ぐぬっ……」
私も成績は良いわけじゃないけど、この子は結構酷いからなあ。
返す言葉が見当たらないみたいだし。
「と、とにかく!次はアタシのマネして打つこと!そんじゃ」
捨て台詞のようにくだらない事を言って、エイミーは教室を出て行ってしまった。
いや、エイミーの文章って言われてもなあ。あの子「言って」を「ゆって」とか打ってるくらいだしなあ……まあいいか。とりあえず駅に向かおう。
学校を出た私は、十分程掛けて駅に辿り着く。
確か店名は『万ノ屋』とか言ってたっけ。慎也さんからメッセージが来て、店名で検索を掛けて地図で確認したところ、私の知ってる古惚けた看板のゲーム屋の向かいと表示されていたから道は分かる。
あった。この間連れて行ってもらった『らうす』とはまた違った趣きの店構えだな。
件の居酒屋を発見した私はそのまま中に入る。
「いらっしゃいませー」
和食居酒屋などでありがちな中居の格好をした店員がこちらに来て挨拶をする。
「あ、待ち合わせなんで」
店員に一言断って、私は慎也さんを探しながら店内を歩く。
然程広くもなければ、まだ日が高い頃合いという事もあり、客が疎なのですぐに見つかった。
「お待たせしました」
「おお、ケーコ。わりぃな呼び出しちまって」
窓際の座敷の奥に座る彼は既に飲んでいるようで、空になったジョッキが二つ程置かれていた。
「いえ、別に構いませんが」
「いやあ、最近煙草吸える所も減ってきたからよお。此処は早くからやってるし煙草も吸えるし飯は美味いしで最高なんだわ」
そう言いながら煙草に火を付ける慎也さん。
うちの兄もそんな事を言ってたっけな。「煙草吸える所が少な過ぎ、俺は国から迫害を受けている」とかなんとか。
「そうですか」
とりあえず私はテーブルを挟んで彼の向かいに座った。
「ま、ここは俺が持つからよ、好きなもん頼めや」
「いや、この間ご馳走になったばかりなので」
チラッと会計する所見てたけど、まあまあな値段行ってたしなあ。
「まあそう言うな。それに女子高生相手に会計の時割り勘だなんだってやってたらカッコわりーだろ?ここは俺を立ててくれ」
「はあ……まあ、そういう事でしたら」
今回もお言葉に甘えるとするか。
「何かオススメは?」
「マグロだな。ここのはとにかくうめぇ」
「そうですか」
とりあえず適当に鮪が入っている刺身の盛り合わせ、アン肝と白子ポン酢と……あとげんとん?って読むのかな、よく分からないが幻豚のグリル焼きとやらを注文しておいた。
「お前ほっせぇのによく食べるよな」
「そうですか?」
そう言えば前にエイミーとサイゼ行った時も言われたな。
「あと好みが酒飲みのそれだ。二十歳過ぎたら酒豪になるぞ」
「はあ」
「二十歳になったら酒奢ってやるよ。楽しみにしとけ」
「……」
うちの家は兄が飲んだくれだったからなあ。スナック菓子とかよりは、カルパスとかあたりめとかが常備されていて、よくそれをつまみ食いしていたからその影響かもしれない。
そういえば兄も、私にそんな事を言った事があったっけ。
程なくして、まず刺盛がテーブルに運ばれて来る。
鮪をメインとして、鯛や平目などの白身魚、帆立や甘海老も乗っている。
卓上の醤油を手に取ろうとしたが、私はそこで停止してしまう。何故か醤油の瓶が三種類もあるからだ。それぞれにラベルが貼ってあるが……。
「鮪だったらこの再仕込み醤油ってのがオススメだ。ヤッてみな」
「はあ」
慎也さんの言葉に倣って、再仕込み醤油とやらで鮪のお刺身を頂く。
うん、確かに普通のよりも合う気がするな。
「美味しいですね」
「だろ?再仕込みってのは醤油で醤油を仕込んで作られるんだ。普通の醤油の倍の原料、倍の時間を掛けてるらしい。ブリとかの脂っこいのにピッタリだな」
へえ、慎也さんは食に詳しいんだな。この間の北海道料理の時も色々教えてくれたし。
「こっちは?」
今度はその隣の醤油瓶を指して尋ねる。
「それは甘口だ。九州の辺りに多いイメージだな。今あるやつだと、タイとかヒラメみてーなあっさりした白身によく合う」
「へえ、詳しいですね」
本当だ、甘いし美味しい。醤油なんてキッコーマンのしか口にした事がなかった気がするな。まあ、なんだかんだアレが美味しいんだけど。
「俺ぁ醤油大好き人間だからな。正直刺身とか寿司ってよりは、醤油を付ける食いもんだったらなんでも良いのかもしれん」
「じゃあ醤油舐めてれば良いじゃないですか」
身も蓋もない事言うんじゃないよ。
「ほら、回転寿司なんてそんなもんだろ?風味もへったくれもありゃしねえ。あんなの醤油の味と食感が全てだろ。この店レベルだったら刺身本体がそもそもうめーけどよ」
「そうですか?回転寿司好きですけどね」
幼い時分に偶に連れて行って貰ったが、特に舌が肥えている訳でもないのでなんでも美味しかったし。
「俺も回転寿司好きだぜ」
「じゃあなんだったんですか今の話」
「俺が好きなのは寿司が回ってるって点だ。初めて見た時ビビらなかったか?ディズニーランドくらいおもしれーだろアレ」
「はあ」
それはいくらなんでも言い過ぎだろう。まあ、確かに多種多様な寿司が回っている様は見ていて楽しいって言う気持ちもわかるが。
そんなくだらない会話を交えながら、私達は料理に舌鼓を打った。一時間程してある程度食べ進み、玉露茶を一口飲んで本題に入ることにした。
「それで?今日はなんのお話があったんですか?」
グラスをテーブルに置き、私は慎也さんに問い掛ける。
「ああ、忘れてたぜ。まあ大した話じゃねえんだ。一人で飯食うのもつまんねーからそのついでくらいのもんよ」
そう言ってこの店に来てから何本目かになる煙草に火を付けて、彼は話し始めた。
「おまえ、あん時リコとなんか喋ったか?」
リコ?……ああ、飯島莉子さんか。この間水族館で会った。
「ええ、貴方は慎也さんのなんなんですかって聞きました」
「……なんかその聞き方だとお前が俺の事好きみてーじゃん」
「普通に好きですけど」
「はっ⁈」
私の言葉に何故か彼は素っ頓狂な声を上げて飛び上がる。なんだ五月蝿いな。居酒屋とは言え他のお客さんに迷惑じゃないか。
「え?なに、マジで?」
「はい、私にとっては良い人ですし」
「ああ……そういうことかよ……ビビったぜ」
何がだろうか。
今の所出会っている異常性癖者の方々はみんな良い人だしなあ。興味があるってのが先にある気もするし、変な人ばかりだけど、基本的には私と良好な関係を築いてくれているし。
「そんで、アイツなんて言ってた」
と、落ち着きを取り戻して神妙な面持ちになった慎也さんが尋ねて来る。
「友達……少なくとも彼女の方は慎也さんの事をそう思ってるって言いましたよ」
ここで私は、少し含みを持たせておく。
「……そうかい」
しかし、それに対して彼が何か言って来ることは無さそうだ。
ではこちらから少し聞いてみるか。
「最初見た時は、慎也さんの彼女かと思いました」
「あ?……ありえねーだろ」
「何故ですか?」
「あの女はフツーの奴だからだよ」
紫煙を燻らせながら、彼はぶっきらぼうにそう言った。
普通の……普通の人間か。
「じゃあ、飯島さんは貴方の異常性癖の事を知らないんですね?」
「ああ、そうだよ。言える訳ねーだろ」
この人は、割とその辺はオープンにしている印象があったんだがなあ。
嘉靖さんもサロンの外では女装はしていないようだし、エイミーが学校で公言しているのはそもそも露出行為がバレてしまったからだ。椅子の彼なんてどう生活しているかも不明だ。
紗奈さんはあの渾名を付けられてるって事は特に隠してないと言う事なのだろうが……。
「飯島さんの事、どう思います?」
私は悪い癖を隠そうともせず、また土足で彼等の敷居を跨ごうとしている。
「……フツーにいい女なんじゃねーの?」
「じゃあどうして彼女に冷たくするんですか?」
「アイツが俺の事好きだからだよ」
やはり、その自覚はしっかり持っているんだな。
「あんだよ」
そんな私の顔を見て、彼は不機嫌そうな顔でそう言った。
「……拒絶されるのが怖いから、先に自分から拒絶しているって事ですか?」
「……ああ、そうだよ」
短くなって来た煙草を灰皿に押し付け、新しい一本を出しながら彼はそう返事をする。
「そうですか……」
「……なんだその顔は」
慎也さんは私の顔を見て、そんな言葉を投げ掛けた。
「……私今、どんな顔してますか?」
自分ではよく分からないのだ。誰かとこんな突っ込んだ話をするなんて、エイミーの件を除けば私の人生では無かった経験だから。
「なんつーか……わかりにくいけど、泣きそうな顔」
「……」
泣きそう?私がか?どうして?
「同情でもしてくれてんのかよ」
ハッと彼は自嘲気味にまた何処か歪んだあの下手くそな笑顔を浮かべて、そう吐き捨てる。
「いえ、同情とかじゃないです……ただ、どうにかならないかと、思っていただけです」
「……」
「勿論、私なんかが何とかできる訳がないし、そもそも口を出すのも御門違いなのは理解してます。ただ……」
私みたいな、人間の欠陥品に良くしてくれた彼らに、不幸なままでいて欲しくなかったからかもしれない。
「……お前やっぱ変態だな」
「は?」
突然、彼がそんな事を言い出すので、今度は私が驚いてしまった。
「この間のエイミーの話。わざわざお前がそこまでしてやる事じゃねーだろ普通」
私がエイミーの下着を常習的に見てあげている事だろうか。
「いや、友達が困ってたら出来る限り助けるってのは普通ではないですか」
ましてや彼女は初めて出来た友人だ。力になりたいと思うのは当然だと考えていたが。
「そこだよそこ。そもそもエイミーが普通じゃねーだろ」
確かに、彼女は異常性癖者だが……。
「いえ、普通の女の子ですよ。ただ、性癖が他の人とは違ってただけで」
「……」
「慎也さん達も、ちょっと変な面白い人達だなあくらいに思ってるだけです」
「……やっぱお前変態だな」
「失礼ですね」
「異常性癖者好きの変態だよ。異常性癖者性癖だ」
ここでやっと、彼は少し笑ってくれた。自然な笑みだ。
「異常性癖者性癖ですか」
「だってお前、あのバカの上に座ってる時楽しそーじゃん」
「えっ?」
そうだっただろうか。余程の事がない限り、私の表情は読み取りにくいと定評があったが。
「お前は、異常性癖者が興奮しているのを見て興奮する異常性癖者だ」
そう言い放つ彼の言葉に、私は何故だか黙ってしまった。
彼らが興奮しているのを見て興奮している?私が?そんな事……。
思い当たる事がない訳じゃない。エイミーの露出行為を見た時、紗奈さんの自慰行為を見た時、椅子の中の彼が射精する時……その際に私自身が妙なムラ付きを覚える事は確かにあったが、アレは性的な物を見た際に生じる本能的な反応だろう。
性癖とはまた違う気がするが。
「まあ、だからよ。お前を含め変態の俺達と、リコみたいなフツーの奴とじゃちげーんだよ」
「……」
「好きになってもらったってしょうがねえんだ。だから、あいつにあんま俺の事で連絡取るなよ」
そう締め括ろうとする彼の顔は、いつか見た寂しげな雰囲気を纏うやっぱり下手くそな笑顔。
この人はなんで……。
「……慎也さんは、サドマゾヒズムが芽生えたきっかけみたいのはあるんですか」
「なんでぇ、藪から棒に」
「単純に気になったんです。変態じゃありませんが、貴方達に興味があるのは事実なので」
「はっ……物好きな事で」
「言いたくなかったら無理にとは言いませんが」
「いや別に、大した話じゃねーよ。きっかけって話でもないしな、俺は先天的な部分が多いと思うけど」
ビールを一口呷って、慎也さんは口を開いた。
「お袋がな、よく俺の事を殴ってたんだ」
「えっ」
彼の口から飛び出して来た衝撃の事実に、思わず私は面食らってしまう。
母親に、虐待を受けていた?
「ああ、勘違いすんなよ?殴られたっつっても愛の鞭だぜ?昔じゃ良くある話じゃねーか」
「は、はあ……」
なんだか、私は嫌な予感がして来ていた。
「俺はお袋の事を愛してたし、お袋も俺の事を愛してた。自分の子供が嫌いな親なんていねーだろ?」
そう話を続ける彼の顔には、いつもの快活なものでは無くなっていた。
何か、狂気を帯びたような……何かを孕んだ笑顔を……。
「まあ俺もヤンチャだったからなあ。とにかくよく怒られたよ。殴られり、包丁で切られたり、熱湯かけられたりなんかしてな。ほらこれとか、これとかさ」
彼は腕にある傷や火傷の跡などを指差しながらそんな事を言い始める。まるで、宝物を見せびらかす子供のように。
包丁で切られた?熱湯をかけられた?そんなの……愛の鞭なんて呼べるのか?度の超えた虐待ではないのか?
「まあ、今のご時世じゃ虐待だなんだって言われて批判されたりするかもだけど、俺は嬉しかったんだ。お袋はあんま喋る方じゃなかったし、仕事で帰ってこねー事も多かったしな。ちゃんと怒ってくれるって事はちゃんと愛してくれてるって事だろ?」
「……」
私は、何も言えなくなっていた。
彼は何を言っているんだ。私はなんて答えればいいんだ?
「だから愛ってのはさ、相手のことを本気で殴る事なんだよ。どうでもいい相手ならそんなことしねーだろ?」
聞いてしまった事を後悔した。不躾な好奇心を呪った。異常性癖者がなぜ異常性癖者になったのか、その理由や、重みをもっと深く考えるべきだったのだ。
「まあさっき言ったよーに、最近の家庭じゃ子供を殴る親は世間に良くねーって言われちまうし、周りも親に殴られたことなんて殆どないって奴も多かった。お前もそーだろうけど、痛えもんは痛え!体罰なんて以ての外!って感じだったし。俺は少数派だって理解してからはダチに喋るのはやめたよ」
嬉しそうに、でも、何処か嘘臭く語る彼の顔が、脳裏に焼き付いて行く。
「だから、リコにも話してねーし、俺はアイツとは付き合えねえ」と付け足した彼は、何でもなさそうにまたビールを呷った。
この人は……間違った愛情の受け取り方をして、歪んでしまったのだ。
そもそも、その母親に愛情があったのかさえ分からない。
だって今の話は彼の主観だ。下手をしたら、愛されていないと言う事実から目を背ける為に、「自分は愛されているんだ」と、「愛されているから母は自分を殴るんだ」と自分で自分に言い聞かせた虚言がいつしか本当になってしまったのではないか。
「まあ、だから昔は結構多かったんじゃねーの?マゾもサドも」
そう言い放つ彼に、結局私はまともな返事の一つも出来なかった。
以前彼は、椅子の中の彼の説明に対して「そんなチャチな話じゃない」と言っていたが正にその通りだ。これは、そんな次元の話ではなかった。
私は彼の顔をまともに見る事すら叶わなかった。