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バシャッ――
覚悟していたほどの衝撃はなかった。
ぬかるんだ地面に手をつく。
どうやら水田のなかへと転移したらしい。”変形兎歩”は、なんとか成功したようだ。
まとわりついた虫や草をふりはらい、泥水にまみれた身体で起き上がる。
(できれば、やつらの結界の外であればいいが――)
「――根堅州國の母神禊ぎし八の雷神に奉る。神鳴る裁きの黒き輪を」
飛んできた札に機敏に反応し、残りすくない式符を差し向けた。
「厭悪鬼符!」
飛ばした式符は相手の符に当てられ燃えあがったのを見て、東は身を避けるため地面を蹴った。
グニャリとぬかるみにはまり、不格好にたおれる。
神札は頭上スレスレを通過し、田に張られた水のうえに落ちる。
落ちた場所から右と左と炎が伸び、取り囲むようにぐるりと弧を描いた。
水田に、紅蓮に燃え盛る柵ができあがる。
「そこまでです」
川にかかる『墨子橋』の欄干に、夜の月に映える朱袴と千早を纏った美女が立っている。
「――失敗、か」
東はつぶやいた。
「われらの”仇狩り”より逃れる術などありません。大人しく縛につきなさい。悪いようにはいたしません」
「――”総社”の拷問は酷だからね」
東は泥まみれとなった身を気にせず立ち上がり、橋から見下ろしてくる追手をにらんだ。
「口寄せという術もある。死して尚むち打たれた楚王より非道い仕打ちだ」
「われらは護国の者。必要であればそうするかも知れません。そのあとは、手厚く葬りましょう」
「死者を冒涜してその傲慢。そういうところがきらいなのさ」
手を振ると、一本の針が空を貫いて追手へ飛んだ。
巫女はふわりと欄干から飛び降りると、足元の川面にせりでた岩に足をつき、水面を駆けた。
東は手持ちの式符から一枚を取りだすと、炎壁の一角へと投げつけた。
燃え尽きるかに見えた式符は、突如激烈な突風で炎をしりぞけ、瞬間的な出口をつくりだす。
身を焦がせながら、炎の障壁をくぐり抜ける。
「我勧請す! 盲目なる迷企羅!」
投げた式符が黒い虎に化けると、東を背に乗せみじかい足で地を蹴りつけた。
一足飛びに水田から平坦なあぜ道へ飛びでる。
「我乞ひ願ふ。野の茅命糾はる真草の綱よいらえ給へ」
着地したとたん、伸びてきたツタに黒虎の足がからめ取られる。
「グオォ!」
憤りをあらわにし、黒虎が吠える。
東は式神から飛び降りた。
ツタは黒虎をするする巻きこみ、際限なく締めあげて最後に首を胴からぶつりと切りはなしてしまった。
東の前には、さっきの女が愁いを帯びたまなざしで自分を見ている。
「――追いつめたと、思っただろ」
東は不遜に嗤った。
手持ちの式符をすべて取りだし、宙へと投げ散らす。
「招来せよ。我汝の盟主にして手綱とるもの。ちはやぶる風神の化身にして、東の守護者」
風が渦を巻く。
渦巻いた風は鎌鼬のように周りの草をなぎ、やがて天をつくまでに伸びた。
辺りの水が吹き荒れる風に呑み込まれ、東が投げた式符も巨大な竜巻の中へと次々に吸い込まれていく。
竜巻から雷光がはじける。
一対の眼が生まれた。
竜巻がとぐろを巻き、ぬめる鱗が蒼く輝いた。
顎がひらくとまっ赤な口腔が獲物をもとめ、万民を畏怖させる咆吼をとどろかせた。
四神に数えられる最強の聖獣。
「青龍!?」
「忘れたのかい? 僕はその嫡男だ」
おどろきの声をあげる巫女に、東正龍はみずから使役する究極の式神に命令をくだす。
「行け!」
巨大な胴体をながくくねらせ、風をつき破り押し寄せてくる聖獣に、巫女は手持ちの札を振りまいた。
「我乞ひ願ふ。高天原の荒御霊――きゃぁ!!」
紙一重で躱したものの、圧倒的な重量が巻き起こす突風に、かるい身体は巻きこまれて宙を舞った。
きりもみしながら近くの水田へ落下する。
喚びだした東さえも感嘆し、口笛を吹いた。
「なるほど。さすがは”禁術”だ」
墜落してバラバラになるはずの追手に目を移すと、東は表情を変えた。
なよやかな風が地表へつく寸前、そのからだをフワリと巻きあげ、近くのあぜ道へと横たえた。
「禁を破りし、おろかなる血族」
橋を渡ってきた、鮮烈な青の衣装を着た人影が、赤い口紅をつけたくちびるで告げた。
東は緊張した面持ちであらたに現われた人影を凝視する。
雲を模した金箔で彩られた狩衣が、月の光に照らされ、輝きを放つ。
「姉さん」
「道を違えた者の言の葉はもはや届かぬ」
地に引きずりそうなほどの長い髪をゆらし、切れ長の冷たい目をした瞳が東をとらえる。
「青龍!」
東は自分が喚びだした式神を呼んだ。
「あなたに勝ち目はない。僕は青龍を喚んだ」
「正龍。わが家紋を汚せし者。龍は汝をあるじと認めぬ」
「つよがりを。いくら姉さんでも僕が召喚した」
青龍は敵意に満ちたまなざしを向けた。
にらまれた東は、おもわず息を呑む。
「宿世より逃げた者に、青龍は力を貸さぬ」
ながい胴体に手をやった美女は、淡くかがやく鱗に細い指をすべらせる。
「逝け」
みじかい言葉とともに、巨体が召喚主に向けて顎をひらいて襲いかかった。
東には防ぐ手立てがない。
巨大な顎は東の胴体に食らいつくと、噛みきらずに宙へ持ちあげた。叫び声に一切耳を貸さず、長い尾を引いて風を巻き起こしながら、幾星霜のかなたへと連れ去ってゆく。
女が空を見上げた。
そのほほに、空からしずくが落ちてくる。
それはつぅ…と赤い筋を引いた。
そして、胴。
腕。
足。
臓物。
最後に、あたまが落ちてくる。
バラバラになった弟に、姉と呼ばれた女は、すでに事切れた物を見下ろした。
「……わたくしの可愛い龍」
赤く染まった青い着物のそでで、地面に転がる亡骸に手を伸ばす。
「馬鹿なことを――」
「終わったのですね」
その後ろから、轟あえかが声をかけた。
「はい」
悟られぬように顔を伏せ、正龍の姉は答えた。
「彼は相手の組織について深く知っている可能性があります。亡骸を譲り受けても、よろしいですか?」
あえかはできるだけ事務的な口調で言った。”総社”の判断とは言え、肉親に手をかけることは間違っていると、彼女は思う。
沈黙が返ってきた。
あえかは待った。
「――それはないな」
声は、思わぬ者からだった。
「な――」
頭だけの東青龍が目を開き、ふたりの”総社”を見上げてくる。
「僕は僕の正義にしたがった。自分が正しいとおもうことを選んだ。後悔など微塵もしていない」
東は姉を見上げ、優しげに声をかけた。
「後悔なんて、していないんだ」
「その身は――すでに魔性と化していましたか」
「神のキセキさ」
正龍は皮肉に笑った。
「ひさしぶりに自分の足で立てた。みじかい間だったけどね。君たちには考えられないかも知れないけど、これが、僕の欲しかったすべてだ」
「――意識があるなら、好都合です。そのままのあなたを持ち帰ります」
「無理だな。だって――」
東の顔が、地面に近い場所から崩れ、こまかい砂となっていく。
「このからだは、土くれだ」
「龍!」
姉は崩れていく頭を胸に抱いた。
「心配いらない。人はすべて土に返る」
「なぜ、ナゼこんな事――」
「最初から決められている人生を、認めたくなかった。抗えるなら抗って、自分で未来をつかみたかった。――なんてね、結局、僕は自分の運命から逃げられなかったみたいだ」
腕も、足も、胴体も、何もかも細かい砂となって、風に吹かれて夜の向こうへ消えていく。
「ご免。姉さん。僕はわがままだ――」
すべてが砂と化し、風とともに言葉まで奪っていった。
あえかは手を合わせた。
もはや何もなくなってしまった場所に向け、祝詞をとなえる。
「高天原に神留坐す神魯岐神魯美の詔以て――」
風が、静かな奏上の詩を、死者のもとへと運んでいった。




