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「ふわーあ」
数学の鳥角が日和には解読不可能なギリシア文字を説明している。
「春日! あくびをするな!」
四〇を過ぎてさびしくなった頭にはワカメのように萎びてはりつき、うごくたび海草のようにワサワサ揺れる。”人間わかめ”鳥角恭平43歳。独身。
チョークを突きだし、ツバをまき散らす教師に、最前列の生徒がめいわくそうに教科書でバリケードをはる。
「キサマは学校に眠りにきているのか勉強にきているのかどっちだ!」
わかりきった答えをもとめる昔カタギの教師に、日和はイヤイヤながらあくびを閉じた口で答える。
「……べんきょーっす」
「そうだ! ただでさえ成績わるいおまえは授業をもっとまじめに受けろ!」
(んなこと言ったてなァ)
昨日は遅くまで美倉みすずとともに、例の中学生を捜して町をかけ回っていた。一晩眠った程度では疲れはとれない。
収穫はさっぱりだったが、今日は手がかりくらいはつかみたい。
平日の放課後は決まってあえかの道場で稽古を受けている。二時間程度だが、終わる頃には暗くなっている。おそい時間からの捜索開始となり、明日も似たような眠気になやまされるのだろう。
それも、大沢木のためだ。友達のために時間を割くことを惜しいとは思わない。結果次のテストで赤点をとろうともろともだ。ハナから赤点である可能性は否定しきれないが。
「いいか! サインコサインタンジェントは高校数学の基本中の基本だ! わからないヤツは石にかじりついてでもアタマにたたき込め!」
(なーにがサインコサインだ。コサックダンスかってーの)
日和は勉強など社会生活においてまったく役に立たないとかんがえているので、鳥角の話はことごとく耳の穴をつき抜けていく。赤点なんぞコワくはない。
補習がコワいだけだ。
「南雲! つぎ、これ答えてみろ!」
指名されたあと、若干の間があった。
「……ナグモ?」
鳥角がいぶかしむように声をかける。
「はっ、いたっ……! なんでしょうか?」
立ち上がるときにひざを机にぶつけたようだ。あわてた様子で教科書をながめる南雲に、鳥角は心配そうな声をかける。
「体調、悪いのか? なんなら帰ってもいいぞ」
なんだよその違いは。
日和は人類社会のおおきな問題は決してなくなることはないぞ、とこの不条理に対して腹を立てた。
「その、すいません。何ページでしょうか」
「いや、いい。疲れてるなら他にまわそう。春日。おまえ解け」
「不意打ちくらっしゅ!」
奇妙なさけび声をあげた春日は、目だけをうらみがましく委員長の方に向ける。
予想に反して、意気消沈している様子の彼女の姿があり、春日はさらにおどろいた。
「ちゃんと授業を聞いていたなら解けるはずだ」
「すいません。先生。質問いいでしょーか」
「なんだ。言ってみろ」
「サインコサインタンジェントってなんすか?」
「……おまえはそのまま立ってろ」
なぜにこの世のなかはこんなに理不尽なのか、と春日は思った。
「じゃぁ、つぎ……なんだ、また大沢木は休みか」
素行不良の生徒にターゲットをしぼったのだろうが、あてがはずれて鳥角は「ふん」と鼻を鳴らす。
「まったく、どいつもこいつも神聖なる舎をなんだと思っとる」
ガラリ。
教室のドアがひらき、目ツキのわるい人物が入ってくる。
今日は骸骨が不気味にほほえむイラストのTシャツだった。
内山たちが一様に蒼白な顔で昨日の志村たちの体勢をとる。
「お、大沢木! いま、何時だと思っとるんだ!」
いきなり入ってきたことにビビったのか、すこしだけ腰砕けになりながら鳥角が言った。
「うっせぇ。だまってろジジイ」
「な、なんだとキサマ――」
大沢木がギロリと一瞥すると、鳥角はぷすー…と風船がしぼむようにおとなしくなった。
自分の机には向かわず、日和の元へと歩いてくると、顔を近づける。
「ツラ貸しな」
短く言った。




