(2)夏風の鬼教官
待ちぼうけで、だらだらと過ごしていた金の貴公子が、
夏風の貴婦人からスパルタを受ける様を、どうぞ御楽しみ下さい☆
翡翠の館の道場では、容赦の無い音が鳴り響いていた。
夏風の貴婦人の大振りに、金の貴公子は防ぐ事も儘ならず、長棒を宙に飛ばされる。
「うわ!!」
吃驚した金の貴公子は思わず尻餅を着いた。
其れを見た夏風の貴婦人は歯軋りすると、長棒を金の貴公子の顔に突き付ける。
「あんたね!! さっき、基本を教えたでしょうが?!」
何で出来ないのよ?!
大魔神の様な目で見下ろしてくる夏風の貴婦人に、金の貴公子は必死に弁解する。
「そ、そんな直ぐに出来る様にならないって!!」
だが金の貴公子の其の言葉が気に食わなかったのか、夏風の貴婦人は金の貴公子の胸倉を掴んだ。
「あんたね・・・・遣る気ある?!」
「や・・・遣る気って・・・・」
無理矢理、此処に連れて来たんじゃないか・・・・とは、よもや言えはしない。
「あ・・・在ります・・・・」
金の貴公子は蚊の鳴く様な声で呟いた。
だが、はっきり言って内心、恐かった。
近くで見る夏風の貴婦人の筋肉は、柔らかな女の肉体とは程遠い。
こんな筋肉質な腕に殴られたら、きっと直ぐに目の前一杯に星が現れるに違いあるまい・・・・。
金の貴公子は長棒を拾うと、定まりのない体勢で構えた。
とにかく・・・・言う事を聞かなければ・・・・!!
殴られるのだけは絶対に嫌だ!!
そんな健気な金の貴公子の姿に、夏風の貴婦人は満足そうに頷いた。
「いい?? よく目を開いて、渾身の力を込めて掛かって来なさい」
金の貴公子が夏風の貴婦人の鬼の特訓から解放されたのは、月も高く昇る頃だった。
ダーン!! と云う大きな音が響いたかと思うと、
金の貴公子の身体は石畳に大きく倒れ込んでいた。
「痛たたたた・・・・」
もう起き上がれないと云う様に金の貴公子は転がった儘、荒く息をする。
夏風の貴婦人は、そんな彼を上から見下ろすと、
「あんた、結構、根性あるじゃない」
額の汗を拭い乍ら笑った。
もっと早く根を上げるかと思ってたわ。
夏風の貴婦人は、にぃと笑うと、
「続きは又、明日ね」
陽気に手を振って道場を去って行った。
金の貴公子は大の字になって床に転がっていた。
「あ、明日って・・・・」
明日も遣るのか?!
金の貴公子は魂の抜けた顔になると、ぴくりとも動けなかった。
痣だらけの身体中が、ぎしぎし痛い。
全く夏風の貴婦人のする事は、いつもいつも滅茶苦茶である。
滅茶苦茶なのだが・・・・何故か・・・・心は晴れやかだった。
此の四十日間、ずっと胸の中に在った雨雲は、何処かに吹き飛んでいた。
どうしようもなかった寂しさも、今は無い。
「はは・・・・ははははは」
金の貴公子は天井を見上げ乍ら、一人笑っていた。
翌日、夏風の貴婦人は翡翠の貴公子の執務室で、ガリガリと報告書を書いていた。
其の間、金の貴公子は何処へ遊びに行く訳でもなく、自室で大人しく過ごしていた。
金の貴公子の身体は昨日の鬼トレーニングの御蔭で、全身が悲鳴を上げていた。
此のまま此の館に居れば今日も又、しごかれる事は目に見えている。
だが・・・・。
何故なのか、金の貴公子は逃げようとは思わなかった。
そして金の貴公子が昼下がりまで、ごろごろしていると、
夏風の貴婦人が長棒を持って入って来た。
「さて。気分転換に、ちょっと汗、流すか」
金の貴公子は緊張を感じ乍らも、大人しく彼女の後をついて行った。
夏風の貴婦人は恐い。
でも今は・・・・彼女のしごきも嫌じゃないかも知れない。
金の貴公子は不思議な感覚を感じ始めていた。
「身体を動かす事って・・・・こんなに楽しかったっけ??」
ぼそりと、金の貴公子が呟く。
其れを聞いた夏風の貴婦人が、
「何か言った??」
橙の眉を跳ね上げる。
「いえ、何も!!」
慌てて敬礼をする、金の貴公子。
広間に着くと、二人は距離を置いて向かい合った。
「昨日教えた事をよく思い出して、全力で掛かって来なさい」
金の貴公子は、しっかりと頷いた。
其の次の日も、また其の次の日も、夏風の貴婦人の特訓は続いた。
夏風の貴婦人が来てからと云うもの、金の貴公子は、ぱたりと遊びに行かなくなった。
日々身体中のあちこちが痛みを訴えていたが、
それでも金の貴公子は夏風の貴婦人が声を掛けてくれるのを待っていた。
棒術は相変わらず上手くならなかったし、好きと云う訳でもなかったが、
誰かが自分の相手をしてくれる事が嬉しくて仕方がなかった。
此の日もやはり昼下がりになると、夏風の貴婦人は金の貴公子を誘いに部屋へ訪れた。
そして夕暮れ時まで、みっちりとしごいてくれる。
そんな日が五日間も続いた。
五日目の夜、夏風の貴婦人が珍しく金の貴公子の部屋を訪れた。
両手には酒瓶を持っている。
「飲まない??」
ウィンクする夏風の貴婦人に、金の貴公子は口笛を吹いた。
「いいねぇ。飲もう飲もう」
二人は椅子に座ると、早速ワインをグラスに注いで乾杯する。
夏風の貴婦人は、まるで麦酒でも飲む様に、始めの一杯をごくごくと飲む。
其の飲みっぷりに思わず愕然としてしまった金の貴公子だったが、
慌てて彼女のグラスにワインを追加する。
夏風の貴婦人は更にごくごくと飲むと、
「私、明日、帰るわ」
そう言った。
「え??」
金の貴公子は思わず声を漏らした。
と同時に、ツキン・・・・と物寂しい風が自分の胸に吹いたのを微かに感じた。
夏風の貴婦人は、がぶがぶと酒を飲み乍ら言う。
「あんたも普通に戻ったみたいだし」
報告書も仕上がったしね。
そう言って笑う。
「・・・・・」
金の貴公子は押し黙っている。
自分の胸の内をどうやって夏風の貴婦人に伝えれば良いのか、判らない。
夏風の貴婦人は酒を飲み乍ら金の貴公子を見ていたが、ふと口を開いた。
「欲しいものは・・・・自分で手に入れなさい」
其の言葉に、金の貴公子は机に肘を着く。
「だって俺・・・・何も出来ないもん。此処に居る事しか・・・・」
主は許してくれない。
夏風の貴婦人は変わらず、じっと金の貴公子を見ると、グラスの中のワインを一気に飲み干した。
「其れは、あんたが、此処に居る事しか望んでないからでしょう」
いつものザクザクとした言い方で、自分のグラスにぼとぼととワインを注ぐ。
「・・・・・」
金の貴公子は言葉を失っていた。
違う・・・・。
俺が望んでいるのは・・・・。
そんな金の貴公子の心の声が聞こえるのか、夏風の貴婦人は更に言った。
「相手が本当に望んでいる事なら、あいつは、ちゃんと応えてくれるわよ。
あいつは、そう云う奴なの」
「・・・・・」
「私もあいつも、考え方は一緒なの。ただ表現の仕方が違うだけ」
「・・・・そうなのかな」
「そうよ」
「・・・・・」
金の貴公子は腑に落ちないと云う様に頬を膨らませると、
「夏風の貴婦人はさ、主の恋人みたいなものだからいいよ」
ぼやく。
だが、そんな金の貴公子の言葉を覆すかの様に、夏風の貴婦人は言った。
「ん?? 私、別に、あいつの彼女でも何でもないわよ」
金の貴公子は、ぼうとワインの表面を見詰めていたが、
「え・・・・えええ?!」
大声を上げる。
瞬きすら出来ずにいる金の貴公子に、夏風の貴婦人は平然と言う。
「あいつには、水の貴婦人が居るもの。私は只の幼馴染みよ」
「・・・・・」
金の貴公子は完全に言葉を失っていた。
それから口許に手をあてると・・・・やっとの想いで声を出した。
「俺・・・・てっきり、夏風の貴婦人が、
主の恋人代わりみたいなものだと・・・・あれ・・・・??」
自分で言い乍ら、金の貴公子は更に目を見開いた。
今、夏風の貴婦人は何と言った・・・・??
今・・・・。
「水の貴婦人て、誰だよ?!」
金の貴公子はテーブルに身を乗り出して叫んでいた。
夏風の貴婦人はごくごくとワインを飲み干すと、又グラスに注ぐ。
「ん?? もしかして知らなかった??」
其のワインも一気に飲み干し、もう一瓶開けろと金の貴公子に促す。
金の貴公子が言われた通りにしていると、夏風の貴婦人は面倒臭気に言った。
「水の貴婦人は、あいつの恋人よ。もう百年近く前から付き合ってる」
夏風の貴婦人の言葉に、金の貴公子は思わずコルクを落としてしまった。
「・・・・え??」
「だから、あいつには、ちゃんと女が居るんだってば」
放心している金の貴公子の手からボトルを奪うと、
夏風の貴婦人はなみなみと自分のグラスに注いだ。
金の貴公子は呆然と夏風の貴婦人を見る。
「夏風の貴婦人は・・・・それで・・・・嫌じゃないのか??」
金の貴公子の其の言葉に、夏風の貴婦人は、バン!! とグラスをテーブルに置いた。
「嫌じゃないかって??」
夏風の貴婦人は、ぎりぎりと歯軋りすると・・・・
「嫌に・・・・悔しいに決まってるだろうがっ!!」
思いっきり吐き出す。
「私はね!! 此れでも自負してたのよ!! 絶対あいつの中では一番だってね!!」
だが実際は違った。
翡翠の貴公子が選んだのは自分ではなく・・・・水の貴婦人だった。
彼にとって、自分は姉の様な存在でしかなかったのかも知れない・・・・。
「近くに・・・・居過ぎたのかもね・・・・」
漸く夏風の貴婦人は金の貴公子の空のグラスにワインを注いだ。
そして・・・・呟く。
「あんたに・・・・判る??」
此の気持ちが。
「目の前で・・・・ずっとずっと信じてきた相手が、
あっさり他の女に横から掻っ攫われる気持ちが・・・・!!」
「・・・・・」
「結局・・・・姉くらいにしか思われてなかったのかなぁ」
夏風の貴婦人は苦笑すると、再びグラスに口を付ける。
金の貴公子は暫く考えていた。
そして、ぼそりと言った。
「俺・・・・主は、夏風の貴婦人が好きなんだと思ってた。
いや・・・・主は、いつも本当に愛しそうに、夏風の貴婦人の事を見てたと思う」
そう言い乍ら、何だか金の貴公子は腹が立っていた。
まだ顔さえも知らない水の貴婦人の事が腹立たしくて仕方なかった。
何かが間違っている・・・・そんな気がしてならなかった。
夏風の貴婦人は、ゆらゆらとグラスを揺らした。
「子供の頃はさ、凄い可愛かったのよ、あいつ」
あどけない仔犬みたいに・・・・いつも自分の後をついて来ていた。
夏風の貴婦人の呟きに、金の貴公子は笑った。
「今の主からは想像出来ないなぁ・・・・くっそ・・・・!! 見たかった!!」
俺の方が全然、長く生きてるのにっ!!
物静かだが隙が無く、何処か厳しい表情の今の翡翠の貴公子の姿は・・・・
やはり軍人生活が長かった為なのかも知れない。
悔しそうに歯軋りする金の貴公子に、夏風の貴婦人はケラケラと笑った。
笑って・・・・笑って・・・・夏風の貴婦人が、やがて真っ直ぐに金の貴公子を見ると、
「欲しいものは自分で手に入れなさい」
静かに言った。
「これからは自分が幸せになる為のきっかけくらい、自分で作れる様になりなさい」
夏風の貴婦人の其の言葉の意味を・・・・翡翠の貴公子が帰ってから間もなく、
金の貴公子は知る事になるのだった。
視察から帰る途中、夏風の貴婦人と共にラトキスを通過していた翡翠の貴公子は、
大商人のドール氏に、ばったりと出逢い、招待を受けた。
翡翠の貴公子は夏風の貴婦人と一緒に招待を受けるつもりだったが、ドール氏の妙な言い回しに、
夏風の貴婦人はさっさと帰ってしまい、結局、
翡翠の貴公子一人でドール氏の招待を受ける事になってしまった。
ラトキスはゼルシェン大陸東部に在る海沿いの商業街で在り、
其の中でも一、二を争う大商人で在るドール氏は、
上流貴族に匹敵する財力と権力の持ち主で在った。
そんなドール氏が翡翠の貴公子を招待したのには言うまでもなく、
それなりの意図が在っての事であった。
「いやぁ、ははは!! まさか異種様に出逢えるとは・・・・此れ又、幸運な事でございます!!」
肥えた身体に此れでもかと云う程の宝石を飾ったドール氏が、さも御機嫌に笑う。
「ささ、どうぞ」
ワインが注がれると、翡翠の貴公子は軽く乾杯の意を表して、グラスに口を付けた。
続いて前菜が運ばれて来る。
「いやはや、視察で御疲れでしょう。
どうぞ我が屋敷で、ごゆっくり、旅の御疲れをとられていって下さい」
「・・・・・」
豪快に笑うドール氏に、翡翠の貴公子は黙々と前菜を口に運んでいる。
疲れているから一刻も早く帰りたい・・・・等とは、よもや言えはしない。
「先日、大洋の向こうから、流行の衣類を大量に取り寄せまして、宜しければ是非、
御持ち帰り下さい。いやぁ、翡翠の貴公子様なら、きっと御似合いになる物が沢山在るかと」
「・・・・・」
食卓にはドール氏の笑い声だけが大きく響き、翡翠の貴公子は時折、相槌を打つだけだった。
そんな会話とも呼び難い会話が暫く続いていたが、メインの子羊のソテーが運ばれると、
ドール氏が笑い混じりに言った。
「ところで、私には可愛い娘が四人おりましてな、
どうぞ此の機会に娘たちと話してやって欲しいのです」
「・・・・・」
「いやぁ。私の娘たちは皆、翡翠の貴公子様に夢中でしてな、翡翠の貴公子様と御話出来る日を、
毎晩の様に夢見ていた様で・・・・ははははは!!」
「・・・・・」
ドール氏の魂胆は翡翠の貴公子にも余りに明確であった。
年を重ねる毎に地位を高めている異種たちと強く関係を求める貴族や有力者たちは、
急速に増加していた。
例え跡継ぎは作られなくとも、
長寿の異種たちと何とか身内柄になれれば更なる権力を手に入れられると、
彼等は躍起になっているのだ。
そして此のドール氏も四人居る娘の一人を異種の妻に出来ないかと企んでいる口の一人だった。
翡翠の貴公子は暫く子羊のソテーを黙々と食べていたが、静かに顔を上げると言った。
「御存知かも知れないが、我々には結婚観念が無い。なので・・・・」
そう言い掛ける翡翠の貴公子の言葉を、ドール氏が遮った。
「いえいえ、判っておりますとも。ですが・・・・」
ドール氏は大声で続ける。
「南部の白銀の貴公子様は、奥方を迎えられていらっしゃるではありませんか。
そればかりか母君の快の貴婦人様は、過去に十八回も御結婚されていらっしゃる」
「・・・・・」
ならば其の内の一回を、自分も手に入れたいと云わんばかりのドール氏。
既に千年以上生きている快の貴婦人が十八人の夫を迎えている事は、
ゼルシェン大陸では有名な話だった。
白銀の貴公子は十八人目の夫との子供で在り、
其の夫は快の貴婦人の十七人目の夫の甥で在る事も、広く知られていた。
しかし快の貴婦人がどうであれ、翡翠の貴公子は見合い話には、まるで興味がなかった。
翡翠の貴公子が殆ど沈黙を守る中、やがて夕食が終わると、ドール氏が、
「これから私の部屋で飲み直しませんか??」
と声を掛けてきた。
だが翡翠の貴公子は首を横に振った。
「済まないが、酒には余り強くない。もう休みたいのだが」
翡翠の貴公子の言葉にドール氏は慌てて頷いた。
「そうでしたか。旅の疲れも在りますでしょう。では今夜は、もう御休みになられて下さい」
メイドに案内をさせるドール氏の目は、
だが何としてでも此の機会に縁談を固めようと燃えていた。
翡翠の貴公子は案内された部屋に入ると、漸く溜め息をつき、早く帰りたい・・・・と、
しみじみ思った。
この御話は、まだ続きます。
商人のドール氏に捕まってしまった翡翠の貴公子は、さて、どうするのか、
続きを、御楽しみに☆
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