鯖の水煮は、飲み物ではありません。(後編)
「そういえば、西田君の勤めてる会社って、あの面白い広告出してるとこだよね」
同窓会は、色んなグループに分かれ、それなりに盛り上がりを見せているようだ。居酒屋の至る所で、酒の席特有のがなり声や、笑い声が聞こえた。
僕たちのグループも、一度僕がしんみりさせてしまったけど……今はそれなりに盛り上がってる。
「面白い広告って?」
「ほら、あれだよ! サバの水煮は――」
一人の女性が挙げた疑問を、赤ら顔の男が引き取る。僕は男が最後までいい終わらない内に、口を開いた。
「実はあの広告、僕が発案したんだ」
その一言に、周りの連中が驚きの声を上げる。また、耳をそばだてていたのか「ウソ、まじかよ?」と、別グループの人間も何人か振り返った。
「発案って、確か西田、お前研究職だろ?」
「あぁ、そうだけど……なんか閃いちゃってさ」
ともすれば器から溢れ出そうな感情を抑え、出来るだけ淡々と言ってみせた。
「そういえば西田君。昔からサバの水煮好きだったもんね」
「うわ懐かしいな! あれだろ? 一位になる度、サバの水煮を飲み干すやつ!」
その後も、僕たちはある話題を呼び起こさない様に気を付けながら、昔話に花を咲かせた。
「でもさ、結局、西田と首位を争ってたのは誰だったんだ?」
すると、そんな疑問が赤ら顔の男から衝いて出た。だが皆はお互いを見合った後、さぁ? と、まるで見当がつかない様子だった。
実を言えば、僕もそのことは気になっていた。学校の方針では、学年順位は発表しても、クラス順位は発表しないことになっている。
つまり、首位争いの相手がどこの誰なのか、同じクラスかどうかすら、分からない。
すると、一人の女性が「西田君、ちょっと」と、席を外すよう僕に促した。短い癖っ毛を茶色に染めた、小柄な女性。酔っている連中は、そんな僕らを囃し立てる。
「えっと……前園さんだっけ? どうしたの?」
促されるまま会場から離れ、人気のない通路脇に落ち着くと、僕は思わず尋ねた。
「あ、うん……さっき話してた、西田君と首位を争った人のこと……」
「あ、あぁ」
「ひょっとして気づいてたかもしれないけど……」
次の瞬間、僕の世界から音声が消えた。前園さんの小鳥の様に小さな口が、ゆっくりと動き、漠然とした意味を紡ぐ。
その言葉を前にした僕は、少しの無言を挟んだ後「そうだったんだ」と、絞り出すような声で応じた。
――僕と首位を争っていたのは、他でもない小林だった。
「私、中学から天音ちゃんと一緒なんだけど、天音ちゃん昔から負けず嫌いで、勉強も凄くよく出来たの。でも、特別に見られるのが嫌で隠してて……あぁ見えて天音ちゃん、照れ屋さんだから――」
驚きはしたが、動揺はしなかった……と思う。小林の進路を聞いたときから、微かな予感があった。
ひょっとしたら、小林こそが、僕のライバルだったんじゃないかって。
だが彼女はそんな素振りすら見せず、アドバイスをくれたり、僕が一位になると自分の事の様に喜んでくれさえした。
どうして? そんな疑問が瞬時に浮かんだが、それと同時に、彼女の時折見せる、寂しげな表情も思い出された。
「天音ちゃん、初めて西田君に負けた時、嬉しそうに笑ってた。『彼、負けず嫌いで頑張り屋なのはいいんだけど、肩に力が入り過ぎなのよ』って……、それで、それで、さっき西田君、天音ちゃんの事が好きだっていったけど、多分天音ちゃんも――」
僕はそこまで聞くと、彼女の言葉を遮った。
「前園、いいんだ」
「え?」
僕は首を左右に振ると、もう一度ゆっくりと、
「いいんだ」といった。
すると彼女は、「でも、でも」と言いながら、めそめそ泣いた。
僕は、やはり「いいんだ」と言いながら、ハンカチを差し出す。
彼女は一度断ったけど、「化粧ポーチ持ってきてないだろ?」と言うと、大人しく受け取った。
僕たちが席に戻ると、二人で抜けたことが堪らなく嬉しい事実みたいに、同級生は口を鳴らした。
「そんなんじゃないって」
と言ったが、彼らは赤い眼をした前園さんを見ると、彼女が僕に告白して振られたというありがちな物語をそこに見出し、僕らをからかった。
それからもある話題を踏まないように慎重な足取りで、でも笑いながら僕たちは話を続けた。
そして気づけば十九時から始めた同窓会は、二十一時を回っていた。
僕は時間を見計らうと、腰を上げる。
「それじゃ、ここで失礼するよ」
すると何人かの同級生が、僕を引きとめようとする。
「なんだよ西田、まだ早いぜ! 明日は日曜だし、もう少しいいだろ」
「西田君、せっかく集まったんだし、二次会にも来なよ」
その言葉に有り難さを感じながらも、何て答えようかと思い悩んだ。しかし結局、ある決定的な言葉を紡いで、誘いを断った。
「せっかく地元に帰ってきたんだし……小林の墓参りに行こうと思って。ほら、僕、あいつの葬式にも出てないからさ」
声をかけてくれた同級生は、何かに打たれたように口をつぐんだ。折角の楽しい席に水を差すような真似をして、申し訳ないと思いながら、
「それじゃ皆またね。今日は久しぶりに会えて、嬉しかったよ」
と言って、僕は同窓会の会場を後にした。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
大学では、僕は海洋研究学を専攻した。志望校を選択する際、特に学びたい分野もなかった僕は、単純に偏差値が高い大学の受験を考えていた。
だが進路相談の時、不意に小林の事が頭をよぎった。
「海洋研究か、霊長類の研究だな……」
「西田? また繋がりのない科目を――」
高校の担任は驚いていたが、結局「海洋研究」を選んだ。マントヒヒを始めとした霊長類等の研究をしてもよかったが、その場合、研究対象に小林を重ねてしまい、笑ってばかりで研究にならないと思ったためだ。
東京の海洋研究に特化した国立大学を受験すると、すんなりと合格した。
そして通常過程の他に院で四年、留学で一年を費やして海洋研究学の分野で博士号を取得すると、日本の食品会社――その中でも、サバの水煮でナンバーワンのシェアを誇る会社に就職を決めた。
なかなか倍率は高かったが、役員面接でサバの水煮缶を一気飲みして見せたことが、実は結構効いてるんじゃないかと、本気で思っている。
「御社のサバの水煮を、私は高校の頃から愛飲しております」
「愛飲? 愛用ではなくてかね?」
「はい、ご覧下さい!」
役員の前でサバの水煮を一気飲みして見せると、彼は驚きに目を見開いた後、おもむろに立ち上がった。
そして一度眼鏡を外し、感に堪えないといった風に目頭を押さえ、また眼鏡をつけると、僕に歩み寄り力強く手を握った。
「設立五十周年の年に、君の様に、情熱をもった若者が面接に来てくれた事、感謝する」
内定を得て就職すると、希望通りサバの缶詰研究セクションにまわされることになった。そのセクションは、余りというか、全くと言っていい程に人気がなかった。しかし設立当初からあるセクションの一つである為、社内では一目置かれ、待遇もよかった。
僕はそこに身を置くと、一日ごとに精神の昂りを感じた。小林にこのことを告げたら、あいつはどんな顔をするだろうか。
随分前に、小林の勤めている会社の情報も仕入れていた。総合商社の営業をやっているらしいが、小林の学歴や能力からすると疑問を覚えるような規模だった。
だがあいつのことだ。却って、そういった伸び代のある会社のほうが、自分の才覚を発揮できると考えたのかもしれない。そう考えれば、小林らしいと言えば小林らしい。
僕は彼女との再会に備えて、プラダでスーツを新調した。
社会人になった姿どころか、大学生の彼女すらも見ていない。だけどスタイルのいい彼女のことだ、きっと綺麗になっているだろう。
そんな彼女と隣に並んだ時に、引け目を感じるのは嫌だった。
小林に恋人がいるかもしれないと考えたが……不思議と、それは大した問題ではない様に感じた。僕たちは、見えない何かで繋がっている。恋人は彼女にとっても僕にとっても、本質的な存在ではない。
そして僕は、彼女と再会する為の計画を詰め始める。少しばかり早く会社を引き上げて、小林の会社のエントランスにあるモニュメントで、彼女を待つ。
小林の姿なら、一目で見分ける自信があった。彼女を見つけたら、先制パンチで発情期のマントヒヒの顔をしてみせる。驚いた顔で、僕を見る彼女の姿が容易に想像出来て、思わず笑ってしまう。
彼女ならその顔で僕だと気づく筈だし、上手くいけば卒業式のリベンジで、彼女を笑わせられるかもしれない。
そしたら「よっ、久しぶりっ!」と声をかけて、食事にでも誘って、僕がいま勤めている会社を――。
高校時代の友人からメールが来たのは、そんな風に僕がこれからの計画に浮かれている時だった。
メールの内容を確認した時、僕は暫く、その意味が理解できなかった。
何故だろう。文字列が、まるで意味を持って世界に開かれない。
小林が……、小林? 小林なら小林だろ。僕の大好きな人。
そして視界に不可思議なものを認める。
あれ? なんで僕の手は震えてるんだ?
その瞬間、得体のしれない怪物に体を掴まれた様な、不気味な感触に苛まれ、体中の毛穴が開き、うすら寒くなった。
メールにはこう綴られていた。
『小林天音が、癌でなくなったらしいぞ』
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
もしも心というやつが、精密機器か何かだったとするなら。僕のそれは、あの日、あのメールを受信して以来、壊れてしまったようだ。
どんな感情も、心の泉から湧き上がることはなく、日々無感動に苛まれていた。ただ足元を、悲しいとも寂しいともつかない奇妙な感慨が浸している。
こいつが水嵩を増し、膝や腰、胸、肩へと及び……。
やがて全身を覆った時。僕は多分、一歩も踏み出せなくなる。
確信に近い、そんな予感があった。
小林の葬式には出席しなかった。彼女の死を、自分の中でうまく位置づける事が出来なかった為だ。
いっそ、高潮の様な悲しみに飲まれたいと願った。
彼女のことを思い、涙出来れば……。
だが涙を流すことが出来なかった。
朝目覚める度に、どうしようもない悲しみに襲われる。
何故、僕の隣には彼女がいないのだろう。
何故、彼女はいなくなってしまったのだろう。
何かが圧倒的に間違っている。そんな思いばかりが膨らむ。
大げさにいえば、小林は僕にとって希望だったんだと思う。高校を卒業して以来、彼女は常に、僕の心の中にいた。
でも今は――。
彼女の存在を、どこにも見出すことができない。
そんな僕を、北欧出身の同僚――名前をアルフといい、バカでかい体をしている――は、何かと気遣い、見つけると英語で話しかけてきた。
「ニシダ、どうしたんだ? その、何かとてもよくない事でもあったのかい?」
「あぁ……愛している人が死んだんだ」
彼はその言葉に絶句して、「そうか……」と呟くと、暫くの間無言になった。
「それで君は、彼女を思って泣いて暮らしているのかい?」
「泣く? 泣けたらどんなにいいか」
感情がなくなった代わり、仕事は驚く位に捗った。日中、思考を限界まで、頭が軋むくらいに痛めつけ、自宅に帰ると死んだように眠る。
そんな生活を、二週間ほど続けた。
あの足元を浸していた感慨は、腹にまで至っていた。
「ニシダ、君は本格的によくない状況にいると思う」
「そうか……君が言うんなら、そうだろうな」
僕は他人事のように答えた。するとアルフは、USBメモリをポケットから取り出すと、僕に手渡した。
「……これは?」
「僕が君と同じような状況に陥った時、友達から渡された幾つかのミュージックだ。ニシダ、君は早く泣いた方がいい。そして悲しみから自由になったほうがいい。そうじゃないと、君は……」
僕は渡されたメモリをポケットに入れると、彼に心の籠ってないお礼を言い、自室に引き上げた。全てが、どうでもよかった。
渡されたメモリの事も忘れ、仕事に没頭し、気づくと二十一時を回っていた。研究所にはもう、誰もいない。
個室の冷蔵庫からカロリーメイトを取り出し、トマトジュースで流し込む。最近は食欲も湧かず、頭のふらつきで「そうだ、エネルギーを摂取しなくちゃ」と食事を摂るようになっていた。
簡素な食事を終え、ポケットに手を突っ込んだ時、ようやく渡されたメモリに思い至った。一瞬考えた後、パソコンにメモリを差し込み。音楽を再生する。
美しいギターイントロが響くと、酷く繊細な声音を持つ男が、英語で歌い始めた。僕は何を考えるでもなく、椅子に背を預け、室内に虚ろな視線を投げかける。
歌詞はあまり、頭に入ってこなかった。脱力した体で、そのまま、二曲三曲と耳を傾ける。
やがて視界内で何かが変わったのを感じ、視線を向ける。
パソコンが省エネモードに切り替わり、画面が真っ黒になっていた。
その時、僕は小林が死んで以来、初めて自分の顔をマジマジと見たんだと思う。
無精ひげを生やし、無表情を張り付けた男が、そこにはいた。一瞬、記憶の連続性が途切れ、これが自分かと疑ったが……それは紛れもなく僕だった。
僕は不意にアレをやってみたくなって、画面に向かって表情を作る。再開の日に、アイツを笑わせたくて、何度も何度も練習した、あの顔。
「はつじょうきの……まんとひひ」
画面に映る、滑稽な自分の表情。
ダメだ……こんなんじゃ、アイツは笑わない。
「発情期の……まんとひひ」
だから何度も、
「発情期の、マントヒヒ」
何度も、何度も、
「発情期の、マントヒヒ!」
何度も、何度も、何度も!
「発情期の……マントヒヒィ!!」
叫べば叫ぶほどに、悲哀によく似たあの感慨が、ひったりと心を浸してくる。この世界でたった一人の彼女を失った僕は、悲しいくらいに一人だった。
いっそ……この感慨に、身も心も委ねてしまおうか?
小林のいない世界になんの未練がある?
すると突然、意識の奥底から、一つの記憶が浮かび上がってきた。
『西田君、サバの水煮を飲む才能はあるけど、マントヒヒに関しちゃ、全然ダメね』
それを切っ掛けに、小林と過ごした過去の情景が、急に甦ってくる。小林の無邪気な笑顔、笑い声、全部、全部、全部だいすきで。
「あは、あはは、あはははは!」
狂った様な笑い声をあげる。喜びも悲しみも、彼女と共にあり、怒りも疑いも、彼女と共にあった。
馬鹿みたいに楽しかった高校生活。
その一切の想いが、嵐の中で湧きたち、そして――。
『西田くんって、いつも無愛想だよね』
あの日。僕に笑いながら彼女は、彼女は、
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
僕は、静かに悲しみの高潮に飲まれた。
小林、小林、小林、小林!
何度も何度も、心の中で小林の名前を呼んだ。
『ねぇ、そういうのって疲れない?』
『バ、バカ? バカですって? よくも、二度も言っちゃってくれたわね!』
なんで! なんで、なんで、なんで、なんで!
なんで死んじゃったんだよぉぉぉ! どうしてお前が、どうしてお前が!
『発情期のマントヒヒ!』
『学年一位おめでとう!』
お前の生意気そうな顔も、長い髪も、お前の声も、お前の、お前の……。
お前のありとあらゆる所が、好きだった。
『感謝してるんでしょ? なら私のお願いを聞いてくれたっていいじゃない』
『西田く~ん! 私も楽しかった!』
僕はいつまでも、お前の隣にいるつもりだった。お前はいつも楽しそうで、無茶やって、色んな人から好かれてて、それで、それで、お前が淋しそうにしてるところだって、僕が、僕が。
「こ……こばやし、こばやし、こばやしぃぃ!」
すると記憶の中の彼女が、僕にこう忠告した。
『駄目よ西田君。頑張らなくちゃいけない時や、辛い時こそ笑わなくちゃ』
その言葉にハッとなると、いつか彼女がやった様に、頬をひっぱって、口角を上げて笑顔を……。
だけどパソコンの真っ暗な画面に映るのは、とても笑っているとはいえない、涙でくしゃくしゃになった、迷子の僕。
「小林……なぁ笑わせてくれよ。僕、お前がいなきゃ……笑え、笑え……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
無人になった研究室。僕は、誰憚ることなく、再び、世界に激昂を発した。
室内では音楽が流れ、男が英語の歌詞を紡いでいた。
When calling your name, a red flower is held in a breast.
――君の名前を呼ぶ時は、胸に真っ赤な花抱いて。
Whenever call your name, the season of nostalgia is melting.
――君の名前を呼ぶ度に、淡い季節が溶けていく。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
あの日以来、僕を浸していた悲しみとも寂しさともつかない感慨は、気づくと姿を消していた。
「アルフ……心配掛けたね」
「ニシダ?」
「お前、デカイ図体のくせして、センチメンタルな音楽を聴くんだな」
そう言って僕は、アルフにUSBメモリを返した。彼は僕のそんな姿を見て、心底安心したらしく、何度も、「よかった、本当によかった」と言った。
その日以来、研究室で二人になるタイミングがあると、今はいなくなってしまった、お互いの想い人の事をポツポツと話した。アルフは学生時代、フェリーの事故で恋人を亡くしていた。
『ニシダ、この世界ではどうやら僕たちは、失う以外に術はないらしい――』
個室でコーヒーを啜りながら、僕はいつかしたアルフとの会話を反芻する。彼が言うように、僕たちはこの世界で、少しづつ失いながら生きている。
移ろわないものなんて、ない。舌を焦がすほどに熱いコーヒーも時間が経てば熱を失い、そこに無常の時が見て取れる。
そんな世界で、たった一人のパートナーだと思っていた小林。
『……でも分かるだろ、変わらないものが、君の胸にあることを』
アルフにそう問われた時、僕は曖昧に笑って見せた。彼ほどに……まだ全てを達観できない。
彼女がいない世界で、僕は何をなすのだろうか、また何をなせるのだろうか。
デスクにカップを置くと、足元のレバーを引いて、椅子に深くもたれかかる。そのままポケットからサバの水煮缶を取り出し、頭上に放っては、手に納める。
何度も何度も。
卒業式の帰り道、卒業証書を放り投げたみたいに。
あの時、僕は何者にもなれる気がした。
そして今、僕は一体、何者に……。
頭上に投げた缶詰が、蛍光灯を反射して光る。
『おめでとう! はい、お祝いの水煮缶』
その時、不意に、ある考えが浮かんだ。僕が考えを捉えたというより、考えに、僕が捉えられたような奇妙な感覚。
思わず缶詰を取り落としてしまう。側面から落ちた缶詰は、そのままコロコロと転がり、個室の中を……。
僕は缶詰を拾い上げると、すぐに企画書の作成に取り掛かった。
■企画書タイトル
「サバの水煮は、飲み物ではありません」
■ボディーコピー
最近、サバの水煮を誤って飲む人が続出しています。
確かにサバの水煮は、現代人に必要なミネラルや、たんぱく質を多分に含んでいます。
栄養補給やダイエット、子どもの健やかな成長にもサバの水煮は欠かせません。
だからといって、栄養飲料を飲むようにサバの水煮を飲むのは、いかがなものでしょうか?
サバの水煮には、サバの水煮の食べ方があります。
あなたの食卓に飾られて五十年。サバの水煮は○○の商標ブランドです。
本社の企画部に、広告の企画書を持ち込んだ。社内アポイントメントを取った時、向こうの人間はかなり混乱していた。
「なぜ研究員が企画書を?」と。
だが、いざその企画書を見せると、担当者の目つきが変わった。そして興味深げに、企画書をめくる。
「面白いじゃないですか! これ、下手すると、とんでもない広告になりますよ」
「そうですか」
設立五十年という節目でもあり、丁度企画部でも広告が検討されていた所だった。それが幸いし、とんとん拍子に話は進んだ。
結果として、ボディコピーは僕が手掛けたもの使い、俳優などを起用せず、商品写真とコピーで押していくことに決まった。また、自社で広告が作成出来てしまった為、浮いた費用で、新聞や雑誌はもとより、電車の吊り広告や駅の通路など、大規模な広告戦略を仕掛けることに。
そして町は一時、サバの水煮の広告で溢れた。
通勤途中、インパクトのあるコピーに、多くの人が視線を集めているのを見た時、流石の僕も心が震えた。
また、企画書を提出してから三ヶ月後。驚いたことに、その広告はとある新聞社の広告大賞を受賞した。
受賞に合わせ、人気のフードコーディネーターを起用した、サバの水煮レシピ本を発売。勢いに乗れと、コメディータッチなCMも展開。サバの水煮は一躍して、流行となった。
その間、僕は広告の立役者として色んな打ち上げに出席させられていた。丁度その日も打ち上げが終わった後、酔いを醒ますべく、東京の街を歩いていた。
「小林、お前のせいでサバの水煮が流行っちゃったぞ。ははっ、全く、どうしてくれんだよ」
喜びとも悲しみともつかない笑顔に口角を上げ、僕は一人、そんな風に悪態をつく。
すると一通のメールが飛び込んできた。
内容を確認すると、小林の葬儀に出席した連中が企画した同窓会が、今度の連休に行われる旨と共に、よかったら参加しないかという誘いが。
同窓会間近になって、急なキャンセルでも入ったのだろうか?
以前、その同窓会を知らせる手紙が届いていたが、僕はそれに返答をしなかった。
開催場所を確認すると、地元の居酒屋となっていた。東京から電車で僅か三十分程度の距離の地元には、随分長いこと帰っていなかった。そして、彼女の墓参りにも……。
「いいタイミングなのかもな」
僕は決心すると、その同窓会に参加する旨を返信していた。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
小林の墓がある寺にタクシーで乗り付けた時、時刻は夜の十時を過ぎていた。境内の灯は落ちていたが、隣接している住居には蛍光灯の明かりが見えた。
「あの~、夜分遅くにすみません」
「はいはい、なんでしょう?」
人の良さそうな住職に迷惑料を手渡し、小林の墓の場所を尋ねる。
「小林天音さん……あぁ、それなら」
手間取るかと思ったが、住職は目録等を確かめる事なく、すらすらと教えてくれた。「よかったら案内しましょうか」と言われたが、大変有りがたいんですが、と丁重に断る。
そのまま謝辞の言葉を述べ「それじゃ」と、踵を返そうとすると、墓地の方から不気味な声が聞こえた。
「ボエエェェェェェ~~~~!」
「……今、何か聞こえませんでしたか?」
尋ねると住職は、「あぁ出るんですよ」と、耳を疑う事を口走る。
「出るって……まさか」
「ええ、こんな空が澄んだ月夜には……」
「ボエエェェェェェェェェェェ~~~!!!」
「……人ですね」
「何を言ってるんですか、人に決まってるでしょ」
再び聞こえてきた声は、酷くしゃがれていたが、間違いなく人のものだった。
「何でも『月が俺を急き立てる』らしくて、歌なのか読経なのか分からないものを、唱える人が出るんですよ。まぁ、あれで本人も真剣に供養してるみたいで、話してみると悪い人じゃないんですけど……多分、もうすぐ帰りますから」
はぁ、と生返事を返し、それから暫くの間、住職と立ち話をした。その間も、怒声とも罵声ともつかない声は、ひっきりなしに耳に入ってきたが、やがてプツリと止んだ。
「あ、終わった様ですね」
住職と共に外に出ると、灰汁の強い顔を酒に赤らめた、長身の男が墓地の方から歩いてきた。何故かスーツの袖を腕まくりしている……暑いなら脱げばいいのに。
男は住職に、「迷惑かけたな」とぶっきらぼうに言うと、僕の傍を通り過ぎた。
「くそっ! あの、くされ線対象女め!」
吐き捨てる様に言ったその言葉が、妙に印象に残った。
その後、僕は住職に頭を下げると、教えられた目印を頼りに小林の墓を探した。墓は比較的、直ぐに見つかった。だけど、その光景を見た時……。
「うわっ……なんだこれ……」
小林の墓前には、溢れんばかりの花と共に、サバの水煮缶がうず高く積まれていた。驚きを通り越して、笑みが漏れてしまう。
「お前、愛され過ぎだろ」
沢山の水煮缶を前にしても、僕は嫉妬を覚えなかった。むしろ誇らしくさえあった。小林はやっぱり小林のままで、沢山の人に愛されていた。
僕の好きになった人は、そういう人なんだ。
「小林、やっぱお前は凄いよ」
僕はそう言うと、持参したサバの水煮缶を供え、
「ごめんな、来るのが遅れて」
その場に屈んで線香に火をともし、手を合わせた。
そして深い祈りの後、視線を墓に戻した時、あることに気が付いた。小林家ノ墓、小林天音…………え? 線対象って、まさか!
立ち上がって振り返り、先程すれ違った男の事を思った。可笑しさが腹から生まれ、僕は声をあげて笑った。
なんだよ……アンタもか。
ひょっとして勘違いなのかもしれない。だけど不思議な確信があった。
「全く、お前にはいつも驚かされるよ……なぁ小林、僕はな――」
墓前に振り返り、再びその場に屈む。それから僕は墓の下で眠る小林に向け、会った時に話そうと考えていた、卒業式以降のあれこれを聞かせた。
夜の墓地には、僕の話声と、自然の囁き以外、どんな音も聞こえない。
「あっ、そうだ!」
一通り話し終えた後、僕は思い出した様に、折り畳んだ一枚の広告を鞄から取り出した。
「小林、見てくれよこの広告。すごいだろ? 僕が作ったんだぜ」
例の広告を掲げると、僕は暫くの間、制作秘話なんかを面白おかしく語って聞かせた。
「そんな訳でさ。今ちょっとしたサバの水煮ブームなんだ。面白いと思わないか? あっ、あとさ!」
そう言って広告を鞄に仕舞うと、
「発情期のマントヒヒ!」
墓にむけて、小林の顔真似をしてみせた。
「からの~~マンドリル!」
僕は可笑しくて、一人で噴き出す。
「ははっ、どうだ。大分上達しただろ? 僕、あれから沢山練習したんだ。お前に馬鹿にされたのが悔しくてさ。だから今度は僕が、息が出来なくなるくらいお前を笑わせてやるよ! あっ、そうそう! 前園さんから聞いたんだけど、僕と首位争いしてたのってお前だったんだな、驚いたよ。まったく、なんで黙ってたんだよ! ……まぁ、お前らしいっちゃ、らしいけどな」
墓は黙したまま、何も語らない。
「あ、あと! 今度、僕が作ったサバの水煮を飲ませてやるよ。来月、新製品が出るんだ。北欧出身のバカでかい同僚がいてさ、アルフって言うんだけど、ソイツのアイディアで海外向けのサバの水煮を作ることになったんだ。本当は未だ社外の人間には秘密なんだけど、お前にだけは特別だ」
僕の声音はともすれば愉快で笑いだしたくなる様な、明るいものだった。だけど、その底には物悲しさが――名伏しがたい悲哀が流れていた。
「他にもサバの水煮CMの第二弾を企画する事になってて、これでも結構忙しいんだぜ。どうだ、結構頑張ってるだろ? もう、もう僕は子どもじゃないんだ。なんだって! なんだって出来る……」
次第に悲哀が表面に現れると、僕の声は沈鬱な物に、やがては激した物に変わっていく。こみ上げる様々な感情を、うまく飲み込むことができない。
「なぁ小林、だから、だから! せめてもう一度! ……もう一度だけでも」
そしてある種の激情にかられると、僕は顔を俯かせ、必死に嗚咽と涙をこらえた。切なさに、体中の骨が皮膚を破って外に飛び出た様な、奇妙な痛みを覚える。
「……悪かったな。湿っぽくしちゃってさ」
その痛みをやり過ごすと僕は立ち上がり、
「とりあえず、今日は帰るよ。また来るからな」
と笑って見せた。
迷った末に、広告は墓前に置いていくことにした。ビニールで二重に包んでおけば、多分、雨に濡れる事もない。
名残惜しさに揺れながら、「じゃあな」と別れの挨拶をして、その場を立ち去る。でも余りの心痛に、一歩二歩と、その先が歩めず、思わず立ち止まる。
「小林……死ぬなよ。死んだら何にもできないだろ」
僕の胸は、愛しさと悲しさで張り裂けそうな程だった。もう泣かないと決めていた……しかし、彼女の墓を前にすると、もう彼女はいないんだという当たり前の事実が、僕に重たくのしかかった。
失われていくばかりの世界を、僕は生きている。
その実感を前に、瞼を焼くような熱い涙が――。
「ば……か、死ぬなよ……ばーか」
その時、一陣の風が僕に覆い被さるようにして吹いた。
『だ~れがバカですって!』
懐かしいその声に、思考が痺れたようになる。思わず墓前に振り返り、声を上げた。
「小林? いるのか? おい小林!」
幻聴だったのかと、自分を疑った。だがそれにしては、あまりにも鮮やかな声だった。
何処だ? 何処から聞こえた?
僕は慌てて、あたりを見回す。
「私が簡単に死ぬわけないでしょ?」
と、小林がどこからかひょっこり顔を出すんじゃないかという、馬鹿げた空想に憑り付かれる。
「小林、いるんだろ? なぁ、小林!」
怯えるような声で、小林を呼ぶ。本当は分かっていた。そんな事、ありえないって。でも、呼ばずにはいられなかった。
すると突然、アルフの言葉が意識の中に甦り――。
『……でも分かるだろ、変わらないものが、君の胸にあることを』
僕はその瞬間、全てを理解し、驚愕に膝から崩れ落ちそうになった。そして声の在り処を確かに捉えたような気がして、そっと手を体に当てる。
そう。彼女の声は、僕の内から響いていた。
「は、ははっ、ははははは! ははははははは!」
小林は、僕の世界の中で、決して損われてなんかいなかった。失われていくばかりの世界で、彼女は、彼女は……。
「なんだお前! そこにいたのか。ハハッ、近すぎて気が付かなかったよ。こんなに……こんなに近くにいたなんて! ば~か! ば~か! あはははははは! 何か言い返してみろよ、あははははは!」
突き上げてくる嬉しさと悲しさに涙しながら、それから何度も何度も小林に悪態をついた。我を忘れて、咽びながら、何度も、何度も、何度も。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
それらから三年後、僕は結婚した。
相手は、高校二年の時に同級生だった前園さん。
同窓会で渡したハンカチが縁で僕たちは再会し、以降、何度か会って食事をし、恋をした。
同級生たちは、「あの時から怪しいと思っていた」と嘯いたが、僕が彼女を好きになったのはもっと後のことだ。
そして僕たちは、一人の子どもを授かった。
「女の子だって。何て名前にしようか?」
「ん~そうだなぁ……」
性別が分かった日。
僕は自分の名字を紙に書くと、暫くの間思案した。
西田――今思うと、僕の苗字も線対象だ。苗字の下に「天音」と書く。完全な線対象に、思わず笑ってしまった。
「線対象にならないように、気をつけないとな」
「なんで? 線対象はいい名前なんだよ。天音ちゃんもそうだったじゃない」
妻は満たされたような、穏やかな顔で尋ねた。
それに僕は、こう答える。
「だってさ……どっかの誰かみたいに、口が悪くなったら嫌だろ?」
するとやっぱり、アイツの声が聞こえてきた。
『口が悪いって誰のことよ! 誰の!』
僕は思わず微笑んだ。
そんな僕に、妻は笑いながら尋ねる。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
彼女のいなくなった世界で、僕は妻と出会い、子をなした。はたして神は天にいるのか、世の中は全てこともなしなのか、僕には判断が付かない。
子供が出来た事をアルフに知らせると、彼は頬笑みながらこう言った。
「ニシダ、幸せの意味は宗教や国によって様々だ。だけど……おそらくそれに勝る幸せはない。僕はそう思う」
子どもが生まれたら、いつか彼にその子を抱かせてやろうと思う。バカでかい、気のいい僕の友人に。新しい命を……。
そう、人間の営みは途切れることなく流れている。失われていく事の前には術がないけど、この胸に、変わらない物が息づいているのも、また確かだ。
僕は妻のお腹を撫でながら、お腹の子にそっと問いかける。
「そんな世界で、君はどう生きる?」
すると彼女は、勢いよく腹を蹴った。
まったくの偶然だろうけど、愛おしさに心が締めつけられた。
そしていよいよ、妻の実家で娘の名前を披露する日が来た。僕たちは散々迷った末、やっぱりこの名前以外にないと、彼女にこう名付けた。
父からは、余りお転婆になってくれるなよ。そんな祈りを込めて。
母からは、いつも明るい元気な娘でいてね。そんな祈りを込めて。
天音、と。
 




