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「真心錬気道は気の構え。心を落ち着かせて平常を常とし、決して心乱すことがあってはなりません。神の依り代となるためには、いついかなる時も心構えを崩してはならないのです」
顔中をボコボコにされた日和は、ウソツキ。と心の中でつぶやいた。
たがいに道着に着替え、向かい合って正座で相対する。あえかはかならず、鍛錬をはじめる前に真心錬気道の理を述べる。それはもう、くどいほどに述べる。
「身体ではなく心で、相手を圧するのです。相手を呑みこむほどに巨大な気迫をもってすれば、手を交わすことなく退散することは必定。そうでなくとも弱腰になり、有利に戦いを進めることが可能となります」
道場の広さは約100坪。二人だけでは広すぎるといえる。ふるい木造建築で趣き深い建物は、毎日床磨きをしているだけあって、独特の光沢を放ち外とはまったく違う雰囲気につつまれている。
どこの道場でもこうなのだろうかと、日和は考える。この道場だけが特別きれいに磨かれているのだろうか。教室のワックスがけをしたってこんなにきれいにはならない。ひょっとして、歴史の重みというやつが実際よりもきれいに錯覚させているのだろうか。
「聞いていますか。春日君」
「はい。も、もちろんです」
日和はこのながい講釈にはうんざりしていた。もともと性格は短いほうで、正座して聞きつづけなければならないことも嫌いメーターの大きなウェイトを占めている。
それでも、面と向かって師匠の顔を拝めるこの時間は有意義に活用したい。
「本来、人は神とともに歩んできました。神とは自然。自然とは万物のすべて。八百万の神とは、自然のあらゆる事象を人格化した理。神卸とはつまり、自然の力を身に宿すことに他なりません。今でこそ人は自然の価値を失いかけていますが、かつては崇め奉り、礼をもち畏れをもって、かの怒りを鎮めてきたのです。そのためのつなぎとなる者が神主様や巫女、神職者なのです」
「うぃー、ひっく」
金剛が、道場の隅で酒盛りをつづけている。神聖な道場に酒の臭いを充満させ、上機嫌におちょこをグビリとやる。お酒はそんなにおいしいものなのだろうか。
「よそ見をしないでください」
「はっ、すみません」
「いいですか春日君。あなたは真心錬気道の次世への担い手なのです。自覚を持ちなさい」
「おっしゃるとおりです」
「まじめにお聞きなさい」
「うぃー、ひっく」
「……金剛和尚さま。道場でお酒を飲まないでください。春日君の集中が乱れます」
とばっちりを受けた金剛は、じろりと酔いどれの目つきであえかをにらうと、なにも聞かなかったようにまた酒盛りをつづけた。
この二人、実は仲が悪い。
というより、金剛のほうが一方的にあえかを嫌っている、といったほうが正しい。
「和尚さま!」
「……おぬしがこの土地を明け渡してくれるなら、出て行っても良い」
「またそのようなことを」
廃仏毀釈、というのを知っているだろうか。
明治時代、それまで仏教と神道は同時にうやまわれ、庶民に親しまれてきた。仏教は仏教なりの祭事を、神道は神道なりの祝い事祝い、海外と異なるこの国独自の宗教文化をつくりあげてきた。
そういった関係から、二つの宗教はおのおの別々の教義をもつというのに、おなじ場所に寺院と神社が建立されるようなことも多かった。神社の境内につくられた寺社は”神宮寺”と呼ばれ、正月初詣に来たついでに仏閣へお賽銭を投げ入れる、というような神域巡りの風習もこのような時期から生まれた風習と考えられている。
それを、明治政府は神道統一の号令の下に”神仏判然令”を決定した。外から入ってきた宗教を破棄し、日本古来の神道のみを唯一国教とすることを推進したのである。
あまたにあった寺社仏閣は破壊され、”神宮寺”さえも例外ではなかった。社僧は位をうしない、在家の人間と同様にあつかわれた。それまで荘園を経営し、檀家から尊敬と喜捨でうるおっていた生活が途端に家なし、財なしの浮浪者同然にあつかわれる。彼らにしてみれば、これ以上もない屈辱であったろう。
金剛という僧も、その末路をたどった家系であった。
「この土地はワシの先祖の土地じゃ。ヌシがどういおうが聞く必要はないわい」
「勝手なことを言わないでください! それにそれ、わたしが買い置きしておいた御神酒じゃないですか。同じ神職にあるものが盗みなど働いて良いと思っておられるのですか?」
「小娘、つまみがなかったぞ」
「そんなものはありません!」
「饅頭でよいのに」
僧侶ゆえに仏頂面をして、酒瓶を抱いて横になる。
「和尚!」
「がぁー! ごぉー!」
わざとらしいいびきを立てて狸寝入りを決め込む金剛に、あえかはあきらめたようで元のように日和に目を向けた。
「仕方ありません。そもそも珍事一つに気を乱されるあなたが悪いとも言えましょう」
「そんな殺生な」
「お黙りなさい。精神を統一し心を無にすれば気を乱されることはありません」
「色即是空は仏教の専売特許じゃ」
「……精神を神と同化させ、自然の言葉に耳をかたむけるのです。そうすれば心に平穏がたもてます」
目をつぶったままの茶々(ちゃちゃ)にわざわざ律儀に言い直し、あえかは日和に向けて声を荒げた。
「師匠、でもそろそろ足がしびれて」
「しびれが何です。正座で死ぬことなどありません!」
「小僧、仏教には座禅という精神統一法がある。あぐらをかいて良いのじゃぞ」
「マジで?」
「春日君」
「すいません正座つづけます」
いつもより数倍冷たい声をかけられ、日和はゆるんでいた姿勢を正した。
「まったく、もう」
困ったような声が実は耳に心地良かったりする。
「あの~、すみません」
玄関からとどいた声に、全員がそちらを向く。
いつの間にいたのか、初老の老人が笑顔を浮かべて立っていた。
「道に迷いまして」
気さくに声をかけてくる老人に、日和はぴりぴりしたこの空間を逃れたい一心で立ち上がりかける。
「あ、おれ、ちょっと道案内してきます」
それを制して、あえかがやわらかく声をかける。
「それはご苦労さまです。いったいどこへゆかれますか?」
「天国へ」
立ち上がりかけた姿勢のまま、日和がぽかんと口をあける。
「そうですか。ここは神域への入り口。確かに一番近い場所であるかもしれません」
「そうでしょうそうでしょう。ですからこちらに伺わせていただいたのです」
「大変申し訳ないのですが、そのお頼みに答えることはできかねます」
「なぜです」
「徳が足りねぇのよ」
酔っぱらいが横から口をはさむ。
「あんたにはまだ、購いきれてない業が取り憑いてやがる」
「和尚、あまり刺激しては」
「業? はて。わかりませんなぁ」
にこにこと笑う笑顔がどこか卑しげな笑みに変わる。
「納得できませんなぁ。なぜわたしがいつまでも彷徨わなければならない。なぜこんなにも苦痛を味あわなければならない。光がほしい。楽になりたい。いっそこの業、誰かに押しつけてしまおうか」
「師匠、これって!」
「はい。邪霊になりかけていますね」
「摩羅だぁな」
あえかがすっ…と立ち上がる。
日和も立ち上がりかけて――コケた。
「おおぅ、あ、あしが……」
「何をやっているのです」
「あんたたち、わたしを救ってくれんかね。この哀れな老人に、その温かい血と生身の体をくれんかね。嫌といっても譲ってもらおう。そうしなければわたしはわたしでいられぬ」
「死んでも死にきれぬそのつらさ、わたしにはわかります。気を静めなさい。邪なる芽を受け入れてはなりません」
「何がわかるというのか! この詐欺師どもが!」
老人の形をした顔がくわりと怒りの形相に変わると、はっきりとしていた輪郭がぼやけて黒い影のような霧につつまれる。
「ひとりで行けるか。”舞姫”よ」
「はい。金剛様の手をわずら煩わさせるでもありません」
「ならば見物させてもらおう」
「何をごちゃごちゃ抜かしてやがる! その体をよこせぇ!!」
影が巨大にふくらみ、あえかに向けて襲いかかってくる。
あえかはタン。と足踏みすると、ながれるような動作で移動した。
タン。タン。二度足を踏むと、ゆるりと移動し、手をたたく。
あえかをとらえようと、影からいくつもの手の形をしたモノが伸びる。それを優雅な仕草でかわし、また同じように足踏みと拍手をくりかえす。
それは舞のようで、日和は倒れたままでぼぅと見とれた。
「おのれチョコマカと!」
「我乞ひ願ふ。根堅州國に鎮座せし寡黙なる醜女。黄泉比良坂の底の底より喚ひ掛けむ。まつろわぬ魂穢れ祓いて供物に捧げん」
師匠の身体が淡い燐光に包まれる。邪霊の攻撃をかわしながら華麗に舞踊を踊る姿はまさに”舞姫”の冠にふさわしい。
「穢れし魂に生の喜びを。逝くべき定めに一抹の哀れを」
「このアマぁぁ!」
青い燐光に包まれたあえかは踊りが終わると構えをとった。
『真心錬気道』武の構えだ。
「あなたは自分の名前を覚えていますか?」
あえかは優しく語りかける。
「とうに忘れたわ! そんなもの!」
びりり、と道場が震えるような大音量で、邪霊が叫ぶ。
「致しかたありません。制裁に入ります」
きりりと表情を引き締め、青い燐光につつまれたまま、あえかは邪霊へと正面につっこんでいく。
「師匠!」
押し寄せる黒い手を的確にさばき、ふところへ入ると、静かに呼吸を合わせて拳をにぎりしめる。
「天誅!」
まるで内部から破裂するように黒い影が吹き飛ぶ。現われたのは、最初に見かけたあの老人の姿だ。
おどろいた表情をしているその姿が、みるみる大気に溶けるように薄く、透けて、陽炎のように消えていく。
「あーあ、徳が消えたわい」
面白くもなさそうに、金剛がつぶやく。
あえかは突きだした拳をゆっくり引っこめると、両手を合わせて息を吐いた。青い燐光は跡形もなく消えている。
「黄泉の国でお幸せに」
金剛が、たいぎそうに身を起こす。
「……こんなトコロにまで、やってくるのがいるたぁな」
「そうですね。めずらしいことです」
「めずらしい? はっ! そのうちそうでもなくなるだろうよ」
「よいしょぉ」と重い図体を無理矢理ひっぱりあげると、金剛は酒瓶のなかでゆれる液体をのぞいて、残念そうな声をもらす。
「ゆっくり、酒盛りもしてられぬな」
そう言うと、命より大事な(と日和は思っている)酒瓶を道場の床の上に置き、千鳥足で外へと向かう。
「どこへゆかれるのですか?」
あえかの言葉に、金剛は「散歩」と短くつぶやき、ふらふらといなくなってしまった。
あえかと日和だけが道場に残ることになる。
チャンスだ! と日和は思った。
あえかは日和のほうへ向くと、「では修練に戻ります」と何でもないように言った。
「じゃ、組み手を――」
「なりません。まだ精神集中ができていないでしょう」
「とんでもないっす! オレ、師匠の戦いを見ていたら、身体がうずいてたまらないんです!」
日和は、真剣な表情で熱く語った。
心よりも別のところが熱かったりする。
「……そうですか。やはり、わたしが見込んだだけはあります。闘いをみて闘志を滾らせることは武人の素養の一つです」
ころりと騙されたあえかは、組み手を承諾した。
「では構えを――」
「うおおおおおおお!!」
「またですか」
「師匠! オレもう、辛抱たまりません!」
「あなたは何もわかっていません! いついかなる時も平常心を――」
「師匠おおおおおおおぅ!!」
ケモノのように飛びかかる日和に、あえかは「不ッ!」と容赦ない拳をめり込ませた。
「言うことを聞かないと殴り殺しますよ」
ぐふっ、とうめく日和。
(オレはまだ、あきらめないぜ)
地に伏した彼は、さらに決意を新たにしていた。