序
今からおおよそ1万年ほどの昔、この地はまだ存在していなかったという。
ならば、如何にして出来上がったか。起源はこうだ。
ある時創り主様が、海原の中に陸をお創りになった。それからそこでお眠りになった。
創り主様の静かなる寝台となったこの地は、そのまどろみの間に溢れた生命力によって、たいそう豊かになったのである。
豊かになって、なりすぎて、生命力は断崖を伝って海にまで流れ出た。
すると外なるものがこれに目を付けた。
創り主様のお力を求め、波をかき分けて来ては争うようになったのである。やがてその騒乱が創り主様のお目覚めを招いた。
周囲の惨状に気づかれた創り主様は、外なるものをちょちょいと退けると、思案なさった。
思案の結果、生命力を溢れさせぬよう、適度に食らうものを創ることにした。そうして生まれたのがこの地の生き物である。
それから、なかでも無垢で賢き種のうちの一人を見出し、お力を注いで、特別な者と決めた。そしてそれに民と臣をお与えになった。特別な者とはこの国の大いなる君であり、与えられた民と臣はこの地に生きる人間や、国の始まりとなった。
この地の生きとし生ける者の役目とは、よく生きること。創り主様のお恵みを身いっぱいに受けて生を全うすること。
皆が役目を全うして生きている間、創り主様はどのようにお過ごしなのか?
……ほら、ゆっくりお休みでいらっしゃるのさ。
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「妾はな、旅なるものがしてみたい」
ひとりごちた少女の声が、かすかに湿った洞窟の岩壁に、そっと吸い込まれていく。
濃い灰色の石柱を束ねて作ったような壁である。その柱の一本が丁度良い広さの断面をのぞかせる地形に、少女は浅く腰掛けていた。布の多いひらひらとした衣の裾から足先が覗いて、いかにも退屈そうにぶらついている。
私はとりあえず黙って近くに控えつつ、少女の次なる言葉を待っていた。
「旅ぞ、旅。良い響きではないか。口にするだけで心が踊る」
少女はうっとりと両目を細めた。夢見るような声音で短い単語を繰り返す彼女の金色の虹彩は、そこら中の壁や床にへばりついた苔が発するほのかに青い光の中で、らんらんと輝いている。
「そなた、旅を知っておるか」
ぶらりぶらり。交互に空を蹴る爪先はだいたい私の胸と同じ高さに位置する。何となくそればかり目で追っていた私は、改めてきちんと顔をあげ、高いところに腰掛ける少女を見た。
薄布を飾って結い上げられて、毛先に向かって明るい色へと変わっていく、冗談のように長い黒髪。くすみ一つない象牙色の肌。小ぶりでつんと高い鼻に薄紅色に潤う唇と、黄金色をした、雄弁なる双眸。
返事というより相槌を求められているだけだなぁ、と察しがついた私は、かなり適当に頷いた。
「はあ。そうですね」
「そはひたすら遠く遠くへ歩むことだという。慣れた地を離れ、眼に映る地の果てを追い続ける行為よ」
「ええ、まあ、そういった感じでしょう」
「じゃがの、決して過酷なだけの行ではないぞ。なぜなら、追い続けたその先でまた人に会うことができるゆえな。別離を味わい苦難を乗り越えた先で新たに友誼を結ぶのじゃ。これも乙な喜びではないか」
「そういうこともありますね」
肩にこぼれた黒髪を指に絡めてもてあそぶ少女は、私の声帯から丁度いい頻度とタイミングで発せられる音に満足げにするばかりで、相槌の内容などは今のところ一切意に介していないようだ。まず間違いなく意図的に無視している。
しかし彼女は、ご機嫌そのもので高らかに語っていた声を、ふいに低くひそめる。それから上半身をかがめて少しだけ私に顔を寄せた。
「しかしな。妾は、旅の真の醍醐味とは、それらより他にあると睨んでおる」
「ほう、何と」
「先人たちも挑まなんだ境地。……否、挑みし者はあれど、彼の者らはその足跡を語り残す術を無くしたのやも知れぬ」
「果たしてその境地といいますのは?」
ぐっと右手にこぶしを握って、どうやらこの演説は佳境に入るようだ。同時に少女自身もだいぶ悦に入っているご様子。私はささやかなにぎやかしのつもりで、相槌の声に気持ちばかりの情感をこめて続きを促す。
「旅の真なる境地、それ即ち、人跡未踏の地を目指すことじゃ!」
ぴんと伸ばして見せた人差し指の先には、洞窟の高い天井に出来た細い割れ目があった。彼女の声が反響したせいだろうか、その割れ目からわさわさとした黒い塊、蝙蝠の群れが現れて私たちの頭上を過ぎて行く。キイキイと頭に響く鳴き声と羽音が遠くなってしまえば、それきりあたりは静まり返った。
静寂をたっぷり観測してから少女は、おもむろに右手を口元に引き寄せた。こほん、と、わざとらしい咳払いをひとつ。
「つまり、妾は旅をしてみたい」
「存じていますよ。幾度もお聞きしましたからね。そしてその度に私は、私の裁量ではいかんともし難い、と申し上げています」
つれないようだが他に言いようがない。せいぜい誠実に少女の瞳を見つめて告げると、彼女は唇を突き出してあからさまな不平の意を表した。
そんな表情をされても。そこにいるのはぱちりとつぶらな二重の目を持った、幼気で可愛らしい顔貌の女の子である。当然少しも怖くはないし、幼い印象のせいで余計に「今ここで甘やかしてはいけない」という心理が働いた。
少女の歳はそろそろ17を数えるが、それより少なくとも4つから5つは幼く見える。度々希望を却下されては頬を膨らませたりするのだからなおさらだ。
この少女が私の支えるべき人にあたり、そしていずれこの大地に生きる民全ての君主となる。
まるで現実味のない事実の、輪郭だけでも探すように、じっとにらめっこに付き合った。
「……だんだん眉尻を下げてみても、できないものはできませんよ。宰相閣下は許可を下さらないのでしょう」
「そこをどうにか。そなたは妾の専属医のようなものじゃろ。さり気なく口添えしたりとか、できんか?」
「お体のことを考えるのが仕事という点では余計に、徒に旅の後押しなどできません」
「いじらしいことを言いおってからに。罪な男じゃ、あくまで気遣う言葉を吐いて妾を黙らせる」
何度も繰り返してお決まりになっているこのやり取りは、いつもは軽く戯れただけという程度の軽い問答のみで終わるのだが、今日に限って少女はなにやら人聞きの悪い一言を付け加えてくれた。
どうせこの場に聞き耳を立てる人などは居ないので、それで気分が晴れるのならいくらでも言えばいいとしか感じないけれども。
私は口をつぐみ、にらめっこの続きを試みることにした。が、相手がすぐにささやかな苦笑をこぼしてしまったので、勝負は長くは続かない。
少女は、なにか吹っ切れたような身軽さで、腰かけていた場所から飛び降りる。自分の身長以上もある高さから降りたのにもかかわらず、靴底の音さえごく微かだ。
踏みつけられた苔の光がにわかにぽうっと明るくなって、すぐに元に戻る。それが面白いのだろう。少女はその場でステップを踏むように何度か足を上げ下ろしして、薄っすら青みがかる光を散らした。
「さはさておき。そろそろ尻が痛うなってきた。ここに来ると具合が良いし、光る苔の壮観も楽しいが、次は座布団のある椅子に座らせてくれ」
明るい声は洞窟の内壁に細かくこだまするが、不思議とクリアに耳に届く。おかげで頭二つ分以上の身長差があってもなお、少女との会話に不都合はない。
そのよく通る声で尻がどうこう言うのはうら若い乙女としてどうかと思うが。かといってこの少女より年かさの男である私が「尻なんて言うのはおやめなさい」と口に出して窘めるのも気恥ずかしく思われて、結局黙って従うことにした。
こちらへどうぞと儀式的に方向を指し示すものの、何度も通い詰めている少女にとっては勝手知ったる洞窟なので、私の前に立ってさっさと歩き始める。
苔の光が満ちてほの暗いこの空間に、人間が使える出入口はたった一つきりだ。岩壁の間隔が狭まって苔の量が減った、傾斜とカーブのある通路をてくてく上っていった先に、大雑把な見た目ながらも明らかに人工物の扉が存在する。
この扉というのが板状の岩塊の見た目をしており、実際、ざっくり板状に切り出された岩らしい。どういう仕組みになっているのかは知らないが、壁の内部に張り巡らされた何らかの機工によって、近くに設置されたクランクを回すことで扉が天井に収納されていくのである。おまけに時間が経つと自重によってゆっくり降りて自動で閉まるという、私の日常における数少ない肉体労働ポイントだ。
正直気を重くしながら、一応クランクのほうへ向かう素振りを見せる。途中でちらりと少女の様子を確かめると、あちらも私を見ていたようで、丁度良く視線が合った。
少女は金色の瞳をきゅっと細めて笑う。
「毎度毎度律儀よのう。そなたと妾の仲じゃろう、無駄な遠慮などするな」
ぐるぐると左の肩を回しながら少女が近づいたのは、クランクではなく、扉そのものだ。
扉の表面の窪んだ部分を見繕って指をかける。ほっ、と、すぼめた口からこぼれた声は洞窟の壁に響いた低い音ですっかりかき消された。
反響を繰り返して脳を揺らす大きな音を立てながら、扉は瞬く間に天井に押し込まれていく。その真下にもぐりこんだ少女は、岩板を支える役割を右腕一本に任せてから、にこにこと満面の笑みで私を振り返った。
「さあ、通れ」
「いつもありがとうございます、二物の君様」
「ほっほっほ、苦しゅうないぞ。よく感謝せい、泉守」
私は深々と頭を下げながら扉をくぐった。それはこの、超常の力を気前よく振るってくれる少女へ、衷心から捧げる感謝の表れだ。
……それと同時に、彼女がめいっぱい腕を伸ばしても絶妙に届かない高さにある頭を、うっかりぶつけてしまわないためでもあり。
なにはともあれ。よっこいせと扉をくぐった先は──まだ洞窟。
私は壁に引っ掛けていた灯りを手に取って、薄暗く続く道の先を目指した。