第一章 序幕
奥様、
奥様のほうでは、少しも御存じのない男から、突然、このようなぶしつけなお手紙を差し上げます罪を、幾重にもお許しくださいませ。
『人間椅子』江戸川乱歩
…………………………
私は花の女子高生である。
恋人はいない。
友人もいない。
家族仲は普通。
愛だ恋だのなんだのに現を抜かす同級生を横目に、私は今日も独り歩きを続けている。
こう書き連ねてみると、『花』と言う表現には少々語弊があったかもしれない。自分の見てくれは良い方だと思っているが、この生活が一面に咲き誇る花畑のように華やかではない事は火を見るより明らかだ。
私は年相応な趣味や、話題、色恋沙汰等にはとんと興味がない。何故か?と尋ねられれば、そういう性質だからとしか言い様がない。
別に好きなものが無い訳ではない。音楽を聴くことは嫌いではないし、読書もする。人並みにテレビ番組に目を向けたりすることもあった。
しかし、どうにも満たされない。どうにも退屈で、薄ぼんやりとした靄が頭に掛かったみたいに、ふらりふらりと『生きる』をやっていた。
そんな私は、十七歳の初夏の訪と共に、ある一人の男と出会った。
彼は所謂、【Abnormal paraphhilia】……異常性癖を有する者であると己を称した。
そういった人間は、そういった性質を隠したり、後ろめたく思ったり、恥じたりしていると思っていたが、彼はそうではなかった。
「何故そう思わないんですか?」
不躾にも私がそう尋ねると、「以前はそういう気持ちもあったがね」と前置きを挟みながら、彼はいつもの回りくどい口調で教えてくれた。
「生まれ持った性質だからさ。生まれ付き肌が白い者、黒い者。直毛の者、癖毛の者。運動が得意な者、そうでない者。己がどう望むかとは関係がなく、この世に生を受けた際に持ち合わせたカードに過ぎない。それを恥じたり、悲観したり、他人と比べて妬んだり羨んだりする事とはなんとも時間の無駄だとは思わないかね」
私は今まで、あまり他人に興味を持って生きては来なかった。隣の芝は青いと言うが、その感覚は分からない。だけれど、彼の言葉を聞いて、自分がもう少し人付き合いが得意な性質であったのなら、今より多少は退屈せずにいられたのかも知れないとふと思ってしまった。
「勿論この生まれ持った異常性癖も、誰かに無理矢理押し付けたり、勝手に捌け口にしたり、強引に理解して貰おうとするのは宜しくない。だから、私はこれを発散する為に努力をしている」
「と、言うと?」
「私と、君との今の関係が正にそれなのだよ。私はあの小説をバイブルとしているが、彼の様に身勝手にこんな行いをして良い道理はないし、対価を支払う為に稼いでいる。そうだろう?だから……」
退屈凌ぎに投げかけた質問に対して、長々と喋る彼の言葉を私は予想して繋げてみせる。
「私を雇った」
「その通りだよ。君はあのチラシを見て、そして内容に納得した上でここに訪れそして……【私】に座っているのだからね」
表情を見る事は物理的に叶わないけれど、彼はなんだか笑っているような気がした。
「人々は我々を『変態』と呼ぶかも知れない。ある人は『犯罪者予備軍』と、ある人は『気持ちの悪い連中』と。君の中にも嫌悪感はあるのかも知れないし、共感こそしていないのかも知れない。だけど、人をあるがまま受け止めて、理解しようとする姿勢は非常に好ましい。我々異常性癖者はね……君の様な隣人が居てくれる事を、心より嬉しく思っているのさ」
今年の初夏に、退屈凌ぎに始めたこのアルバイトは、大それと世間様にはお話しできない様な業務内容であった。
友人……は元からいないが、両親にさえ話す事は憚られた。
時給五千円。業務内容はただ【椅子に座る事】。だがその椅子というのが少し……いや、かなり風変わりだ。
「さて、もうこんな時間になってしまったね……今日のアルバイトはここまでだ。いつもながら良くやってくれているね、有難う」
背後からの声に、「はい、お疲れ様でした」と事務的に返事をした私は【彼】から立ち上がる。
やや後ろを振り返るが、そこにあるのは革張りのアンティックな一人掛けの椅子だけだ。当たり前だが、【人の姿】は何処にもない。
「それでは恵子君、また明日」
その椅子……彼が私の名前を呼んでそう言ったので、軽く会釈をしてこの部屋を後にした。
私の名前は篠嵜恵子。ただの女子高生である。
恋人はいない。
友人もいない。
家族仲は普通。
どうにも満たされず、どうにも退屈だと思っていた私の人生は、薄ぼんやりとした靄の中に微かな光と刺激が差し込む様になった。この訳の分からぬアルバイトと、訳の分からぬ雇い主のお陰だろうか。
相も変わらずふらりふらりと『生きる』をやっているが、以前よりはマシになったと思える。
これはそんな私と、彼と、彼のような異常性癖者達との物語。
まずは彼……【人間椅子】の話をしよう。