狼男の日常、のち熊2
熊の振るう腕は跳ね除けられ鋭い風切り音がこの場を支配する。まさかと狼男が振り向いた先にはやはり踊る木の姿があった。全ての枝をこれでもかとざわめかせ威圧感を放つ踊る木は狼男の知る家政婦もどきの踊る木からは考え付かないものだ。
熊は弾かれた腕をちらりと見るとすぐさま踊る木を見据える。奇妙な闖入者、それも間違いなく目の前の二足歩行の狼よりも力がある相手だ。誰も知らない熊の中で何かが切り替わった音がした。
「踊る木!いや助かったけどなんでここに」
(いえこの通り弁当を半分ほど忘れて出て行ってしまったので)
枝の一つには丁寧に包装されたとても大きな弁当箱が吊り下げられていた。他の枝は全て熊に向けて牽制しているのだがこの枝だけは動きを最小限にして中身が崩れないように気をつけている。この状況でさえ気遣いを忘れず器用なことをやってのける踊る木だった。
「いや、それはこっちの密閉容器に入りきらなかったからおいて行ったんだよ」
(そうでしたか。ですが災い転じて福となる、本当に運がいい)
狼男には踊る木がどうやって周りを認識しているのかは分からない。だが踊る木が熊に意識を向けているのがなんとなく分かる。しかし殺気に近いものを向けられているというのに熊は退く気配を見せず、狼男にはむしろ喜んでいるように見える。
そしてそれは間違いではなかったようだ。熊は今までの雑な雰囲気を捨て去り本来の四足歩行に、そして四肢を使った加速で体当たりを繰り出してくる。体重一トンを超える巨体が高速で突っ込んでくる恐怖は暴走車両に勝るとも劣らないものだ。
「ぬえあ!?」
とっさに踊る木が投げ出してくれたことにより狼男は奇妙な声を出しながらも危険を回避した。だが踊る木は逃げることなく地面に根を刺し熊の体当たりを踏ん張り耐える。ミシミシと木の軋む嫌な音が鳴る。
少なくないダメージを受けながらも踊る木は枝を使い反撃する。だが熊には目に見えるダメージがない。
「くそったれっ死にさらせ!」
踊る木に体当たりを受け止められ動きの止まった熊、その首めがけて狼男が愛用の斧で渾身の一撃を叩きこむがやはり少し刃が食い込むだけで止まってしまう。それどころか刃を筋肉で挟まれたのか愛用の斧を抜き出せない狼男に向けて最初に繰り出されたものとは比べ物にならない勢いのパンチが飛んでくる。
これも踊る木が弾こうとするが力が足りなかったのか勢いを落とす程度の効果しか出ず狼男は見事に吹き飛ばされてしまう。狼男は完璧な受け身を取って二次被害を最小限にしたがそれでもなおこの一撃は重いものだった。
圧倒している状況でも深追いはせず退き際を見つけて距離を取る熊の動きには知性が感じられる。そうでなくとも強敵であるのは間違いなく未だに狼男たちは有効打すら与えられていない。そもそも狼男は最大火力の一つである全力の一撃が効かなかった時点で詰んでいるようなものだ。
「どうする、どうすればいい。いや本当にどうしようもないんじゃ」
(落ち着いてください。たしかにあなたの全力の一撃がああも効かないというのは絶望的ですが諦めるにはまだ早いでしょう。まき割りの要領で同じ場所を何度も叩けば必ず切れます)
「何度も同じ場所に当てられる余裕があるわけないだろうが。さっきのだって動きが止まってたからこそ首を狙えたんだ」
(ならば私がまた受け止めるなりなんなりで動きを止めればいいだけです。泣き言を言っている場合ではないのですから必死になりましょう)
「たしかにそうだがそれでは踊る木のダメージが大きすぎる。下手をすると踊る木が折られかねないぞ」
(ですからもうリスクリターンを言っていられる場合ではないのです。それしか道がないですから血路であっても進むしかないのです)
熊は狼男たちを嘗めているのかなんなのか話し合いするが終わるのを素直に待っている。だが臨戦態勢は解いておらずいつでもまた体当たりなりなんなりの攻撃を繰り出すことが可能な状態だ。どうやら今の熊には油断も慢心もないらしい。
そうこうしているうちに狼男たちの話し合いも終わり構え直す。両者の距離は二十メートルほど、やはり熊の間合いの中だ。
「それじゃあすまないが頼んだぞ」
(分かりました。頑張りましょう)
最後の確認をしてすぐに狼男たちは動き出した。狼男は猟銃を構え熊の頭を狙い撃ちそれを回避しようと動く熊にそうはさせまいと踊る木が狼男から受け取った鉈を投げつる。偏差射撃のように回避後の位置を攻撃し逃げ場を潰そうという魂胆だ。
だがそれで止められる熊ではない。蹴り出し跳ね上がった体を無理矢理地面に落としすぐさま方向転換を行う。狼男も似たようなことは出来るがそれにしたって動きのキレが違う、圧倒的に早すぎるのだ。
流石に体勢を崩した熊の首めがけて狼男が愛用の斧で二度目になる全力の一撃を叩きこむ。やはり熊の肉を断つことは出来ないが踊る木の言う通り一度目よりは刃が進む。だが一度目よりも肉の挟み込みが強く分かっているのに避けられずまた熊のパンチを食らって吹き飛ばされる。
狼男はなんとか放さずにいた愛用の斧を地面に刺し勢いを殺し反撃のために動き出す。当然踊る木も必死で根を動かし熊に向かって走っていく。しかし狼男が愛用の斧を振りかぶるよりも踊る木が枝の間合いに入るよりも早く動き出したのは熊だった。
パンチを放った左腕が地につくよりも早く踊る木に向かって二度目の体当たりを繰り出す。踊る木はなんとか受け止めるが一度目の時よりも明らかに軋みが大きい。だがこれだけのダメージを食らいながらも熊を逃がすまいと枝を絡め動きを鈍らせる。そして踊る木の決死の足止めを無駄にしないためにも狼男は今までの全力を超える全力で愛用の斧を叩きつけ、全てが無駄になった。
「らっせい!って熊が消えた!?」
狼男たちは何が起こったのかが分からなかった、熊がいきなり視界から消えたのだ。熊がいたはずの場所には刃先の砕けた愛用の斧を持ち呆然とする狼男と無残に千切られた踊る木の枝があるだけだ。
「踊る木大丈夫か!って大丈夫じゃないぞ!」
(確かに多くの枝が千切られましたが問題ありません。まだ半分以上は残っていますし意思表示も可能―)
「そういう問題じゃないてば!痛くなかったか、いや痛くないわけないよな、本当にすまない…」
(ですから問題ありませんと言っているのです。なんなら戦闘続行も可能です)
無事の確認をしながら狼男たちはキョロキョロと熊を探し続けていたがすぐに狼男がかなり遠くにその姿を見つける。どう見ても狼男たちのいる位置から数百メートルは離れているのだがそれは間違いなく熊であった。角を持ち周りの木々と比べて明らかに大きすぎる熊、そんなのが何匹もいるとは思えないし思いたくない。
「どうやってあんな所まで…二秒も経ってないぞ…」
(私は論外としてもあの距離を一瞬で移動するだなんて異常です)
さっきまで戦闘の真っ只中だったというのに口々に熊の異常さを語る狼男たちであったが噂の熊がぐわっと立ち上がったのを見て固まってしまう。狼男たちはなんとか身構えたが熊が攻撃してくることはなく、不思議な声色の遠吠えを残して北の方へと消えていった。
「一体なんだというんだ…あの熊のせいで全身が無茶苦茶痛いじゃないか。折れてなきゃいいんだがな」
(私も枝が半分近く潰されてしまいましたし被害は甚大ですね。特に痛みはありませんがそれでも精神的に来るものがあります)
「二人がかりでもボコボコにされて完敗。なぜか分からないが退いてくれて本当に良かった」
(まったくです)
疲れでダルそうにしながら一人と一本はそんなことを話す。狼男は骨が数本折れ踊る木は枝を半分ほど千切られ、まさしく満身創痍。
本来の目的も忘れさっさと帰り支度をする狼男たちを責める者はどこにもいない。
森の熊さん最強説