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神様、見ていてください  作者: 水城しずみ
12/17

別れと出会い(1)

 掘り返されてまだ新しい土にぽつぽつと緑が芽吹いている。収穫の時にこぼれたのだろう足元の麦の穂は、拾い上げて顔を寄せると、まだうっすらと生きた植物の香りがした。


「おーい、遅いよ!」


 畑の間の道が伸びる先から少女の声が私を呼ぶ。日差しと視界を遮る衣を背中に落とすと、快晴の陽光に周囲がよりいっそう輝いた。

 紫紺の羽織をはためかせて手を振りながらヨイがこちらへと駆けてくる。


「気付いたら後ろにいないんだもん、どこに置いてきたのかって肝冷えたよ」

「すみません。農地を眺めるのが楽しくて」


 こっちの麦畑は次の芽が出て、そっちの畑は収穫目前、あっちの水田では水面から伸びた青葉が空へと向かっている。

 ちぐはぐなパッチワークのような農耕地は街から聞こえる賑わいへの好奇心をも引き留めて、私はいつしか、ヨイに置いてけぼりを食っていたようだ。

 彼女の後ろには数人の若い男女がついてきていた。街に入って住民と出会った後で私の不在に気づいたのだろう。彼女は彼女でよほど前方にばかり意識が向いていたわけだ。


「うはははは! これじゃどっちが保護者だかわかんねえなぁ!」


 ヨイの後ろの集団から青年が一人顔を出して笑う。あの赤ら顔と微妙な滑舌の甘さはどう考えても泥酔状態だ。まだぎりぎり正午前のこの時間で既にあの仕上がり具合とは恐れ入った。右手に掲げた大杯を、一体何度空けたのだろう。

 私の斜め後ろに立ったヨイは律儀にその男性に身体を向けて、つんと唇を尖らせてみせた。


「保護者じゃないってば。どっちかって言うと同僚」

「そう背伸びすんなよお嬢ちゃん。成人なんて済ませちまうとな、子供でいられた時代が懐かしくてしょうがねえんだ。じれったさも満喫しとくもんだぜ。悪いことは言わないから。

 安心しろよ、俺ぁこれで心得た大人だからな。嬢ちゃんには一滴も飲ませねえぞ」

「べつにお酒は要らないけど子供じゃないんだって」


 相手が陽気な酔っ払いなせいもあるだろうが、ヨイは今のところ物怖じせずに軽快なやり取りまでしている。

 17を目前とするヨイの歳ならば、このあたりの住民であれば大多数数が、成人の祝いを済ませて大人の仲間に加わっているところだ。彼女は決して背伸びも詐称もしていない。だが、外見上は高めに見積もっても14歳が良いところなので青年の気持ちもよくわかる。

 私の陰に隠れるようにしながらへべれけの大人に投げる視線の辛辣さも、ちょっとおしゃまなお嬢さんといった風情だ。


「飲みたければ飲んでみても良いんですよ、お酒」

「この状態を見て飲みたくなると思う?」

「おぉん!? 何だぁお嬢ちゃんわかってねえな、酒ってのはこういう楽しみ方をするもんさ! なぁ旦那」


 あ、旦那って私のことか。一度もされたことのない呼び方だったので気付くのが遅れてしまった。

 飲んだことはあるけれど酔ったことはないので何とも、と脳内で用意した答えを口にするより前に、赤ら顔の青年が右手の大杯を突き出しながら近寄ってきた。ヨイは「うぎゃ」と小声の悲鳴をあげながら私の背後にはりついて身を守ろうとする。


「まずは一杯、巡り会いの縁に感謝して!」

「こら、やめなさい!」


 私の反応はひたすら後手に回っていた。いつの間にか眉を釣り上げた女性が青年の真横に立っていて、掲げられた杯を奪い取った。女性はそのまま杯を男性の頭上でひっくり返す。

 頭頂部に注がれた液体は透明である。もしもあれが酒ならばどう考えてもそれなりに度数の高いものなのだが、はたして頭からひっ掛けて大丈夫なのだろうか。度数が高くなくても、目にでも入った日にはかなり痛そうなのに。そこはかとなく疑問だが、あまりのスピード感のせいで不安を抱くのも追いつかず、気付けば青年は顔を抑えて倒れこみ地面でのたうち回っていた。


「痛っってェ! 目が! 目に入っ、目!!」

「あんたがさっきから飲んでるのはただの水!」

「……なんとまあ」


 この時間から水で騙される酔っ払いがいるとは、豊穣の宴とはかくも恐ろしいものだったか。

 私の背後ではヨイが完全に硬直してしまっている。対してほか数人の住民たちは喜劇の舞台でも見るように手を叩きながら大声で笑っているので、郷に従うならあの姿勢が正解だろう。

 ヨイに向かって「愉快ですね」と声をかけてみたら「気でも狂ったか」と言いたそうな視線を向けられた。この少女は根が堅実で常識的なのである。陽気なだけならまだしも、このタイプの悪酔いをする大人とそれを笑いの種にする集団はちょっとばかりハードルが高かったかもしれない。


 ヨイがすっかり怯えているので、のたうち回り疲れて大の字になった青年の傍らで腰をかがめて手を差し伸べる。濡れた髪に地面の土が絡んで茶まだらになってしまっていた。


「立てますか」

「へへへっ、悪いね。うわ旦那、あんたすげえ別嬪さんだ。水も滴ってないのに今の俺といい勝負だよ」

「安心してくださいヨイさん。彼はご覧の通り元気です」

「お……おう……」


 唖然とするあまり、のじゃ的な口調の片鱗が戻りつつある。頑張って慣れてくださいとしか言いようがない。


 酔いに加えて地面を転がったせいで目も回ったらしく、青年は間近に差し出した私の手さえ掴めずに、両手足を意味もなくバタバタさせ始めた。土に汚れた顔をよく見た限りでの印象は精々二十歳くらいかなといったところ。こういう死ぬほど恥ずかしい失敗を若いうちに済ませておけるのは幸いなことである。

 なんだか青年が可愛らしく見えてきた。空をさまよう腕を掴んで助け起こそうとしたが、横から割り込んできた女性に止められる。他でもない、青年に水を浴びせかけた張本人だ。


「立派な身なりが汚れちゃいます。こんなののために汚すくらいならその衣、私が貰いたいくらいだわ。

 ねえ誰か、その辺の水瓶持ってきて!」


 こちらの女性もよくよく見ると目の縁が赤い。まったくの素面ではないのかもしれないなと思いつつ、下がって下がってと促されるままにヨイの側まで戻った。せっかくヨイに貰った衣を他人に譲るのは御免被るし、そもそもこの気迫のご婦人に逆らってまで青年に手を貸すつもりはない。

 女性の呼びかけを受けた住人たちは蜘蛛の子を散らすように駆けだした。近くの農作業用小屋の軒先を目掛けて行った一人の男性が、素焼きの瓶を小脇に抱え、素晴らしい俊足を活かしていの一番に戻ってくる。自分のすべきことを完全に理解しているライン取りで大の字青年の元に到達するや否や、一切の容赦なく顔面目掛けて瓶をひっくり返した。


「うびゃご!!!」


 青年が発した奇声と跳ねてきた飛沫に、ヨイがさっと飛び退る。動きが完全に猫が驚いた時のそれだった。

 またしても頭から水を浴びせられた青年は、口に入った水を霧状に吹き出しながらのっそりと体を起こす。頬についた土が折角綺麗に洗い流されたのに、泥水の中についた手で顔を拭うものだから、最初よりひどい有様になってしまった。


「おあ……おあぁう……」


 いよいよ呂律が回っていない。何か意図があるのかすら判然としない唸り声に街の若者たちはまた笑った。彼はこの先数日、下手をすれば数カ月でも数年でも一生涯でも、今日のことをからかわれ続けるのだろう。

 思い思いの場所へと水を調達しに向かっていた男たちのひとりがこちらに近づいてきた。彼の手にもまた素焼きの瓶が抱えられている。こちらは男性が両手で抱えなければならない大きさで、見るからにかなり重たそうだ。そもそも持ち運ぶことを想定したものではないらしく汲み出すための柄杓が突っ込んである。


「お嬢ちゃん、驚かせてごめんよ。驚きついでにひとつ浴びせてやってくれ」


 ヨイは相変わらず私を遮蔽物のようにしながら、目を真ん丸く見開いて、唆す男と水瓶と泥まみれで呻く青年とを代わる代わる見比べる。


「でも……」

「あんなつぶれ方したやつ、目一杯楽しく笑ってやらないと明日には悶え死んじまうよ。泥を落とすついでにさ」


 困り果てたヨイは私の顔を見上げてきた。

 そうこうしているうちに当の泥被り男のまわりには各々、瓶やら桶やらを持った若者たちが集まって、敵も味方もない水かけ合戦を始めている。最初に水瓶を持ってきた俊足青年などはわざわざ井戸との間を往復して補給に徹している始末だ。

 冷静に考えるとまともな大人がすることではない。私以上に怯えるヨイがいる手前おくびにも出すわけには行かないが、正直言ってこのハイな空気はちょっと怖い。


 正気の沙汰ではないけれど、今日の街は宴の最中だ。箍を外して騒ぐくらいでなければ、溢れた生命を消費するには至らないのだろう。


「ヨイさん、やってみましょう。郷に入っては郷に従い、人が踊るときには自分も踊るものです」


 壁にしていた私に背中を押され、ヨイはやがて戸惑いを捨て去った。黄金の眼に決意が漲る。

 男が抱える瓶に付属の柄杓、ではなく、瓶そのものをぐっと掴んで引き寄せる。


「うわーーーーーーッ!!!」


 それはまるで空にかかった透明の帳のように、細かな雫の虹色を纏いながら、若い男女の頭上へと降り注いだ。


「おお、景気がよろしい」


 思わず零れた呟きは歓声にかき消される。

 万歳の姿勢で水瓶を掲げたヨイは薄っすら頬を朱に染めて私の方を振り返り、それから、眩しいほどの笑顔を見せた。


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