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くろねこ風紀録  作者: F.Koshiba
第2話 平々凡々な非日常
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4.三者の交点

 もらったパンの耳をどうしようかと考え、俺はそれを、堤字の納屋で子育て中のヨツバのところへ差し入れに行く事にした。アメリアの子猫達の件では、世話になったしな。

 そう決めて、島中字から堤字方面へと南下していく。

 その途中、小波字のとあるT字路で俺は一旦、立ち止まった。

 右手にある低い柵の向こうは、公園に隣接したポプラ並木の歩道。左手は住宅地で、角の家のブロック塀とせり出した垣根が、脇道の見通しを悪くしてしまっている。

 ――考史郎とコクミツという別個の存在が『ひとつ』になったのは、実は、この場所なのだ。

 その事情説明を含めて、今から考史郎側の視点で、当時の事を回想しよう。

 

 

 師走に入り、冷え込みが一層厳しくなった去年の冬の事。

 日曜日だったその日、まだ中学生だった俺は学校が休みだったが、看護師の母さんには早番の仕事が入っていた。

 若干寝坊した母さんが大慌てで弁当を作り、バタバタと騒がしく出かけていった後に起きてきた俺は、ダイニングキッチンのテーブルにその弁当が置き忘れてある事に気づく。

「……全くそそっかしいな、母さん」

 起き抜けでまだぼーっとしていたが、俺は急いで着替え、黒のブルゾンを引っかけて、弁当を渡すべく母さんを追って家を出た。

 

 

 母さんの勤め先である病院は橋向こうの隣町にあり、自転車で通うには少し遠い。そのため母さんは自転車で島中字の駅まで行き、電車で通勤している。

 電車の時間までに駅に着ければ、そこで母さんに渡す事ができる。そう考えて俺は自転車を飛ばしていた。

 ……朝の冷気に絶え間なく頬を叩かれても、自分が思うより、俺の頭は覚めていなかったんだな。注意力散漫なままスピードに乗り、小波字のそのT字路を、歩道に沿って過ぎろうとして――。

 脇道から歩道の方に向かって不意に飛び出してきた小さな黒い影に対し、反応が遅れた。

 ハンドルを切った時には、もうはねてしまっていたのだと思う。

 スリップして転倒し、打ちどころが悪かったのか気を失ってしまったので、その時の瞬間的な記憶は、判然としない。

 

 

『……おい……。大丈夫か』

 自分にかけられているらしいその声に、俺は目を開けた。

 ……つもりだったが、そうしてみてもそこに広がっているのは、瞼の裏と同じ、暗闇。

 立っているのか、座っているのか、はたまた横になっているのか。感覚がないので、今の自分の状態が、地に着いているのか浮いているのかすらまるでわからない。

 そんな自分の前に、密色の光が二つ、浮かんだ。

 それは瞳。目が冴えてくるように、闇に霞んでいた黒くしなやかな肢体の輪郭が、次第に明瞭になっていく。

 ――猫……?

 回らない頭でぼんやりと思ったそれは、そのまま相手に聞こえたらしい。

『ああ。見ての通り、俺は猫だ。名をコクミツという』

 ――……コクミツ?

『お前に、ついさっきはねられた猫だ』

 ああ、あの黒い影が、と俺は思い出す。やっぱり、避けきれずにはねてしまったのか……。

 コクミツは、その密色の双眸でじっと俺を見つめていた。

『……お前は、どうにか大丈夫そうだな』

 お前は、と言われた事に、俺は引っかかりを覚える。

 ――そういうお前は?

『俺は、残念ながら瀕死だ』

 俺がはね飛ばしたせいで、コクミツは瀕死だという。

 ――ああ、それは……何とわびたらいいのか……。

『俺も、疲れていて注意に欠けていたからな。わびはいらない……。だが俺は、まだここで死ぬわけにはいかないんだ。実際、たった今追い返されてきたところでな』

 コクミツの物言いは、極めて穏やかで、腰の据わったものだった。

 ――追い返されたって……あの世から?

『先に向こうへ発っていた、よしみのある人にな。その人が、俺がこちらへ留まれるよう力を貸してくれたんだが……。それができるかどうかは、お前次第だ』

 ――……俺次第?

 意味を呑み込めずにいると、コクミツは淡々と続けた。

『今、俺はあの世に片足を突っ込んでいるからかそういう感に冴えてよくわかるんだが、幸いな事に、お前と俺とは波長が合う。人と猫だからさすがに同じではないが、重ねると、周波のリズムが調和するんだ』

 ……ますます意味がわからない。と思ったのも、そのままコクミツに通じる。

『要するに、俺とお前はとてもよく似ていて、相性が良いという事だ。そこで、頼みたい。俺を、お前の中に受け入れてくれないか』

 ――受け入れる?

『今話した通り、俺は瀕死の状態だ。負傷の度合いは、自然治癒できる域を超えてしまっている。だから、お前とひとつになってお前の生命力を分けてもらう事で、俺は生き延びたいと思っている』

 夢の出来事としか到底思えない、実に現実離れした話。しかし俺は、至極真面目にコクミツの言葉に耳を傾けていた。

 その語りは心地良く沁み入り、本来人の恐れを煽るものであるこの闇すら、安らぎ満ちた胎の中のように感じさせる。

 それにより、『波長が合う』と言われた事について、自然と納得している自分がいた。

『あらかじめ言っておくが、身体と精神は生きている限り常に一対のもの。だから俺達の身体がひとつになれば、必然的に精神もひとつになる。お前は、お前であり俺でもある事になる。同様に俺も、俺でありお前でもある事になるわけだ』

 ――じゃあ、お前は猫だから……俺は、人間でも、猫でもある事になると……?

 その通りだ、とコクミツは返してきた。

 もしそうなった場合、俺の今後はどうなってしまうのだろうと考えるも、そんなかつて想定し得なかった突飛な話に対し、今の鈍った頭では、さっぱり予測がつかない。

 それしかコクミツを救う手立てがないのなら、承諾、するべきなのだろうが……。

 俺に生じたその戸惑いを察し、コクミツは言う。

『心配しなくとも、無理強いはしない。俺をはねた負い目から責任にかられて、それを受けるような事もしなくていい。お前が拒むなら、俺は潔くあきらめる気だ。ただ――』

 よどみなかった言葉の流れが、ふつりと途切れる。俺が哀れみなどの無用な情にほだされてしまわぬように、という気遣いから、コクミツは初めから努めて感情を交えないよう、俺に語りかけていた。そのように抑えられていた心は、しかし最後の言葉を言い切る前にこみ上げて、彼の胸を、詰まらせたのだ。

『……ただ、お前がこの葦沢という町に少なからず郷里愛を持っているのであれば……俺のこの願いを、どうか聞き届けて欲しい』

 ようやく出されたその言葉には、ひたむきで切実な思いが、こもっていた。

 単に、自分の生に執着しているのではなく――それが何かに献身しているが故の願いであるという事は、十分過ぎるほど俺に伝わった。

 その時すでに、同調していたのかもしれない。彼の今抱いている心が、何故か自分のものであるように、俺には酌めたのだ。

 そして彼の根底に流れるものに共感を持った事が、返す答えの決め手となる。

 真っ直ぐに見つめてくる濁りない瞳が、綺麗で。

 俺は、コクミツに笑いかけていた。

 彼が望まない、一時の同情によるものとは違う。

 自分にそう確信を持って、俺は告げた。

 ――どうなるかは、わからないけれど……お前となら、これから楽しんでやっていけそうな気がする、と――。

 周囲の黒が、溢れた眩い白に払われる。

 コクミツの願いの意味が、その時はっきりと知れた。

 彼の記憶の全てが、俺の記憶ともなったから。

 ああ確かに、俺達は、元の性質がとてもよく似ているらしい。

 流れる川に、雪解け水が混じりゆくように。

 互いに、違和を感じる事はなかった。

 

 

「――……お願い、目を開けて! ねえ!」

 二度目に俺を呼び覚ましたのは、女の子の必死な声だった。

 ゆっくりと瞼を上げてみる。今度は暗闇ではなく光が入り込み、俺の瞳は、黒目がちな瞳をした見ず知らずなその子の顔を、おぼろに映す。

 ああ、綺麗な子だな……と現状がわからないまま見とれていたら、背から、服越しに冷え切った硬いアスファルトの感触がじんわりと伝わってきた。どうやら俺は、道に仰向けで倒れているようだ。

 感覚が戻った事で現実感が得られるに伴い、冴えてくる意識。

「気がついた!? 良かった……! 全然動かないからびっくりしちゃって。大丈夫!?」

「……あ、れ? えっ……」

 頭のほうから自分をのぞき込む彼女の鼻先が思いのほか近い事、それと両膝に軽く頭を挟まれている事にもはたと気づいて、俺は慌てた。すぐに起き上がって彼女から離れようと、下に手をついた時――。

「いって……!」

 右肩を走った激痛。再び路面に撃沈する。

「あ、まだ動いちゃだめだよ! どこを怪我してるかわからないんだし」

 肩を押さえて呻きながら、俺は思った。

 ……また、やってしまったなと。

 俺の右肩は、過去に負った怪我が原因の器質的問題を抱えていて、外れやすいのだ。

 結局元の格好に戻ってしまい、俺は彼女の膝元でじっとしているより他なくなってしまう。女の子にあまり免疫がないので、こんな体勢で、そんな間近にのぞき込まれると、血流が顔の方に偏っていってしまうんだが……。

「……いや、多分、大丈夫だから……」

 と、涙目に全く説得力のない事を言ってみる。逃げ出したい気持ちが先行する中、このままいつまでも路上に寝ていたって仕方がない、とも思っての事だったが。

「もうすぐ来るから、あと少し待ってて」

「え、来るって……何が……?」

「救急車、呼んであるから」

 そんな大仰な、と驚いて俺はまた起き上がろうとしたが、やはり肩の痛みと、鉛にでもなったかのような異様な身体の重さに、それはかなわずに終わる。

 情けなさと恥ずかしさで、もう泣きたい気分だった。

 そんな俺に対し、彼女はニットの手袋をはめているその手で、俺の左の頬をそっと包んだ。

「……気を失っていたんだし、今は大丈夫に思えても、後で思わぬところが痛んできたりしたら大変でしょ? 大事をとるに越した事はないから、ちゃんと診てもらって手当てを受けて。ね?」

 俺にそう優しく言い聞かせて、柔和に微笑む。

 まだ誰も立ち入った事のない、新雪積もる平原に似た胸の奥。彼女は殺風景だった俺のそこに踏み込んだ、初めての人だった。

 

 

 救急車で運ばれた先は、母さんの勤務先である隣町の総合病院だった。

「もー考史郎ちゃん! なんで私より早くここへ来てるのよ!? びっくりするじゃない、大丈夫なの!?」

 ストレッチャーに乗せられたまま入った診察室で問診を受けている最中、飛び込んで来たのは病院に着いたばかりでまだ白衣に着替えていない、母さんだった。着くなり俺が担ぎ込まれたと聞かされ、慌てて駆けつけたのだ。

「……ごめん。自転車で、転んで……」

 大丈夫である事を示したかったが、どうにも顔が笑ってくれない。声にも力が入らなかった。

 母さんは横の医師と言葉を交わして俺の状態を簡単に聞いた後、俺の押さえている右肩に目を留め、ため息を落とす。

「また脱臼しちゃったのね。整復してもらわないと」

「……うん」

 

 

 その後、俺は肩をはめ直してもらって種々の検査を受け、様子見で半日、病室に留まる事となった。

 六人部屋の、カーテンに仕切られたベッドのひとつで横になったまま、俺は布団から出した自分の片手の掌を見つめる。

 この時もう、俺は『コクミツ』という猫と同一の存在である自覚を、はっきりと持っていた。

 肩が外れた以外に特に問題はなかったが、しかし身体はずしりと沈み込むように重くて、だるい。

 それはきっと、この考史郎の身体が、受け入れたコクミツの身体を回復させようとそちらに力を回しているからなのだろうと思った。

 ――ちなみに、俺を助けてくれたあの子はただの通りすがりだったので、救急車にまでは同乗せずその場で別れてしまった。

 名前も、どこの子なのかもわからないままで、お礼さえ言えなかった事を心残りにしていたのだが、翌年度、驚いた事に彼女とは入学した高校で再会する事になる。

 もうあえて言うまでもないと思うが、それが現在、俺が意中の人としている、天瀬小夜子なのだ。

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