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神様、見ていてください  作者: 水城しずみ
11/17

進路は南


 門番とアヤエに見送られて街道へ出る。ずいぶん広々として、車の三、四台は並んで通れそうな道だ。舗装こそなく土がむき出しだが、左右の道路脇には木板が敷いてある。

 前方180度全域が緩やかに下っていく草原である。そこここに花の群生地らしい薄桃色の斑があったり森があったり、はるか西の方には牧場らしきものまで見える。まさに牧歌的な光景だ。


 目的地である南の街は農耕地に囲まれて、遠目に見るとまるで浮島だ。午前の微妙な時間帯のせいか街道には人っ子一人居ない。風景画の中にでも入ったような気分になる。


 街道で落ち合おうとは言われたけれど、具体的にどうすれば良いのだろう。ゆるやかなカーブを繰り返す下り道を進みながら見渡すが、もちろん少女の姿は見えないし、人待ちをするのに都合の良さそうな建物などもない。

 枝葉の覆いも天井もなく日光にさらされて眩しさが堪える。だだっ広い空間に放り出されてだんだん心細くなってきた。洞窟の中でならどれだけ独りぼっちでいようが平気なのに、環境が違うとやはりどうにも落ち着けない。


「……二物様ー?」


 あくまで期待はせずに声をあげてみる。いい年した男がおどおどと人を呼ぶなどみっともないにも程があるが、見ている者と言えば道端に立つ青々とした広葉樹くらいだ。

 空示木とでは比べ物にならないが、それでも、太い幹の上にこんもりと葉の茂った立派な木である。メインの街道からその木の足元まで芝草が踏み固められて小道ができている。行き交う人々の休憩スポットにでもなっているのだろうか。確かに、ちょっと木陰で一休みするのには都合が良さそうだ。


 位置的には街から丘陵を登って来た人達の休憩場所なのだろうが、私も疲れたので利用させてもらおう。歩くことはわけないけれど、直射日光の眩しさが何より堪える。


「首尾良う運んだようじゃのう」

「うっわ」


 いきなり、耳に馴染んだ声がした。

 左右を見渡すけれども当然のように人影はない。驚いて視線を巡らす私を笑って可憐な声がクスクス溢れる。

 周りを見ても居ないのなら、上しかあるまい。


 茂った木の葉の中に埋もれるように、小柄な少女が枝の上で両足を揺らしていた。


「お、勘が良いの」

「二物様ぁ……、そんなところで何をなさっているんです」

「何って、そなたを待つ以外に何をするんじゃ。

 穴蔵住まいのそなたのこと、日の光に炙られてたまらず木蔭で一休みすると読んでおったぞ」


 それ、と小さな掛け声があって、二物様がひょいと枝から降りてくる。私の目の前に降り立つ直前に頭から何かを被せかけてきた。


「わ、何ですか」

「余った布じゃ。日よけに被っておくが良い」


 日よけも何も視界がすっぽり隠されてしまっては、目の前の二物様の姿すら見えやしない。

 手触りからして上等ながらも薄手で重すぎはしない、蘇芳色に金色の刺繍飾りの入った衣だ。植物柄の意匠には見覚えがある。普段からとんでもない重ね着をしている二物様の袖口から、たまにのぞいていたものではなかろうか。


 とりあえずフードのように被ってひと心地つく。二物様はニコニコと満面の笑みで私を見上げていた。


「えっ」


 あの、結って巻いてなお余っていた長髪が。摩訶不思議なグラデーションで毛先がほの赤い金色になっていた髪が。バッサリ背中の途中辺りまで切られて、ただの黒髪になっている。

 着ているものもいたって一般的だ。二物様の普段着として見慣れたひらひらとしたものではなく、そこらへんの娘さんと何ら変わらない、こざっぱりとした衣装である。上に羽織った紫紺色の衣だけが今朝も着ていたのと同じものだった。


「……えっ」

「他に言うことはないのか」

「どうなさったんですか」

「お忍びなんじゃから、忍べる格好をせねばのう? ま、そうは言っても衣のほうは重ねておったのを脱いだだけじゃがな。それも脱いで余ったやつだが、思ったとおり、そなたに似合うておる」

「ありがとうございます……?」


 まるで知らない娘を見ているような気分だったが、闇より濃い黒髪も、ほんの少しだけ目尻が垂れ気味な金色の双眸も、間違いなく二物様だ。唖然とする私をからかうように笑いながらその場で一周してみせる身のこなしも、不思議と体重を感じさせないこの独特な動きは、真似したくてできるものなどではない。

 驚きで言葉を詰まらせていると、少女は私の顔の前に手を突き出して大きく左右に振った。目の前に動くものに気を取られてはっと我に返る。


「つまらんなー。もっと他に言うことがあるじゃろうになー」

「えっと……。……その格好もよくお似合いです」

「ふっふっふ、苦しゅうないぞ」


 こうなるとわかっていれば今朝の姿をもっとしみじみ見納めしたのに、と惜しまないでもないけれど。本人がご機嫌の様子なのだから水を差すのは無粋だろう。

 実際、今の恰好は格段に雰囲気が明るくなっていて、おかげでより健康的に見えるのは好ましい。インテリア用の少女人形じみていた今朝までの姿よりもどことなく大人びた感じすらあった。

 すっと真剣な表情になって腰に手をやるのも、急にお姉さんじみた仕草に見えてくるから不思議だ。


「で、会談の結果はいかようであった? 順を追って簡潔に報告せよ」


 そうだった。ここまでにこなしてきた会談も重要なお使いだったのである。一息ついていた言語野を起動して、なるべく端的な報告を試みる。


「ロミさんには無事にご希望について理解していただけました。今後は全面的に仰せの通りに働いてくれるはずです。もしかすると張り切りすぎるかもしれませんけれど、都度希望を伝えればそのうち慣れるでしょう」

「おお、上々の成果ではないか。悲鳴が聞こえた時はどうなることかと思ったものじゃが。よくぞやってくれた」

「二物様にも聞こえてたんですね。あの時は驚かせてしまってすまないことをしました」

「あの叫び声を近くで食らったのなら相殺済みじゃろ」

「……あ、それから、小麦と野菜のお菓子をいただいたんです。説明はうまくできませんがとても美味でした」

「なんじゃそれ、妾は食べたことがないぞ!」

「あんなに美味しいものを作ってくれる人なのに、食事から逃げ出すのはやはり少々やりすぎだったと思います。今はすっかり立ち直っているはずですけど元々かなり落ち込んでましたし。もっと優しくしてあげたほうがいいですよ」

「ロミの料理が美味いのは妾だって知っとるもん……。そなたにかけた面倒を除けば一番悪いことをしたとは思っとるもん……。戻ったら真っ先に謝るところまで計画はしとったし。

 ……謝って済むかのう。暇を乞われたりするんじゃろうか」

「それはまずないと思いますけれど」


 暇乞いを申し出るどころか、二物様の居る前で「暇」の単語が出ようものなら、即座に目眩をおこして卒倒しそうだ。震える両手で頬を覆う姿が目に浮かぶ。


 二物様はというと、大人びたと思った威厳はどこへやら。早速叱られた幼児のように眉尻を下げて肩を落としている。

 洞窟で不満を打ち明けていたときですら、ロミの料理人としての腕は念入りなくらいに褒めていたのだから、罪悪感はきっとまがい物ではない。今朝の強硬手段に出たのは、その他諸々の計画との兼ね合いが良いという後押しがあったせいなのだろう。

 推測するに宮殿での二物様はもっとドライな態度を通しているのだろうから、見えないところでこうして落ち込んでいる事実をロミが知れば、感激のあまり泣きだしてもおかしくない。むしろ二物様本人から一言「悪かった」の言葉をもらっただけでも、腰のひとつくらいは抜かしそうな気がする。


 あれこれ考えているうちに、二物様の朝食逃亡がもたらした最大の効果といえば、私が洞窟を出る動機が補強されたことだったという事実に気づいてしまった。その効果を狙っての行動ならば、逃亡の原因は私の腰の重さに他ならない。

 私か。また私が悪いやつだ。

 奇跡的に今のところ誰にも責められてはいないのが、余計に罪悪感を刺激してくる。


 きっと丸く収まります、とかなんとか一生懸命フォローすると二物様は俯きがちに頷いた。

 これをきっかけに二人が親しくなって、二物様が心を開ける相手が増えたら、きっと怪我の功名というやつだ。この世には雨降って地固まるという言葉だってある。


「すみません、話が逸れましたね。宰相閣下とのお話もこれと言って問題はありませんでした。二物様のおっしゃった通り正直にしてるだけでうまく運んで、今に至ります」

「……まあ、想定通りじゃ。宰相はねちっこくなかったか? そなたには興味津々のはずじゃ」


 気を取り直した二物様は、彼女らしからぬ硬い声で言う。心を閉ざす彼女の姿を垣間見た気がした。私が宰相から何を聞いたのかには興味がないらしい。あるいは察しがついている。声色一つでそれはわかった。


「興味津々……とは?」

「宰相は先代、あるいはさらに前の代から、習慣で続いてきた人の営みを改めて掌握することを目指しておる。人の長としては天晴れな心意気じゃろう。その一貫で泉守なる存在のことも気になって仕方がないらしい。

 一度話がしてみたいとかどんな暮らしぶりなのかとか、度々心ゆかしそうにするでな。よもや10年来の恋慕ではあるまいかとさえ疑っておったところじゃ。言い寄られたりせんかったか」

「してませんよ。何てこと言うんですか」


 微笑みを向けられたときのみぞおちのサワサワがにわかに蘇ってきた。まさかそんな、そんなはずはない。

 二物様の迎えを他人に任せて宮殿で休んでいかないかという提案はあったけれど、きっと絶対にそういった意図ではないはずだ。伝説の仙人のような言い伝えをされている生き物の生態が気になるとか、冷え切った兄妹仲の鎹となるかも知れない私に一縷の望みを抱いてみたとか、より有力そうな仮説は他にもたくさんある。


 いや、べつに、誰がどんな嗜好を持っていても、他人に迷惑をかけないのなら一切構わないというのが私のスタンスだけれども。宰相がとりわけ嫌だとかいうわけではないけれども。


 私個人の感覚はさておいて、この国での同性愛は絶対的なタブーだ。理由は単純。子供が産めないから。創られたる民として、次代を担う命の食らい手を産み育てなければならないのに、その役目を放棄してまで同性で夫婦まがいの関係を求めるなど言語道断だ、というのが共通認識なのである。

 だからといって嗜好がバレるなり袋叩きに遭って吊るされるわけでもない。散々説教されて糾弾されて親に泣かれて、最終手段的な制裁まで行ったとしても精々が村八分だろう。

 ただ、タブーを犯してまで「無二の良き友人」以上の関係を求めるということはつまり、いわゆる変わったお楽しみを目的として一緒にいるカップルなのだろうとも認識されがちだから、そういう下世話な好奇心を孕んだ視線に晒されるのもある種の制裁といえば制裁か。

 したがって、その手の話題を口にすることはお世辞にも品が良いとは言えない。まかり間違っても二物様のような、若くて立場もある女の子が、他人をからかって言って良いことではない。私だからちょっと驚くくらいで済ませているが、人によってはそんな冗談の引き合いに出された瞬間に烈火の如く怒りだすだろう。

 断じて照れているとか焦っているとかではなく、これは二物様のモラルの問題なのである。


「他人をそんな風にからかうもんじゃありません、はしたない。しかも、よりによって関係の深い方を捕まえて」

「ま、宰相は妻もある身じゃし、滅多なことはあるまいが。幼き日の憧れくらいならあながちあり得ん話でもなかろう」

「奥様がいらっしゃるのなら余計に邪推はおやめください。第一、私の立場上、より優先するのはあなた様のほうに決まっているんですから」

「んー? んふふ、改めて言い切られると何ぞ気分が良いのう。信じて送り出した甲斐があった」


 そんなことを言って、当初の予定では騙し討ちで洞窟を締め出すつもりだったくせに。

 が、嬉しそうな顔を見ているとそんな不信感もすぐに霧消する。何しろこの少女のことだから、脱走すると打ちあければ私が必死で引き留めるに違いないことなど予想していたはずだ。洞窟の入口を岩で塞ぐ初期計画はあくまで後から言い添えただけであり、その真意は「あんまり無関心な態度を取っていると拗ねるぞ、わかっているな」的ないじらしい脅し文句である可能性が高い。

 愛されている自信というのは誰にだって必要不可欠なものだ。せっかく信じてくれているのだから、私は裏切らない大人であろう。

 私が一丁前の大人面で接することができるほど、どうやらこの少女の精神は幼くないのだけれども、それはそれ。庇護者としての愛情は持て余すほど持っているのだ。


「ともかく、宰相閣下は私に言い寄ることもありませんでしたし、快く送りだしてくれました。何でも街では豊穣の宴が行われているとか。夜通し遊んで明日戻るのでも構わないそうですよ」


 意外とすぐに伝えるチャンスが巡ってきた。内緒話の距離で預かってきた伝言に、二物様ははたと目を丸くする。


「豊穣の宴? 何やら賑やかそうな気配は感じておったが、そんな時期だったか?」

「ここ数日の実りが異常に豊かで、昨日急に決まったのだとか。思し召しだろうと仰っていましたよ」

「ふむ……、それで、戻りが明日でも良いと。……ならば言葉に甘えるとするかのう。そなたはそれでも構わぬか」

「洞窟を出ると決めた時に腹は決まっていますとも。着替えまで持ってきましたよ」

「やけに準備が良いのじゃな」

「日帰りするにしても、宴の騒ぎで服を汚した時に、私の身の丈では簡単には手に入らないだろうとアヤエさんが。それからこれも……」


 鞄の蓋を開くと、探すまでもなく目についた木札を一枚、少女に手渡した。


「宮殿の夜間滞在の許可証です。住み込みで働いている人は皆持っているそうですよ」

「こんな物があったとは知らなんだ。気が利くのは相変わらずじゃがお節介とは珍しい」


 少女は札の表裏をしみじみ観察してから、付属の組紐を使って手早く帯にくくりつけた。腰に手を当てて、ちょっと満足げに見下ろしてみたりしている。アヤエとの間の微妙なぎこちなさが解消される日も近いのだろうか。

 宮殿の勤め人にしては少々容姿が若すぎる以外はすっかり一般人に馴染んだ少女は、自分の出で立ちに一度大きく頷くと、ぴんと立てた人差し指で私の注意をひいた。


「立ち話が長引いてきたが、まだ一つ、確かめておかねばならんことがある」

「何でしょう」

「この度妾はお忍びで街へ行く。ということはつまり、二物ではない他人のふりをするということじゃ」


 間違いなく、そのほうがはるかに楽しいだろうことは請け合いだ。短い期間ならば誤魔化し通すのも難しくあるまい。

 ほうほう、と、頷きながら相槌を打っておく。


「さしあたり妾は、怪力の賦才の持ち主で、お勤めのため宮殿に来ておる17歳という設定で行く。そなたは……そなたも賦才持ちで宮殿勤めじゃが、何の仕事をしとるのか不透明でいつも暇そうにしとるから案内がてらに連れ出したていで」

 

 私に特別な注意も演技も求めない非常に親切な設定だ。少女の出自についても、怪力というのは何かと重宝する能力なので宮殿に呼ばれて勤めることにさしたる不思議はないから、身元を疑われる心配はしなくてよさそうだ。

 わかりました、と適当に頷きかけた私に手のひらを向け、少女はさらに続けた。


「間違っても二物様とは呼ぶでないぞ。妾も自分のこと妾って言うのやめるから。てか前々から究極にダサいんじゃないかと思ってはいたんだよね、のじゃのじゃ言うの」

「……確かに、他には聞かない話し方ではありますね」

「お生まれに相応しい上品な話し方を、って乳母に教えられたけどさ。語尾にのじゃとつければ上品だなんて価値観の由来は何処よって、甚だ疑問なとこじゃない?」

「その調子でも絶妙に高尚な気配は残っているので乳母殿の教えは無駄ではなかったと思います」


 あまりにもシームレスに口調が変わったせいで驚くよりも先に慣れがきてしまった。

 こんな若い女の子が大人の教えに従ってのじゃのじゃ喋りながら、内心ずっとダサくて恥ずかしいと感じていたのなら、それはそれで気の毒だったなという感情すら湧いてくる。


「てことで、あたしは手心無くため口を利くから。よろしくね。名前は『ヨイ』で」

「ヨイデ。……ああ、えっと、ヨイさん、ってことですか」

「そ。宵色髪のヨイちゃん。さっき、切り落とした髪を見て思いついたの。もう切っちゃったからただの黒だけど、どうせそのうちまた毛先の色が抜けてくるし、何となく風流だし良いかなって」

「最後に宵の時間に外出したのがかなり昔なせいで、今一つぴんと来ないんですが……」

「そう言えばあなたってそういう人だわ……」


 洞窟の奥の暗闇ならいくらでも知っているのだけれども。共感してあげられず申し訳ない。

 二物様改めヨイ嬢は、もはや通じなくなってしまった名前の由来である黒髪をかきあげて小さくため息をついた。そんな仕草を見ていると本当にただの人間のようだ。

 ヨイという名はまだまだ耳慣れない響きではあるけれど、呼びやすいし、どことなく異な趣の響きもあって悪くはないと思う。この国に何人同名の子がいるのかわからないサキクサという名前よりは断然、個性的で素敵だ。


「まあいいや。それより、あたしがあなたを泉守って呼んじゃったら、いろいろと台無しでしょ。あたしはなんて呼んだらいい?」


 なんて呼んだらいい、と問われても。

 髪の色から連想したヨイを見習って自分の姿を見下ろしてみるけれど、相変わらずいつもの自分の体だ。特徴らしい特徴と言えば身長が高いことくらいである。のっぽ、というのはユージに言われた言葉だけれども、それを呼び名にするのはあまりにあからさまなその場凌ぎだ。


「いや、悩むことじゃないでしょ。名前教えてくれれば解決なんだから」

「あ、そうですよね、名前ですよね」


 ずいぶん長いこと呼ばれていないので、というだけの理由で片付けるのも何だけれど、不思議なことに完全に失念していた。失念していたことを気取られたのはヨイの呆れ顔でわかった。

 泉守などという役目をやっていて活用する機会が全くなくても、さすがに人並みの名前くらいは持っている。


「アイザックです。名前は、アイザック」


 自分の声帯をその音の形に震わすのも、鼓膜がその波を拾うのも、いつぶりだろう。懐かしい。存在を忘れてしまうくらいには久しく触れていなかったけれど、唇にも耳にもしっくりと馴染んだ。


「アイ……ザッ、ク、む、うん。なるほど。アイザッ、ク……」

「あなたには慣れない響きでしょう。イザク、でいいですよ」


 東のほうではさして珍しくもない響きだが、中央人にとっては音の調子がとりづらい名前であることは知っていた。


 前任者との初対面時も、あの人は私に名乗らせるなり、ヨイがいま目の前でやっているのと同様に何度か拙い発音を繰り返したものだ。

 そしてその人はいきなり、うん、と一つ頷いて、以後私のことはイザクと呼ぶのだと勝手に決意したのである。

 怠惰で卑屈で投げやりな人だった。随分と長い間私のことを世話してくれたけれど、たいてい面倒くさそうにしていたし、時には私を子分か何かのように扱った。言動はまるで酒浸りの人のそれなのに、いつも正真正銘の素面だった。

 自分の名前すらさっさと出てこない私の今の性質が、少なからずあの人の影響を受けたせいだというのは、あながち責任転嫁でもない。両親と暮らすよりもずっと長い時間を共に過ごしたのだから。


「アイザック……イザク……あんまり変わってなくない?」

「……あはは、そうですよねぇ」

「いやそなたが言うたんじゃろうが」

「おやヨイさん。のじゃが出てますよ」


 親からもらった名前は大切に思っているけれども、乱暴に押し付けられた略称も今となっては嫌いではない。いま現在の私に、よりぴったりと寄り添っている気がするから。

 髪を切って服装も変えて新しい名前を考えて、そんな少女のお供をするには、まさにおあつらえ向きだろう。


 行きましょうか、と声をかけて歩き始めると、ヨイは張り合うようにして小走りで私の前に躍り出る。私は彼女の弾むような歩みに先導を任せることにした。


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