第一章 人間椅子との邂逅
春の風と、午後の傾き始めた陽射しが窓から教室に入り込む。それを受けて揺れる白いカーテンが、窓際の席に座る私の視界を無規則に遮っている。
これでは黒板が見え難いが、今は放課後のホームルームの最中なので特に問題はない。
丸い眼鏡を掛け、鳥の巣の様な髪型をした三十代前半程の男性教師(名前はなんだったかな)が何か連絡事項を述べ連ねているが、私の耳はそれを右から左に受け流す。
私が通っているこの学校は、東京都江戸川区にある至って普通の都立高校だ。偏差値は高くも無く低くも無い。何か特色があるかと言われると特に無い。とても普遍的な高等学校である。
そんな普遍的で普通の高校に勤務している担任教師は、連絡事項を伝え終えたのかホームルームの終わりを告げた。
辺りはザワザワと騒めき出し、部活に向かう者、特に用も無く友人と駄弁る者、即座に下校する者に分かれる。
無論私は即座に下校だ。
机の横に備え付けてあるフックに掛けていた学校指定の手提げ鞄を手に取り、私は教室を後にする。
私は現在二年生。こうしてこの学校で二回目の春を迎えた訳だが、一年時同様友人も作らず部活動にも勤しんでいない。
今日は四月の晦日だ。春になれば何か変わるかと思ったが、特に何か起こる事も無いまま初夏を迎えようとしている。
まぁ私自身何かを変えようとどうにか行動していた訳では無いので変化が起こる筈もないのだが……。
今日は帰って何をしようか。
とりあえずはいつも通り暇潰しに宿題をやって、暇潰しに軽く勉強をして、暇潰しに読書かテレビの流し見でもするか。
ちなみに、毎日の様に暇潰しに勉強をしていれば物凄く頭が良くなるのでは?と思われるかもしれないが、私の成績は中の上程度である。何故かと言うと、私には特に目的意識がないからだ。
行きたい大学がある訳でも、ましてやなりたい職業があるわけでも無い。目標と呼べる物が無い上に好きでも無いので飽きてすぐに辞めてしまう。単純に『身が入ってない』状態だ。そんな事では成績を保つ事こそあれ上がる筈も無かった。
詰まる所私は毎日暇をしているのだ。趣味も無いのでお金があまり必要で無いからアルバイトもしていない。
「アルバイトか……」
通学路を歩きながら、自分にしか聞こえないくらいの声でふと呟いた。
将来の夢も無ければ、好きな人もいない。自分が誰かと結婚している未来や、働いている姿なんて想像も付かない。そもそも恋愛とかその手合いにはとんと興味が無いというかよく分からない。なんとなくくだらない、とさえ思っているがそう吐き捨てるだけの経験も実績もない。
だが生きていく為にはお金が必要だ。専業主婦になる道も無いに等しいので、独り身なら尚更だろう。どうせする事も無く時間が有り余っているのなら、今のうちにアルバイトでもして貯金をしていた方が余程建設的というものか……。
だが、どんなアルバイトが良いだろうか。
なるべく接客業は避けたいところだ。愛想笑いは得意では無いし、人と話すのも好きじゃ無い。特に運動もしていないので肉体労働にも自信がない。
何か……何かないだろうか。
そんな事を考えて歩いていたら、道路の脇にチラシが落ちている事に気が付いた。
何か、求人広告だろうか……『大募集!』と書いてあるのが見える。私は何故かそれがふと気になり、拾い上げて目を通す。
『アルバイト大募集!!!時給5000円⁈椅子に座っているだけの簡単なお仕事♡スマホ弄って良し!漫画読んでても良いよ!実際簡単!※尚、募集しているのは美しい女性に限ります』
「はぁ?」
思わず声が出てしまった。
なんだこの求人広告は……。
拾ったチラシに書かれていたその文言は、私の予想を遥か斜めに上回る胡散臭さであった。
まず時給。五千円?巫山戯ている。現在の東京都の最低賃金は千百十三円だぞ?学校終わりに四時間程度働いただけで二万円だ。週四日程働けば週に八万円、月に約四十万円も稼げる事になる。
そんな高時給に関わらず、業務内容と来たらなんだこれは。ただ椅子に座っているだけ?しかも本読んだりスマホ弄ってても問題ない?それで時給五千円?バカじゃねーの?
おっと、口調が汚くなってしまった。
しかしこれは……明らかに違法なブラックバイトというやつだろう。
最後の米印の後の文章から察して、水商売とかそっち系だろうか?でもそれだったらスマホを弄ったりしてて良い理由がわからない。客前でそんなことしてて良い訳がない。
絵画のモデルとか?それだったら座ってるだけで良いというのも頷けるが、スマホ弄ったり本読んでたら体が動いてしまって怒られるんじゃないだろうか?ていうかこんなに高収入なのか?まぁ、相場なんてわからないけれど。
こんな怪しげな広告に釣られて働こうとする人間なんて普通はいないだろう。余程金に困っているとか、怖いもの見たさとか、それこそ退屈凌ぎに……。
「退屈凌ぎかぁ……」
そこまで考えた私は、何故かそのチラシの端に書いてある電話番号を、スマートフォンのキーパッドに打ち込み始めていた。
そう、私は退屈しているのだ。
来る日も来る日も浮き沈みの無い毎日。ただただゆっくりと進む時の流れに身を任せて今日も『生きる』をやっている。
誰かが悪いのでは無く、こういう性格の私が悪い。他力本願で変えられるものでも無く、自ら行動を起こさなければ、ここからの脱却は不可能に思えた。
だから、この怪しげ且つ胡散臭いアルバイトに応募してやろうと私は考えた。
自分で言うのもなんだけれど、幸い私は母に似て美人のカテゴリに含まれる容姿をしているから、その点も問題無いだろう。もし本当にやばい仕事だったら、バックレるか警察に通報して仕舞えば良い。
番号を入力し終わった私は、一拍置いて緑色のコールボタンをタップする。
「……」
コール音が私の耳に鳴り響く。何年か振りに、体育の授業以外で私の心臓がその鼓動を早めた。
『はい』
三コールの内に出た。凛とした、やや低めの女性の声だ。
「あのう……アルバイト募集のチラシを見たんですが……」
『有難う御座います。御応募ですか?』
「はい」
『では、面接を行いますので此方まで来て頂けると幸いです。住所は……』
「えっと、今からですか?」
抑揚なく、トントンと話を進める電話口の相手に困惑してしまった私は尋ねる。
『はい。不都合でしたら、日を改めましょうか』
「あ、いえ。問題はないんですが」
帰っても暇だし、父は単身赴任で母も働いているので帰りは遅いから問題無いだろう。
だがいくらなんでも話が早過ぎないだろうか。
『でしたら、今からに致しましょう。住所を申し上げますのでメモの御用意を』
私はスマホの通話画面のボタンをタップして、スピーカーモードに切り替えた後、電子メモに住所を打ち込んでいく。
『……では、お待ちしておりますので、お気を付けてお越し下さいませ』
やや堅めの口調で、女性は言った。
「はい、失礼します」
私は先に通話を切って、一息吐く。
まさか直ぐに面接とは……。
大丈夫だろうか、面接なんて受けた事がない。それにいくらなんでも早過ぎだ。履歴書もいらないのか?現時点でもかなり怪しいが……。
まぁとりあえず行ってみるしかないか。
私はスマホにインストールしているナビゲーションアプリに今聞いた住所を打ち込む。
ここから……歩いて十分かからないくらいか……私の家からもそこそこに近い。
この辺りには特にお店も無く、雑居ビルが立ち並んでいたように思うが、とにかく行ってみるしかないだろう。我ながらバカな事をしていると思うが、肝試しみたいな物だと考えれば良い。
アプリのナビを頼りに、暫く歩いていると、件のビルの目の前へと辿り着いた。
【エドガワビルディング】と書かれたその濃い朱色の壁の雑居ビルは、なかなか年季の入った四階建の建物だ。側面に突き出した看板には何も書いておらず、現在は特にテナントは入ってないように見える。
本当にここであっているのか?
電話口の相手の女性は、住所を述べた後、『地下一階へお越し下さい』と言っていた。
入り口を潜ると右手にはエレベーターと上へと登る階段があり、左手には地下へ続いていると思われる階段があった。
周りの壁や床に比べて、この地下へ入り口はやや新しく見える。後から増設する形で造られたのだろうか。
やや薄暗く少し躊躇われたが、意を決してその階段を降る。
程なくして階段を降り切ると、目の前には木製のアンティックな扉と、その脇には謎の看板が置かれいた。
【異常性癖サロン 人間椅子倶楽部】
「異常性癖サロン…?」
看板に書かれていた前半の文字を、思わず読み上げる。
なんだ?異常性癖?サロン?ここであってるんだよな?
場所を間違えたかと思ったが、ナビゲーションアプリで何度確認しても住所は間違っていないし、地下へ降りる階段はこれしか無い。ここであっている筈なのだ。
「お待ちしておりました」
「わっ」
思わず声をあげてしまった。
オロオロとして、扉に背を向けていたら、扉が開いて声を掛けられたのだ。
電話の声の主だ。恐る恐る振り返ってみると、そこにはメイドさんが立っていた。
……私がおかしくなった訳じゃない。そこにメイドさんが立っているからメイドさんが立っていると表現したのだ。私は大丈夫だ。
その女性は、昨今秋葉原で見られるミニスカートでは無く、クラシカルなロングスカートのメイド服に身を包んでいた。
身長は……ヒール付きのブーツを履いているのもあるのだがかなり高めで、百六十五センチはありそう。ショートカットの淡い茶髪と、鋭い目が特徴の美人さんだ。歳の頃は……二十五、六程だろうか。
「篠嵜恵子様ですね?私めは、当サロンのメイドを務めております……嘉靖と申します」
「は、はい」
まるで精巧なドロイドの様に無表情で三十度の敬礼をした彼女はかせいと名乗った。
「では、早速ですが面接を受けて頂きます。どうぞ中へ」
嘉靖さんは私が通れるように端へ寄った後、お辞儀をする。
「失礼します……」
洒落た扉の向こうは、一本道の廊下であった。
金糸の刺繍が施された赤い絨毯。左右に二つずつある部屋と、その入り口である木造りの扉。途中に置かれた豪奢なサイドチェストの上には花瓶に花が生けられている。
「あちら、突き当たりのお部屋にお入り下さい。議長様がお待ちです」
「議長?社長とか、店長とかじゃなくてですか?」
議長という役職名に疑問を抱いた私は彼女に尋ねてみる。
「はい。議長様に御座います。それでは私はこれで」
「え?あ……ちょっと……」
またもやペコリとお辞儀をした後、彼女はササっと隣にある部屋へと入っていってしまった。
参ったな……。
突き当たりにある扉は、左右にある扉より豪華な装飾が施されている。その右上の、壁と天井の境目辺りには、監視カメラが設置されているのが見て取れる。
とりあえずは、入ってみるしかないだろう。
私は軽く深呼吸をして、扉を二回ノックした。
「どうぞ」
男性の声だ。私は扉の向こうからしたその返事に、「失礼します」と応えてから扉を開いた。
中は洋風の小洒落た応接室といった風体だ。廊下と同じ金糸の刺繍の赤い絨毯。淡い紅色をした薔薇模様の壁紙。天井には厳かなシャンデリア。壁際にある本棚には、江戸川乱歩、筒井康隆等の名を背表紙に受けた小説がぎっしりと並んでいる。天井際の壁には、先程の扉の所にもあった監視カメラが数台取り付けられており、十六畳程はある正方形の部屋の真ん中には、ぽつねんと革張りのアンティックな椅子が一台置いてある。
……一台?
ふと、違和感を感じた。応接室と表現したが、おかしい点に気が付く。
まずテーブルが無いのと、椅子が一台しかないのだ。これから面接をするというのに向かい合わせの一組の椅子もないのはどういう事か。
いや待て、それよりもっとおかしな事がある。
この部屋には、誰も居ないのだ。
扉をノックした時、確かに男性の声が中から響いた。しかしこの部屋中を見渡してみても、私以外の人影は見て取れない。何処かに部屋があるかと思いきや、この一室から出る為の扉は私が入ってきた背後のそれの他には無かった。
議長なる人物がいると思っていたが……これは一体……。
「初めまして」
ふと、どこからか先程の男性の声が聞こえた。ハッとなって辺りを見渡したが、やはり人影は見当たらない。
「君、私はここに居る。壁や、その他の調度品に目を向ける必要は無い」
そんな言葉がして、私はようやくこの声が何処からやって来るのかが分かった。
椅子だ。
赤い総革張りと鋲飾りが特徴のアームチェアだ。何故かそこから、男性の声が聞こえる。
「そう、私はここに居る」
私が椅子を注視すると、やはり椅子から声がした。
「…………えっと……」
「ああ、驚かせてしまってすまないね。そして、困らせてもしまったようだ。これは失礼した」
なんだか芝居掛かった口調で椅子は喋り出す。椅子が喋るというのもおかしな話だが、実際そこから声がするのだから仕方がない。全く持って意味がわからないけれど、スピーカーでも付いているのだろうか。
「面接を始める前に、私の事について少し説明をさせて欲しい。と言うのも、君は今は面食らっているし、これから更に面食らう事になるだろうから、予備知識を持っておいて欲しいんだ」
「は?は、はぁ……」
淡々と喋り出す椅子(彼?)に対して吃りながらも返事をする。
「まず私は、サロンにいる間はこの椅子の中に入っている」
「え?入っている?」
そんな事を言われて私は思わず首を傾げた。
てっきりどこからか監視カメラを通して私を見ており、マイクか何かで椅子に取り付けたスピーカーで喋っているのかと思っていた。だが彼は椅子に「入っている」と言った。
確かにこの椅子はやや大きめで、背凭れの部分も厚みがあるし、脚の部分も床ギリギリの所まで革が張られている。頭を背凭れに、手を肘掛けに、足を正座、または胡座をかいて座れば確かに人がギリギリ入れそうだ。
入れそうだが……俄には信じ難い。この中に人が……この声の主がいるというのか。
「そう、入っているのさ。この椅子は特注品でね。思っているよりもこの中は快適なのだよ」
「……」
いや、だからなんだと言うのだ。
椅子に入れるから入っている?いや、椅子に入る為に入れる椅子を特注したって事だろう。だからと言ってとにかく意味も目的も分からない。こうして喋っているのだから、身を隠すとかそういうのが目的では無いのは分かるが……。
「【Abnormal paraphhilia】という言葉は知っているかな?」
思考を巡らせていると、彼がまた話を始めた。
「あぶのーまる、ぱらふぃりあ?」
「日本語で言うところの【異常性癖】を意味する言葉だ。paraは偏倚。philosは愛た。abnormalは……言わずもがなだね」
「はぁ……」
「私は正にその異常性癖を有する者……異常性癖者という奴でね、そしてここはその異常性癖者が集うサロンというわけだ」
私はその言葉で、最初に見た看板を思い出す。
「異常性癖……」
私はポツリと溢した。
「私の偏見もあるが、異常性癖のわかりやすい例を挙げると露出狂がポピュラーだろう」
「ああ……」
そういえば子供の頃によく見たな露出狂。
何故かはわからないが、私が住むこの江戸川区は露出狂が多い。小学生の頃なんか月に一回は目撃情報と注意喚起が挙がっていた記憶がある。
「生殖を伴わない性衝動がこの異常性癖に当たると言われている。人によってその定義は様々で、諸説ある。まぁ、私の意見では生殖を伴う異常性癖も大いにあると考えているがね」
確かに、自分の身体を見せ付けたところで、性行為にはならないし、子供が産める訳でもない……。
「……つまり、あなたは椅子に入ると性的興奮を覚えるって事ですか?」
思い至った事を私は彼に尋ねてみた。
「半分正解……と言ったところだね。私の場合は 『私が入った椅子に、美しい女性が座る事』で性的興奮を覚える質でね」
なんだって?そんな訳の分からない事で興奮するのか?
露出狂……露出嗜好と言うべきか。その異常性癖は全く共感できないけど、裸体という直接的に性に繋がるものを見せ付けるという点では理解し得ない訳ではないと感じる。しかし、この男が述べたそれは理解の範疇を超えている。
全く理解し難い……し難いのだが、そう答える彼の言葉に、ようやく合点がいった。
この『椅子に座るだけ』のアルバイトは、この男の性の捌け口になる為の物なのだ。簡単な業務内容と高時給はそれが理由だ。
「その様子だと、このアルバイトの内容に大体の予想が付いたと見えるが……」
やはりこの部屋のカメラで私の事を観ているのだろう。椅子の中にモニターか何かが付けられているのかもしれない。
そんな私の様子を見ながら彼はそう言った。
「ええ、まぁ……」
「ふむ……非常に落ち着いているね」
「まぁ、腑に落ちたので」
「腑に落ちた?」
私の答えに、意外そうな声を上げる彼。
「ええ、共感はしてませんが……言いたい事の理解は出来ました」
「共感ではなく……理解……ふむ……成る程……」
やはり意外そうな声で、彼はブツブツと何か呟いている。
しかし、一拍置いた後再び口を開いた。
「さて、本題はここからだ……君は若く、とても見目麗しい女性だ。私はもう君を雇う気でいるのだけれど、最終的にこのアルバイトをするか否かは君次第だ。チラシに書かれていた業務内容を『更に』、『詳細』に、話そう。それを聞いた上で……『私』に『座る』かどうかを決めて欲しい」
成程、ただ椅子に座るだけなんてとんでもない説明不足だ。この男が黙ったまま、自分がそこに居ると告げぬままでいたら、最早詐欺と言ってもいいだろう。だから今、私は問われているのだ。
「就業中、君は基本的に私に座って貰う事になる。スマートフォンを弄っていてくれて構わないし、本を読んでも良い。何か食べたり、学校の宿題をしていてくれても結構だ。だけど了承して貰いたい事があってね……君が私の上に座る事で、その時の心境や卑猥な言葉を君に投げ掛けたり、射精する事があるもしれないのでそれを許してほしい」
「しゃせ……」
マジか……。
この椅子男からは、言葉の端端や口調に知性の様なものが感じて取れる。
やや芝居掛かっているがこの落ち着いた声色、この金払いの良さから察するに恐らくはそれなりの年齢の成人男性。だが、そんな人間が……私に座られる事によって性的興奮を覚え絶頂に至ると言っている。
世の中には色んな人が居るんだなあと思わされてしまった。
「無論、君の身体に直接触れることは無いし、この革張りの椅子は液体を通さないようコーティングされている。そこは安心して良い」
そんな事は最早問題では無い。あまりに特殊過ぎるが、性風俗の様なものではないか。それにまだ私は高校二年生。法律も何もかもアウトな気がする。
「さて、どうだろう。以上の話を踏まえて私に座るかどうか……考えは決まっただろうか。もし同意してくれたのなら……」
眼前の椅子はペラペラと言葉を紡ぐ。
異常性癖者。そんな者達が集う社交場。違法な業務内容。そして……彼の性癖。
どれもこれも異常。非常。特殊。特異。つまるところ……普通では無い。
「是非、今……私に座ってみてくれたまえ」
そう投げ掛けた彼の表情は勿論見えない。だが、その声色に、不安を孕んでいる様に聞こえたのは気のせいだろうか。
私だって人並みに性知識はある。暇潰しにアダルトビデオを視聴したり、自慰行為に耽た事もある。しかし、私が観たそれらの中に、自分が入り込んだ椅子に女性を座らせるなんてジャンルは存在しなかった。
詰まる所、突き詰められたマイノリティだ。この男は、生まれ持ったその性質を受け止めどうにか発散しようとしているのでは無いだろうか。
昨今、LGBTやら何やらで性的マイノリティーがどうのこうのとかテレビで報道されているのをよく目にする。
今でこそやや世間に受け入れられ始めているが……この人は性的マイノリティという括りではないのだろうけど、多様性だなんだと言われる以前からこの性癖を抱えて生きて来た筈だ。私のような人間では測りしてないような葛藤や不安や……。
いや、取って付けたような建前は止そう。
同情とかそういうのは柄じゃない。今私を支配しているのは、もっと下世話で不躾で安直な感情だ。
面白そう。
そう思った。そう思ってしまったのだ。
退屈な毎日に、辟易する日々に、思っても見なかった刺激が今舞い込もうとしている。
気が付くと、足が動いていた。
一歩、二歩……三歩と前に進み出す。
椅子……いや、彼の前で立ち止まり、そのままくるりと回れ右をして……ゆっくりと腰を下ろして行く。
臀部が触れ、そのクッションに体重を預けて沈み行く。
「おお……」
何やら背後から、彼の感嘆の声が聞こえて来た。
座った。座ってしまった。
私が取った行動は、どんな言葉よりも雄弁な返事だった。
この日から、私のアルバイトが始まった。
訳の分からぬ、人に言う事は憚られる、異常性癖者相手のお仕事だ。
生まれて初めて、これからの事を楽しみだと思った。
そんな自分に対する困惑と高揚感が、この時の私を満たしていた。
私も実は、普通では無いのかも知れなかった。
「有難う……篠嵜恵子君。いや、『奥様』と呼ぶのが相応しいかな?」
「はい?いや、私女子高生なんで……」
「ふむ……」