プロローグ・二上直春の現在と過去とこれから
~プロローグ~
俺は今、罪を犯した恐ろしい獣として、周りから疑いの目で見られている。俺の意思に反して、鼓動はどんどんと速くなっていき、額には汗がにじみ、体温は下がっていく。まずい。このままだと、俺は間違いなく殺される。焦る気持ちを必死に抑え、俺は頭をフル回転させる。死を逃れる方法はただ一つ。「嘘」を使いこなすこと。そう、嘘は、人間の最大の武器である。ビジネスや出世競争、スポーツにおいてはもちろんのこと、人生そのものの優劣が嘘を使う能力によって決まると言っても過言ではない。
そう、人生とは嘘そのものであるーーーーー
「はい、じゃあお前が人狼ってことで」
丸眼鏡をかけた彼は、無慈悲にもそう言い放つ。
「ええ!ちょっと待ってくださいよ。まだ時間が・・・」
俺は必死に命乞い(?)する。
「どう言い逃れしても無理でしょ。あんた下手すぎ。下手すぎてキモい。」
俺の隣にいるブロンドヘアで容姿端麗な彼女は、その見た目に似合わぬ毒舌で俺を罵倒してきた。
「やっぱり、キミは夜な夜な狼になって人を襲っちゃうんだ・・・」
俺の真正面の位置にいるショートカットの女は、目を細めて意味深な発言をする。
「ちょっと、それって変な意味で言ってる!?」
その隣にいるのは、長い髪を赤いシュシュでまとめたさわやかな見た目の女子。顔を赤くして、直前の発言に過剰に反応している。
「はいはい、じゃあ次始めよーぜ」
丸顔でイケメンの男が、あくびをしながら言う。彼は序盤で殺され、ずっと暇そうにしていた。
「なお、やっぱり演技下手なんだね・・・」
ツインテールの彼女は、憐みの目でこちらを見てくる。彼女は俺の幼馴染だが、あんな表情はめったに見たことがない。
「・・・負けちゃった」
最後に、赤みがかかった長髪をそのまま垂らしている彼女が、残念そうな顔でつぶやく。
・・・そう、人生はなんちゃらかんちゃらと壮大な感じで話し始めたが、これは人狼ゲームである。俺を含めた8人が参加者で、その8人が円になって椅子に座り、スマホのアプリで遊んでいるだけなのである。今回、俺はあの長髪の女の子とともに人狼の役割を与えられた。途中までは順調に進んだものの、終盤でカマをかけられ、あっさりぼろを出して処刑されてしまい、敗北したのだ。それはまあ無様だった。ちくしょう、なんで俺はこんなにも人狼が下手なんだ・・・。
「はい、じゃあ次はお前がゲームマスターだ。」
がっかりしている俺に、丸眼鏡の彼はスマホを渡してくる。ゲームマスターは彼のスマホアプリの案内に沿ってゲームを進行する。俺はそれに俺以外の7人の名前を入力し、それぞれの役職を確認させるため、彼らに順番にスマホをまわした。全員が確認し終わると、いよいよゲームの始まりである。
俺は、7人の顔を見渡す。この中にはすでに自分が人狼だと知っている者がいるはずだが、表情からそれを読み取ることは全くできない。彼らの演技はもう始まっていた。自分のしぐさのくせを把握し、それを忠実に再現することで、「普段の自分」を演じているのだ。
また大げさな言い方をしているように思うかもしれないが、これは誇張でもなんでもなく、彼らがやっていることなのである。実は、今行われているのはただの人狼ゲームではない。
彼ら7人は、言うなれば「嘘のスペシャリスト」である。常日頃から、いかにリアルに、繊細に嘘をつくかを研究し、それを実践している集団なのだ。そんな彼らが、他人を欺き、蹴落とし、勝ち残っていく様は、素人のそれとは迫力が違う。
こう言うと、何やら怪しい秘密結社のような雰囲気が出ているが、彼らはとても身近な存在である。誰しも一度は見たことがあるだろう。
彼らは、「演劇部」
~二上直春の現在と過去とこれから~
県立巻島霧高等学校は、閑静な住宅街の中にどっかりと居座っている。やけに豊かな色遣いの校舎は、芸術性が高い半面、完全に周囲から孤立しているのが遠くからでもわかる。その姿はまさに大学デビューに失敗した愚か者のそれだ。もう入学して1週間がたつが、あの学校の場違い感にはもううんざりだ。ため息をつき、だらだらと歩く。まだところどころシャッターの閉まっている駅前商店街を過ぎた。あと10分も歩けばあの学校に到着する。
1か月ほど前、合格発表のために来た時はもっと足取りは軽かった。どきどきしながら校門をくぐり、掲示板で自分の受験番号をみつけ、事務室で「二上直春」と自分の名前が書かれた各種書類を受け取った。思いっきり青春を楽しもう!とまでは思わなかったが、県内指折りの進学校に合格した自信と、これから始まる新たな日々への少しの期待はあった。しかし、現実は味気ない。後日大量の課題が郵送され、地獄のような春休みを過ごした。入学式の翌日にはもう宿題テスト。何かにつけて「巻島霧生としての誇りを!」・・・この春は、俺やその他大勢の生徒を幻滅させるのには十分すぎるほど濃密だった。まあ、進学校だけあって授業の進度や内容は申し分ないので、後悔はしていないのだが、楽しい高校生活云々は諦めるしかないだろう。
もう一度ため息をつく。足元を見ながら歩いていると、後ろから、聞きなじみのある声がした。
「なおー!」
細かい足音が近づいてくる。
「おはよ!」
ぽんと肩をたたかれる。息を切らしながらむけてくる笑顔は見慣れている。浅茅くり(あそう くり)だ。彼女もまた巻島霧高校の生徒であり、俺とは保育園からの付き合いである。小学校、中学校も同じで何度も顔を合わせているが、彼女の身長やヘアスタイルは中学2年の時から変化が無い。男子の平均的な体格である俺の肩に届くぐらいの身長で、少し茶色がかった長い髪の毛はツインテールで二つに垂れている。その他の身体の成長はまあ順調に進んでいるようで、お世辞ではなくスタイルは良い方だと思う。俺は、何の抵抗もなくくりに話しかける。
「あれ、今日は遅いな。めずらしい。」
「家出る直前におなか壊しちゃってねえ。なおは?」
「俺はいつもこの時間だよ。」
あ、そっかと、くりはまた笑った。
「あーあ、結局高校までおんなじになっちゃったね。しかもクラスまで」
「まったく、なんの縁があるんだか」
「もしかしてなお、私が巻島霧受けるって知ってて、わざとついてきたんじゃないの?」
「バカ。そんなわけあるか」
実際のところ、くりと同じ高校に進学したのは全くの偶然だった。もうかれこれ十数年の付き合いになるので、幼馴染というべき関係なのだが、幼馴染は恋仲という意味も内包しているように思えてしまい、なるべくそういう言い方はしたくない。
「お前案外頭良かったんだな。巻島霧入れるなんて」
合格発表の場でくりが喜んでいるのを見たとき、正直拍子抜けした。彼女はいわゆる天然な人間で、申し訳ないが頭が良いという印象はなかったのだ。それを納得させるだけのエピソードはたくさんある。調理実習のときにキャベツとレタスを間違えてぐにょぐにょの野菜炒めを作ったり、自転車のタイヤがパンクしたことに気づかずに2年間乗り回したり、テレビでやっていた世界終末の都市伝説を信じ込んでオリジナルのシェルターをつくったり・・・。
「はあ?いままでバカだと思ってたの?」
くりは驚いた顔をするが、それを見てさらに俺は驚く。
「うん。」
「心外よ!そりゃなおには負けてたけど、中学の時ずっと10位台だったんだからね!」
くりは唇を尖らせて言った。俺も口をとがらせて不満を言う。
「つーか、いいかげんなおって呼ぶのやめろって」
「ああ、ごめん。ついつい・・・。」
謝罪はしているが、直そうと意識しているわけではなさそうだ。たった二文字だし、呼びやすいのはわかるが、恋人でもないのに気軽にニックネームで呼ばれるのは恥ずかしい。
「そんなにいやなの?なおって呼ばれるの」
「いやだね。」
「なんでよ、もう慣れたでしょ?」
「そういう問題じゃなくて!恥ずかしいだろ、周りの奴に聞かれたら」
「そーなの?ふーん。変なの。」
まったく、十何年も同じ道を歩んできたはずなのに、どうしてくりだけがこう純粋なままなんだ。ときどき原因を考えるが、いつもたどり着く答えは「くりはバカ」だった。しかし、曲がりなりにも進学校として名高い巻島霧高校に合格しているあたり、その結論は再考の余地がありそうだ。
「なおはどうすんの?部活」
呼称を訂正しようとしたが、部活という言葉に、脳が過剰に反応する。
くさりを何重にもかけて箱にしまいこんだはずの記憶が、その言葉で一瞬にして解放されてしまうような恐怖に陥る。
俺は平然を装い、
「入らないよ。」
と答える。
「ええ!?なんで?あのなおが?部活に熱心で有名だったあのなおが?サッカーもやめちゃうの?あんなに上手かったのに?」
くりはぽんぽんと喋りかけてくる。俺は次第にイライラしてくるが、こういうときの決まり文句がある。
「高校は勉強に専念するんだよ」
嘘ではない。せっかく名門校に進学したのだから、ある程度高い学歴は手にしておきたいというのは当然だ。
「いやいや、なおのキャッチコピーは、部活で時間が無くても成績いいです!でしょ?」
「初耳なんだが。そんなことが言えるのは中学までだ。高校の勉強は時間が命なんだよ。」
「ふーん・・・つまんないの。部活しない学校生活って、何が楽しいの?」
その言葉に、俺の頭がかっと熱くなる。
「逆に、部活なんかして何が楽しいんだよ!」
くりが一瞬身体を震わせ、驚いた顔でこちらを見る。俺は、自分が思ったよりも大きな声を出してしまったことに気づく。罪悪感が芽生えるが、謝る気にはなれなかった。
「・・・なにか、あったの?」
くりは俺の顔をのぞきこんで言う。
「・・・何もない。とにかく、俺は部活には入らないから」
俺は乱暴にそう言い放った。かなり感じが悪いなと思ったが、部活という言葉を聞くと、どうしても、忌々しい過去を思い出しそうになる。
くりはそれ以上話しかけてはこなかった。学校が近づいてくる。俺とくりは、黙って校門をくぐった。
6限目の終業のチャイムが鳴った。6限目はこのクラスの担任・竹浪京子の数学の授業だったので、そのまま流れでHRが始まる。
「はい、聞いて」
教室がしんと凍りつく。竹浪は見た目からして30台前半ぐらいだろうが、もうすでに60台のベテラン教師のような、近寄りがたい貫禄がある。視線はするどく、声はあらゆる雑音を退けて生徒の耳に届く。服装は全身黒で、長い髪は青いシュシュでまとまっている。笑った顔など、この1週間で見たことはない。
「今日は仮入部期間最後の一日で、あさってから本入部だ。明日は入部届の提出を忘れずに。話は以上。解散」
氷が融解したかのようにぞろぞろと生徒が動き出す。さて、帰ろう。この仮入部中、結局どの部活も見学していない。かばんを手に取り、そろそろとドアに向かう。敷居をまたごうとしたところで、後方に謎の引力が生じ、体は教室に戻される。
「もうおかえりですか?」
くりが俺の制服のえりをつかんでいる。今日一日、今朝急に置き去りにしたことを謝るタイミングを探していたが、このにやにやとした表情を見ると、その必要はなさそうだ。
「そうはとんやがおろしませんよ?なおはるくん」
「なんだよ」
「ちょっとさ、一緒に参加してよ、部活体験」
「はあ?」
図々しさに呆れてしまう。確かに今朝の俺はひどかったかもしれないが、なんというか、もう少し気を使ってくれてもいいんじゃないか。普通の人間であれば、部活の話はタブーだとなんとなくわかってくれるものじゃないのか。
「いつもは別の子と一緒に行ってたんだけど、今日その子用事があって帰るんだって。ひとりじゃ心細いから、一緒に参加してよ。」
口実だと一瞬でわかる。くりの愛嬌の良さであれば、もう友達は何人もいるはずだ。わざわざ俺を誘うことはない。
「わたくしも用事がありますので」
「うそつけ。いくよ」
くりが無理やり俺を引っ張ろうとする。顔が熱くなり、つい大きな声を出してしまう。
「やめろって!」
くりの手を振り切る。またやってしまったと一瞬後悔するが、くりは動揺するどころかにやにやしながら自分のスマホを取り出し、ある画像を見せてきた。幼い二人の男女が、肩を抱き合ってピースしている。心臓がどきっと脈打った。
「かわいい~。まったく、この頃のかわいさはどこに行っちゃったんだか・・・」
「お前、それ・・・!」
「こないだ家のパソコンあさってたら出てきたの。5歳のときの私となおだよ」
完全に思い出した。その写真は、保育園の運動会での写真だった。5歳の俺は汗だくで、歯を見せ、目がほとんど見えなくなるくらいにまで顔をくしゃくしゃにして笑っている。くりは目をしっかりと開き、口を大きくして笑っている。確かにかわいらしい構図だ。くりは画面を横にスライドしていく。かわいいころの俺のいろんな表情がかわるがわる出てくる。じわじわと火あぶりにされているかのように、羞恥で身体が熱くなる。
「な、なんなんだよ!今更そんな写真・・・」
「かわいいなおちゃん、クラスのみんなにもみせたいなあ・・・」
一気に血の気が引き、さっきとは逆に体中が寒くなる。
「ま、まさか・・・」
「もし断ったら、この写真、ラインのクラスのグループに送るわよ」
波打つかのようにもう一度身体が熱くなる。火あぶりなんかじゃない、今度はかまゆで地獄だ。
「お、おい!やめてくれ、それだけは!!」
高校では、陰キャでも陽キャでもなく、波風立てないようなポジションで生活していこうと思っていたのに、こんな写真がさらされてしまっては、いじられキャラとしての地盤を固めてしまう。それをいやがっていじりを拒絶すれば、ノリが悪い奴認定をくらい、浮いた存在になってしまう。畜生、この女、バカで純粋なふりをしてなかなかごつい武器を振り回してきやがる。
「要求をのまないんだったら、それなりのリスクを負わないとね~」
くりは目を細め、上目づかいをしながらほくそ笑む。こちらを試しているかのような表情だ。5歳の時のようなさわやかな笑顔はどこへいったのか。
「卑怯だぞ!」
「卑怯で結構」
なんとか言い逃れを・・・そうだ!
「もしその画像を送ったら、お前の幼い時の姿までさらされるぞ!いくらかわいいとはいえ、さすがに恥ずかしいだろう?キミだって羞恥心を失うほどバカでは・・・」
「あら、トリミングすればいいだけじゃない。」
「あ」
すがすがしいほどの論破だ。もはや、反論の余地はない。力が抜けてしまった。
「くっ・・・バカのくせに、賢い手を使いやがって・・・!」
「いい加減認めなさい。私は賢いのよ!」
ここはおとなしく従うしかなさそうだ。・・・ん?待てよ。くりは確か、中学時代はテニス部だったはずだ。
「おい、テニスは男女別だろ。一緒に参加なんてできねえよ。」
「誰がテニスに行くなんていったのよ。」
この高校の運動部はすべて男女別だ。だとすると、文化部か?なら安心だ。ほとんどが緩い部だろうし、吹奏楽などは経験がなければそこまで面倒なことはされまい。
「じゃあ、いくわよ」
くりはすたすたと教室を出て行ってしまった。あわてて追いかける。
「おい、どの部活にいくんだよ?」
くりは振り向き、晴れ晴れとした顔で言う。
「演劇部よ」
身体が一瞬固まった
「エンゲキブ?」
演劇部の活動場所は、校舎3階の大会議室だった。教室1つ分よりも少し大きいその部屋の端には、会議で使われるであろう長机やパイプいすがたたまれて寄せられていた。広々とした空間には、4人の生徒がいる。彼らが演劇部員だろう。
不安で手汗がひどい。吹奏楽などのように特別な技術をようするものであれば、初心者だということで見学程度で乗り切れたはずだ。しかし、演劇ときた。演技は経験が無くとも活動することはできるが、上手いか下手かははっきりする。1年生は俺とくりのほかにも何人かおり、その中には同じクラスの奴もいる。恥をかくのはごめんだ。悶々としていると、張りのある声が部屋に響いた。
「1年生のみんな!仮入部期間の最終日、演劇部に来てくれてどうもありがとう!私は部長の氷鬼なみ(こおりき なみ)です!よろしく!」
氷鬼さんは、赤いストライプの入ったジャージを身につけ、長い髪を赤いシュシュで束ねて後ろに垂らしていて、とてもスポーティーだ。身長も、彼女の隣にいる丸眼鏡をかけた男子部員とほぼ同じで、170センチはあるだろう。
「じゃあ、さっそく活動しましょう!はじめに、みんなの名前を教えてちょうだい。」
そういうと氷鬼さんは、横に一列に並んだ1年生の1番端にいるくりに手で合図した。
「1年E組、浅茅くりです!よろしくお願いします!」
くりは矢を放つかのように軽快に言う。さっきの取引の時とは全く違うかわいらしい笑顔だ。こいつは演劇に向いている。
よろしくね、と返事をすると、氷鬼さんは俺の方に顔を向ける。
「い、1年E組の、二上直春です、よろしくお願いします・・・。」
俺は氷鬼さんに目を会わせないようにして、小さくあいさつをする。次の瞬間、くりは満面の笑みで高らかに言った。
「なおは演劇大好きなんだよね!良かったね!念願の演劇部だよ!」
唐突過ぎて動揺するのにタイムラグが生じる。こいつ、こんな公然とウソを・・・!これはまずい、変な期待を持たれてしまったらどうする。俺はあわてて訂正しようとするが、時すでに遅し。
「あら、ほんと!うれしいなあ、今まで来た子はみんな女の子でね、男の子は貴重なのよ。」
氷鬼さんはすっかりその気だ。周りを見ると、確かに俺以外の1年はみんな女子・・・。最悪の状況に陥った。俺だって一応男だ。周りを女子に囲まれ、プライドを気にしないはずがない。広大な海の中にぽつんとある小島の上に立っている気分になる。どの方向にも、救いはない。さらにそこに、大嵐がやってくる。
「つーか、直春くん、なおって呼ばれてるんだ。2人って、もしかしてそういう関係?」
他の1年生がざわめきだす。端の方にヤクザ座りをしている男が、その姿とはにあわぬ高めの声でやじを飛ばしてきたのだ。顔は丸みを帯び、目は丸く、中性的な顔立ちをしている。そのイケメンな顔が、今は心底憎らしい。海の水位は上がり、じわじわと島をのみこんでいく。なんなんだ、これは?俺に恥をかかせようとする誰かの策略なのか?それ以外に考えられない。動揺はしだいに怒りへと変わっていく。この気持ちを、どうにかして発散させたい。
「いやあ、別に、そういうんじゃ・・・」
いきなりのやじに、くりも少しうろたえたようだ。歪みかけた空気をとらえた部長がすぐさま指摘する。
「こら、やめなさい、宗。初対面の子に言うもんじゃないでしょ」
男はそっぽをむいた。このクソ陽キャが!
「ごめんね、じゃあ、次の子・・・」
他の1年生が順番に挨拶をしていく。しかし、その声は俺の耳には入ってこない。その間俺は、自分を安心させるための論理の構築に必死だった。どんな活動をするつもりなんだ?演技?いや、さすがにそれはないはず。素人が人前で演技を披露することの辛さは先輩たちもわかっているだろう。だがほかに演劇部の活動なんて何がある?ストレッチ?そんなにひきのないことを仮入部ではしない。じゃあなんだ?
「はい!じゃあやっていきましょうか」
氷鬼さんはパンと手をたたき、その音で俺は現実に引き戻される。ああ、ついに公開処刑が始まってしまう・・・。氷鬼さんは、3枚の紙がホチキスでまとめられたものを俺とくりに配った。みると、かぎかっこで囲われた文がたくさん書いてある。まさか・・・。
「それが、いまから2人にやってもらう劇の台本よ」
「ええっ」
俺は思わず声を漏らす。
「どうしたの?」
「い、いや、その・・・」
男らしくないかもしれないが、そんなことは気にしていられない。
「い、いきなり劇をやれと言われても、その・・・」
「大丈夫よ、上手いか下手かなんて気にしてないし、とりあえず声出して楽しくやってくれればいいのよ。しかもこれ、コントだから」
「コント!?」
余計いやだ。普段お笑いとはかけ離れた生活をしている俺が、面白い演技などできるはずがない。ああ、せめておかたいやつのほうがましだった・・・。
「文句言わないの」
くりが唇を尖らせて言ってくるが、その顔にも動揺が見える。お前も恥ずかしいんじゃないか。
「いきなりは無理だろう」
野太くたくましい声がする。声の主は、氷鬼さんの隣にいる、丸眼鏡をかけた男だ。髪型はおかっぱに近いが寝癖が多く、体は肉づきが少なくひょろひょろに近い。演技をするような体型ではないので、マネージャーとか、裏方の人だろうか。
「彼らは初心者なんだ。いきなり台本持って演技させられるなんて、恥ずかしくてできないだろう?」
そうそう!良かった、わかってくれる先輩がいた・・・!
「でも、昨日はみんなこれやったよ?」
「昨日は昨日だ。抵抗のある子がいるんだから、工夫はいる」
部長にため口を使っているので、3年生だろうか。知的な話しぶりと、俺の今の状況が相まって、正義のヒーローのように輝いて見える。
「そんなに恥ずかしいかなー?俺はぜんぜん平気だったけど?」
さっきの中性顔が立ちあがって口を挟む
「お前は仮入部の時から目立ちたがりだったからな、正直、見てて痛かったぞ」
「そ、そんなことないですよ!」
中性顔は頬を赤らめた。
「わ、私は、恥ずかしかったです」
ぎりぎり聞き取れるような小さな声でそうつぶやいたのは、中性顔の隣にいる女子部員だ。氷鬼さんとは対称的に、長い髪はそのままで、身長も低い。目線が下がっているため、顔は良く見えない。2年生だろう。
「とにかくだ。ここは先輩が見本をみせてからにしよう。」
え?結局俺らもやるのかよ!助け舟は俺の望んだ方向には進んでくれなかった。
「氷鬼がツッコミをやってくれ。俺がボケをやる」
声優のようなダンディーでスムーズな声で丸眼鏡が言う。俺はぎょっとした。あのひょろひょろが、演技?裏方の人ではないのか?申し訳ないが、まったくイメージがわかない。見た目からして、がり勉で、真面目で、愛想が悪く、「こっち側」の人間だと思っていた。しかもボケだなんて。どんなことも理屈で押し切ってしまいそうな彼に、バカな人間を演じることなどできるのか?
「では、行こう」
数分間台本に目を通すと、2人は少し距離をとり、位置に着く。
丸眼鏡が合図すると、中性顔がパンと手をたたく。
「こら君、何をやっているんだ!」
氷鬼さんが張りのある声をだす。設定は、道端で泥酔して挙動不審な男に警官が職質するというものだ。視点をずらした瞬間、俺の身体に衝撃が走る。
「はえぇえ~~~?なんのことでしゅかあ~~~?」
不審者がそこにいる。酔っぱらって、愚図で、どうしようもない男がそこに。さっきまでいなかったのに、コントが始まった瞬間に俺たちの前に現れたのだ。不審者は眼鏡をかけている。がり勉がつけていそうな、丸っこい眼鏡だ。・・・丸眼鏡?俺の脳は、そこで初めて目の前にいる男が先ほどのひょろひょろと同一人物だと認識した。彼の顔をじっと見る。知的な目元は崩され、口元はだらし無く開き、背筋が曲がっているので身長はとても低く見える。口調もさっきまでの優等生っぽさは微塵もなく、酒の飲みすぎによる声がれまでもが緻密に表現されている。
俺は思わず笑ってしまった。断じて嘲笑ではなく、尊敬の意を含む笑いだ。見た目のイメージとはまったく異なる人間を演じることのできるその技量に素直に関心してしまったのだ。コントはトントンと進む。彼のみならず、氷鬼さんの演技も立派なものだ。的確な間でツッコミを入れていく。すごい。いくら先輩とはいえ、テレビに出ている芸人よりは劣るだろうと思っていたが、素人の俺から見れば大した違いはない。いつの間にか俺は純粋にコントを楽しんでしまっていた。
5分ほどでコントは終わった。他の1年生も俺と同じように感心したのか、大きな拍手が起こった。しばらく余韻に浸っていたが、だんだんと、さっきまでの怒りがよみがえる。
(めちゃくちゃハードルあげてんじゃねえかよ!!!)
あんまりだ。こんな上手いのを見せた後でやらせるなんて。
「じゃあ、みんなにもやってもらいましょう。まずは、そこの二人から!」
元気にそういうと、氷鬼さんは俺とくりの中間地点を指差した。はあ?トップバッターかよ!
「2人は仲良しっぽいから、きっと上手くいくわ!」
くりと俺は、渋々立ちあがる。
「い、いくよ」
そういうくりの顔はほんのりと赤い。なんでお前が恥ずかしがるんだ。もとはと言えば、全部お前のせいじゃないか。過去の写真を使って俺を脅し、俺が演劇が大好きだなんて嘘までついて・・・。見慣れたはずのくりの顔は、今は俺をいらいらさせるだけだった。
「ど、どっちやる?」
答えは決まっている。
「・・・ツッコミ」
「準備はいいかしら?」
氷鬼さんはこちらに目をやる。俺は頷いた。中性顔が手をたたく。
「こらお前、何やってるんだ!」
始まった。不思議と気持ちがノっている。くりへの怒りを、ツッコミひとつひとつのセリフに乗せてぶつけていく。声は自然と大きくなり、自分の声がこだまするのがわかる。こんなのは早く終わらせてしまおう。くりのボケに間髪いれずにツッコんでいく。くりは一生懸命ボケながらも、ちらちらとこちらのことを驚いた眼で見てくる。思い知れ、俺の怒りを・・・!
「いいかげんにしろや!」
最後のセリフを言いきると、拍手が起こった。やっと終わった。俺は胸のつかえが取れて満足していたが、すぐにまた羞恥心が刺激される。今日はなんて日だ。人前で演技させられるだけでも恥ずかしいのに、あの中性顔のせいで、俺とくりが付き合ってる疑惑まで出てしまった。入学早々こんなひどいことが続くなんてあんまりだ。
後に続いて他の一年生も順番にペアを作って演技をしていたが、俺はその間、周りに合わせて適当に拍手するとき以外はずっと下を向いていた。4回ほど拍手をすると、すべてのペアの演技が終わった。
「今日の活動はこれで終わりね。みんなとても上手だったわ!」
氷鬼さんはパチパチと手をたたきながら言った。
「見ての通り、うちは今2,3年合わせて部員が4人しかいなくてピンチなの。ちょっとでも興味を持ってくれたら、ぜひ入部を考えてみて。みんなが来るの待ってるから!」
全員起立して挨拶をし、仮入部は終わった。
「いくよ」
くりが腕をつついてきた。俺はくりを睨みつけながら立ちあがり、教室を出ようとする。その時、
「ちょっと。」
疲労で下がり切った俺の肩に誰かの手が乗った。振り向くと、手を乗せているのは丸眼鏡で、その横には中性顔がにやにやして立っている。丸眼鏡の奥の目線は鋭く、俺は動揺する。まさかダメ出しをされるんじゃないかと不安になる。
「いいね、キミ」
予想とは全く逆の反応。そういう彼の顔は、口元が緩んでいるわけではないが、微笑んでいるように見えた。
「二上君だったかな。いい演技だった。キミは演劇部に向いている。入部を楽しみにしているよ」
演劇部に向いている。俺からしたら嘘としか思えないセリフを、丸眼鏡は真剣な表情で言った。
「違うよ先輩、なお、だよなお!」
中性顔がまたからかってくる。
「なおくん、他にはどの部活いったの?」
「いや、ここだけです」
「え!?演劇部一筋な感じ!」
「いや、その、そもそも、部活に入る気はなくて、今日は無理やりあいつにつれてこられて」
「ふ~ん」
また俺とくりの関係をいじってくるのかと思ったが、俺の目をまっすぐみたまま、何も言わなかった。
「何かしら部活には入っておいた方がいい。勉強一本ではつぶれてしまうからな。」
「は、はあ」
俺は顔を下げてしまう。
「・・・まあ、キミはどの道入部することになるだろう。」
丸眼鏡は不穏な口調でぼそっとつぶやいた。
「えっ」
「いや、なんでもない。キミが入ると確信してるということだ。じゃあ、またな。」
最後にぽんと肩をたたき、彼らは引き返して行った。なんだか恥ずかしくなり、俺は失礼しましたと言って急いで大会議室をでて、校門に向かう。
演劇部に向いている。その言葉が引っかかったが、少し考えれば、解釈は簡単だ。あれは勧誘のために言ったお世辞にすぎない。氷鬼さんは、仮入部に来た男子は俺だけだと言っていた。貴重な男子部員を確保するために、わざわざ話しかけてきただけ。
そうだ、たったそれだけのことなんだ。
顔をパンパンとたたき、階段を駆け降りた。
靴を履き替えて外に出ると、くりが校門に立っている。俺は、後ろから彼女の肩を強めに度付く。
「いたっ!」
「恥かかせやがって」
帰り道、たらたらと不満を垂れてやろう。
「恥?なにが恥よ。こっちのセリフだから!」
「え?」
くりはなぜかぷりぷりしている。2人で駅に向かって歩き出す。
「なおって、ああいうのやったことあるわけ?」
「ねえよ。俺がやるわけねえだろ」
「じゃあ、なんであんなに上手かったの?」
「は?」
頭が混乱してくる。くりはお世辞を言っているようには見えない。
「おいおい、俺が上手いはずないだろ。」
「いやみ?みんな、なおは上手かったって言ってたわよ!」
「みんな?」
「うん。同じクラスの子とか。」
「まさか」
「ほんとよ。私もそう思ったし。なんていうか、ツッコミにちゃんと感情が乗ってて、間もほぼ完璧だったし、表情だって、ちゃんとしてて・・・。」
具体的にほめられると少し照れたが、俺は返答に困る。なぜなら俺自身に上手くやれたという自覚がないからだ。人間は、自分の意図していないことで褒められてもあまりうれしくはならない。
キミは演劇部に向いている
野太くたくましい声が再び脳裏に響く。もしかすると、俺って本当に上手かったのか?冷静に自分の演技を振り返る。あのとき俺の原動力になっていたのはくりへの怒りだ。そう、それがセリフや表情に出て、いい感じのツッコミになったのだろう。さらにあの時の俺はいち早く演技を終えたかったので、せっかちになり、くりのボケの後一瞬でツッコミに入っていたように思う。だから変な間が開かなかった。それだけのことだ。俺に技術があるわけじゃない。
「たまたまだよ」
謙遜ではなく、考えた結果を述べた。
「ん~!」
くりは俺の肩を度付き、強い口調で言った。
「せっかく困らせてやろうと思ったのに、私が騙された気分!」
「それで怒るのは理不尽だろ・・・。てか、やっぱり困らせようとしてやったのか!!」
俺はくりを睨むが、くりに謝罪するつもりはなさそうだ。しばらくぶつぶつ文句を言い合いながら歩いていると、駅前商店街に入るあたりで、くりは決意のこもった口調で言った。
「決めた。私、なおと一緒に演劇部に入る」
あまりに勝手な決意に俺はずっこける。
「なんで俺の入部まで決めてんすか?」
「当り前じゃん!なんか、このままだと悔しいし・・・」
「何が」
くりはきっとこちらを睨む。
「・・・だって、なおって、昔からなんでもできるじゃない。勉強も運動も、演技も・・・。」
「三つ目は取り消してくれ」
「私、実はずっと悔しかったの。なんとか頑張って追いつこうとしても、なおは大した努力もしないで、どんどん先に行っちゃう」
「努力してないって言いきるな」
「いっつも涼しい顔してるじゃない!あ、俺、余裕ですよ?みたいな」
「そんなことはない」
「とにかく、私はなおと同じ土俵で競争して、勝ちたいの。演劇だったら、男女関係なくできるし。だから、なおも演劇部に入って。あんだけ上手くできるんだからいいでしょ?」
俺はしばらく黙りこんだ。駅が近づいている。
「やだね。」
俺はぼそっと呟き、歩くスピードを速め、くりを置いていく。後ろでくりが何か言ったが、単語は聞き取れなかった。急いで改札を通り、ホームまでの階段を駆け上って、丁度来ていた電車に乗り込む。座席の端っこに座り、身体を背もたれに預けた。くりに嫌なことをしてしまったという自覚はあったが、どうしても一人で考えたかった。
部活に入る。
普通の人間であればほとんど抵抗のないことなのだろうが、俺はそうではない。
俺は、今まで目をそむけ続けた過去を、ゆっくりと頭で再現した。
俺は保育園の時からずっとサッカーを習っていた。きっかけは友達がやっていたからというありふれたものだったが、やっているうちにどんどんとのめりこんでいき、小学校でもクラブチームに入った。幸い運動神経は良い方だったので、上達はほかの奴らより速く、5年生のころからはエースと呼ばれるようにもなった。地区の大会でもそれなりの成績を残し、優秀選手に選ばれることもあったので、将来の夢はサッカー選手だったし、本当になれると信じていた。
しかし、夢ははかなくも打ち砕かれる。
中学校ではもちろんサッカー部に入った。1年生の時から3年生の先輩と互角以上に戦えていたし、試合にも出してもらえた。顧問の先生も、言葉には出していなかったが期待を込めて指導してくれていた。周りの学校のレベルも高く、最初の1年間はとても充実したものだった。
だが、学年が一つ上がると、徐々に違和感を覚え始めた。ほかの部員のやる気が著しく下がり始めたのだ。練習はへらへらとしながらやり、試合でも自分で攻めようとはせず、俺にパスを回してばかり。最初はそれでも他の学校と戦えていたが、だんだんと大会での順位は落ちて行った。なんとか部の雰囲気を良くしようといろいろな工夫と努力をしたが、俺の思いは届かなかった。そしてある日、とうとう堪忍袋の緒が切れ、俺は部員を怒鳴りつけた。感情的ではあったが、自分は正しいことをしてきたし、これでみんな意識を変えてくれるだろうと思っていた。しかし、とんでもない言葉が返ってきた。
「みんなお前みたいに上手くできるわけじゃねえんだよ。調子に乗るな!」
衝撃だった。正しいことをしていたはずの自分に向けて、彼らは非難の声を浴びせてきたのだ。練習が上級者向けだの、下手な奴を見下してるだの、そんなにマジでやってるわけじゃないだの。何も言わない奴もいたが、俺を擁護する声も1つもなかった。俺は絶望した。そして、部活動というシステムがとてつもなく嫌になったのだ。たかだか同じ町に住んでるからという理由だけで集められ、一緒に活動させられる。意識や目的の異なる奴らが集まって、良好な関係を築けるはずがない。一人が上を目指していたとしても、その他がそうでなければ、その一人は黙りこむしかない。俺は即刻部活をやめた。しかし、心は全く晴れなかった。俺は、自分の人望とか魅力のなさにも絶望していたのだ。何かに必死に打ち込む人の姿というのは、人の心を動かすと思っていたが、俺が一人でどれだけ頑張っても、誰の心も動かせず、むしろ反感を買った。俺は、そのことで自分の人間性が欠けているとまで思いつめてしまい、普段の生活における人づきあいまでも避けるようになった。くり以外の人とは卒業までほとんど話さなかった。
部活動。
この三文字をどれほど憎んだことか。人間関係のもろさと、自分の人間性の悪さをつきつけた3文字。だから俺は、高校では絶対に部活に入らないと決めた。勉強に専念するなんてのは口実に過ぎない。誰かと一緒に活動することが怖いし、何かに全力になることも怖いからだ。
20分ほど揺られていると、自宅の最寄り駅に着いた。暗い気持のままとぼとぼと歩き、家に着く。時計の針は7時を指している。
「おっそ」
妹のもあが、居間のソファで寝転びながらスマホをいじっている。今年で中学2年生になった彼女は、暇さえあればネットをいじるかアニメを見るかラノベを読むかしかしない重度のオタクである。家での振る舞いは最悪で、今も、Tシャツはめくれておへそが見えており、髪はぼさぼさ。とても年頃の女の子とは思えないが、顔は丸っこく、唇はきゅっと結ばれ、目はくりくりとしていて、普段の彼女の生活を差し引けばかわいらしくも見える。
「何かあったの?」
「・・・友達と遊んでた」
なぜかわからないが、嘘をついていた
「げえ。もう友達できたんだ。根暗のくせに」
「うるせえ」
「まあ良かったじゃん。」
「おい、飯作っとくから風呂入ってこいよ。」
「今いいとこなの!黙ってて。」
もあは一度は頬を膨らせて怒るが、すぐに画面に目を戻し、にこにこしながら何かのアニメを楽しんでいる。世の男たちはこの笑顔の可愛さに騙されてしまうようで、もあは学校では良くモテる。しかし本人は二次元の男にしか興味が無く、現実で受け取ったラブレターはすべて着火マンで燃やしている。それを見るたびに、男は哀れで愚かな生き物だなと痛感する。
「へいへい・・・」
俺は手洗いうがいをしたあと、昨日のおかずの残りをチンし、簡単な野菜炒めとみそ汁を作ってもあと食べた。(ご飯のときでももあはスマホを手放さない)両親は家にいないことが多いので、毎日夕食はこんな感じだ。食後、洗い物をして風呂に入り、二階の自室にこもる。いつもなら勉強を始めているが、今日は机の上に入部届のプリントを置き、にらめっこしている。
「どうすっかなあ・・・」
長く深いため息をつく。仮入部で先輩に言われた言葉やくりに言われた言葉が頭の中でこだまする。実のところ、演劇部も悪くないんじゃないかという気持ちもほんの少し芽生えていた。しかし、電車の中で回想した光景が、どうしても記入欄に演劇部とは書かせてくれない。
賢者は歴史に学ぶ。
いつしか親父が言った言葉だ。俺にはサッカー部での失敗の過去がある。そこから学ぶべきではないだろうか。でも、ほんとにそれでいいのか。俺は机につっぷす。その状態のまま時間が過ぎ、気づけばもう11時になっていた。
俺は決意を固めた。正確には考えることを放棄した。記入欄には何も書かず、プリントをかばんに突っ込み、ベットに寝転がる。過剰な負荷がかかった脳味噌は、目に入ってくる光を嫌がり、まぶたを重くしていく。俺はそれに逆らわず、布団に溶け込むように眠りについた。
「入部届を集めるぞ。」
竹浪は、狼を思わせる鋭い声で言った。生徒はかばんからプリントを取り出し、各列の一番後ろのやつが立ちあがってそれを回収する。
俺は名前だけが書かれた入部届を渡す。部活に入らないという意思表示だ。全員分が集まると、竹浪は教室を出て、入れ替わりで1限の国語の教師が入ってきて授業が始まる。いつも通りの1日が始まっていた。そして、時間は流れ、いつも通りの1日が終わっていく。・・・はずだった。
「二上」
4限の数学の授業が終わると、竹浪は俺の名前を呼んだ。ビビって変な声で返事をしてしまう。
「ちょっと職員室に来い」
体中の血流が悪くなり、悪寒が走る。4限が終わると1時間の昼休みがあり、生徒はそれぞれ昼食をとったり、昼寝したり、スマホゲームで遊んだりと思い思いに過ごす。本来なら楽しい時間のはずなのだが、教師が問題を起こした生徒を呼び出すのもこの時間である。俺は職員室に向かいながら、入学してからの1週間を高速で思い出す。何をやらかした?提出物を出し忘れたか?だが、どうしても思い当たる節が無い。恐怖で震えた手で、職員室の扉をノックする。
「失礼しまあす・・・」
「おお、こっちだ」
竹浪は手をあげて俺を招く。鼓動がロックバンドの曲なみに速くなっていき、背筋がピンと伸びる。びくびくしながらもすたすたと歩き、竹浪の机まで行くと、彼女は
「まあ、大したことじゃないんだが」
と切り出す。
「今朝集めた入部届、お前の分が二枚出ていた。」
そう言うと竹浪は、机の上にあるプリントの束から二枚を取り出し、俺に見せた。
「え?」
思わず気の抜けた返事をしてしまう。確かに二枚とも名前は二上直春だ。1つは記入欄に何も書かれておらず、俺が今朝提出したやつだとわかる。もう一つには・・・!
「白紙のと、演劇部と書かれたものがあるな」
竹浪は淡々と言う。演劇部。もう片方には、明らかに俺のじゃない達筆な字でそう書かれていた。俺はその字に見覚えがある。・・・さっきの数学の授業の時に見たばかりの字だ。とてつもなく嫌な予感がする。
「あ、あの、こっちは僕が書いたんじゃ・・・」
「まあ、こんなのは大したことじゃないよな」
竹浪は、俺が言い終わる前に重厚感のある声で言った..
「・・・へ?」
「お前の気持ちはわかっている」
すると竹浪は、俺が提出した何も書かれていない方の入部届を、真っ二つに破いた。
「ああっ!」
俺が驚きの声をあげると、竹浪はわずかに口角をあげながらも、獣のような目で俺を見た。
「きっとキミはこのプリントをもらったとき、すぐに名前だけを書いておいたんだ。しかし、昨日の夜の段階でなくした。だから、今朝あわてて友人にコピーをとらせてもらい、演劇部と書いて提出した。それがキミの入りたい部活だからな。でも、キミがなくしたと思っていた紙は実は教室のどこかに落ちていて、心やさしい級友がそれを拾って提出した。だから、キミの名が書かれたものが二枚ある・・・そうだろう?」
竹浪はこちらを見続けている。俺は混乱した。あの字は確実に先生の字だし、そうじゃないにしても、先生の解釈は明らかに無理がある。普通だったら、どっちが本物かを俺に聞くはずだ。なのに、無理やり俺が演劇部志望であるかのように話を進めている。反論したいが、身体が金縛りにあったかのように動かない。彼女の目は、いままでのどれよりも恐ろしい。文句を言ったらきっと殺されてしまう。
「うれしいなあ、氷鬼たちに聞いたよ。男子で君だけが仮入部に来てくれた。」
「・・・へ?」
竹浪はニヤリと笑う。
「おっと、まだ言っていなかったか。演劇部の顧問は、この私だ。」
ひゅぅっと息が止まりそうになる。竹浪先生が、演劇部の顧問!?
意外だな、と暢気なことを思う余地はない。
「キミはどの道入部することになる。」
昨日の丸眼鏡の言葉の意味がわかった。演劇部の仮入部に参加した唯一の男という時点で俺は竹浪のターゲットにされ、どんな手を使ってでも確実に入部させられるということだったのだ。実際、竹浪は俺の入部届を偽造し、でたらめをでっち上げた。今さら気づいてももう遅い。竹浪はさらに大きく太い声で語りかける。
「まさか、キミのような優秀な巻島霧生が、帰宅部を選ぶなんてことは・・・ないよな?」
ビクッと体が震える。俺は今、脅されている。もしここで本当のことを言えば、これからの3年間、どんな仕打ちが待っているかわからない。普通の教師であればそんな不安は持たないだろう。しかし、竹浪は普通ではない。この年齢に不相応な貫禄は、一般的な人生を送っていたら手に入らないはずだ。幼いころから弱肉強食の世界で生きてきた、そんな雰囲気が彼女にはある。俺が動けないでいると、竹浪はそっと右手を差し出した。
「これから、よろしく頼むよ。二上直春」
俺の思考はマヒしていた。ゆっくりと自分の右手を前に出し、竹浪の手を握る。彼女はそれを軽く上下に振り、不敵な笑みを浮かべた。俺は泣きそうになりながらも、無理やり頬を釣り上げて笑顔を作った。
ははは・・・ははは・・・・・・・
・・・こうして、俺の演劇部員としての高校生活は始まってしまった。