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神様、見ていてください  作者: 水城しずみ
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別れと出会い(3)

「改めまして先程は、大変失礼をいたしました。床の手形まで綺麗にしてもらっちまって」

「どうぞお気になさらず。床のシミを落としたのは私ではなく創り主様ですし」


 再び、宿の食堂である。

 ヘェベら夫妻が手を洗ったりなんだりしている時間を、テーブルに残っていた食べ物や葡萄酒をいただきながら待ち、そうこうしているうちに今度は椀に入った味噌汁が運ばれてきた。チモモが夫のために作ったものの相伴に与れるというのでちまちま頂いている。


「それよりもヘェベさん、お味噌汁美味しいですよ。あなたのためのものなんですから、冷めてしまわないうちにおあがりなさい」


 細切りにした葉野菜とふわふわした肉団子がたっぷり入った、汁ものというより一品料理のボリュームのある椀だった。香辛料が混ぜてあるのか、熱さとは違った刺激が不意に舌へと届き、柑橘らしき香りが鼻に抜けていく。

 私は箸の扱いが苦手なので匙を借りているのだが、これは多分、椀の縁に口をつけながら箸を使って食べるほうがより味が活きる品だろう。


 ヘェベは隣に座る妻にぺこりと礼をしてから箸を取る。ズッと音をたてながら一口すすり、肉団子をぱくついた。途端に表情がほころび、そうかと思うと火がついたようにかきこんで、あっという間に器が空になる。はふはふと熱そうだが実に美味しそうに食べるものだ。チモモが気を利かせてお代わりを取りに厨房へと引っ込む。

 空の椀を名残惜しそうに見つめながら、ヘェベは自分の腹に手をやった。


「はぁ……俺、腹が減ってたんだなぁ」

「空腹での飲酒はお勧めしませんよ。余計に悪酔いします」

「へへへ、すみません。実はまともに酒を飲んだのが初めてで」


 そのわりにはヨイ相手に知ったような口を聞いていたけれども。


「早々に失敗を経験できて幸いでしたね。おまけに今日は宴ですから、皆笑って済ませてくれます」

「旦那にそう言われると何だか安心するな。歳はあんまり変わらないっぽいのに、すげえや」


 見た目だけは辛うじて同年代かもしれないが、以下省略。私は曖昧に笑ってから自分の椀に口をつけた。美味しいことは確かだが、立て続けに食べているから既に満腹になってきつつある。


「そうだ、お連れのお嬢ちゃんはどちらに? あの子にも謝罪とお礼を言わねえと」

「ヨイさんは今、ご婦人がたと着替えの衣を選んでいるところです。彼女も何だかんだで楽しんでいますから、気に病まないでくださいね」

「そう言ってもらえると助かります。あの子、小さいのにずいぶん力持ちでしたよね。旦那と同じで賦才持ちですか?」

「その通りです。小さく見えてもじきに17歳になります」

「なんてこった。俺と二つしか違わないんですか」


 私としてはヘェベがまだ二十歳に満たないことのほうが驚きだった。その歳での妻帯も飲酒も、中央人なら珍しくもないのかもしれないが。

 それにしても彼は時々、やけに人生の苦難と近しい人の表情をする。酔いが覚めてからは特にだ。思い悩むように引き結んだ口の端に、若さにかまけた馬鹿騒ぎを恥じているだけではない事情の深さがちらちら覗く。


 もしかして、無茶な酒で酔っ払っていたのも、何かそうしたくなるような出来事があったせいなのだろうか。


「あんたは悩んで焦ってもうまくいくたちじゃないのよ」


 厨房からチモモが戻ってきた。なんと、味噌汁を大鍋ごと台車に載せて運んでいる。鍋の横には米櫃まで添えてあるので、これからヘェベの昼食が始まるようだ。


「お客様、どうもすみません。この人ったら近頃全然食が進んでなくて。今なら食欲があるみたいだから、この機会に食べさせたいの」

「どうぞ私のことはお気になさらず。お腹いっぱい食べてください」


 やはり何か心配事でもあって食が細っていたのだろうか。さっきの私の請願が心因性の消化器不良まで改善したのかもしれない。咄嗟に大雑把な頼み方をしたが、どうやらファインプレーだったようだ。


 自分だけ食べるのも気まずいから一緒にどうかとほかほかの白米を勧められたが、私はまだ最初の椀の中身も残っているし、既に胃の内容物の嵩が9分あたりにさしかかっているので丁重に辞退した。すると代わりに米の清酒が出される。

 酒ならまあ固形物よりは入りやすいし、飲み食いすることが目的の宴の日なのだから、それくらいは大人しく頂戴すべきだろう。


 ヘェベは最初の1、2口こそ遠慮の気配を見せていたが、空腹に妻の手料理の効果は抜群で、ほどなく食事に集中し始めた。

 食の細っていた二十歳前の青年が久方ぶりに美味しい食事を堪能しているのだと思うと、見ているだけのこちらも気分が良い。隣で微笑みながら見つめては時折世話を焼いているチモモも幸せそうだ。言葉もあたりも強いけれど、彼女なりに夫のことをずっと心配していたに違いない。

 仲睦まじい夫婦の姿を肴に、私は黙々と手酌で徳利を空ける。最初の一本が空になるなり台車の下段からすぐさま次が現れたのには驚かされた。


 米櫃の中身が半分ヘェベの胃に収まり、私の前に3本目の徳利が現れたところで、耳馴染みのある軽い足音が廊下を駆けてきた。


「イザク、着替え終わったよ」


 ヨイがひょっこりと顔を覗かせる。着物は柄こそ華やかだが、案外身軽そうな着こなしだ。代わりに髪は手の込んだ編み方を使って結われ、細かい飾りがいくつも揺れている。


「まあヨイちゃん、よく似合ってるわ。とっても可愛い」

「ありがと、チモモ」


 褒められたヨイはお返しににこりと微笑んで、その場で一回りして見せた。ごく一般的な子供のちょっとした晴れ着くらいの装いではあるが、不思議と、いつもの無駄に豪奢な着物よりもずっと垢抜けた感じがする。

 その晴れ着の少女はトコトコと私の隣にやってきた。食卓の向かいで慌てて箸を置く男があの泥酔青年であることに気づき、ああ、と手を叩く。


「食事の最中だったのね、ごめん」

「とんでもない! さっきは大変失礼いたしました……!」

「多少驚きはしたけど気にしないで。それより、元気になったみたいで何より」

「旦那の請願のおかげです」


 ヨイの視線は旦那こと私に向けられ、次いで手元の徳利と猪口に注がれる。


「……もしかしてそれもお酒?」

「ええ。さっきのは葡萄酒、これは米のお酒です」

「イザクさんってばお強いのね。するするっと二本空けても、顔色ひとつ変えないんだもの」


 次々出されるから飲んでいるだけで、とりわけ酒好きなわけでもないけれど。ヨイは物言いたげに私を見る。


「酔ってませんから大丈夫ですよ。酔っている人間ほど酔ってないと言い張るものですが、これは本当のやつです」


 酩酊感は少しもない。仮に断崖の吊り橋を渡れと言われても、今の状態ならさくっと通り抜けられるだろう。

 ヨイは少々訝しげな目つきをしていたが、見たところ私が平常通りなので納得したようだ。


「あたしより宴を堪能してる気がする」


 その後ろには「普段干し飯ばかり食べてるくせに」の文言が省略されているのだろう。確かに、せっかく豊穣の宴の最中に訪れたのに、健啖家のヨイより私ばかりがあれこれ飲み食いしている。


 外見上はまだまだ幼い少女の拗ねたような呟きに、チモモがくすりと笑った。


「よければヨイちゃんもいかが? 隠し味に使った柚子はヘェベが育てたものなのよ」

「食べたい!」


 チモモがヨイの前に配膳し、ヘェベも食事を再開する。美味しそうにもりもり食べる人間が二人に増えて、作り手であるチモモの満足もひとしおだ。


「美味しい。香りが良いのと、ほんの少しだけぴりっとするね」

「蕃椒と、柚子の皮を混ぜて作った調味料を入れてるの。うちの特製よ。ヘェベのご先祖が、自分の作った果物を使って何かできないかって考えだしたんですって」

「素敵なご先祖だね」


 ヨイは箸使いも会話のテンポも見事なものだ。咀嚼中は決して口を開かないのに、どうしてこうもうまく話ができるのだろう。

 対して、口いっぱいに頬張っていたヘェベは、飲み込むまでの間をたっぷりとってからようやく言葉を零す。


「継がなきゃならねえと思うと、ちょっと荷が重いよ……」


 青年の表情にさっと影がさす。なるほど、折からの食欲不振の原因はそのプレッシャーにありそうだ。出会ってから大した時間も経っていないが、なぜだか無性に応援したくなる青年である。

 応援したい気持ちは妻のチモモも同様のはずだが、如何せん彼女のやり方は少しばかり厳しめなきらいがあった。


「お客様の前でそんな情けないこと言わないの。ごめんねヨイちゃん、イザクさん」

「荷が重く感じるってことは、それだけ真剣に向き合って大切にしてるんでしょ。悪いことじゃないよ。ねえイザク」

「えっ。そう……ですね。私が先祖なら、そういう子孫の存在は誇りに思います」


 咄嗟に出た先祖目線のフォローは悪くなかったようだ。ヘェベの持つ箸の先が小刻みに震えたかと思うと、みるみるうちに両目が潤んでくる。


「やだあんた、何泣いてるの!」

「わ、悪い。俺、どうしちまったんだろ……すみません」


 あまり凝視してはならない光景だ。ヘェベの顔面がチモモのハンカチでごしごし拭われる時間を、私とヨイはそれぞれ明後日の方向へと視線を逸して過ごす。

 その間私はただ「人にはいろいろあるものだな」とかぼんやり考えていたのだが、ヨイはもっと実のある思考を巡らせていたようだ。


「あたしたちその辺を散策したいんだけど、もし暇があるなら案内を頼めないかな」


 少女からの提案に夫婦は仲良く顔を見合わせた。


「勿論、無理にとは言わない。ほんの少しだけでも良いし。あたしたちだけで見て回るのも全然悪くないけど、やっぱり土地勘のある人と一緒のほうが動きやすいでしょ? イザクもここに詳しいわけじゃないの」

「俺は構わないし……むしろ俺で良いって言ってくれるなら、埋め合わせのためにも喜んでやりますけど」


 ヘェベは赤くなった目を擦りながらチモモの表情を伺った。尻に敷かれているタイプの彼にとって妻の意見は重要である。

 チモモは腕を組んでしばし考え込むふりをしたものの、勿体ぶるまでもなくあっさり頷いた。


「いいわね。どうせ用事も予定も特に無いんだし、あんたはイザクさんに正しいお酒の飲み方でも教わるといいわ」

「えっ……」

「やった! ありがとう!」


 私に教えられることなど何もない、と釘を刺したかったのに、ヨイが喜んで身を乗り出すのでタイミングを逃してしまった。

 これは困った。空腹時を避けて途中に水も飲むべし、くらいしか言えることがない。私は特に酒の飲み方を心得ているわけではなくて、飲んでいてもなかなか酔わない体質を持つだけなのである。

 同行者ができてしまったからには、間をもたせるための話題は考えておかねば。宿の主人と体験した気まずさはもう味わいたくない。元々酔ってはいないが酔いの醒めた心地で必死に脳内の引き出しを物色する。


 あちらの夫婦もこちらの主従も主導権を持つのは女性のほうだ。ひとしきり食べたら早速出発だと決められたら、最終的には従うしかない。

 チモモが運んできた大鍋と米櫃の中身を二人が平らげたところで、私達は改めて街へと繰り出した。

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