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「悲鳴!?」
あえかは千早の白い裾をひるがえらせ、足を止めた。
「大沢木君、聞こえましたか?」
「ああ。ありゃぁ、ひーちゃんだ」
前を行く大沢木にも聞こえたようだ。
「どちらから聞こえてきたかわかりますか?」
「わからねえ。だが、ヤな予感がしやがる」
大沢木は友人の声にただならぬものを感じ、焦りの表情をうかべた。
「俺は幽霊ってのは信じねえが、どうもこの建物には妙なモンがいるってことにァ納得するぜ」
紅い瞳を闇に走らせ、大沢木はうずく犬歯を指でコリコリと掻きながら言った。
「相手のねらいは日和君かみすずさん――霊媒体質の高い人間をねらったようですわね」
それも丸腰の相手を、あえかは胸中でつけくわえる。相手はあたまもまわりそうだ。
「俺はひーちゃんを助けに行く」
駆けだそうとする大沢木を、あえかは留めた。
「むやみにちりぢりになっては相手の思うつぼです」
「アイツは俺の親友だ。止めるならあんたをなぐってでも助けに行く」
「どこにいるかもわからないのにどうするのです。捜しまわっているうちに手おくれになってしまうかもしれませんよ」
「捜さなかったせいで手おくれになるかもしれねえだろが」
互いに譲らず、自分の意見を主張する。
「こうなったしゃあねえよな」
つぶやいた大沢木が、ふいに気配に気づいてふりかえる。
日和がいた。
思いつめたように下を向いている。
「ひーちゃん! よかった。無事だったか」
大沢木が手をかけようとすると、後ろに回されていた手がおそろしい早さで振りまわされた。
ぶぅん!
闇を切り裂く出刃包丁が、大沢木を腕を裂いた。
「く!」
人間離れしたすばやさで身を引くと、腕のキズ跡に目を走らせ、致命傷じゃないと判断する。
目の前の親友に眼をもどすと、警戒心を怠らずに声をかける。
「ひーちゃん…、だよな?」
眼球は裏返って白目をむき、開いた口元から念仏のようなつぶやきがこぼれでる。
振りあげた手には大沢木を切り裂いたぶ厚い出刃包丁。
蒼白く死蝋のような肌をした日和は、また凶器をふるってきた。
「チッ」
舌打ちし、大沢木はうしろにステップを踏む。肉包丁はカラ振りし、窓枠のさんにズガッ、とめりこんだ。
パラパラと木くずをまき散らしつつ、肉包丁が引きぬかれる。
「どうなってんだよ!?」
あえかに向かって怒鳴りつけると、彼女はきびしい目で日和のさらに背後をみすえる。
「……あなたが、地縛霊ですね」
ながい髪の少女がうっすらと笑みをみせてほほえむ。
「彼はいま、とり憑かれています」
「はぁ!?」
大沢木はキレたような声をあげると、おもった以上に正確な日和の攻撃をかろうじて避ける。
「とり憑いているのは、あなたたちとおなじくらいの生徒。女性で、とても魅力的な美人ですわ」
「ありがとう」
少女は微笑んで、指をまっすぐあえかに向けた。
しもべとなった日和が、ターゲットをあえかに変更する。
神札を取りだすや、祓串を床に立て、祝詞をとなえはじめる。
「高天原に神留坐す神魯岐神魯美の詔以て八百萬神等を神集へに神集へ賜ひ神議りに議り賜ひて――」
「ふふふ」
まるで余裕しゃくしゃくに少女はわらうと、日和に”首をかき斬れ”と命令する。
日和は指示されるままにあえかに近づき、出刃包丁を振りあげた。
「春日君」
冷たいあえかの声。
日和の動きがピタリと止まる。
蒼白い顔が土気色にまで変わり、ふつふつと顔じゅうに汗が噴きだしはじめた。
「すげぇ――これがホンモノのお師さんの技か?」
感心する大沢木に向け、あえかはわずかに口角を曲げた。すり込まれた”習慣”という呪文だ。
少女は不審そうに眉をよせ、日和に再度”命令”を指示する。
あえかは涼しげなまなざしで、自分の愛弟子の顔をみすえて祝詞を唱えつづける。
両者のちからは拮抗していた。
ピクピクと痙攣するように、日和の腕が前に後ろに行ったり来たりをくりかえす。
次第にほかの間接もぎくしゃくしはじめ、日和の目からどくどく涙がこぼれはじめる。
なんだかとても痛々しい。
「――祓ひ給へ清め給へと申す事の由を天津神国津神八百萬の神等共に聞食せと恐み恐み申す」
祝詞の完了したあえかは、胸に構えていた紙札をサッ! と横一文字にはらった。
見えない波で空間がゆがみ、清浄に帰化された大気が少女の亡霊へと押しよせる。
少女は悟ったのだろう。
おそろしい金切り声をあげ、横の壁へと消え去るように逃げていった。
浄化された空気がちりやほこりをふりはらい、神社の聖域であるかのように空気が澄みわたる。
「……逃げられた」
あえかはチッ、と舌打ちした。
大沢木に見られていることを悟ると、あわてておだやかな表情にもどる。
「追います。ついてきてください」
「ひーちゃんはどうするんだよ」
「ここは清浄に帰化されました。眠っていても大丈夫でしょう」
「寝る?」
大沢木がいぶかしむと、日和のからだは倒れてそのまま豪快にいびきをかきはじめた。
「御親友のいびきと一緒にいたいというなら止めはしませんが」
「遠慮しとくぜ」
大沢木は言った。
「ひーちゃんとだけは、一緒の部屋で寝たくねーな」
あえかはほほえみ、少女の亡霊を追って駆けだした。




