静かな味方
宰相が出て行った部屋奥の扉は、おそらく貴人用の区画にでも繋がっているのだろう。宰相閣下のご出勤の折、毎日正面の入り口をくぐってあの書架の広間を通り抜けるとは思えないから、相応の身分の人間のための通用口が別個存在するに違いない。
私は行政的には何の身分もない人間なので、案内されてくぐったほうの扉から部屋を出た。さてどっちに進めば戻れるだろうかと廊下の左右を見渡す。来がけは内装に気を取られていたのと、案内役の近衛の容姿で間違い探しをするのに一生懸命だったから、どうにも道順がうろ覚えだ。
方角と廊下の伸び方、壁に掛けられた絵画から進むべき方向を推測し、踏ん切りをつけて左手側に足を向ける。まさにその時アヤエと、白黒近衛のうちどちらか一人が並んで歩いてくるのが視界に入った。
「恙なく終わったか」
「はい。街まで二物様をお迎えに行きます。そのまま見物する流れになりそうですから、とりあえず明日までの外出は認めていただきました」
「……そうか」
アヤエは一瞬何か言いたそうな間をとったが、諦めてさっさと頷いた。このスルースキルは二物様の近衛たる心得の賜物なのかもしれない。
その隣に立った宰相の近衛はずっと不服げな顔をしているが、それもまた、宰相の側近としては正しい反応だろう。
アヤエは彼に声をかけて私の案内役を引き受ける。ここまで先導してくれたのに結局色白なのか色黒なのかも判別できずじまいで、おそらくこれが今生の別れだ。別に悲しく思うわけではないが礼儀として会釈しておく。物言いたそうな目はついぞ変わらなかった。
相変わらずの足さばきで階段を下り、塔を出てから、アヤエはさっと私を振り返った。
「必要なものがあれば用意するが……と言っても、何が必要になるかもわからないだろうな」
さすがよくわかっていらっしゃる。一日街のお祭りで遊んできなさいと言われても、いきなりすぎて支度すべきこともテンションも今一つわからないのが正直なところだ。
思いついたものから逐一確認するしかあるまい。とりあえず金銭やそれに値する物は必要ないはずだ。
この国では生活必需品が当たり前に満ち足りているから、取引の必要なく大抵のものが全ての民に行き渡る。当然各家庭や個人によって労働力や採集能力などに差は生まれるものの、共同体ごとに財産を共有してそこから必要量を分配するという、圧倒的な豊かさを土台にした共産的仕組みが人々の生活を支えているのだ。取引や物々交換の対象になるのはごく一部の嗜好品や芸術、あとはイレギュラーな労働くらいである。
労働の依頼に対価が発生するとは言ってもその実態は「庭の手入れを手伝ってもらったから、お礼に今度夕食へご招待します」「これはかたじけない、ありがたくお呼ばれしましょう」程度のいたって大らかなやり取りで、レートも交換内容も当人たちの気分による。
風呂食事つきの宿を取るのでさえ、余程の横暴をするのでなければ、客人に要求されるものは何もない。他人に食べさせるに十分な食料はいつでも有り余っているのだし、客の世話をするのは宿を営む係の者の通常の業務だ。対価をとられるどころか、暇を持て余した客が掃除を手伝うとその返礼として食事が数品増えたりもする。
全てが人の良識と豊かさで成り立っているとも言えるこの国で、貨幣の出番は滅多にない。使いどころといえば、それぞれの街や村で蓄えている余剰の生活物資を、滞在中に消費する量を超えて譲ってもらいたい場合くらいだ。
例えば何らかの動機があって各地を巡っており、時に野宿もするような旅程を組んでいる場合、道中の食料を購うために立ち寄った街や村にて金銭を使う。
この通貨だけは、かの宰相閣下を頭に据えた行政機関によって厳密な交換レートが定められているそうだ。蓄えた物資と引き換えに金を受け取った住民たちにとっては一見使い道が無いように思えるが、一応、これを各地に点在する府庁に持ち込むことで政府の備蓄から相当量の生活物資を引き出せる。逆に物資を持ち込んで金に変えてもらうこともできるので、一般的な青少年などが旅に出たいと一念発起した場合には、所属する共同体に労働力を支払ったり弁舌を振るって説得したりという手段によって、求める金額に必要な備蓄を持ち出させてもらうわけだ。
今回の私たちの外出は赴いたその街で少々遊ぶだけの予定である。おまけに目的地では豊穣の宴を開くくらいには備蓄が有り余っているのだし、まず間違いなく金の出番はない。
豊穣の宴というのはいよいよ備蓄庫がはち切れんばかりの局面で開かれるものだから、対価を取るどころか通りすがりの旅人にもれなく土産を持たせたいのが住人の心境らしい。
流浪の旅の上級者ともなると、路銀が寂しくなってくると豊穣の宴が行われている街を渡り歩き、持たされた土産を換金することで旅の資金を作るのだとか。まるでろくでなしの根無し草のような生活ぶりにも思えるが、彼らの移動は創り主の恵みを国中に巡らせる効果をうむため、旅人が疎まれる風潮もさしてない。
とにもかくにも、万事はあらゆる不足を満たしてなお余りある創り主の生命力と、遍く人々に浸透した良識の成せる業だ。こちらもごく普通にまともな行動だけしていれば受け入れてもらうのは容易い。
最悪、身一つでもどうにかなるのではあるまいか。そんな気がしてきた。あれこれ持ち歩いても荷物になって邪魔なだけだ。
考えるのが面倒になってきた私の気分を察知したのか、アヤエは腕を組んで深々とため息をつく。
「……まず、替えの服は持っていけ。今日中に帰るにしても、汚れて着替えたくなったときに、あなたの身の丈ではすぐには工面できないだろうから」
「汚さなければ良いのでは?」
「街は宴の最中だぞ。大人ならばすれ違い様にとりあえず酒をひっ掛けられるくらい珍しくない。場合によっては子供が大人を真似をして、余計に見境なしに水や調味果汁を浴びせかけてくる」
「なんて催しだ」
無礼講の良いところも悪いところも教えてくれるとは、何と粋な大人だろう。私がかつて経験した宴にはそんな破天荒な挨拶など無かった気がするが、宮殿に最も近い街ともなると気風も習わしも違うようだ。
「着替えの必要性はよく分かりましたが、取りに戻るのは少々遠くなりますね……」
街へ向かうには宮殿の南の門をくぐらねばならない。北門の向こうにある洞窟まで戻るとなると、この広い敷地をまさに縦断する羽目になるわけだ。前後の移動のことも考えると馬鹿にできないタイムロスである。
せめて外套でも羽織ってきていれば雫除けにできただろうに。平均から突出した己の体格を今ほど悔やんだことはない。
「確か一着、月次補給のための在庫があったはずだ。その倉庫ならここからそう遠くない」
「アヤエさんは私の着替えの在庫まで把握しているんですか」
「毎月、木箱に物資を詰めているのは私だからな」
私の注文を二物様が取り次いでいるため、彼女の近衛たるアヤエが回るお鉢を受け取っているそうだ。宮殿では基本的に無口で通している二物様も、側仕えの長を任じられたアヤエには日常的と言える頻度で声を聞かせてくれるらしい。ただし、口にする内容の一と二は形式ばった挨拶で、あとは十まで業務連絡に尽きる。
私の食生活を把握しているような口ぶりをしていた理由が今わかった。毎月毎月、何も言わず余計な物も付け加えず、ひたすら注文通りに小袋の干し飯を用意してくれていたのがこの女性だったとは。大変お世話になっております。
頼もしい早足で進むアヤエの後ろを、私は雛鳥よろしく追従する。
私の着替えだけではなく防水加工の雑嚢まで用意してくれるようで、つくづくアヤエには頭が下がる思いだ。二物様の着替えが必要になった場合には現地調達するほうが良かろうと助言もくれた。あまり荷物がかさんでも邪魔になるし、雰囲気に馴染むためにもその場にあるものを身に着けたほうが無難だろうとのことである。
何せ宮殿に用意してある二物様用の衣装は、どれもこれも布地が多くて装飾性の高いものばかりだ。他に着られるサイズの服も方々探せば皆無ではないが、勤め人の制服というのはあんまりな選択肢である。
あの少女のことだから、さすがにいつものひらひらした布の多い衣装のままで人前に出るような愚行は犯すまい。きっと何らかの方法で平民らしい衣服を用意しているはずだ。
そして心置きなく人々の間に馴染み、酒だのジュースだの掛けあう集団を見るや否や、嬉々として参加を希望することだろう。濡れ鼠になってもケラケラ笑う姿は容易に想像できる。
雑貨を収めた倉庫に辿り着いたアヤエは、管理係に素早く話をつけると早速、鞄と着物を探し当てて荷造りを始めた。服だけ詰めるのも何だろうと、かさばらない程度の帳面や携帯用の筆記具なども揃えてそれらしいお出かけセットを仕立ててくれる。
荷物が出来ると鞄を私に持たせてまた別の建物へと移動する。机に向かって書類仕事をしている男をひとり選んで声をかけて、戸口で大人しく待つ私を指し示しながら何事かやりとりを始めた。やがて彼は机の脇の棚から木片のようなものを取り出して、何かをせっせと書きつけた。
同じ行動を二セット繰り返して出来上がった品たちを受け取ったアヤエは、またスタスタと私の所に戻ってきて、乾ききらない墨の光沢が真新しいそれを私の胸あたりに突きつける。
「これは……何ですか?」
文字が書かれた木札だった。さっきのせられたばかりの墨の香りが鼻腔に届く。朱色で描かれた細かな文様は公的な効力を示すのだろう。朱と重なり合う墨黒が語る内容は『この者門の内にて寝所を得ることを認める』とのことだ。
「宮殿内での寝泊りが許されている証の札だ。それが無い者は夜間の滞在自体が禁止されている。あなたや二物様は言うに及ばないから、本来は例外だがな」
「へえ。じゃあアヤエさんやロミさんも同じものを持っているんですか」
「お揃いだとか言いたいわけではないぞ。無いよりはあったほうが辻褄が合うだろう」
「……ああなるほど、宮殿から来て宮殿に戻る人間なら、持っていないと不自然ですよね」
宮殿勤めであっても通いの者には交付されていないとのことだが、通いとは即ち南の街に家があるという意味だ。幸運が幸運を呼んで二物様の見知らぬ人ぶりがスルーされたとしても、さすがに私はアウトだろう。いかに宮殿のお膝元の栄えた街とは言っても、この目立つ容姿の人間が同じ街中に住んでいるのに誰ひとりとして認知していない、などというのはあまりに不自然だ。
二枚交付してもらったのはそれぞれ私と二物様の分らしい。正直に身分を明かすのも適当な設定を作って誤魔化すのも自由だが、なるべく自由に動くためにはできる用意は整えるに限る。
これで私は、許可証を二枚持っていることを除けば、近くの街で宴をやっていると聞きつけて軽い気持ちで見物に行く、いたって普通の宮殿勤め人になったわけだ。
「アヤエさんはどちらかと言うと親二物様派ですよね?」
丁寧な厚意を手に持ったまま尋ねてみると、アヤエは眉一つ動かさずに重々しい瞬きをした。おそらくだが、機嫌を損ねたわけではないだろう。
「あの方のお可愛らしさと聡明さを、ずっとお側で見てきたのだ。どうして厭うことができようか」
「宰相閣下のお話しぶりでは、二物様は孤立されているような印象を受けましたので」
「……人の事情は種々様々だ。実の親子やきょうだいでさえいつも上手くいくわけではない。況や二物様と近衛をや、だ」
娘さんと上手くいかない時期でもあったのだろうか。だとすればあまり追及するのもよろしくない。家庭の事情はどこもデリケートなものだし、私としても聞きたくはなかった。
べつに私はアヤエと二物様の仲について深堀りしたかったわけではないのだ。彼女が二物様の味方でいてくれる人だとわかればそれだけで、聞きたかったことは十分である。
「洞窟の外ではろくにお話にもならない、なんて聞いたので、心配だったんです。近衛のあなたが優しい方で安心したと、それが言いたかっただけです」
もらった札を丁寧に鞄にしまいながら伝えると、アヤエは目を閉じ口の端だけで笑った。
「それを言うならこちらこそ、だな。私がどれほどお慕いしても二物様のお心の慰めにはなれない。あなたが真心を以て二物様の支えとなっていてこそ、この口惜しさも報われるというものだ」
「精一杯、お出かけを楽しんでもらえるようにお供をしてきます」
「そうしてくれ」
アヤエは照れ隠しでもするように体の向きを変え前方へと足先を向ける。腰の後ろで組んだ手がリズムでも取るように細かく動いていた。左の手袋の、覆うべき小指の無い布がゆらゆら揺れる。
正面から見ると厳しく冷静沈着だったこの人も、背後ではこうして内心を表現していたのだと知ると、可愛らしくも思えてきた。
案外、胡散臭く感じた宰相の笑みだって、人の上に立つ者として身に着けたスキルの賜物だったのかもしれない。つい勘ぐってしまった裏側の感情の正体は後悔や戸惑いだった可能性もある。宰相などという立場はきっと、簡単に弱みを晒すようでは務まらないから、心許なくなればなるほど微笑みを崩さぬよう努めなければならないのだ。
完全に希望的観測でしかないが、疑って気分が沈むよりはずっと良い。
「さて、他に入用のものはあるかな」
アヤエの厚意は十分に受け取ったと思う。斜め掛けの雑嚢ひとつだが私にとっては万全の用意だ。あとは、これ以上二物様を待たせてしまわないことの方が重要である。
「物は必要ありませんので、南門までの最短経路を教えてもらえませんか」
返事の言葉も終わらないうちに、アヤエはさっさと最初の一歩を踏み出す。
「老人の生き急ぎ様を見るが良いよ」




