別れと出会い(2)
重ね重ね、若い者共が大変失礼をいたしました」
「今日はそういう日なのですから、気になさらないでください」
あれから小一時間の後。
私は街の中心部にある宿の食堂で、葡萄酒を頂いていた。
怯えきっていた来訪者の少女がまさかの大瓶で参戦した事を受けて、酒の入った若者たちの水かけ合戦場にはさらなる熱狂が渦を巻いた。ヒートアップした集団は素早い補給を求めて徐々に井戸の側へと移動を開始。釣瓶を奪いあっては水を撒く者と、髪や衣服に滴る水をかけあう者が入り乱れ、最終的に井戸に落っこちかけた泥酔青年の足をヨイが掴んで引き上げたところで終戦と相為った。
泥酔青年が転落寸前のショックのせいか大人しくなり、全員が揃いも揃って濡れ鼠。あわや笑いごとではなくなるところだった事故を防いだ立役者のヨイは、やたらとテンションがあがって笑い転げていたが、紫紺の羽織が黒くなるほど濡れそぼってしまっていた。
陽気は十分に暖かいとはいえいつまでも濡れていては風邪をひきかねないということで、若者たちは私たちを宿へと案内してくれた。ヨイは現在異常なハイテンションがどうにか収まって、宿の風呂をいただいているところだ。
ちなみに私はというと、終始離れた場所に陣取って観戦を決め込んでいたから、水を浴びせられることは一切なかった。ヨイにもらった飾り入りの赤い衣が見るからに上物だったせいで遠慮されたのもあるらしい。似合うと言ってもらえたし気に入っているので正直助かった。
ヨイをそそのかしたくせに、一緒になって踊るどころか結果的にステップ一つ踏まなかったわけだが。
まあ、良い歳をした大人にはそれなりの振舞いがあるということで。
広い街だけあって客人用の宿は複数あるが、私たちが通してもらったのは中央街のやや北に位置する一軒だった。
単純に他のどの宿よりも近かったのもあるし、何を隠そう泥酔青年に最初に水を浴びせかけた女性の実家だとのこと。彼女自身は数カ月前に、農業従事者である泥酔青年の元に嫁いで家を出ているのだが、宿屋の跡取りとなる妹を叱咤激励するためにもまめに帰っているらしい。
軽い世間話のノリで聞くにはなかなか情報量の多い一連の話をしてくれたのはこの宿の主人、すなわち泥酔青年夫人のお父上だ。自分の身内がもろともにずぶ濡れで客人を連れて来たわけだから、ひときわきまり悪そうにしているのも頷ける。後々義理の息子が全ての責任を取らされるようなことにならなければ良いのだが。
店主はどちらかというと小心者に類するたちらしい。ここに来てから何度「お気になさらず」と伝えたかわからないが、態度は依然として恐縮しきっていた。葡萄酒の香りを楽しむ私の前には続々と、ナッツやチーズを始めとした小皿が並べられ、どれ一つとして空にならないうちに軽食までもが運ばれてくる。
ちなみに、厨房と食堂を往復して皿を運んでくれているのはゆくゆくは宿の女主人となるこの家の次女で、調理担当は次女の婚約者たる家具職人の三男くんなのだとか。脳内に展開された家系図を復習するにつけても、よほど話すことがなかったのだろうなと感慨深い。
いや、多分違うな。脳内で家系図を作成するために私が黙り込んでしまうから、余計に間が持たなくなって主人が喋る羽目になるのだ。
食事も会話もはかどらずにぼんやりしている私は、不安を胸に抱えながら接している人間から見ると、機嫌か具合が悪く見えるのかもしれない。
そう思ってとりあえず、一番最初に出てきたナッツをつまんでみた。カリカリとした歯ごたえは私の顎に念入りな咀嚼を要求する。これは明らかな判断ミスだった。
「お口に合いませんでしたか……?」
「いえ……その、美味しいのでよく噛もうと……」
油分を含んだナッツの香りとほのかな塩味が良い塩梅だ。テーブルの真ん中に小皿を差し出して、自分だけ食べるのも何だから店主もどうぞと勧めてみる。二粒まとめて口に入れた店主は、きっと味がしないんだろうなという顔で笑った。
どうしよう。空気がひどい。困り果てていたところに、部屋の外の廊下を、小走りの足音が近づいてきた。
「あ、いた、イザク。あたしの許可証持ってる?」
扉を開けて顔を出したのは見るからに風呂上がりのヨイだった。まだ濡れた髪を後頭部でぐるぐる巻きにし、浴衣の上に厚手の羽織を着こんでいる。体はしっかり温めたようで、頬が火照って薄紅色だ。
彼女が腰からぶら下げていた宮殿の夜間滞在許可証は着物もろともずぶ濡れだったが、水に強い墨を使っているようで、幸いにして標識の役目は全く損なわれてなかった。身分証明書の一種を着物と一緒に乾燥室に入れておくのもさすがにどうなのだろう、と宿の主人と相談した結果、今は私が預かって鞄に括りつけている。
「ええ、ここにありますよ。着物は預けて乾かしてもらってます」
「よかった、ありがと」
「それより、きちんと髪を拭わないと風邪の元になりますからね」
「わかってる。着替えを選んでもらいながらやるよ」
共に水を掛けあったよしみで、ヨイは先ほどの若者たちとすっかり打ち解けていた。出来の良い人形のように人心を惹き付ける容姿のせいもあってかご婦人方には特に気に入られ、これからしばらくは宿の女将も加えて着せ替えの儀を楽しむ予定になっている。
すっかりリラックスしたヨイは、私の目の前に並んだ皿にも興味を引かれたようだ。そそくさと近づいてきて私を見るのでどうぞと勧めて食べさせる。チーズを口に含んでご満悦の表情、これには店主もほっと胸を撫でおろした。
もうひと切れつまんだところでヨイは、私の持っている杯から漂うアルコールの臭気に気付いたらしく、にわかに顔を強張らせる。
「それ、お酒?」
「ええ」
緊張は克服できたのかと思いきや、酔っ払いに対する若干のトラウマは残っていたようだ。確かに、もしも身近な人間があんなふうに豹変したらと想像するとなお恐ろしい。翌日からどんな顔をして会えばいいのかわからなくなること請け合いである。
「さして強いものじゃありません。そもそも、誰もが皆酔うとああなるわけでもないですよ」
「イザクは酔ったらどうなるの」
「さあ、酔ったことがないのでわかりませんが」
自分が酔ったらどうなるかは知らないが、酔っぱらう寸前の感覚は承知しながら酒と付き合ってきたつもりだ。葡萄酒一杯程度など水を飲んだのと変わらない。
ヨイはまだ物言いたそうな顔をしていたものの、談話室で彼女を待っていた女性たちが迎えにきたので、結局何も言わずに食堂を出て行った。楽しそうに語らう声が廊下を遠ざかっていく。
「つかぬことを伺いますが、娘さん、ではありませんよね?」
ちまちまと軽食をつまむ隙を縫って主人が話しかけてきた。
「まさか。彼女は幼く見えますが、賦才を買われて宮殿にお勤めの身なんです。私はただの付き添いですよ」
「ですよね。そうですよねぇ。すみません、どう見てもあの大きさの娘さんのいる歳ではないのに、振る舞いが随分と落ち着いていらっしゃるものですから。
うちは娘も婿もあの始末でお恥ずかしい限りです。あなたの冷静さを少しでも見習ってくれれば、多少なりとも安心できるんですが」
「活力があって結構ではないですか」
こういう物言いが外見とちぐはぐな年齢の印象を与えるのだろうが、口から出たものは仕方がない。
実年齢はまず間違いなくこの主人よりも私のほうが上なので、感心されるとどうにもむず痒い。しかも、私は常に落ち着いているわけではなく、反応が鈍いせいで泰然と見えているにすぎないというのがまた情けないところである。
ここで「私っていくつに見えますか」というジョークを飛ばしても絶対に笑ってもらえないことはわかっている。
私はとりあえず右手の近くの皿にあった、何だかよくわからない小洒落た塊を食べてみることにした。口に入れてみても、何をどう調理したらこうなるのかは皆目見当がつかない。ふわふわした塊は何となく肉の味がして、内部に細かく切った野菜が混ぜこんであり、食感のアクセントもある。美味しい。全体的に柔らかいので私にも食べやすくてありがたい。
口の中一杯に味が広がるのを楽しんでいると、主人はまた話題を見つけ出して話し始める。食事と会話のペースがだんだん掴めてきた気がする。
「あの子も小さいのにお勤めとは立派なものですが、あなたもお若いながらに遠くからいらしたんでしょう。やっぱり賦才をお持ちなんですか」
「ええまあ。…………苔と対話ができるんです」
「苔と。対話。ですか」
「光るやつなんかは特に」
「光る苔」
「あまり知られてはいませんが、人の生活にそこそこ深く関わるものなんですよ」
馬鹿げた話も真面目に語る作戦はそこそこの効果を発揮している。苦し紛れでも策は練っておくものだ。
私は見るからに遠隔地出身者なので、わざわざ宮殿で召し抱えられているのは、それこそ賦才を持っているとか貴人の専属料理人だとかの説明無しでは不自然に思われるだろう。かといって、万が一実演をせがまれたときに快く披露できて、かつそれらしい特技は持っていない。
ゆえに私は「なるべく正直に、そして真剣に話せば大抵の人は理解を諦めて納得してくれる」可能性に賭けることにしたのだった。何せこの国の住民は基本的に善人だ。おまけにこの顔を美しいと感じる人が大多数を占めるので、真摯に見つめれば案外さっくり思考を放棄してもらえる。顔立ちが高く評価されるのもまた、創り主からの授かりものと言って語弊はない。
今まさに思考を放棄しようかどうかの瀬戸際の表情の主人をじっと見つめる。主人はどうにかして返事の糸口を探すようにちらちらと目をそらした。
「はは、苔ですか、光る苔……。……光る苔……?」
客商売を生業とする者として蓄えてきたネタの中に何か引っかかるものがあったようだ。
市井で暮らす人に光る苔の心当たりがあるとは。詳しく聞こうと口を開いたその瞬間、開けっ放しにしていた扉の向こうから、どかどかと結構に騒々しい物音が聞こえてきた。主人は素早い反応で腰を浮かせ音のした方へと向かう。私もやや遅れて後に続いた。
物音の正体は、階段から転げ落ちてうずくまる青年だった。仲間数人がかりでとりあえず客室に担ぎ込まれ、妻の手で介抱されていたはずの、かの泥酔青年である。
……たぶん。人の顔を判別する能力にあまりにも自信がないが、主人も呆れと心配をない混ぜにした様子で助け起こしているから間違いないだろう。
「ヘェべ、お前というやつはまったく……。チモモ! チモモはどこに居るんだ!」
泥酔青年ことヘェべはどうやら階段を落ちる最中に額を切ってしまったようだ。顔を押さえた掌にみるみるうちに血が滴っていく。主人は、おそらく介抱を担当していたはずの娘の名を呼びながら、咄嗟に自分の袖を傷口に押し当てた。止血のつもりだろうが効果はあまり見込めない。
「失礼します。少しお体に触れても?」
「お客さん、汚れますよ」
「怪我のほうが大事です」
ヨイに貰った衣は置いてきたので、服の汚れ程度のことを気にする必要はない。
そうこうしているうちにヘェベは赤く染まった掌を見下ろし、とうとうえずき始めてしまった。隣に屈んで軽く背中をさすってやる。何とかこらえているが痛そうだし辛そうだしで散々だ。
青ざめる主人を尻目にしつつ右手を胸に当て、精神を集中させる。
「あまねく命の源たる創り主、願わくはこれなる者を慈しみ給え」
私の請願に応じて、周囲にぼんやりと青い光の粒子が舞い始める。粒子はヘェベの体にまとわりつくように漂うと徐々に吸収され、吸収が進むにつれて額の傷が閉じていった。虚ろだった目つきにも輝きが戻る。悪心に震えていた腹も程なく鎮まる。
おお、と主人の口から感嘆の声が漏れた頃には、傷は綺麗さっぱり消えていた。流れた血の跡を拭ってやれば、いたって健康的な青年の、呆気に取られた顔が現れる。
「お加減はどうですか?」
「あ……ああ、いきなり良くなった」
「それは何より。ついでに酒気も抜けてしまったようですね」
漠然とした内容の請願をしたせいで、正常から外れた状態が全て大雑把に治癒されてしまったようだ。まあ、また酔いたければ飲みなおせばいいだけのことである。もう一度酔いたいと思えるのならの話だが。
「ほう……あの文言でここまで綺麗に治るとは。さすが、賦才を賜ったお方の請願は違いますね」
しおらしく固まっている婿の額を確かめながら、主人は感心のため息をつく。
請願とは、かなり簡単に説明すれば「創り主にお願いごとをして奇跡を起こしてもらう」行為だ。
この国に生きる全てのものが創り主に願う権利を持ち、一般的にはより心を込めて、より熱心に、そしてより鮮明に願えば願うほど希望に見合った奇跡を得られる。真摯にしてなるべく腰は低く具体的に。相手が創り主とはいえ、他人に注文をして何かをしてもらうにあたっては当然の心がけだ。
心を込めるという感覚はあまりに抽象的なので練習してコツを掴む必要があるものの、例えば「竈に火を起こしてください」程度の請願であれば、成人までには誰でも自然とできるようになる。
そしてこの請願なる祈祷には世知辛いことに、生まれつきの向き不向きや、その時々の調子の良し悪しがある。願い事をするその瞬間のその者が、気まぐれなところのある創り主の関心をいかに引きやすい状態なのか、という完全な運要素が絡むのだ。
明確な基準は誰にもわからないが、創り主が関心を向けてくれればくれるほど願いの声は早く届き、応じて起こしてもらえる奇跡の効果も大きくなる。また、運と調子が良ければ、漠然とした願いであってもあちら様が意図を汲んで気を利かせてくれるのである。
傾向として、賦才を授かった者は生まれつきそれだけ創り主に注目されている。つまり請願にも高い適性を持つことが多い。
中でも泉守の私などは創り主の命の側に侍る役目なので、尚更手厚い加護をもらえるわけだ。ふわっとお願いしても望む結果を得られるし、これまでに請願をスルーされた経験もない。
やろうと思えば血で汚れた服もすぐさま元通りにできるが、それはさすがにひけらかしているようで感じが悪いのだろうか。
ヘェベが、手を貸すまでもなく立ち上がれたのを確認して身を起こしたところに、バタバタと足音が近づいてきた。
「どうしたの?」
片手に鍋つかみを嵌めたままやってきたご婦人はヘェベの奥方だった。主人がチモモと呼んでいたのが名前だろう。
部屋で寝ていたはずの夫の姿がそこにあるのに気づいたチモモはあっと声をあげる。
「なんでここに居るの!」
「目が覚めたら誰もいなくて……」
「チモモ、お前こそ酔い潰れた夫を置いて何をしていたんだ」
「寝付いてるうちに汁物でも作ろうと思ったのよ」
へべれけに酔った人間を一人で寝かせておくと吐瀉物を喉につまらせて窒息する事故などもあり得るので、部屋に置いてきたのは褒められたことではないが、基本的には相手思いの心がけが行き届いた素敵なご家庭である。
チモモは、急に意識が明瞭になった夫と袖口を血に染めた父を目の当たりにして事情が飲み込めない様子だ。誰に次第を聞けば良いのか迷って、鍋つかみの手を胸の前で彷徨わせている。
「とにかく、血の汚れは早く洗いましょう。今のうちなら落ちるでしょうから」
「あ……洗濯は俺がやります。汚したのは俺なので」
ヘェベが片手をあげて名乗り出る。素面でいるといたって普通の実直そうな青年だ。
汚れてしまったのはヘェベの右手と羽織の一部、それからハンカチ代わりに使われた主人の袖口だった。結局私の着物にはシミひとつついていない。
主人は私の周囲を2周ほどして血の汚れがないのを入念に確かめると、びくつく義息の背中を叩き、羽織った衣を引っ張った。
「酔いが醒めたんなら、お前はお客様の相手をしてな。真っ先にお詫びをせにゃならんだろう」
目の前でそういうことを言われると、主人にとって私との対面はよっぽど苦痛だったのかとか考えてしまわないでもない。きっとそんなことはないと信じたい。
ヘェベがちらりと私を見た。この場面で私が口を出せることはなさそうなので、とりあえず、怒ってはいないことを伝えるために微笑みかけておいた。
「ええと……それじゃあ、お願いします、お義父さん」
主人はにやりと笑うと羽織を受け取り、もう一度ヘェベの背中を叩いてから、洗濯室の方へと姿を消した。
私とヘェベとチモモ。残された三人でとりあえず彼の背中を見送る。廊下の角を曲がって見えなくなったところで、真っ先に行動を起こしたのはヘェベだった。
青年の姿がいきなり消えたと思ったら、床に膝と両手をつき、綺麗に傷が消えたばかりの額を床材に擦りつけている。土下座だ。世界のどこかにはそのような謝意表明の方法が存在するという噂でしか聞いたことのなかった土下座の、実演である。
実際やられるとかなり面食らう。それにほとんど背中と後頭部しか見えない。謝意の表し方なのだと知識では理解しているけれど、表情が見えないのは得体が知れなく感じられて結構怖い。
「旦那……いえ、光輝く賦才のお方! この度はとんだ無礼を働いてしまい、まことに申し訳ありませんでした!」
「ちょっとあんた、その手を床についたら床が汚れちゃうでしょ!?」
「あ痛てててててっ!!」
チモモがヘェベの前髪を掴んで顔をあげさせる。見ているだけの私まで生え際が痛んだ気がした。
街の入口のときもそうだったけれど、真にこちらを驚かせているのはヘェベと言うよりも彼女の言動なような。もうちょっとだけ優しくソフトに対応してあげられないのだろうか。
床にはくっきりと血の手形がついてしまった。おどろおどろしい上に掃除が大変そうなので、創り主にお願いして消しておいた。
気軽に頼んでも請け負ってくれる神様、いつもありがとうございます。




