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くろねこ風紀録  作者: F.Koshiba
第5話 ムサシはいずこ
23/57

1.稲妻のごとく駆け去って

 それは彼岸の入りの少し前、ホクテンが葦沢町に戻ってきて間もない出来事。

 季節の変わり目というのは大気が不安定なもので、出しなに空が青かろうと油断ならない。表の物干しで爽やかな風を存分に吸わせていたはずの洗濯物が、突然ぶっちゃかった雨でしっちゃかめっちゃかに、なんて事もままある。

 その日曜日も朝は快晴だったが、テレビで午後から雨に注意との予報があったのを思い出す。間一髪、駆け込んだ小さな書店で雨宿りをさせてもらいながら。

 閉められたサッシ戸の透明なガラス越しに、大粒の雨のしぶきで霞む道を眺める。黒い雲の笠が広がり、電光が瞬くのを見てから降り出すまでいくらもかからなかった。雨乞う雷鼓はなお激しく、閃くごとに天神様が打ちながら踏み鳴らしているのかと思われるほど地に轟く。外へ行こうと誘ってきた太陽に理不尽にへそを曲げられた気分になり、しんなりとヒゲを下げていると、二階にある住まいの窓を閉めに走っていた店のおばさんが戻ってきて、奥でサンダルをひっかけながら声をかけてくれた。

「濡れなくて良かったわねえー、しばらくしたら止むだろうからここに居なさいな」

 お礼のつもりで、ひとつ鳴いて返す。雨が上がって再び晴れ間がのぞくまで、俺は尻尾で暇を遊ばせていた。

 

 

   ***

 

 

 外は雨と土の匂いに煙っている。気まぐれな陽射しが、洗いたての町を一斉に煌かせた。路面のあちらこちらには水溜りの罠。しかし目線が低く路面に近い猫にはよく見えるので、気づかずにはまってしまう者はまずない。……ユキチ以外は。曲がりくねって光に浮かぶ小道や小島ような水溜りの合間を、ちょっと楽しみながら器用に進む。もう少し行けば龍彦の家だな、と思ったところで、それは真逆の方向から飛んできた。

「こおおおしろおおおおおー!」

 背後から声に貫かれ、驚きのあまり全身の毛が逆立ってしまった。振り返れば自転車で猛進してくる龍彦の姿。ずぶ濡れじゃないか。彼は雨で効きが悪くなっているブレーキを力まかせにかけ、いななくような音を響かせて実に騒々しく俺の真横で止まった。降りるなり、俺を冷たい両手でわっしと掴んで抱き上げる。

「こ、こうしろう、考史郎っ、急ぎだ、頼むから頼まれてくれ!」

 ばか、今の俺をそっちの名前で呼ぶんじゃない。誰かに聞かれたらどうするんだ。そう慌てるが猫語が通じるはずもなく、そもそも彼が何を言いたいのやら分からないまま、とにかくやたら迫ってくる顔を、片手というか片前足の肉球でぎゅうと押しやる。

「あああすまん、動転して……」

 それで少し我に返ったのか、龍彦はとりあえず俺を下ろした。ぐっしょりとして汗のように伝う水が、髪から顎から滴り落ちる。服はすっかり体に貼りついて重たそうだ。俺は落ち着きを促すよう、おもむろに正面に座って一体どうしたのかと目で問う。

「ムサシがどこかへ逃げていっちまったんだ、雷の音でパニックになったみたいで」

 ムサシとは、龍彦の家で飼われている柴犬である。聞けば彼のおじいさんがムサシと散歩に出たところ、先ほどの雷雨に遭い、大きな音が苦手なムサシは首輪からすっぽ抜けてどこかへ駆けていってしまった、という事らしい。

「何かある前に、早く見つけないと……」

 よほど慌てて、帰宅したおじいさんから事情を聞いてすぐ、どしゃ降りが収まるのも待たず家を飛び出したのだろう。滝に打たれたような今のなりからして想像がつく。

「お前にも探してほしいんだ考史郎――じゃないな、今はコクミツか。猫の情報網とかで、何か分かったら知らせてくれないか」

 龍彦はよく、俺が人間と猫の自分を混同していると指摘するが、そういう彼も俺の半分人離れした日常に馴染み過ぎたのか、近頃は俺がどっちの姿だろうと頓着しなくなりつつある。その適当加減は良いんだか悪いんだか。まあそれはさておき、急を要するという龍彦の事情は把握できた。ムサシの捜索を承知する。しかしその前にと、俺は駆けて龍彦の家の前まで行き、玄関を見やった後、龍彦に視線を戻した。濡れた前髪の下、彼はようやく自分の有様に気づいたような素振りで、くたびれた笑いをみせる。

「ああ――一旦帰って出直すよ。世話かける」

 分かってもらえたのを確認して俺は前に向き直り、ムサシを探し始めた。

 

 

 さて、まず何をするべきか考える。人に出来る事は龍彦が引き続きするだろうから、俺はコクミツのまま猫に出来る事――龍彦の言ったとおり町内の猫達の情報網を使い、ムサシの行方について手がかりを求める事にした。道中もムサシの姿がないか周囲に気を配りながら、町を五つに区分する字ごとの班長猫を頼る。龍彦の家からの最寄りは、同じ貝塚字内のススケ。

 そんなわけで向かった先は、ススケが看板招き猫をしている銭湯『鈴音の湯』。細い石畳の通りの突き当たりにある。上に構える二つの破風に、白い漆喰壁。入り口の木柱や引き戸の木枠は年月にいぶされて良い味が染み出ており、正面から臨むその外観はいかにも堂々としたものである。

 午後から営業が始まる夕方までの間は、実質、猫用の営業時間となっている。訪ねれば、ありがたい事にこの銭湯を切り盛りする梅じいさんが洗ってくれるのだ。猫一同感謝している。今日ものれんがかかる前の戸は、猫が通れるくらいの隙間が空けられていた。

 そこから一匹の大柄な猫が姿を現す。黒の長毛に鋭い銅色の瞳。ススケだ。この銭湯に負けず劣らずの威容である。出てきてくれてちょうど良かった。

「ススケ」

 呼ぶと、雨上がりの空に目を細めていた彼はこちらを向く。

「おう、コクミツ。風呂か?」

「いや、今日は訳あって犬の行方を追っていてな」

「犬?」

 ススケは耳を前に向けて、真摯に話を聞く。

「貝塚字内に住んでいる、赤毛で巻き尾の犬だ。庭の傍にミカンの木がある家の」

「ああ、ムサシという名の犬か」

 猫達は抜け道として、民家の敷地の事情に通じている。庭で飼われている犬についても、通り抜ける途中に突然ほえられたり飛びつかれたりしてうっかり塀から転げ落ちないよう、どの家にどんな者がいるか心得ているのだ。住んでいるところが近いのもあって名前まで知っていた彼は、何か思い当たった様子で言った。

「さっきまでいた松原字のコマチがここへ来る際、雷雨の最中に首輪のない犬とすれ違ったと話していた。この町に犬の野良はいないからな、どこかの家から抜け出した者だろうとは思ったが、ひょっとしたらその犬じゃないか」

 それがムサシだとすれば、葦沢町最北端の松原字から南へ下って来た猫とすれ違ったという事は、北へ向かっていったのか。どの辺りですれ違ったかまでは分からないが、とにかく貝塚字以北で聞き込みをする必要がありそうだ。

 俺はススケに礼を言い、急ぎ銭湯を後にした。

 

 

 ゆるく吹き始めた北寄りの涼風に向かい、住宅と田畑が半々にある地の道を駆けていく。ぼちぼちと見受けられる、刈り入れの済んだ田んぼ。そこの侘しさを埋めるのは、脇に群れて咲くヒガンバナ。今年も稲穂の陰でいつの間にか咲いていた。それを横目に進んでいたら、行く手の道端に座り、同じくその赤い花を見ている一匹の三毛猫がいた。

「イグサじゃないか」

「まア、コクミツちゃん。雨がよく降ったわねエ」

 畳屋に住むイグサは、小波字の班長猫。

「珍しいな、こんなところで会うなんて」

 高齢のイグサは出歩く事が少なく、大抵は店の作業場に積まれた草屑の上のボロタオルか、裏手のちゃぶ台みたいな庭石で過ごしているので、そこから離れた道なかでこのように会う事はほとんどない。

「夏のうちは暑さが堪えて、ちっとも出掛けられなくてねエ。やっと涼しくなってきたから、足を伸ばしてみたの。お花がきれいで、来て良かったワ」

 そよそよと、花と一緒にヒゲも揺れる。

「そうか、何よりだ」

 和みながら、俺はイグサにもムサシの事を尋ねてみた。しかし彼女はすまなそうに返す。

「雨の後から誰にも会っていなくて、そういうお話は今初めて聞いたワ」

 イグサの情報源は、まるで里帰りでもするみたく町中から彼女のところへ寄る猫達の豊富な世間話。故に彼女はこの町の出来事を最も把握している猫と言えるが、今回はムサシの行方が分からなくなってからまだ間がないために、件については何も耳に入っていないようだ。

「ごめんなさいネ、協力できなくて」

「いやいいんだ、ありがとう」

 イグサはふくよかな腰を上げるとひとつ伸びをして、そろそろ帰るわね、と家路につく。その後ろ姿を見送りながら、やっぱりイグサと俺のばあちゃんは取り巻く空気が似ているな、と思った。

 後に残されたヒガンバナからも、ばあちゃんとの思い出が漂う。堤字の家の周りにあるあぜにも、この時期になるとヒガンバナがいくらか咲く。ばあちゃんは『マンジュシャゲ』と呼んでいた。飾り紐みたいな形の妖艶さについじゃれつきたくなるのだが、その都度、ばあちゃんから野ネズミ避けになるような毒を持つ花だから触ってもかじってもいけないと、マンジュウなんて甘そうな名前なのに口を酸っぱくして言われたものだ。

 そんな束の間の回想。しかしそれは予想だにしない出来事で消し飛んだ。雨に濡れずに済んでいたはずの俺は、何かが側を過ぎたと思った次の瞬間には、すっかり泥水まみれになっていた。事態が飲み込めず、その場で固まる。

「ああっ! 泥跳ねちゃった!?」

 今日はよく響く自転車のブレーキ音とともに、聞き覚えのある声が上がった。状況より先にその主を悟る。――天瀬だ。

 彼女は慌てて自転車を降り、俺の前に身を屈めた。

「わあひどい泥だらけ、ほんとにごめん! 今すぐ洗うから!」

 言われている事が全然理解できないまま、硬直の解けない俺は天瀬の持っていたレインコートでくるくる巻きにされ、自転車のかごに詰められて、あれよという間にその場所からさらわれてしまった。

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