第一章 行ってらっしゃい
「どうしてあんな事したんだ?」
担任が私に向かって問い掛けた。
放課後になって、現在私は職員室の奥にあるパーテーションに仕切られた簡易的な応接間のような場所で、パイプ椅子に座って担任と向かい合っていた。
「……薔薇園さんが……」
もっと話す事があった筈だが、上手く言葉が出てこなくて、その名を呼ぶだけで精一杯だった。
「……お前、薔薇園と仲良かったのか」
その言葉に、私は頷く事も首を横に振る事も出来ないでいた。どうしていいのか分からなかったのだ。
「……薔薇園の件は俺も聞いている。一応警察も来て、未成年でまだ高校生だっつー事で厳重注意で終わったけどな……」
知らなかった。全然知らなかった。
そんな事になっていたなんて。気が付かなかった。
「教員側でもSNSとかに手回してたんだが……流石に生徒間でのやり取りとかにまでは手が回らなくてな……すまない」
その後の担任の話を纏めると、どうやら彼女は日曜日に夜道で行為に及んでいた所を、運悪く学校の男子生徒に見つかってしまったらしい。
初めは仲間内で面白話として見せ合っていたらしいのだが、それを見た私達のクラスメイトの誰かが、その人物は薔薇園エイミーであると気が付いたらしいのだ。
そこからは早かった。
瞬く間に画像は拡散され、薔薇園さんが露出嗜好を持っている事は周知の事実となった。
ただ一人を除いて。
嫌がらせは人目に付かない所で行われていた。
だからなんだと言うんだ。
どうしてあの時気が付かなかった?
どうしてあの時もっと気の利いた事が言えなかった?
どうして?どうして?
「とりあえず、山岡達もあの悪戯書き仕組んだ一人だっつーから、今回はこのままで収めとく事になった……幸い大した怪我じゃ無かったしな。山岡達も親御さんに知られたくねえって……まあ勝手な話だ」
「……山岡?」
「……お前が殴った奴らだよ。曲がりなりにもクラスメイトだぞ……まったく」
頭をガシガシと掻きながら、担任は呆れた口調でそう言った。
「……まぁなんだ、今日は一旦帰れ。薔薇園の事は先生に任せとけ。頼りないだろーけどな」
「……」
碌な返事も出来ずに、私は職員室を後にした。
鞄も取りに行かないで、そのまま学校を出た。
どうしたらいいか分からなかったのだ。
薔薇園さんになんて言ったらいいか分からなかったのだ。
後悔だけが纏わり付いて離れない。
フラフラと歩いて、歩いて、気が付くと、見慣れた扉の前に立っていた。
サロンの扉だ。
インタフォンを押してもいないのに、嘉靖さんが出迎えてくれた。
「おかえ……」
いつもの挨拶を言おうとした彼は、私の顔を見て口を閉じた。
何も聞かずに私を中へと入れて、最奥の部屋へと通した。
「おや、今日は非番だった筈だが……」
椅子の中の彼は、俯く私の様子を見てやはり口を噤む。
暫しの沈黙の後、何かを察したのかこう言った。
「とりあえず、掛けたまえ」
促された私は、大人しく彼に腰掛けた。
嘉靖さんが何処からかサイドテーブルを持って来て、お茶を淹れて出してくれた。
「カモミールティーです」
お礼も言えずに、私はそれに手を付けた。
冷え切った臓腑に染み渡る、優しい温度だった。
「……何があったかは、話したくなったら話すと良い。話したくなかったら、このままお茶をして帰っても構わないよ」
椅子の中の彼は、そんな言葉で私を包んだ。
なんだってこの異常性癖者達は、こんなに私に優しくしてくれるのだろうか。
私が彼らに何かしてあげられたか?彼らだけじゃない……彼女にだって……。
「……友達が……」
気が付くと、ポツリと言葉が出ていた。
「……」
彼らは、黙って私の言葉の続きを待ってくれていた。
「……友達が出来たんです……」
喉につっかえて、上手く声が出ない。でも、少しずつ、少しずつ形にして外に出した。
「生まれて、初めての……友達でした……私みたいな人間には勿体ない……素敵な、素敵な友達です」
彼女は私に声を掛けてくれた。
一緒に帰ろうと言ってくれた。
ケーキを食べようと言ってくれた。
私の為に服を選んでくれた。
でも私は、自分の気持ちに蓋をして……気付けた筈の物を見落として、大事な物を溢して、落として……。
「その子は……その子は、露出性癖の持ち主でした……」
その後、ゆっくりと、言葉を紡いだ。
ちゃんと話せていたから分からない。途中で泣いていたようにも思う。頭の中がグチャグチャで、伝わったかどうかも分からなかった。
大体のあらましを説明するのに、三十分程の時間を要した。もしかしたらもっと掛かっていたかも知れない。
彼らは、黙って私の話を聞いてくれていた。
「恵子君」
椅子の中の彼が、ゆっくりと口を開いた。
私はその声に、耳を傾ける。
「君はどうして、その女子生徒の事を殴ってしまったんだい?」
問い掛けの意味は分かった。でも、言葉にするのが難しくて、少し考えた。
「……許せなかったんだと思います」
「何が、許せなかった?」
「彼女を傷付けた、あの人達が許せなかった……どうしてそんな簡単に、人に、人を……傷付けられるのか、分からなかった……」
「……彼女が露出狂でも?」
「そんな事は関係ないッ!」
彼の言葉に、思わず声を荒げてしまった。
彼に怒鳴っている訳じゃない。多分私は、自分に怒っていたんだと思う。
「彼女が露出狂だとか、性癖がどんなとかそんな話じゃない……例え容姿だろうが、生まれだろうが、どんな事だって……馬鹿にしたり、貶したりするなんて……」
許されない。
「……」
「……そして、彼女がそんな事に、なっている事に気が付けなかった、気が付けなかった私が……許せない……」
涙が溢れて溢れて止まらなかった。こんな感情が、私にもあったのかと驚いた。
「……羨ましいね」
ボソリと、椅子の中の彼が呟いた。
羨ましい……?
彼の言葉に、私は顔を上げる。
「僕もね、この性癖が原因で虐められていた事があった。そこの嘉靖もね……」
背中で椅子の中の彼の体温を感じて、眼で目の前の彼の意思を受け止める。
「僕ら異常性癖者はね……やはり排斥され、疎まれ、嫌悪され、石を投げられる運命なんだ。分別のある大人ならまだしも、多感な時期の学生なら尚更だ」
こうして過ごしている彼らにも、目を瞑りたくなるような過去がある。こうして簡単に言葉にしているけれど、語りきれない傷がある事は火を見るより明らかだ。
「僕らは、僕らがそんな状況にある事を互いに気が付けなかった、知らなかったんだ。僕が嘉靖の……嘉靖が僕の性癖を知る事になるのは、自分の生まれ付いての性に折り合いを付け始めた、大学生くらいの頃だった」
嘉靖さんが懐からハンカチを取り出し、膝を突いて私の涙を拭ってくれる。
「その時に、辛い時期に……君のような隣人がいてくれたらと……本当に羨ましく思うんだ……だから」
顔も見えない、名前も知らない、何処の誰とも知らぬこの異常性癖者の言葉が、深く、深く私に突き刺さる。
「彼女の側に、居て上あげて欲しい」
そうだ、そうだった。
この期に及んであの子に何を言えばいいか分からない莫迦女だ。あの子が傷付いている事に、気が付けないくらいの愚昧だ。友達だなんて呼んでいい立場じゃないかも知れない。
でも、側に居なきゃ……いや、側に居たいんだ。
気が付くと私は立ち上がっていた。
「私……行って来ます」
「そうか……いっておいで」
彼の言葉が、私の背中をフワリと押してくれた気がした。
「お茶、ご馳走様でした」
嘉靖さんの方に向き直り、頭を下げてお礼を述べる。
「恵子様……貴方なら、きっと大丈夫です」
私の手を握って、彼はそう言った。
「……二人共、ありがとうございます。行って来ます」
私の言葉に一人は笑顔で、もう一人も恐らく笑顔で応えてくれた。
「「行ってっしゃい」」