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いつか来たことのある建物を、美鈴はおどろきとともに見上げた。
月代高校――旧校舎。
中へと入っていく神父の背中に走って追いつく。
神父は昨日の一件以来、一言も話さず美鈴を連れまわしていた。とくにどこに行くともなく、あてもなく町を彷徨っていたように思う。
たまに美鈴に気づいて声をかけてくる者もいたが、一言二言、神父が口にするとなにもないようにフラフラと立ち去っていった。
どこか暗い場所で眠ったような気がする。
旧校舎はこの前訪れたように陰気で、昼だというのに暗い影をところどころに落としていた。
――そういえば。
美鈴は気づいた。
ここには、溝口先生が居着いていたはずだ。人呼んで、”旧校舎の妖怪おどろ”。普段頼りないものの、いまはその存在が唯一のよりどころだった。
隙をみて、先生のところへ逃げこんで――
神父は『宿直室』とある部屋へと足を踏みいれた。
コンビニで買ったらしき弁当箱や、つぶれた缶ビールの空き缶、ウイスキーのボトル、男物の下着などがざっくばらんに散らかってゴミ捨て場のような様相だ。潔癖そうな目の前の人物からは、想像もつかないようなありさまだった。
男の人の部屋というのは、みんなこんなものなのだろうか。
「座れ」
言われたものの、どこに座ればいいかわからなかった。
神父は気にせずに帽子をはずし、壁にとりつけてあるフックにかける。
神父服を脱ぐと、数カ所あるホックを外し、裏返しにしてバサリ、と真逆の色を纏う。
「あっ」
ポケットに入れていた眼鏡を取りだすと、耳にかけてグィと指で持ちあげた。
溝口おどろは、空き缶の中にさしておいた大麻の巻き煙草を手に取ると、口にくわえた。
「なんで……せんせい……」
ライターで火をつけ、煙を吸うと、いくぶん気が楽になる。
「先生だから、なんだ?」
大麻煙草にくわえたまま、溝口は美鈴に向けて口をひらいた。
「おなじ人間だ。おまえや春日と同じ、もろく移ろう人の身だ」
定位置である万年布団の上にあぐらをかくと、茫洋とした目を自分のクラスの生徒に向ける。
「闇黄泉は、おれの裏の顔だ」
特に感慨もなく、彼は少女に告げた。
信じていた担任にまで裏切られたことを知り、美鈴はストン、と尻もちをついた。
「腹が減っただろう。なにか食うか」
ゴミ溜めをあさって缶詰を見つけると、賞味期限の切れていないことを確かめ、美鈴にほうった。
「パキ」
転がっていたコンビニのプラスティック容器をへこませ、バウンドした缶詰が転がってくる。
サバの水煮だった。
「バーゲン品だが、けっこうイケる。まとめ買いしておくと、非常食にもってこいでな」
「なんで、黙ってたんですか」
美鈴は転がってきた缶にプリントされた魚を見つめて、恩師にたずねる。
「東君に、あたしをあんな目にあわせたのは、先生だったの」
「……人は望むものを手に入れようとする。欲望の追求こそが、自然の本質だからだ」
「答えてください」
何度も悲しい思いをしたせいか、不思議と涙はでてこなかった。
それよりも、押しつぶされるような徒労感で現実味がなくなってくる。
「東は、青龍家という神道陰陽師の末裔らしいな。おまえのほうが知っているんじゃないのか?」
自分用にもサバの缶詰を探しながら、溝口はこたえた。
「しらない。わたし、何も」
「知らないことが、罪であることもある」
「わたしの、せいじゃない」
「知ろうとしないことも、また罪だ」
「本当に知らなかったんだもん!!」
美鈴はかぶりを振った。
「おっ。あったか」
溝口は目当ての缶詰を見つけた。
「缶切りがないな」
「なんでそんなに平然としていられるの!?」
押さえていた感情が爆発した。
「全部あなたのせいじゃない!」
「そう思うか?」
缶切りを片手に、美鈴に目を向けた。
身をすくめる美鈴。
「おれの好きな言葉がある。”可能性”という言葉だ。possibility。人は、未来の自分に期待が持てるからこそ今日を生きていける。苦い思い出も過去で済ませる。”可能性”ほど、人にとって大事なものはない」
缶切りでフタに穴を空け、ギコギコとふちを切りあける。
「未来というものは、分からないから面白い。挫折も味わうリスクはあるが、ハイリスクハイリターンこそ生きる人の姿だ。無難に生き、ただ死ぬことを待つなどという人生など、価値がない。なにしろ一度きりなのだからな」
「そんなこと聞いてない!」
「聞く必要がある。正龍は、”サキヨミの巫女”であるおまえを守るためだけの家系に生まれた。生きて死ぬまでその職に就く。それは人生に嵌められた枷だ。奴一人でちぎることなどできなかっただろう」
フタを開け終わると、缶切りを美鈴へと放った。
缶にあたってはじける。
「もうひとり。そいつは、優秀であるがゆえに親の期待にこたえなければならなかった。決められたレールの上を行く人生。他人に押しつけられる人生というものに価値があるなどと思うか? ゲームに逃避したせいで、人格が崩壊していた。直すためには荒療治が必要だった」
「アーメン」と溝口はいまから食べるサバに向けて祈りを捧げた。
「……ずいぶん昔に、馬鹿みたいに頭のキレる男がいた。そいつはあらゆる本を読みあさり、古文の因果関係をつないだ結果、世の中が巨大な意志によってあやつられているのではないかと踏んだ。ヤツは馬鹿だったが、天才だった。その裏をあやつるものと接触を持つことに成功した。結末は、マァ、見てのとおりだが」
溝口は皮肉に笑った。
「結局のところ、たどり着いたのは神の思想だ。どうしようもなくなったとき、人は神にすがる。どのようなサイエンティストも、背約論者も、金持ちも、結局最後は理屈ではないとわかる。それが本質。真理というヤツだ」
心地よい香りが場を支配していた。
美鈴はフラリと手をつく。
「な……に……」
「南雲美鈴」
溝口は彼女の名を呼んだ。
「人は欲望こそが本質だ。おまえは、おれになにを求める。おれは、おまえの神になってやろう」
「かみ、さま」
溝口の目に感情が浮かんだ。
それは、哀れみ。
目の前の少女に向けられたものか、それとも。
「おまえが欲しいものはなんだ」
「ほしい、もの」
「そうだ。それを与えてやろう」
美鈴は逡巡する様子を見せた。
溝口は内心おどろいた。
東の言ったとおりだ。この少女は、ほかの人間よりも耐性がある。
大麻をつかった催眠術。
深層心理の操作。
闇黄泉の神父は、これで手駒を増やす。
「日和」
彼女はそれだけ言った。
「……そうか」
溝口は目を閉じた。
それは、二度と今生で手に入らないものかも知れない。
彼は、彼女の望みのものを、見捨てたのだ。
それでも、別の方法で与えることはできる。
目を開き、彼は告げた。
「哀れなるしもべよ。われに従え。さすれば望みはかなうだろう」
美鈴はぼう、とした目で溝口を見上げ、うなずいた。
外から声が聞こえる。
自分を呼んでいる声だった。
「来たか」
溝口は大麻を口にくわえたまま、外へと向かった。
そのあとを、夢遊病者のように美鈴がついて行く。
腕のなかに、おおきな鏡を抱いたままで。




