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くろねこ風紀録  作者: F.Koshiba
第2話 平々凡々な非日常
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3.共存共栄の心得

 小波字の班長猫にもすんなりと会え、その後に島中字にいるユキチの元を訪れると、そこには島中字の更に先、葦沢町の最北端にあたる松原字まつばらあざの班長猫もいた。首尾良く二つの区画についての報告をひととこで受ける事ができ、時間的余裕のできた俺は、島中字に留まってしばらく駅前商店街を散策する事にした。

 夕刻で、駅前のそこは最も人の流れが大きい時間帯。陽を透かすアーケードの下、平滑なカラータイルの道は人々の往来がせわしい。

 その足元を蹴っ飛ばされないように気をつけて歩いていると、横から張りの良い声が飛んできた。

「お、コクミツ! 久しぶりだな、元気でやってるか?」

 今度俺を呼んだのは猫ではなく、人だ。恰幅が良く地黒なこの人は、青い軒を出したそこの魚屋『魚鮮うおせん』のオヤジで、名前は堀之内辰巳ほりのうち・たつみという。軒と同じ色の前掛けと帽子に黒のゴム長靴、という魚屋王道スタイルのはまり具合にはいつも感心する。

 前に少しだけ触れた通り、コクミツの俺は元々飼い猫だったので、この町ではその飼い主だったばあちゃんを通じて俺を知る人間は多い。魚屋のオヤジが俺の名前まで知っているのも、ばあちゃんがこの店の常連客で、よく俺の話をしていたからだ。当時から俺は町中どこだって徒歩で出向いていたが、ばあちゃんはいつも、町の循環バスを利用していたっけな……。

 そんな事をしみじみ思い出していると、オヤジはちょっと待ってな、と言い残して店の中に入っていった。そしてすぐに戻ってきたその手には、魚の中落ち一口分。しゃがんで、俺の前に差し出す。

「たった今さばいたばかりの初ガツオだ、食べるか」

 俺はヒゲを前向けて、フンフンと匂いを嗅いでみる。『目には青葉、なんとか初ガツオ』とうたわれるように、初夏である今の時期は初ガツオというものが旨いらしい。猫に背の青い魚は良くないとされるが、このくらいの量なら問題ないだろう。何より人からの好意は快く受けるべきだ。

 新鮮な香りに誘われたようにぱくついた俺を見て、オヤジは目を細くしていた。

 こんなふうに猫に食べ物を分けてくれる人は他にもたくさんいるが、しかしこの町にはむやみと置き餌をする人はいない。猫に与えて良いのは食べ残しの出ない少量だけ、というのが、猫と交流する上で人間側が取り決めている約束事なのだ。衛生上の問題があるし、必要以上に餌を与えてしまうと猫が町に増えすぎてしまい、それもまた問題に繋がるから、というのが主な理由である。

 ともかく人間側からのこうしたコンタクトひとつで、人間の猫に対する現在の友好度合いがうかがえるというものだ。猫達の素行が悪くなれば、当然のごとく人間達の間で猫の評価は下がり、こんな和やかな触れ合いもなくなるだろう。

 人間の物を盗らない事の他、ゴミを漁って荒らさない、民家の庭木や木塀で爪とぎをしない、などの約束事の数々をきちんと守る事で人間に対し好意的な態度を猫達が常に示し続けていれば、元よりおおらかな葦沢町の人達の事、そちらからの好意も失せる事なく、人と猫との良い関係は保たれ続けるのである。

 そういえばそんな意味合いを表すことわざがあったな、ともらった魚をもぐもぐしながら考える。

 ああ、これがほんとの『魚心あれば猫心』ってやつかな。

 ……あれ、ちょっと違うか?

 

 

 初ガツオをご馳走になった後、俺は商店街の散策を再開した。

 のんびりと歩き続けてその終端に差しかかり、角のパン屋『さくらだベーカリー』を通り過ぎて商店街を出ようとした俺は、何気なくガラスのドア越しにパン屋の中を見て、はたりと足を止めた。

 ゆるいウェーブの茶髪を後ろで束ね、淡緑の薄地ジャケットと白のタイトスカートを着た、見慣れた立ち姿。母さんじゃないか。

 俺はドアの脇まで寄り、そこにある電柱の陰からもっとよく中の様子をうかがい見る。

 買い物袋を下げて母さんが立ち話をしているのは、背高で肉付きの良い体格をした、白いコック服の人。桜田昭義さくらだ・あきよしというこのパン屋の店主だ。

 和気あいあいとした雰囲気で、二人とも、実に楽しそうにである。

 そしてしばらくそれをじーっと観察していた俺は、気づいてしまった。

 母さんを見る桜田さんの目が、熱い輝きに満ちている。気のせいなどではなく、あれは、恋をする者の目だ。

 ……さ、桜田さん、母さんの事を好きなのか?

 確か母さんの方が上だが、二人の歳は近い。両方とも今は独身だし、恋愛関係に発展しても不思議はない。母さんの方も表情を見る限り、まんざらでもなさそうな……。

 母さんが腕時計を確認した後、笑顔で手を振って桜田さんに背を向けた。話は終わったようだ。

 店から出て、足取り軽く鼻歌まじりに駅前駐輪場の方へと歩いていく母さんの後姿を、俺は呆然と見送っていた。

 恋愛は自由だ。それに水をさすような真似なんてできないけど。

 ……息子の考史郎としては、何とも複雑な心境だ……。

「よ、コクミっちゃん。どした、こんな隅っこで」

 あれこれもやもやと考えているうちに、いつの間にか店の外に出た桜田さんが、すぐ側まで来ていた。だしぬけな呼びかけに驚いてびくりと一瞬、逆立つ毛。瞳を開き、思わず身を低くして逃げる体勢をとってしまった。

「あはは悪い悪い、驚かせちゃったか」

 笑って身を屈め、桜田さんは手にしていた食パンの耳一本を俺に差し出す。

「夕飯時だから、腹も空いてるだろ。食べな」

 桜田さんは、よくパンの耳や試食品の欠片などを猫達に分けてくれる。さっぱりとしていて気立てが良く、人からも猫からも好かれるタイプの人だ。でも先程のあれを見てしまった俺は、桜田さんに対してどうにも態度がぎこちなくなる。

 おそるおそる首を伸ばしてパンの耳をくわえて受け取り、くるりと身を返して駆け出す。でもこのまま走り去ってしまうのは感じ悪いので、少し距離を置いたところで一度止まり、振り返る。

 桜田さんは、また来なよ、と笑顔で手を振ってくれた。

 ……決して悪い人ではない。でもやっぱり、俺の心は複雑な模様を呈していた。

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