鯖の水煮は、飲み物ではありません。(前編)
「西田くんって、どんな人がタイプなの?」
そう尋ねられた時、僕は決まってこう答える。
「無邪気な人」
すると相手は大抵困った表情を浮かべ、「それってどんな人なの?」と質問を重ねてくる。
次は僕が困る番だ。無邪気な人は無邪気な人で、それ以上に答えようがない。
これが例えば、高校の同級生だったら事は簡単だ。
「小林天音みたいな人のことだよ」
と答えれば、それで済む。
実際に僕は、今日の同窓会でそう答えた。すると質問した娘だけじゃなく、周りにいる奴等が全員、驚き、沈鬱そうな眼差しで僕を見た。
賑やかな同窓会。その辺りだけ、音が飲み込まれた様に静かになる。
「西田くん。天音のこと……」
「あぁ、好きだったんだ。高校の時からずっと」
そして僕は、小林と初めて話した日のことを思い出す。
もう今はいない。彼女のことを……。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
高校二年の当時。僕はいつも苛ついていた。
その原因は、テストの結果にある。
中学では二年二学期の中間テストから、三年最後の実力テストまで、常に一位を死守していた。しかし高校に入学してからは、常に見知らぬ一位の後塵を拝し、二位で留まっている。
元来、負けず嫌いな性格ではあった。
例えば小学校の笛のテストでも、満点を取る為に家でぶっ倒れるまで練習したことがある。
そしてまた二位が第一志望の高校でのことだったら、我慢も出来た。世界は広い。僕より頭のいい奴だって、偏差値の高い高校ではゴロゴロいるだろう。
だが第一志望校の受験日に性質の悪い風邪をひいてしまった僕は、第二志望の高校にくる羽目になった。当然ながら、第一志望に比べて偏差値は低い。
だからこそ、我慢がならなかった。
そう、ここは僕が本来いるべき所じゃないんだ。
なのに、なのに! ……一位になれない!
その事実が僕を常に苛立たせ、態度や目つきとなって現れていた。また周りの奴等を全員馬鹿だと見下していたので、その雰囲気を察し、クラスメイトも僕を避けていた。
だが小林はある時、そんな僕に臆することなく話しかけてきた。
「西田くんって、いつも無愛想だよね」
「は?」
夕陽が教室を黄昏色に染める放課後。
誰もいない教室で、一人勉強していた時のことだった。
「ねぇ、そういうのって疲れない?」
「別に……っていうか、勉強の邪魔なんだけど」
僕は不機嫌を隠さずに言う。
小林のことは、男どもが「いいよなぁ」と噂していたのを耳にしたことがあった。女子にしてはすらりと背が高く、顔立ちもまぁ見れない程じゃない。
でも僕にはとっては興味の対象でもなんでもなく、どうでもいいクラスメイトの一人に過ぎない。
「勉強って、この前中間テスト終わったばっかりじゃん。何の勉強してるの?」
「……期末テスト」
「期末テスト? えぇ? それって、まだまだ先でしょ! なんで?」
その質問が鬱陶しくて、僕はつい声を荒げた。
「うるさいな、一位を取りたいんだよ。学年一位!」
「学年一位って……それこそなんで?」
そう尋ねられて、答えに窮した。
『僕は何かの間違えでここにいるだけで、お前らとは違うんだ』
悠然と一位を取り、そんな事をクラスメイトに示したいという醜い欲求。
「別に……特に理由はないっていうか、悔しいからっていうか」
だがそれを口に出す勇気がなく、追及を避ける様に、気づけばそれらしい理由が口を衝いて出た。
「ん? 何だって? よく聞こえないわよ」
小林はそんな僕の様子に気づかずに、無神経に耳を寄せてくる。
「あ~~うっせぇな! とにかく一位になりたいの! バカには分かんないかもしれないけど」
「バ、バカ!? 今、バカッって言った!?」
その一言を前にして小林は、驚きに顔を歪ませた後、やがてワナワナと震えだした。圧倒的に嫌な予感。彼女の口元から漏れる不気味な笑い声が、その予感を助長させる。
「うふ、うふふ、うふふふふふ」
「な、なんだよ」
怖気づきながら言うと、小林は企みを秘めた顔を僕に向けた。
「完っ全に切れちゃったわ……決めた! アナタのその仏頂面、私が叩き壊してやる!」
そう言うと、シュルシュルと、学生服のリボンを――。
「ってお前! 何してんだよ!」
「何って、アナタに女の凄い物をみせて、慌てふためかせてやろうかと……」
彼女はあっけらかんと言ってみせ、胸元から解けたリボンが、教室の床に怪しげに落ちた。
「いやいやいや、お前やっぱりバカだろ!」
「バ、バカ? バカですって? よくも、二度も言っちゃってくれたわね! 私、人にバカっていうのは好きなんだけど、言われるのは大嫌いなの! もう泣いて謝ったって、許してあげないんだから」
なんだその理屈は! と突っ込む暇も与えず、小林はプツプツとシャツのボタンを上から、
「ちょ、お前! ほんと何考えてんだよ!」
知らず胸元へと向けていた視線を、慌てて逸らす。
というか既に慌てふためいたるんだから、目的は達成しただろ?
しかし小林は机に前かがみになって、「ねぇ見て」と囁く。
「え? あの、いや、その……」
「女に恥をかかせないでよ。ほら、お・ね・が・い」
すると僕の思考は縺れ、思春期の抗えぬ欲望の中で、小林の姿を―ー。
「発情期のマントヒヒ!」
そこには変顔とかそういう次元を超越した、ただ一匹の、オナガザル科ヒヒ属に分類されるサルがいた。
「ぶっ、ぶははははははははははははははは!」
僕は今まで上げた事のない類の馬鹿笑いを、教室に響かせる。
「またつまらぬ顔をしてしまった」
勝者の笑みを見せる小林。
「あっ、ちなみにこれが……発情期のマンドリル!」
「ひ……ひぃ、ど、どこがマントヒヒ違うんだよ! あはははははは!」
腹がよじれて息が出来なくなる程、笑い悶えた。
そんな僕を満足そうに見ると、小林は突如、忠告めいた事を言う。
「ねぇ知ってる西田君、勝負はね、その場で一番余裕がある人が勝つのよ」
「え? はぁ、ひぃ、なんだって?」
「頑張るのは素敵だけど、あなた、もう少し肩の力を抜いたほうがいいわ」
「はぁ、はぁ、え?」
「つまりは、笑いなさいってことよ」
そう言うと小林は「勉強、頑張りすぎないで頑張ってね」と、飲み物か何かの缶を渡して、リボンを結び直すと教室を去った。
アイツ……僕を気遣って?
一瞬そんな考えが浮かんだが、まさかな、と打ち消した。
僕は小林という存在の名残に揺れながら、喉が渇いたところに幸いと、缶のプルタブを開けて口に……。
「ゲハッ! な、なんだこれ? ってサバの水煮!? あ、あのやろうぉぉぉぉ」
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
その日を境に、気づけば目で追っているというか……何となく、小林を意識するようになった。観察して分かったことだけど、彼女はとにかく自由なやつだった。
平気で授業中に寝るし、女子のくせに早弁して、それが見つかって怒られたりしてる。でも先生も、「まぁ、小林だから仕方ないか」と大して怒るでもない。
他にも学校でピザを注文して教室に届けさせたりと、例を挙げれば枚挙に暇がないほど、ハチャメチャなことをしでかした。
でも彼女の周りにはいつも男女問わず沢山の人間がいて、サバサバとハッキリ物を言う彼女の性格もあってか、皆から愛されていた。
そしてクラスに馴染まない僕と、時たま視線が合うと。
「発情期のマントヒヒ!」
他の生徒には見られないように、とんでもない顔で僕を笑わせる。しかもそれは、放課や昼食時だけじゃなく、席が僕の斜め前なのをいいことに、授業中に不意を衝いて。
「発情期のマンドリル!」
「ブッ、ぶはははははははは!」
「ど、どうした西田? その……お前からすると、俺の授業は笑っちゃうくらいレベルが低いか?」
授業中にまで、僕を笑わせようとする。
まぁ、そのお蔭といっちゃなんだが……。
「よう西田、おはよさん」
「あ、あぁ、おはよう」
「今日、西田が何回爆笑するか賭けてんだ。少なくても三回以上は頼むぜ」
「は、はぁ」
少しずつだけど、クラスに馴染み始めた。またこれは小林と直接的な関係は薄いと思うが……不思議と勉強が捗った。
前までは脳に鞭打って、無理やり海馬に記憶を詰め込んでも、ある所で必ず限界が来た。だけどアイツに笑わせられた日は奇妙な脳の活発を感じ、その限界が遠くなった気がした。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
そして迎えた、期末テスト。
椅子に腰かけた僕は、一人神経を昂ぶらせていた。
クラスメイトに格の違いを見せつけてやりたいという自尊心は、いつの間にか薄れていた。
馬鹿だと見下していたクラスメイトは……、その、話してみると結構いい奴等だったりした。
だがその代り、負けず嫌いな僕が顔を出し、一位であらねばならないという妄念となって憑りついていた。すると強張った背中に、衝撃が――っていうか痛ぇ!
「西田くん! な~に怖い顔してるの」
「って小林! お前、思いっきり叩きやがって!」
小林は抗議に頓着する様子をみせず、笑っている。
「駄目よ西田君。頑張らなくちゃいけない時や、辛い時こそ笑わなくちゃ」
「何言ってんだ? ……っていうかお前、前もそんなこと――ウワッ!」
僕の話を遮る様に、小林は急に顔を近づけた。
「おまっ、近いって!」
お互いの息が顔をかすめる様な距離に、僕の思考は痺れた様になった。小林の長い髪から香る正体不明のいい香りに、視界がクラクラし始める。
「笑って、西田くん」
「はぁ?」
僕はそんな状態の中、小林から発せられた言葉の意味が分からず、間の抜けた声を上げる。
「笑うのよ、西田君」
すると彼女は僕のほっぺを摘み上げ、無理やり笑顔を――。
「おまへ、なにひゅんだ(お前、なにすんだ)」
やがて彼女は満足した様にクスッと笑うと、頬から手を放し「お互い頑張りましょ」と自分の席に戻っていった。
なんだったんだ?
突然のことに訳が分からず、僕は呆然としていると……。
「発情期のマンドリル!」
小林は振り向き、僕を爆笑させた。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
期末テストが終わり、テストも返却される段になると、後はいよいよ担任から順位表が渡されるのを、待つばかりとなった。
そして――。
「西田すごいじゃないか。学年一番だぞ」
「え? ぼ、僕がですか!?」
渡された順位表を、教壇前で確認する。
順位は……言われた通り、総合で「一位」となっていた。
「あ……。やった! やったぁぁあああ!」
思わずその場で、快哉を叫んでしまった。
クラスメイトも、「すげ~じゃん西田」、「おめでとう」等の声をかけてくれる。
「あ、ありがとう」
嬉し泣きしそうな心地で振り返ると、何故か小林が、満面の笑みで目の前に立っていた。
「おめでとう西田くん」
彼女のまっさらな笑顔を見ると嫌な予感を覚え、思わず構えた。
「あ、ありがとう……それで小林、その右手のサバの水煮缶はいったい?」
「うん、ご褒美にあげる。さぁ、遠慮なく飲んで」
僕はあの日、うっかり口にしてトラウマになりかけたサバの水煮の味を思い出す。
「小林……いいか、サバの水煮は調理する物であって、飲むものじゃ――」
僕がサバの水煮の使用方法について、説明しようとすると、
「あぁ、つまりは逃げるのね。ハッ」
そう言って小林は鼻で笑ってみせた。
次の瞬間、気づくと僕はサバの水煮缶を小林から奪い取っていた。
「だれが逃げるって? 上等じゃないか、飲んでやるよ、飲めばいいんだろ!」
そしてプルタブを開け、サバの水煮を一気に流し込む。
クラスメイトや先生は、何が起こっているのか分からず、唖然としていた。
僕は何度もむせ、嘔吐しそうになりながら、何とか飲みきり。
「どうだ!」
と鼻から水煮汁を溢れさせて、空の缶を小林に突っ返す。
途端に、訳の分からない喧騒が教室を包んだ。
「イジメではないです」
誰に向けたメッセージかは分からないが、先生もにっこり笑った。
そして小林はといえば……。
目を見開き、今まで見たことがない位、嬉しそうに笑っていた。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
それ以降も、見知らぬ一位との争いは続いていたが、僕がテストで一位を取ると、小林は嬉しそうにサバの水煮缶を差し出してきた。
「っぷあはぁ! どうだ!」
その度に僕は教壇前でサバの水煮を飲み干し、教室は謎の喧騒に揺れる。
「クラスに、イジメはありません」
お約束の言葉の後、先生もにっこり笑う。
そんな馬鹿な事をしているお蔭で、クラスメイトとも仲良くなり、気づけば友達も出来た。友達なんていらないと思っていたけど、出来れば出来たで嬉しかった。
「なぁ西田、お前は結局、なんで爆笑してるんだ」
「え……それは……」
クラスメイトに尋ねられ、思わず小林を見る。あいつは楽しそうに、女子と話をしていた。相変わらず、小林はクラスメイトに見つからない様に、事ある毎に僕を笑わせた。
そして時々――。
アイツを見てると、締め付けられるように、胸がひどく痛むことがあった。
その感情の正体には気づいていた……んだと思う。
でも、必死で見ない振りをした。
今の関係が心地よかった。
それを自分から働きかけて壊すのが、怖かった。
「別に……特に理由はないよ」
僕はクラスメイトからの質問を躱した。
小林との間に架けられている、秘密の橋。それがなんだか、僕には堪らなく大切なものだった。
二人だけの秘密。
そして自分の思いを自覚して以来、小林を目で追う回数が増えていった。だから……そんな風に小林を見ていた僕だから、気づいたことがある。
小林は、教室ではいつも屈託なく笑っている。けれど時折、一人、教室の窓から淋しそうな顔で空を見ている事があった。
あれは僕の気のせいだろうか?
それとも……。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
月日は過ぎ、三年になると小林とはクラスが別れた。
負けず嫌いな僕は、相変わらず学年一位を目指していたし、時たま廊下等ですれ違う小林もまた、いつも楽しそうにしていた。そして隙をついては、僕を例の顔で笑わせた。
三年になると、二年以上に勉強は厳しくなった。第二志望で入った高校とはいえ、偏差値は決して低い訳じゃない。
一位争奪戦は、三年の頃には苛烈な争いを見せるようになった。一進一退の攻防が続き、時折首位を譲ることもあった。でも一位になると、小林はどこからか噂を聞きつけ、サバの水煮缶をもって現れた。
「おめでとう! はい、お祝いの水煮缶」
「って……やっぱり飲まされるのか」
でもそんな奇妙な交流が、妙に嬉しかった。ひょっとしたら、僕は一位になること以上に、小林とそんな他愛無い遣り取りをすることを、楽しみにしていたのかもしれない。
気付けば、小林に何の想いも告げないまま、卒業の日を間近に迎えていた。
僕は東京の国立大学。
小林は地元の国立大学。
驚いた事に、小林は意外と成績がよかったみたいだ。たまたま廊下ですれ違った時、小林の進学先を知って驚かされた。
「お前、バカじゃなかったんだな」
「ちょ、誰がバカですって! 私がバカって呼ばれるの嫌いなこと、知ってるでしょ!」
小林はそんな僕に、猛然と食って掛かる。
「あぁ、それは嫌というほど。っていうか褒めてるんじゃないかよ」
「くぅ~! それ、絶対褒めてない!」
彼女と気軽に話しが出来るのも、あと少しかと思うと……。
華やかな幻が奪い去られる様な、体の芯に食い込む寂しさを覚えた。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
そして迎えた、卒業式。
目的の大学にも入れた。高校二年の期末テストから、何度か学年一位も取れた。
思い残すことは……何もない。
――本当にそうか?
自分の声が、意識の中で乱反射した。
「よ! 西田くん、な~に一人で黄昏てるの?」
「お、なんだ……小林か」
廊下の喧騒の中、開け放たれた窓の縁に背を預けていた僕に、小林は嬉しそうに話しかけてくる。その表情は相変わらず楽しそうで、寂しさの欠片もない。
「なぁ小林」
「ん? なに?」
「……発情期のマントヒヒ」
小林のマネをしてみせた。
だが彼女の表情は凍りついたように、ピクリとも動かない。
「西田君、サバの水煮を飲む才能はあるけど、マントヒヒに関しちゃ全然ダメね」
「そんなんに、才能関係あるのかよ!」
「あるに決まってるでしょ!」
彼女は「仕方ないわね」と呟くと、辺りをきょろきょろ確認し。
「発情期のマントヒヒ!」
「ブハッ!」
「からの、マンドリル!」
僕は呼吸困難になるんじゃないかってくらい、途中何度もむせながら笑った。廊下の卒業生たちが、何事だ? と、僕たちを訝しんで見る。
「はぁ……ひぃ」
「どう? 私の圧倒的な才能にひれ伏すといいわ」
僕は涙を拭きながら、小林に笑いかける。
「はぁ、ふぅ、そうだな……恐れ入ったよ」
「あら? 今日は珍しく素直ね。どうしたの?」
すると窓から飛び込んできた春風が、小林の髪をなびかせた。小林は女性らしい仕草で、それを元に戻す。
「小林……ありがとな」
「え?」
小林はきょとんとした目で僕を見た。
「あの日……僕に声をかけてくれたのって、僕をクラスに馴染ませようとするタメだったんだろ?」
「……」
彼女は無言のまま、何も答えようとはしなかった。だがそのことが却って、肯定を色濃く示していた。
「小林のお蔭で、高校生活楽しかったよ」
「……そう」
その時の小林の表情は、今まで見たことがない程に、大人びて見えた。まるで小林じゃないみたいで、刺すような胸の痛みを感じる。
「あぁ、楽しかった」
「なら……」
「ん?」
「なら、ここでサバの水煮飲んで」
すると小林は俯き、前髪で表情を隠しながらそんな事を言った。
「はぁ? サバの水煮?」
「感謝してるんでしょ? なら私のお願いを聞いてくれたっていいじゃない」
そういうと彼女は、やはり表情を隠したまま、鞄からサバの水煮を取り出して僕に渡した。なぜ卒業式にまで、サバの水煮缶をもってきてるのか甚だ疑問だったが……。
「しょうがないな。いいよ、ほら貸せ」
受け取ったサバの水煮缶を、感慨深く眺める。手慣れた感じでプルタブを開けると、途中何度かむせながらも、僕は中身を飲み干した。
「っぷはぁあ! どうだ、僕のサバの……って、あれ? 小林?」
すると彼女は僕の目の前から、忽然と姿を消していた。
「小林……」
「西田く~ん!」
その声に驚きながら振り向くと、彼女は廊下の端、階段の直ぐ近くで、嬉しそうに手を振っていた。
「私も楽しかった! ありがとね~」
そう言うと彼女は投げキッスをして、今度こそ本当に、僕の視界から姿を消した。
「ははっ、なんだよそれ」
多分僕は、その日、小林に気持ちを伝えたかったんだと思う。でもチャンスを失ってしまった。
しかし不思議と、気持ちは晴れやかだった。
小林らしいというか……。僕が好きになった奴は、あぁいう奴なんだ。
それがなんだか嬉しくもあり、誇らしくもあった。
卒業式の帰り道。卒業証書が入った筒を、僕は何度も空に舞いあげてはその手に納めた。嫌になる位に、未来は僕の手の中にあった。
まだ何者でもない。だが、何者にもなれる。
そのことが、無性に嬉しかった。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
その後、大学に進んだ僕は恋もすれば失恋もした。僕を囲む世界が、高校生の頃とはガラッと変わり、色んな事が自由だった。
僕は小林を真似るように、朗らかにいつも笑っていた。
彼女とは、在学中一度も会わなかった。連絡を取ろうと思えば取れたが、僕はそれを潔しとはしなかった。そういう出会い方を、小林とはしたくなかった。
不思議と、例え恋人がいる時でさえも、僕の心の中心には小林がいた。
そして沢山の女の子を知る中で、小林の無邪気さの尊さが分かった。裏表なく、屈託なく笑う小林。
人間は社会的な生き物だ。世間の評価や周囲の目が気になり、ある程度の年齢になると、他人の目から自分を眺める癖をつける。
つまりは、自分を飾るってことだ。
高校生の頃の僕もそうだったし、今もそうだ。
だけど小林には、そんな所がなかった。情緒が幼いんじゃなくて、人間の悪意も善意も、全て受け入れて肯定するような、健全な力があった。
勿論、今もそうだという確証はない。だけど不思議と小林に限って言えば、それは殆どゆるぎない事実の様に思えた。
「小林、いつか絶対、僕が迎えにいくからな」
大学を卒業し、院に進む頃。
僕は彼女と結婚するだろうという、根拠のない強い確信があった。
――小林が癌で亡くなったと知らされたのは、それから数年後のことだった。